梅雨の話じゃないけれど
過日、「五月雨…一期一会」と題した一文を書いたせいでもなかろうが、我がホームページの掲示板で、ある才能豊かな作家、今は「故」と冠するしかないカメママさんとの掛け合いで書いた小説のことがちょっと話題になっていた。
カメママさんのことは、知るひとぞ知るだが、一昨年知り合って、小生がいろいろ刺激を受けた方。彼女は何事にも前向きな方で、結構、小生のサイトのキリ番をゲットされ、そのたびに、キリ番作品を所望される。別に小生のサイトに対してばかりではなく、彼女のサイトでキリ番をゲットしたなら、彼女もちゃんと要望に応じてキリ番作品を書き下ろしてくれる。それも、希望者のテーマを伺い、希望者の名前を小説のタイトルに使ったりと、サービス精神たっぷりのもの。
小説の中身にこそ、彼女の女性としてのまたご自身が主婦であることからの遊び心が生かされていて、女性ならではの主婦が内心は(妄想として)抱いている妖しい欲望を物語として描いてくれるのだった。
そうした彼女の諸作品は、下記のサイトで読める:
「カメモードな部屋」
この中には、小生が彼女のサイトでキリ番をゲットし、書いてもらった小説もある(掌編 『邦実』)。
彼女との掌編の掛け合いの形で書いた作品群もある。彼女が亡くなられたことで、中断したままに終わっているけれど:
「蝦夷梅雨の頃(1-4)」by 弥一
「『梅雨空の女』」by カメママ
「『梅雨空の女』2」by カメママ
「『梅雨空の女』3」by カメママ
見られるように、、『蝦夷梅雨の頃』に対し、『梅雨空の女』、『蝦夷梅雨の頃2』に対し「『梅雨空の女』2」という具合に来て、小生は、『蝦夷梅雨の頃4』を書いたところで途切れている。
恐らくは彼女が健在だったなら、「『梅雨空の女』4」が続くはずだったのである。
あるいは彼女の幻の「『梅雨空の女』4」が冥府を彷徨っている?
彼女の「4」に応じて、小生は「5」を書くはずだった。しかも、小生の「4」は、いよいよネット上だけでの知り合いというか、仮想空間を通して心を寄せ合うだけの存在だけだったのが、いよいよ二人が出会うはずの、間際の場面で終わっているのだ。
彼女は、「梅雨空の女」の主人公のためにも、ハッピーエンドを求めていたような記憶がある。幾つか貰った感想でも、そういった要望があった。煮え切らない「蝦夷梅雨の頃」の語り手であり主人公である男性に、女性の方は、文字通り「梅雨空の女」でありつづけたのだから、せめて物語の上では「梅雨空の女」にはハッピーな形で結末を迎えて欲しい、というのは、カメママさんならずとも願うところなのだろう。
今となっては、続きを書くのも躊躇われる。
後日談めくが、小生自身については、カメママさんが倒れた最中、彼女のエネルギーに後押しされる形で、初めてのオフ会を実現した。小生にしては思い切った決断だった。カメママさんには会えなかったけれど、カメママさんを通じて知り合った方たちとのオフ会の場を持ったのである。
そのうちの何人かとは、今もほとんどネットを通じてだが交流を保っている。
さて、以下に掲げる小文(「ある書き込みへの返事…」)は、小生にとっては悔いの残る文章であり、自分の考察の半端さに今更ながら忸怩たる思いが残っている。
しかし、一度、書いて公表した以上は、文章の余波にも責任を負わないといけない。
念のために断っておくと、小文の冒頭に「あるサイトの日記」とあるが、カメママさんの日記である。
また、この小文は、カメママさんも読まれていた。彼女としては、文中に半端な形で引用されている一文についても、もっと書き込みたかったはずだ。が、それが果たせないうちに病に倒れられてしまった。
彼女となら、あるいは彼女になら、もっと突っ込んだ遣り取りが期待できたはずなのである。
勿論、掲げる文章は、メルマガで公表した当時のままである(今回のアップに際し、リンクを二箇所だけ貼らせて貰った)。
ある書き込みへの返事……(03/07/05)
あるサイトの日記を読んだら、この頃、嫌な事件が頻発している。幼い子どもを裸にし虐待した挙げ句、投げ落として殺す事件は最悪。犯罪者には累犯する者もいる。自分が同じ罪を犯すことは間違いないから殺して欲しいという奴もいる。そうした人間には我々には想像のできない苦しみがあるのだろうという主旨だった。
そこで小生は次のような書き込みをした。:
(一部略)小生が4年前に書いた「フェイド・アウト」は、物心付くか付かないかの頃に性的な虐待を受けたその苦しみを生きる女性の物語。とりあえず結末に至らせたものの、女性は過去の亡霊から自由になれたわけではない。
男と女と肉体と。心の中って自由であれるように見えて、自分でも訳の分からないものに圧倒されていたりする。時には自分の力など通用しないものに生まれながらに押し潰されている人もいる。
小生の小説の上での課題は、想像を超える苦しみからのこの世への帰還。でも、にっちもさっちもいかないでいる。いつか続編を書きたい。
性的な暴行をする奴は許せない。無神経な奴は軽蔑すればいいけれど、中には自分を苛むしかない奴もいる。救いようがないと自分でも分かってる。死ぬしかない。死なないためには書くことしかない奴もいるんだろうな。
この書き込みへのサイト主の返事は、「いつかまた自分が幼児を襲うだろうと解っていながら、その恐怖に怯えて暮らすだけの毎日なら、確かにその人は次の犠牲者を作ってしまう前に、死んだほうがいいのかもしれないと思います。」という納得の出来ないものだったので、改めて意見を書き込むのを躊躇っていた。
すると、別の人が、小生の「死ぬしかない。死なないためには書くことしかない奴もいるんだろうな。」という書き込みに反応してきた。
主旨は、「今、わたしはまさにその状態で、生きることと書くことが等価になってしまっています。理由はものすごい鬱のせいです。死なないためには書くしかない。
書くことにしか自分の生の意味を見いだせないし、書くことでしか未来が見えてこない。歯を食いしばって書いている。」というもの。
この書き込みに対し、小生は返事が思い浮かばなかった。
そこで、自分自身のメモとして、「気が向いたら読んでみてください。」という但し書きを付して、次のような書き込みをした。
書くことに拘る、それもエンタメのためではなく自己表現の手段として書くことに執する人間は、書くことそのものが生き延びること、その都度の闇と絶望を凌ぐことにつながる。
というより、その時を凌ぐために書いていると言っても過言じゃない。ある意味でリストカットのようなものだ。手首のちょっとした痛み、血のドクドクという脈動、滲み出る血の色、血の臭い、こんな自分が生きているという不思議。こんな自分でも肉体が動いている、無数の細胞たちが蠢いているという不可思議。
自分が生きているということを人との関わりの中で確認できたらいいのかもしれないけれど、それはとっくの昔に諦めている。人の輝きは眩しいと感じ、素晴らしいとも思えるけれど、それはあくまで他人事。我が事のように感じる時もあるけれど、だからといって自分が瞬間であっても輝くことはない。
書くとは恥を掻くこと、でも、もっと正直に言うと、沈黙せる闇の中の悲鳴なのだ。人に向って助けてくれなどとは口が裂けても言えない。言えるくらいならとっくの昔に叫んでいる。文学の空間に無数の無音の木霊が行き交っている。それを痛いほど感じる人と感じない人がいる。それは仕方ないし、とにもかくにも悲鳴を上げられる間は喉が破れるまで上げること。それしかないと思っている。
せっかくの梅雨の合間の束の間の晴れ間だったのに、心の中が梅雨の真っ最中となった一日だった。
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コメント
我がホームページの掲示板に『梅雨空の女』への感想を貰いました(11277)。
投稿: やいっち | 2005/05/12 03:19
めるまが最近書いてるのかい。
例のミラーマンとか、騒音おばさんについてぜひ。
投稿: ららら | 2005/05/16 23:07