季語随筆?
「御報告」(May 22, 2005)の中で、この季語随筆日記の定款云々と書いている。
自分で季語随筆(日記)と方針を打ち出しておいて、自分がその方針に雁字搦めとなり窮屈になっている。随筆というように、もっと気随気侭に文章を綴りたい、そんな思いからの定款の変更、拡大。
しかし、ことはそんな単純なことじゃなく、それなりにあれこれ書き綴ってきての、折々訪れる壁を今またしかもそのドツボに嵌っていると感じているからなのだと思う。
以下には、「創作する意味?」と題した昨年の夏に綴った拙文を示す。多分、その頃から(あるいはその半年以上前から)感じ始めた壁が今も続いているのだと思う。創作する意味などと書いているが、むしろ、その以前で「文章を綴る意味」と題したほうが相応しかったような気がする。だからこその「?」だったのだろう。
否、もっと言うと、その文章を書いた一年前からの、自分なりに苦しい叶わぬ恋、不毛な恋心の整理が付かないでいた、というより、その真っ只中にいたことが、その拙稿の裏にはある。
不毛な恋というより、それなりに自分の中に抱えてきた、引き摺ってきたと思っていた、思いたかった何かの正体が、案外に、それとも恐る恐るは気づき始めていたのだろうから、案の定、底の浅い、むしろ、浅薄で臆病で面倒なことから逃げて回る自分、問題に真正面から立ち向かうことを怖れる自分に過ぎなかったことが自分でも否定しようがなくなったこと、そのことにこの年になって気づいて愕然としている、まあ、そんな辺りなのだろう。
自分の中には、テーマとして掲げられる何かがある、と思っていたのに、それがただの怯えの念、土中にあって、土の上に顔を出すことを躊躇い躊躇することの言い訳になっているに過ぎないということ。
そうはいっても、文章を書き綴るしか能のない自分がいる。どんなつまらない人間であっても、その存在を抱えていくしかない。
俳句というか川柳なのか、どっちつかずの世界に昨年の初夏辺りから迷い込んでいるが、文章で何を表現すべきかで迷い始めた時期と俳句(川柳)に手を染め始めた時期とが符合すると今にして気づかされる。
はてさて、どんな闇夜の世界、それとも白夜の世界に迷い込んでいくのか、我ながら楽しみである。
余談だが、25日発売の『ケイコとマナブ』で、小生が(幽霊)会員になっているサンバチーム・リベルダージのメンバーのダンサーとしての晴れ姿が代表として掲載されていた。
タクシーの営業の日だったが、夜中になって一区切り、付いたこともあり、コンビニに立ち寄り、雑誌のコーナーへ一直線。普段なら物色することのない女性ファッション雑誌のコーナーの一角に、その『ケイコとマナブ』が並べられてあった。目立たない場所にあったので、お目当ての方の勇姿を眺めてからは、こっそり一冊だけ並ぶ場所を変えてみたり。
そのダンサーの方の写真とチームについてのコメントが載っているのは、P48の「ダンス☆コスチュームCollection」なる頁。さすがにプロの方が撮った写真。
でも、ここだけの話、小生がサンバパレードで撮った写真のほうが素敵だぞと思うのは、ファンだから仕方ないよね。手ブレがあったりするけど、その分、迫力がある!
手元の画像、ここに載せたいけど、本人の許可がないので載せられない。申し訳ないし、残念である。仕方ないので、小生が眺めての印象を念力で、ここに載せます。
見えますかー!!
見えましたよね。
見えなかったという気の毒な方は、どうぞ、サンバパレードへお越しください。
そういえば、先月号だったかの『散歩の達人』にも我がチーム関連の記事が載っていたらしい。が、やはり夜中に仕事の手を休めてコンビニに覗きにいったけれど、店員さんに聞いたら、もうないって。がっかりだった。
でも、勝手にファンになっているチームの情報が、ボチボチながらでも雑誌などに載るのは、嬉しいものである。
創作する意味?(04/08/07)
日頃、お付き合いさせて戴いているサイトで、とても気になる文章が幾つかあった。それぞれの随想には、「文学と人間」とか、「文章表現」、あるいは、「根源への問いかけ」とか、「人間、心、創作」といったタイトルが付されている。
以前、これまた一時期だが、ネット上の付き合いをさせていただいていた方が、あるサイトの方に、幸せとは何だと思いますか、という問い掛けをしていた。
その問いを見て、どうしてその方は小生に問い掛けないのだろう、ほかの話題では、小生だけではなく、みんなに問い掛ける形でだけれど、この問題は皆さんどう思われますか、と問うていたのに、その「幸せとは何か」という問題では、特定の誰かにだけ問い掛けている…。
何故、小生には問わない…。
そこにはある意味、嫉妬の念もあったような気がする。同時に、問われなくてよかったと、ホッとしている自分がいることに気付かないわけでもなかった。
そう、小生は幸せとは何かを久しく考えないで来たし、それどころか避けている、背を向けている、逃げているとさえ言えるかもしれない…。だから、そんな問いを真正面からされたら、困惑するに違いなかったと思われたのである。
小生は、モノ書きとしてはド素人である。文章で稼いだことは一円たりともない。費やしたカネなら、ちょっとした小金にはなるだろうが。
労働生産性の低い仕事をしていて、神経だけがひたすら磨り減っていく。頭は使わない代わりに、神経を削って、癒しがたい疲労ばかりが蓄積していく。不況だと尚更である。だから、在宅して居る時は、大半が疲労を取り去ることに時間の大半を費やしている。
とにかく、ベッドで寝るか、ロッキングチェアーで寝るかは別として、寝るか、居眠りするか、うつらうつらしているか、が自宅での小生の姿だと言って間違いない。
ほんの少し元気が出てきたら、読書してみる。疲れが取れていないと、読書などできないし、目が疲れてちょっと目を閉じると、そのまま寝入ってしまう。読書していて、何か文章を綴るためのアイデアが湧いたり、そもそも、何であれ書こうという元気が湧いて来たら、パソコンに向かう。
そう、気力がほんの少しでもあると感じたら、何を書くという宛て等なくとも、とにかくパソコンに向い、書き綴り始める。あまり考えたりはしない。
というか、考えるのは時間の無駄なのである。そんな時間などない。読書や執筆に費やせる時間は限られている。一日のうち、多少でも文筆に携われる時間は、読書も含めてせいぜい二時間だろうか。
あとの時間帯は、ボーとしている。何もする気にもなれない。
そんな小生の姿勢が一番、露わになるのは、まさに創作の時である。
例えばタクシーという営業をしていて、待機中とか、特に何をするでもない時に、何か文章(虚構)の想を練ろうかなと思ったりはするが、少なくとも自分にはできない。それより路上の素敵な女性でもぼんやり眺めているほうが楽しいし、それが実際の自分の姿である。
何か着想が浮かんでも、その想念が文章に生きることは稀である。特に虚構作品の場合は、全く生きない。大概、というより、ほぼ常に徒手空拳でパソコンに向かう(何かアイデアがあっても、一行か二行、何かを綴れば、その文面の存在感に影響されてしまって、アイデアなど吹き飛んでしまう。だから、アイデアなど、あってないようなものなのである)。
今、自分は元気か、活力が多少なりともあるか、一時間程度文章を書き綴る精力が今、あるのかどうか、それだけを自分に問う。
そしてパソコンに向かい、真っ白な画面に向い、さて何を書くかを考える。
否、考えるのではなく、削るのである。
何を削るか、神経なのか、心のうちの何処かなのか、空白の頁なのか、虚構空間の座標の何処かなのか、それは分からない。何を描くか以前に、書く気力があるかどうかを問う自分なのである。何を書くかを考える余力・余裕などないのである。無理にも最初の一行を書き下ろす。すると、あとは、その一行に引き摺られていくばかりなのだ。
まして、ある程度長い文章の構想を練るのは、ほとんど不可能というのが実情だったりする。
さらにまして、幸せとか、何のために書くかは、頭が働く余地がない。いわんや、根源への問いかけ」とか、「人間、心、創作」をや、である。
自分は、では、一体、何のために拙いだけの文章を綴っているのだろう。空白の頁が怖いから?
遠い昔、長い入院から保育所に戻って、保育所で綴ることが決められている日記帳を見て、その入院していた間の空白を見て、なんとなく呆然とした、あるいは途方に暮れた、それともただ、空白の時を一人自分だけ彷徨っていた…、そんな思いを持ったことがあるが、その時の思いがトラウマとなって、今もその傷口が疼いているのだろうか。
文章にはその人の人格が表れるという。創作ともなると、その人の人間性を越えるような豊かな人間性が現れるはずもない。つまらない人間だったら、美辞麗句を、大袈裟な表現を、日頃、思い浮かべことなどないような難しい言葉をどれほど駆使してみても、所詮はお郷(さと)がバレル。
その人が日頃、ものを考えている人間なのか、人との関わりに神経をすり減らしているかどうか、人のために生きているか、生きていることの根源に迫ろうとしているか、そんな姿勢が、たちどころに知れてしまう。
誤魔化したって、誤魔化し切れるものではない。そんなに人間は、他人様は甘くない。だれだって、些少の苦労はしている。その程度の労苦に堪えている。オレは苦労しているんだ、なんて言ってみたって、なんだ、その程度なのか、と哀れに思われてお終いである。
そうしたことは、さすがに小生でも分かっているつもりである。人間性の薄さとか貧困ぶりは、とっくの昔に露見しているとして、では、何のために文章を綴るのだろう。
それこそ、今のように(在宅の日は)毎日、文章を書くことのなかった昔、まして創作には携わっていなかった昔(但し、手書きの日記は15の時から今に至るまで続けているけれど)、文章を書き綴るとは、自分という人間の墓場を作ることなのだ、なんて生意気なことを、一体、それがどういう意味なのか分からないままに、日記に書いていたことがある。
文章とは、恐らくは人ともうまく関われない、その以前に、現実とも関われない、逃げてばかりの自分にとって、生きることにおいて自分の乏しいながらの人間性の欠片さえも表現しないだろうと思われる以上は、虚構空間、凡そ、自分の綴る文章の全てが虚構のヴァリエーションなのだから、そうした虚の時空に、こんな人間が生きていたことの証しを、せめて、証しの徴候くらいは描いておきたい、それだけが自分の文章を綴る上での願いなのではないかと思ったことがある。
そうした、どう見ても、不毛な思い、後ろむきな姿勢が一番、露わになるのは、やはり虚構作品を綴っている時のようである。人間を、人の心を描こうと思っても、まるでできない。人と人との関わり、男女であれ、親子であれ、会社などでの人間関係であれ、凡そ、人間なんてものをまるで描けない自分に気づかされるのである。
人間を描けないくせに、何ゆえの創作、何ゆえの虚構なのだろう。一体、自分は、では、何を描いているのか。それとも、逃げている、絶えず現実から遠ざかっている、まさにその情ない姿を描いているだけなのか。
まさか、そうは思いたくないのだけれど、案外と、そうした自分の日頃の惨めな光景が虚構作品の中でこそ如実に現れているように思えたりする。
虚構において、つまりは、自分の中の一番、深い部分、日常においては余所行きとはいかないにしても、多少は衣服を体にも心にも着せて、世間体を誤魔化していても、虚構空間に向った時は、そんな衣装の類いは、全て虚構空間に吹き荒ぶ風に晒され剥ぎ取られ、あっという間に裸の自分が日の下に立たされる。
それこそ、徒手空拳である。武器など持参していても、衣装と同じように、虚構空間に立入った瞬間、入り口で没収される。
裸の自分。心が露わな自分。隠したいのに現れ出てしまう情ないばかりの自分。そんな自分が闇の空間、だけど暗闇だからこそ、心だけが露わになってしまう空間にいて、心の貧しさとか考えることを避ける自分とかが習い性になっていようが、とにかく考えることを迫られる。
どんな状態が一番、自分にはリアリティを持つのかが、どのようであることが自分にとっての快感の時、幸せの時なのか、書き綴るその瞬間毎に問われる。寒風吹き荒ぶ自分の心なのだとしたら、寒々しい自分が、やっと見つけた洞穴の中に閉じ篭り、嵐の時の過ぎ去るのをひたすらに待つだけという、凡そ惨めで貧しい光景しかリアリティを感じられない自分に向き合うしかなくなってしまうのである。
それでも、やはり文章を綴るという営みは恐ろしい。例えば、思わず知らず、不幸な生活ぶりを描き、無意識の内に同情を人に乞うていたりするのだけれど、そうした不純な動機に満ち満ちていたはずなのだけれど、量は質に変化するのかどうか分からないのだが、たとえほんの少しでも、自分だけではない、人との関わり、動物との関わりの中で自分も幸せでありたい、人も幸せであって欲しい、なんて思いが結構、実感を持って浮かんできたりする。
同情より共感なのである。
殻の内より空の外の広い空間の空気を吸って、ホッとするのである。世界の豊かさを今更のように感じたりするのである。
その広く深く多彩である世界にリアリティの場を求めないとやっていけないところまで、やたらと書き捲っている間に、気が付いたら追い込まれていたに過ぎないのかもしれないけれど、それはそれで、遅まきながらの人間的成長の一端なのかもしれないと思ったりする。
このところ、動物モノをよく創作する。
動物は、ペットだったりすると、(小生は飼ってはいないけれど)人間のパートナーを求めるより簡単に得られる。感情移入もしやすい。ペットから返事など何も返ってこないのに、語りかけている飼い主をよく見かける。
傍から見ていると滑稽なのだけれど、その気持ちは分かる。
それでも、男には女性が(あるいは女性には男性の気持ちが)分からない以上に、実は、人間は動物(ペット)の気持ちなど、分からないのだとも思う。分かっているとは思いたいのだとしても。
動物を描くとは、ある意味動物が何を思っているかが分からないと愚痴ることだったりする。せいぜい、動物と関わる人間模様をペットなどを鏡として映し出しているに過ぎないのかもしれない。
それでも、書いていて楽しい。世界は、豊かだとつくづく思う。経済的には沈んでいくばかりだけれど(最近は特に沈みっ放し)、世界の豊かさを感じるという意味では、結構、感じるものは多彩であり際限ない自分がいる。
創作する意味など、今も、やはり考えない自分がいる。
それでも、そんな自分でも少しは世界を広く豊かに感じつつあるとも思ったりする。こんな旧弊で頑迷固陋な自分をも、ホンの少しでも成長させるのだから、文章を書き綴るとは、楽しいと同時に怖い。怖いと同時に楽しいと思う。
その楽しさを、これから一体、何処まで感じつづけられるか、自分には分からない。これからも依然として創作する意味を考えないままに、考える余裕もなしに書き綴っていくのだろうと思う。
それでいいのだろうか。でも、そうでしかありえない自分がいることも事実なのである。
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コメント
ずしん、ずしんと来ますねぇ。
「創作」言葉・絵などなど、身を削るものです。
それに耐えうる人が「作家」なんでしょうけど。
書かずにはおられない。で、身を削っていってる自分も見える。
虚構でもリアルでも心が動くのは「素晴らしいから」だけではないと思います。
吸い込んで吐き出して、何かが出来たら良いなぁ~と(素人の)私は思います。もっとも私は何がしたいのかを自分でも把握してませんが(^_^;)
投稿: ちゃり | 2005/05/27 23:21
ちゃりさん、コメント、ありがとうございます。
ちゃりさんサイトを始め、サイト巡りはやっていたけど、コメントを寄せる時間的余裕が、週日は(雑用が今週、多かったせいもあって)なかなか難しい。
どうも、時間的に窮迫しているという感じがあって、そのストレスがこんな文章を書かせている面もあるのかなと、昨日、仕事しながら反省していました。
ま、一眠りして気分一新して、また、あれこれ書きまくっちゃいます。
これからも宜しく。
投稿: 弥一 | 2005/05/28 11:37