ツツジの季節の終焉…緑滴る
ついこの間、この季語随筆で「ツツジの宇宙」という記事を綴ったり、「躑躅(つつじ)と髑髏と」などという一文をものしてツツジの世界をいよいよ楽しもうと書いていたのに、連休が過ぎ去ってみると、四月早々から咲いていたツツジの花が早くも萎れ始めている。
尤も、日当たりなどの関係もあり、まだまだこれからしばらくも健気に咲き誇って楽しませてくれそうなツツジの街路樹や民家の軒先から顔を覗かせている木立もある。
表題の「ツツジの季節の終焉」というのは、いかにも小生らしく、せっかちなのかもしれない。
街中を車で流してみると、さすがにマスク姿の人を見かけることは少なくなった。花粉(症)の季節は、こちらはほぼ終息に近付いているということか。
花もいいが、風薫る五月であり、また、緑滴る五月でもある。
この「緑滴る」という表現が小生はとても気に入っていて、桜の花が散り尽くし葉桜の頃となると、何かにつけ使ってみたくなる。
ただ、「緑滴る」は季語ではなく、時候の挨拶(表現)の一つのようである。
この緑(みどり)、カタカナや平仮名で記述されるより、やはり漢字表記がいい。「緑」以外に、「翠」や「碧」もあるようだが、それぞれに意味合いにおいて違いがあるのかどうか、調べてみると面白そうである。
とにかく、「緑」という言葉も奥が深そう。
せっかくなので、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」で「緑(みどり)」を調べてみると、「緑色の木や草。新緑をいうことが多い。[季]夏」といった意味と、「色の名。光の三原色の一。青色と黄色との中間の色。春・夏の木の葉や草の色。古くは、緑色から青色に至る広い範囲の色をさした。みどりいろ」とが示されている。
「緑児(嬰児)」(みどりご)という言葉も見つかった。最近はあまり使われないようだが。「〔「新芽のような子」の意から。古くは「みどりこ」〕生まれたばかりの子供。あかんぼう」の意である。
「緑のおばさん」は、今は懐かしい風景となった。「緑の糸」というのは、小生には目新しい。「柳の細い若枝」だという。小説か随筆に使いたくなる言葉だ。
「緑滴る」もいいが、最近の女性の髪にはとてもじゃないが使えない「緑の黒髪」という表現もある。「女性の髪をほめていう語。つやつやとした美しい黒髪」の意である。
「濡れ羽色の髪」は、これからの(日本の)女性にはますます無縁のことになっていくのか。シャンプーや着色剤の使いすぎなのか、いかにも脱色され、髪の毛の質も弱々しい…というより、痛々しいような気さえする。栄養が豊富なはずなのに…。「緑なす黒髪」は、死語になりそうだ。
さて、以下、昨年の今頃、終わり行くツツジの季節を惜しんで書いた「ツツジの季節が終わる」という小文を掲げる。時が来れば、何事にも終わりがやってくるのだろうけれど、もう少し、ツツジさんたちには頑張ってほしいと願いつつ、小生も読み直してみたい。
ツツジの季節が終わる(04/05/15)
タクシーという仕事柄、車内で可能な小さな愉しみを追い求める。
駅などで待機している間などは、本や新聞を読むことがあるが、目が疲れないよう、根を詰めて読み浸るということはない。大概が順番待ちなので、少しずつ移動する必要もある。細切れの、断片的な読み方しかできないのである。自然、本にしても、軽めの内容のもの、同時に活字の細かくないものを選ぶことになる。
車内では、お客さんが乗っていない間は、出来る限り音楽を聴こうとする。無論、ラジオから流れる音楽をひたすら待ち望むのである。お気に入りの曲が掛かればと思うけれど、そんな贅沢は言っておられない。クラシックやジャズやロックや歌謡曲やポップスや、ボサノバやフォーク、民族音楽に民謡に、童謡にと、ジャンルの類いには拘らない。聴くことが出来れば御の字なのである。
ともすると神経をすり減らしがちな中、音楽は、文字通り干天の慈雨なのだ。
これで、車が会社のものでなければ、音響環境を整えて、走るミュージックスペースに変えるのだが、それはさすがに叶わない。しかし、一日とはいかないが、半日以上(つまり、お客さんが乗ってくれる時間というのは、合算すると、営業時間である二十時間のうち、せいぜい十時間もないのだ)、仕事をしながら多彩な音楽を堪能できるのは、ささやかならざる余得というものである。
一方、折を見ての車中での読書は、音楽だけでは飽き足りない精神のビタミン剤のようなものなのか。
が、目や耳が命であるこの仕事、神経をリラックスさせておくのが何よりも大事で、音楽などを聴きながらぼんやり路上の風景・光景を眺めているのが一番である。
となると、特に信号待ちなどの際、路上を行く人々の有り様をなんとなく眺めるのも楽しい。人物観察という大袈裟なものではない。素敵な女性の姿を追い求めてみたり、ロールスロイスなどの珍しい車に見入ってみたり、一日のうち、数回は目にする事故現場で明日は我が身と思ってみたり、遠くの空を流れる雲を眺めてみたり、つまりは眺めるものも、聴く音楽、読む本と同様、切れ切れの風景を愛でて気を休めているだけなのである。
そうした楽しみの一つに、なんといっても街路樹がある。あるいは民家やビルの庭の植木や盆栽の類いに目が行ってしまう。木々の緑、植物の緑と多彩な花々、そして雑草の数々。
雨の日は雨の日で、晴れの日は光溢れる空の下、多くは人の手になる植物の彩りに感嘆・驚嘆する。冬の終わり、春の到来を告げる梅の花に始まり、待望していた桜の芽吹き、開花、一気の落花…。すると、桜の季節の終わりを待っていたかのように、ツツジの季節の襲来である。
いつの頃からか、都内では(都内に限らないと思うが)路上の街路樹、緑、花というと、四月の終わり頃からツツジ(サツキもある?)全盛の光景に恵まれるようになった。
それとも、結構、以前からそうした環境があったのだけれど、自分が気付き始めたのがこの数年に過ぎないということのなのだろうか。
いずれにしても、街路樹、特にツツジの見事さには圧倒される。車の排気ガスに強いとか、虫が付きにくいとか、育ってもあまり巨大にはならないとか、さまざまな観点からツツジが選ばれているようである。
とにかく丈夫であり、且つ、育ちすぎないというのが選ばれる大きな要素のようだ。
尤も、育ってもあまり大きくならないというのは、実際にはよく分からない。それこそ植え込まれてそんなに年月が経っていないのであって、もしかしたら年々大きくなるのであり、毎年、剪定などされるから、数年先、あるいは数十年先の様子は、知識のない者には想像の限りではない。
テレビやラジオの情報では、ツツジでも、樹齢が数百年を越え、中には十メートルほどの高さに育っているものがあるというし。
それにしても、東京の都心という厳しい環境にあって、よくめげることなく木々や花々が育つものだと、無知な自分はひたすらに感心する。というより、圧倒されたりすることもある。
太陽の光が燦燦と降り注ぐ。その中、緑は濃くなり、幹や茎は伸びあるいは太り、花は思い思いの装いを凝らす。
見て愛でているほうは、ただ陽光をタップリ浴びて、植物は気持ちよさそうなどと思っているだけだが、しかし、よく見ると、日差しは情容赦なく木や花に突き刺さっている。逃げもせず、よくも植物は耐えているものと思ったりする。
そんなツツジなども、五月も半ば頃となると、さすがに日の光を浴びすぎたのか、淡い紫というか目に鮮やかなピンク色の花も元気を失いかけている。中には茶褐色に変色し、明らかに萎れてしまっているものも見受けられる。
太陽の光を浴びるという恩恵なしでは、直接か間接かはいろいろあっても、生きものは生きられない。それはそうなのだけれど、しかし、ジリジリと照り付ける直射日光の強烈な日差しは凄まじいものがある。なのに、花が長く咲きつづけ、緑はますます濃くなっていくのは、一体、どうしたものなのだろう。
訳の分からない直感というか思い込みの中で、緑が溢れる光の中でその色を濃くするのは分かるような気がするが、花がその彩りを鮮やかに保てるというのは、不思議な気がしたりする。
花が可憐だというのは、事情を知らない者の勝手な思い入れに過ぎないのか。弱き者よ、汝の名は女なりと思っていたら、案外どころか、とんでもなく逞しかったりするように、華奢そうな花びらの、その実の光に貪欲な本性が、見かけのたおやかさやしなやかさ、触れなば落ちんという風情の陰に潜んでいるということなのか。
人間や動物等は、全身が毛に蔽われているか衣服に守られているか、そうでなくとも、耐えがたければ、日陰を求めて移動することもできる。
が、植物は、ましてグリーンベルトとして使われている街路樹となると、とことん、太陽からの放射線をまともに浴びつづける。ともすると浴びすぎると致命的ともなりかねない紫外線が植物の身体を貫き通していく。身体を成す無数の細胞が光の洪水、過剰なまでの放射線の照射に悲鳴を上げているのではないかと思われたりする。
なんとなく、見ている自分には、生身の身体がジリジリチリチリと焦げだすのではと思われてならなくなったりする。
言うまでもなく、そんな勝手な心配など、まるで見当違いである。そんなことは分かっている。光との戦いの中で生まれ育ち生き抜いてきた植物なのだ。動物等よりはるかに殺気立ったほどの光の粒子の浸透・照射という環境に適合して生きているのだろう。
我々の目を癒し慰め息わせてくれる緑。滴るような緑の、なんという豊かさ。光が満ち溢れてくれば、一層、緑は濃くなり深くなり、葉っぱの肉は分厚くなり、ひたすらに数十億年来の進化の過程で獲得した生きる知恵を発揮し発散し、この世を緑の知恵で満ち溢れさせる。
理屈の上では植物の緑というのは、つまりは、光の反射に過ぎない。葉っぱが反射する光の波長が我々には緑に見えるというだけのことである。逆に言うと、緑色以外の短い、あるいは長い波長の光は植物の中の光合成する色素に吸収されるということである。
そう、植物は、光を食べて生きているのだ。貪欲に光を貪っているのである。緑が濃ければ濃いほどに、緑色以外の光を逃すことなく、安易に反射することなく、大地に洩れ零すことなく飲み尽くし食べ尽くしているわけである。
光合成というのは、「光エネルギーを化学エネルギーに変換するしくみで、地球上の生命活動のほとんどは、光合成によって産み出されたエネルギーに依存して」いる。「光合成のしくみは、海に生息する藻類で進化し」たという。
我々にとって馴染みの緑。植物というと、花びらはともかく、葉っぱは緑である。「進化的には、陸上植物の起原は、浅い場所に生育していた緑藻類と考えられ、緑藻類は陸上植物と同様な光合成色素を持ってい」るという。
つまり、「葉っぱが緑なのは、緑藻の時代に獲得した遺産を引き継いでいるからともいえ」るのである。
光合成についてのこの項は、下記を参照:
メルマガ「使える環境雑学」
「よくある質問(光合成質問箱のFAQ)」
拙稿「日の下の花の時」
まあ、光合成の仕組みについても、奥が深く、ここでは軽く触れるだけに留めておきたい。
光合成によって植物は生きている、光を食べて栄養やエネルギーを獲得しているというのは、理屈では分かるが、では、さて、花びらは、どうして強烈な光に耐えられるのかは、実感的にはやはり分からないままである…。
さて、植物は、惜しみなく無償の愛を、恵みを、癒しをわれわれに与えているように見えるけれど、また、そうして緑の葉は萎れていき、花びらは凋んでいくけれど、まさに、我が子に無限の愛情を注いで、やがて窶れていく母のようだけれど、そうした我々の思い入れとは別に、彼らも懸命にしたたかに生き延びていこうとしているということだけは分かるような気もするけれど。
理屈はそうなのである。
いずれにしても、数十億年の営みの果ての生命の獲得した知恵の深さを思うべきなのかもしれない。
それはそうなのだけれど、いざ、路上で隠れる場所などなく、眩しすぎるからといって、日差しを遮る術もなく、ひたすらに日の光を浴びつづけるツツジの花を間近で見ていると、ただただ感嘆・驚嘆するのである。
そのツツジの花の季節も、そろそろ終わりが近づいている。長く楽しませてくれてありがとう、と言いたい。ではさて、ツツジの季節が終わったら、これからはどんな花や植物が我々を迎えてくれるのか、楽しみは尽きない。
[本稿「ツツジの季節が終わる」に寄せていただいたコメントへのレス集を「無精庵明月記:「ツツジの季節が終わる」拾遺」で読めます。(050514 追記)]
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コメント
私の住む会津ではようやくツツジが咲きほころびました
雑草の名を知っている割には
ドウダンツツジをすずらんの仲間だと思ってました
緑滴るってまさに今の季節にぴったりですね
翡翠の指輪をしてみました★←光もの大好き
投稿: ぴいこちゃん | 2005/05/12 14:44
我が家のサツキ。この春、毛虫に食われて丸坊主になってしまい、花が付きそうにありません(T_T)毎年私が剪定してますが、薬の散布を止めたせい。できるだけ、撒きたくないんですよね~
花も無く緑滴っております(苦笑)
あ、当方のBLOGからリンクを張らせて頂きました。事後報告ですいませんm(__)m
投稿: ちゃり | 2005/05/12 23:00
つつじもそうだけど、藤もいつの間にか、葉っぱだけになっていました。
季節の移り変わりが早い気がします。
子供の頃 家にあったつつじの花
蜜を吸って遊んだのを思い出しました。
投稿: なずな | 2005/05/13 15:55
ぴいこちゃん、コメント、ありがとう。
そっか、そちらは今からツツジなのですね。こちらはかろうじてサツキが未だ楽しめるのかな。我が邸宅(集合住宅)の庭のツツジも、萎れちゃったけど。
雑草の名前、詳しいようですね。小生、女性と同じで、誰を観ても、目移りしてしまって、名前などすっ飛んでしまい、目が変…じゃない、点になって見つめているだけです。
翡翠の指輪をしている…、なるほど、指先から緑滴っているわけですね。翡翠は糸魚川源流から採れるといいます。我が富山の朝日地方の海辺でも大雨の後には運がよければ拾えるとか。
投稿: 弥一 | 2005/05/13 16:44
ちゃりさん、コメント、ありがとう。
あれ、サツキさん、可哀想。
でも、花に焦点を合わせると虫は邪魔者ですが、毛虫はやがて蝶や蛾などに育つ立派な生き物。虫さんを愛でるのも一興かも(苦しいか…汗)。
五月の連休、田舎で草むしりするつもりでしたが、除草剤が撒かれていて、しなくていいと、家事に専念することになりました。
その除草剤。花と雑草とに差別を設ける人間の勝手ぶりをいつもながら思います。自然を大切にするなら、雑草茫々の庭こそ、理想のはず…。でも、そうはいかないところが人間の人間たるところなのか。うーん、分からん。
投稿: 弥一 | 2005/05/13 16:51
なずなさん、コメント、ありがと。
ツツジも終わりなら、藤の花も終わりなのか。田舎でも藤の花の話が出ていたんだけど。藤の花が窓の外に下がっていて、とてもいい眺めになっている、なんて。今頃は、萎れた藤で寂しい風景に成っているかな。
ツツジの花の蜜を吸った…。吸ったということは、吸えるほどの蜜があるということでしょうか。
今度、ツツジの花の蜜を吸うなずなさんの絵を描いて欲しいな。
投稿: 弥一 | 2005/05/13 16:57
弥一さん、おはようございます。
トラックバックありがとうございました。
「緑滴る」という言葉は初めて知りました。まさに言葉のとおりなんですね!
道路脇という悪環境でも鮮やかな花を楽しませてくれるツツジには、本当に頭の下がる思いがします。
タクシーの運転手さんと作家のお仕事の傍らに、このような充実した記事を毎日更新していらっしゃることに敬服いたします。
投稿: Tompei | 2005/05/14 09:39
Tompei さん、来訪、コメント、ありがとう。
花、緑、生き物、その存在そのものが恵みですね。人間も、そうだろうけど、欲望の多さが邪魔をして、高望みばかり。
なんて、自分のことみたいだ。
タクシーという仕事は、在宅での活動が多い(執筆や読書、居眠り)小生には、恰好の現実体験となっています。日々厳しい現実と接する感覚は、常に清新な気持ちでいることを求めるようです。
投稿: 弥一 | 2005/05/14 20:11