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2005/05/26

罌粟の花…ゾンビ

 表題の「罌粟の花」を強く意識したのは、いつのことだったろう。今となっては、高額納税者の上位にランクされた宇多田ヒカルの母ということで説明するしかないのかもしれないが、小生には未だに、その母君である藤圭子さんのデビューの時のほうが印象に鮮やかである(あるいは、年齢的に昔のことのほうがよく覚えているというだけのことなのか…)。
 藤圭子(本名宇多田純子、旧姓阿部)さんのデビュー曲は、「新宿の女」(1969.09発売)で、そのあとにも「 女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」などと連続してヒットを飛ばした。この「圭子の夢は夜ひらく」という曲(石坂まさを作詞・曽根幸明作曲)の歌詞(一番)は、「赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく」で、小生が「けしの花」をイメージさせられたのは、まさにこの曲でだったような。
 余談だが、「圭子の夢は夜ひらく」と「圭子の…」が冠せられているのは、その前に「夢は夜ひらく」という曲があるからで、これも気だるくて夜の世界の匂いがプンプンしていて、歌う園まりの雰囲気とがマッチしていて、まだ、小学生だった小生の下半身に限りなく近い男心を思いっきり擽ってくれたものだった。多分、好きな歌手じゃなかったはず…なのに、惹かれていく…困るのことよだったのである。

 藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」に戻るが、あるサイトのバイオグラフィーによると、「作家五木寛之に毎日新聞 日曜版エッセイ『ゴキブリの歌』にて「怨歌」と言われ激賞され」たとか。そういえば、あの頃、前川清とか森進一とかが揃い踏みしていたっけ。その前に緑川アコもいたっけ。
 さて、「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞に出てくる「けしの花」の「けし」は、漢字だとしたらどんな表記になるのか。「芥子」だろうか。それとも、「罌粟の花」だろうか。「芥子」と「罌粟」って、同じなのか。何か違いがあるのか。
 季語上は、「罌粟の花 芥子の花 ポピー アマポーラ 虞美」は類義語の扱いとなっているようだが。念のために断っておくと、夏・五月の季語例のようである。
 いずれにしても、「芥子の花」は、中学生か高校生だった小生も、麻薬の花という知識はあった。テレビにどっぷり浸っていた小生、刑事モノか何かの番組で、それとも既に漫画の本で「けし」に洗礼されていたような気がする。
 勿論、実際に使ったわけではない。
「けし」の漢字表記だが、「芥子」という表記はあるが、これは「かいし」と読む場合がある。例によって「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞典」を参照させてもらうと、「カラシナの種子。芥子泥(でい)にして湿布に用いたり、芥子漬(からしづ)け・カレー粉の原料など、食用嗜好品として用いられる。〔漢方では「がいし」〕」だという。
 また、「からし」とも読め、「辛子(芥子)」である。
 となると、「芥子」も間違いではないとしても、「罌粟」のほうが表記から受ける印象という情ない意味、あるいは目で受ける語感からして、よりマシなような気がする。
スパイスの語源」なるサイトを覗いてみる。「けしの実」の項に、「罌粟(おおぞく)が正名、けしに読みかわった」という説明が見出せる。また、「芥子をけしと読むのは誤用、粟粒のような小さな種子が詰まった罌(瓶=かめ)の意、けしのさく果の形を表わしている」という説明にも恵まれる。
 となると、植物の名前である「けし」の漢字表記としては、「罌粟」が相応しいということになりそう。
 但し、まだ検討の余地がありそう。世の諸賢の知恵を請うものだ。

「芥子」というと、「海士の顔まづ見らるるや芥子の花」という芭蕉の句を思い浮かべる方もいるだろう。「短い夏の夜が明け初める頃、浜の海人たちが起きてくる。そんな時刻には芥子の花が浜一円に咲いていることだ」という評釈をネットで得ることが出来た。
 芭蕉がこの句を詠った頃は、芥子の花は麻薬(阿片)の材料になる花というイメージはなかったのだろうか。
 尤も、芥子の花でも、麻薬と関係のある花もあれば、無縁の種もあるのだとか。
東京都薬用植物園」なるサイトを覗くと、「東京ではここでしかみられない花「ケシ」」という蠱惑的な頁があって、「ケシについて」の項に「ケシは、あへんアルカロイド類を含有していて、多くの医薬品の原料となっている重要な薬用植物です。たとえば、モルヒネは強力な鎮痛剤としてがんの疼痛(とうつう)治療などに使われていますし、コデインは鎮咳(ちんがい)作用が強くぜん息薬やかぜ薬の製造原料となっています。しかし、これらは麻薬に指定されているため、ケシ(ソムニフェルム種)などの栽培は法律で規制されています」と説明されている。
 同時に、「写真の下に、栽培してはいけないケシには×を、栽培しても良いケシには○をつけてあります」とも。
 写真を見て改めて感じるのは、小生の勝手な先入見とはちょっと印象が違ったということ。

 小生の思い込みとは、熱帯魚でも茸類でもそうだが、毒のある花は色や形などが際立って鮮やかなのだろうというもの。
 けれど、写真を説明(○や×)抜きで見たとき、どれが麻薬に縁があるのかは、ちょっと分からない…むしろ、選択を間違えるかも、というのが正直なところだろう。
 やはり、女性でも地味な印象だから毒がないとか、化粧が濃いから毒気もあるという、単純な話ではないということか。ちょっと類推の仕方に無理があるかも。

 ネットで、この「芥子の花」を見てきたという記録があった。「白い夜 ものものしい薬の花」によると、「監視カメラに守られて咲く「花」とは?」という項があり、「温室や池があったり、パッと見はごく普通の植物園だけれど、奥へ進むとそこにはフェンスで囲まれた一角が。ここで育てられているのが、栽培を禁止されているソムニフェルム種などのケシである」という記述に続いて、「ガッチリと鍵のかかったフェンスは二重になっていて、しかもフェンスとフェンスの間には監視カメラまであり、周囲ののどかな雰囲気とは一変して、かなりものものしい雰囲気」とある。
 今、紹介したサイトには、「毒をもつ生き物は色鮮やかに生きます。これは周りにアピールするため。毒もってんだから食うなよっ! とかそういう意味を周りに伝えているんです」とある。先の小生の記述とは違う。やはり、本物を見ないと、うっかりしたことは書くべきではないということか。
 うーん、一度は見てみたい。

 ついでながら、過日、「青嵐と木下闇の間」の中で、「木下闇」を採り上げたこともあり、上述の芭蕉の句からこの言葉の織り込まれた作品を掲げておくと、「須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇」である。

ハイチのこと…揺れ動く世界」(May 25, 2005)では、「後日、以前、ブードゥーの周辺に触れた拙稿を掲げつつ、やはり通り一遍の叙述しか出来ないが、せめて偏見の上書きにならない程度にブードゥー教についての情報を示してみるつもりである」と書いている。
 忘れっぽい小生なので、今のうちに当該の拙稿を掲げておく。
 尚、文末に、「いつになったら、幽霊との対比ができるものやら」という悲鳴というか嘆きの一言があるが、この点については、「幽霊の話を恐る恐る」などでお茶を濁したままである。

 ちなみに、本日の表題を「罌粟の花…ゾンビ」としたのは、別に芥子の花を間違って栽培し、阿片などを作り、吸引した挙げ句にゾンビのような人間になりかねない、という意味ではない。
 勿論、そんな不法行為を勧めているわけでもない。
 もっと、うまい具合に話を繋げたかったのだが、その試みは頓挫してしまったのである。悪しからず。けしからぬとは言わないで。

「ゾンビーと幽霊の間に」に移る前に、「赤く咲くのは けしの花♪」繋がりというわけでもない(こともない)が、小生は、どうしても、ロシアの天才作家ガルシンの「赤い花」をここに敢えて言及しておきたい。
 小生が学生時代にチェーホフ、ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリなどと共に傾倒した作家の一人だし、ガルシンはまだまだ忘れられては困る作家なのだ。短篇集が出ているので、是非、読んでみて欲しいと勝手に思っている。
 この「赤い花」とは、狂気の花、芥子の花ではなかったか…。

ゾンビーと幽霊の間に(04/05/10)

 ゾンビーなるものを、勿論、映画でだが、初めて見たときは、ちょっと怖かった(実は、凄く怖かった)。
 日本とは違い、西洋(の一部?)では、死者は火葬される(荼毘に付される)わけじゃなく、棺桶に遺骸が収められ土中に埋葬される。
 その骸(むくろ)が、まさに屍骸のままに蘇られ、やがて柩の中で目を覚まし、むっくりと上半身を起こし、どうやってか柩をこじ開け、墓地からやってきて、生きている(はずの)我々を襲うのだ。
 ライフルで撃っても、棍棒で殴っても、スコップで殴っても、一旦は倒れたり、体の一部が損傷したりするけれど、奴等は平気の平左で、また、起き上がり、こちらに向ってくる。
 日本の場合、仮に死んでも、また、蘇生する可能性があるということで、一晩は通夜をするのだろうが、それでも、亡くなった翌日辺りには火葬されてしまうので、墓地から死者がゾンビーとして蘇ってくるということは、イメージ的には、想像しえる余地が少ない。
 あくまで、霊的な曖昧模糊たる半端な、しかし心的には鬼気迫る存在として、死者に因縁の深い誰かに祟る(だけのはずである)。
 西洋など、土葬する場合は、墓地に埋葬しても、時には、棺桶の中で蘇生することもあるわけで、ゾンビーではなく、本当に死者、実は死に損なった誰かが蘇ることは十分にありえるわけだ。

[実際、あったらしい。が、仮に実際に確認された以上に柩の中で蘇生することがあっても、どんなに足掻いても、きっと立派で頑丈な柩を内側からこじ開けることは難しいだろうし、なんとか恐らくは木製の柩に穴を穿つことに成功したとして、結果は目に見えている。希望の光の入るはずの小さな穴か罅割れから、柩にしっかりと掛けられた土砂がドッと浸入し、今度は土砂が直接、死骸を埋め尽くしてしまい、希望を絶望の淵へと叩き落してしまう…。
 そんな実例があったのではなかろうか。あったとしても、神様にも声が届かない悲鳴を上げるしかなかったのではなかろうか。
 それ以上に、或る日或る時、埋葬を終えて、ようやく悲しみの淵から離れ去ることができたと思って、安息の時の中に憩おうとしている、その人の脳裏に、いや、死にきれずに蘇生した可能性が絶無ではないと、脳裏のどこかで微かに予感しなかったわけでもない、その人の脳髄の何処かに、そんな死者の蘇りという悪夢が、まさに目の前でよくも生きたまま葬ってしまったな、と恨みと復讐の念の篭った暗い目でこちらを睨み付けるという、鮮やか過ぎる場面を見なかった西欧人というのは少ないのではなかろうか。 (05/05/26 追記)]
 だからこそ、ゾンビーという形象は、特に今も土葬する欧米などにはリアリティがあるのだろうと思う。
 それにしても、万が一、目覚めたら、真っ暗で無音の棺桶の中だと気付いてしまったら、恐怖どころの騒ぎではないだろう。
 蘇生する可能性があっても、また、実際に<復活>したとしても、人間の通常の力では、しっかりと土が掛けられた棺桶をこじ開けて、外界に出るのは至難の技だし、まして、土中とあっては、密閉に近い状態だろうから、間もなく酸欠状態に陥り、本当に絶命してしまうのだろう。閉所恐怖症、暗所恐怖症の人間には、そうした状況をちょっと想像するだけでも、怖気を震ってしまうだろう。

 さて、ここまで書いてきて、はて、ゾンビーのちゃんとした由来などを知らないことに気が付いた。
 まあ、幽霊だって、そもそも何も分からないのだが。馴染みの方も居るわけもないし。
 ただ、あれこれのイメージがあるだけではないか、というわけで、とりあえず、ネットで簡単に調べておきたい。
 下記サイトを覗いてみる:
voodoo study」の中の、「本来ゾンビとは

 ここによると(実に興味深いサイトだ)、本来、ゾンビ(ゾンビー)というのは、西インド諸島などのブードゥー教に由来する存在のようだ。
 曰く、「本来ゾンビとは、嫌われ者に対する制裁である。もちろんハイチにも刑法はあるが、ゾンビは刑法とは無関係の伝統的な制裁のひとつであ」り、「フグ毒・テトロドトキシンを主成分とする毒薬が嫌われ者の傷口にすりこまれる。神経毒であるテトロドトキシンは心筋や呼吸中枢を止め、仮死状態をつくりだす。医者も欺かれ死亡診断書を書いてしまう。そして毒の量が丁度良いと薬と呪術によって蘇生されるのだ」という。

(注)これら毒物の知識については、このサイトが紹介されている。

 しかも、「1~2日間という長い間無呼吸状態だったため脳の前頭葉は死んでいる。自発的意志のない人間、ゾンビの誕生だ。この状態のまま死ぬまで奴隷として働かされるのである」というのだ。
 一方、「一方土葬が中心であったヨーロッパには、埋葬したはずの死者が墓の中から甦るといった伝説や迷信が数多く伝えられていた。またよみがえった死者は生者を襲ってその生き血をすするとも信じられいた。」
 そして、「この両者を結び付け、「ソンビ=甦る死人」というイメージを定着させたのが、映画監督ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ三部作」である。」という。
 尚、「ゾンビという言葉はコンゴ語の「ンザンビ」からきているといわれ、その意味は「死者の魂」だという。」
 以下、上掲のサイトでは、「ゾンビの社会的意義」や、「秘密結社」「クー・レール」「ゾンビ化の症状」「解毒剤」「仮説」と続く。特に「ゾンビ化の症状」は、読むだけでも怖い。
「解毒剤」の項を読む。
「一人の人間がゾンビ化すると、二種類のゾンビが生まれる。よみがえった肉体はゾンビ・カダーヴルになり、肉体から分離した霊魂の一部は、ゾンビ・アストラルになる。」のであり、「われわれがゾンビと呼んでいるものは、肉のゾンビことゾンビ・カダーヴル、個人としての記憶も意識も失った廃人のことである。自分を作りだしたボゴールの意のままに、新しい名前を与えられ、奴隷として売り払われる。」
 そして、「ゾンビの霊魂は、壷の中に封じ込まれる。」という。

 ゾンビについては、最後の「仮説」の項こそが重要かもしれない。

 曰く、「ゾンビは非常に歪んだハイチ像をでっち上げるのに都合がよかったので利用されたにすぎない。世界初の黒人共和国というハイチの存在はアメリカにとって邪魔だった。奴隷解放は非常に困った事態であり、ハイチだけに封じ込めておきたかったのだ。そこでハイチのイメージダウンをはかった。」というのである。
 あまり、アメリカ映画の影響をナイーブに受けすぎて、興味本位な形ではゾンビを考えてはいけないということか。
[日本でもアメリカの(マカロニウエスタンが流行る前の)西部劇が盛んにテレビで上映されたりしたが、その際の敵役は悪漢はもとよりだが、往々にしてインディアンだった。インディアンは白人を殺すだけじゃなく頭の皮を剥いだりする残虐な連中だという描き方をされることが、間々、あった。次は、冷戦時代にはソ連などが敵役となり、ハイチが敵役となり、アフガニスタン(怒りのアフガン)が敵役と移り変わった。日米の経済摩擦が過熱していた頃は、日本も一時、敵役になったものだ。映画好きなら、それぞれに映画のタイトルや場面を思い浮かべることができるだろう。下記に幾つか例を挙げたが、インディアンものだと、どんな映画がそういった構図に当て嵌まるだろうか。 (05/05/26 追記)]

 そういえば、アーノルド・シュワルツェネッガーが主演した映画『プレデター』では、謎の肉食エイリアンが活躍するのだが、その怪物の形象は、いかにも西インド諸島(ハイチ)の人びとの姿を髣髴とさせていた。映画の冒頭近くで、その怪物に、とあるマンションの中で虐殺されてしまう連中も、まさに西インド諸島(ハイチ)の人びとの姿そのものをイメージさせていたように小生は感じた。
 アメリカ映画では、その都度、その時代の敵対国(敵対圏)の人間を悪役として登場させる。東西冷戦構造が、がっちりと存在していたころは、ソ連(KGB)のスパイがよく憎まれ役だったし、あるいはブルース・ウィリス主演の
映画『ダイ・ハード』では、事件の舞台となるビルの名前が中冨ビルという日本名だったはずだ。
 この頃は、日米の経済的利害の対立が厳しい時だった(80年代から90年代前半にかけて自動車など日米経済摩擦が過熱)。ちなみに、この映画が公開されたのは、1988年。つまり制作は、その前の年なのだろう。企画となると、もっと前か。
 で、企画の頃の日本の総理大臣は、中曽根康弘氏だった(1982(昭和57)年11月27日~1987(昭和62)年11月6日)。穿ち過ぎかもしれないが、小生は、中冨ビルと映画で(但し、小生はテレビで見た)聞いて、おや! と思った。 
 そう、ダジャレリストの小生、中冨という名前に中曽根を嗅ぎ取らないわけにはいかなかったのである。
 
 余談が過ぎた。この先、アメリカでイメージ作りがされたゾンビと、東欧のバンパイア(吸血鬼)や、中国の、例えばキョンシーなどを対比させたかったが(初めてキョンシーを映画で見たときも怖かった。妙にお茶目なだけに、余
計に不気味だった)、もう、疲れたので、今回は、これで中断する。
 いつになったら、幽霊との対比ができるものやら。

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コメント

ずいぶん 前の記事にコメントします。

実は 今日 ムスコが「ゾンビって何?何でそういうのが考えられたの?」と聞いたので
うろ覚えながら、この記事の大まかな話しをしたのでした。(読み返すと ちょっと違ったかも)

投稿: なずな | 2005/07/13 23:07

なずなさん、コメント、ありがとう。
というか、思い出してくれて嬉しい。
ゾンビについての拙稿は、映画で見ただけの印象しかなかったので、調べてみて、案外とアメリカ映画特有の背景があることが分かって、発見と感じた小文なのです。

投稿: やいっち | 2005/07/14 12:19

初めまして、icashiyaと申します。

芥子と書いてからし又けしとも読みますね?
この事でGoogleでこちらにヒットしました。
罌粟の花そう言えば罌粟(けし)と読みましたね。
拙blogにリンクと引用させて頂きましたのとで、
ご挨拶にコメントさせていただきました。
宜しくお願いします。

投稿: icashiya | 2007/07/05 02:14

icashiya さん、こんにちは。
芥子の花や蕾の画像、綺麗。見事です。
特に蕾の画像は初めて見たので、感激。
http://blog.zaq.ne.jp/naturallive/article/427/
小生のサイトを紹介してくれて、びっくり。こちらも感激です。

罌粟については、下記の雑文の中に若干の追記があります:
語随筆拾遺…紫陽花と雛罌粟
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/05/post_2097.html

やはり、花の印象は誰にとっても鮮やかな花のようですね。

投稿: やいっち | 2007/07/05 11:45

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