青嵐と木下闇の間
夏の季語も数知れずある。しかも、俳句に拘ると、初夏ということで、五月から既に夏の季語を使う羽目になる。ネットで「青嵐(あおあらし)」という季語を見つけた。この言葉を俳句や歳時記的知識なく何処かで行き逢ったとしたら、どんなイメージを読み取ることだろう。
悲しいかな、小生は、青嵐会しか連想することが出来なかった。但し、こちらは「せいらんかい」と読むようだが。
多少は昔の政治に関心があったなら、石原慎太郎や中川一郎、浜田幸一らが結成した自由民主党内の派閥横断的な集団である。会派と呼んでいいのか、小生は分からない。他には、加藤六月、玉置和郎、中尾栄一、中山正暉、藤尾正行、三塚博、森喜朗、渡辺美智雄などが主だったメンバーで、今では懐かしくなった人物も居るし、マスコミを賑わせている人、派閥などの長老格の方もいる。
「青嵐会 - Wikipedia」によると、「会名は、渾沌停滞した政界に爽やかな風を送り込もうという意味を込めて石原慎太郎が命名したと言われる」らしい(典拠は確認できなかった)。「設立趣意書には「いたずらに議論に堕することなく、一命を賭して、右、実践する」とあり、結成時に血判状を捺した事で知られる」とも。
確かに、「結成時に血判状を捺した事」は、マスコミでも賑々しく採り上げられていた。
彼らの血気盛んな行動とアピールぶりから、小生は「青嵐」というと、「嵐」のイメージしか湧いてこない。間違っても、「爽やかな風」など吹いてこなかったのである。
気を取り直し、脳味噌を初期化して、改めて、「青嵐」を季語との絡みで調べてみる。
夏の季語であり、六月の季語例の扱いとなっているようである。しばしば参照させてもらっている「俳句歳時記の部屋」の「夏の季語(自然編-50音順)」という表によると、「風青し」という類義語があり、「青葉の頃、林や野を青々と吹き渡る風」とのこと。
「季節のことのは・夏」によると、「夏嵐」という類義もあるようだ。この頁を読んでみると、「青梅雨 (あおつゆ)」の項に、「梅雨雲」という類義語があり、「夏の季語には「青嵐」「青簾」「青東風」「青葉潮」「青水無月」などのように、ことさら「青」を強調したものが多くみられます」とある。「梅雨の頃はまた新緑のころですから、そこに降る雨を青梅雨と見立てた先人には頭が下がります」というが、積み重ねられ、あるいは洗練されてきた言葉、それとも季節感、風物のちょっとした変化や兆し・芽生えへの共感的感応の感覚には、時に震撼とさせられるものさえある。
「みんなの俳句・ネコでも作れる俳句教室」というサイトの、「季語について 季語は誰が決めたのか」なる頁を覗いてみる。
「季語は、有名でえらい俳人が決めています」と単刀直入で、「少し前までは高浜虚子という人が決めていました。」という。『歳時記』の著者である。
「それ以前は、和歌の世界から引き継いだ季語がありました。四季を代表するものが、「花、ホトトギス、月、紅葉、雪」の「五個の景物」と呼ばれるものです。『百人一首』の歌にも使われていますね。雅(みやび)な言葉が中心でした」とあって、ふむふむと読んでいく。
興味深く感じたのは、次の記述。「さらに室町時代に俳諧が成立すると、俗な言葉も季語として使うようになりました。「風光る、青嵐、浴衣、葉桜、初がつお、いわし雲」などです」とあるのだ。
「葉桜」も「いわし雲」も「初がつお」も、「風光る」も、結構、古い段階で季語として使われてきた…その中の一つに「青嵐」があるわけである(「浴衣」がある。夏になったら、浴衣の周辺を探ってみよう)。
「青嵐」は、俗な言葉ではあるが、由緒正しい(?)言葉でもあるわけだ。
先に、夏の季語には、「ことさら「青」を強調したものが多くみられます」という引用を示した。所謂、「色」のことについては、以前、簡単に触れておいた。色といっても、みんな大好きな色事の色ではなく、色彩の色のことであるが(話の、「要諦は、古代には色の表現はなかった、あったのは、(色の)濃淡であり、明暗なのだ、という点だった」はず→「春光・色の話」(March 09, 2005)参照)。青は淡しから由来するとか、もともとの中国の言葉(漢字)などの説明を示してある。
一方、「朱夏…夏の海」(May 13, 2005)でも、「朱夏」に関連し、「青春は緑の時期であり(昔は「緑」という概念がなく、「青」で表現していた…「青葉」というが、「緑葉」という表現はなかったわけである)、未熟さを意味し、あるいはこれから熟していく、緑の色の勢いを増していく時期だというわけである」と書いている。
夏の風物や事象を表現するのに昔は「青」が多用されていたとしても、「緑」という概念がなかったとしたら、「青」の中には当然ながら我々としては「緑」の色彩を色濃く看取しないといけないのかもしれない。また、緑滴るという夏に相応しい表現があるように、緑の横溢する生命力が眩しいからには、「青」を強調するのも、むべなるか、なのであろう。
しかし、同時に素人考えなのだが、本格的に梅雨入りし湿気が耐え難い時季になると、吹き渡る風に爽やかさを感じるのは、それこそ木陰か、通りに面しているのなら、路面に打ち水などして、一陣の涼風の吹き寄せてくるのを期待するか、簾(すだれ)を下げ、窓を開け、などとあれこれ悪足掻きをしての果てに、微かに、それこそ気のせいだと言われても否定できないようなささやかな時と場においてだけとなる。
それどころか、これまた夏の季語、それも、「下闇 木の暗 青葉闇 木暗し」といった類義語を持つ六月の季語例扱いの「木下闇(こしたやみ)」などに感じられるような、「茂った樹下の、ひんやりと湿ったほの暗いさま」、そう、薄暗いだけに湿気もあって、ともすると幽霊などが現れそうな、それとも物騒な誰かの待ち受けているような、そんな妖しさをさえ、樹陰の闇を渡る風に感じ取ったりする。
尤も、この辺りになると語感であり、体感であったりする。「こっとんの部屋」の「夏の季語」なる頁を覗く。その「木下闇(このしたやみ、こしたやみ)」という項には、「夏木立がうっそうと茂り、昼なお暗い様子をいいます。「下闇」「青葉闇」とも言われます。真っ暗な闇というよりは、初夏の陽射しがあまりにまばゆいがゆえに、樹林の下に入った時の対照的な暗さの印象をいったものでしょう。この言葉には暗さと同時に「静寂」も感じられます」とある。
うむ。「静寂」。そうか、この「木下闇」は、日中、それも日の高い頃合いなのだということ、だからこそ、樹陰の暗さが際立つのだという点をもっと理解すべきなのかもしれない。
でも、人気のない山間の森、それとも、昼下がりの町中だけれど、何故か人通りが途絶えたお堀の傍の柳の並木道、脇には白壁の塀の延々と続く道だったりしたら、ひんやり感の中に薄気味悪さを感じざるを得ないような。
こうなると、青嵐と木下闇との違いを感得するには、木陰を求めて人気のない道を徘徊してみるしかないのかもしれない。
どうか、梅雨の晴れ間や盛夏などの折に、町中の裏通りの並木道を変な奴がうろついていても、咎めだてしないようにと、切に願う。
尚、表題の「青嵐と木下闇の間」の「間」は「あわい(あはひ)」と読んで欲しいのだが、無理な願いかな。
| 固定リンク
「季語随筆」カテゴリの記事
- 陽に耐えてじっと雨待つホタルブクロ(2015.06.13)
- 夏の雨(2014.08.19)
- 苧環や風に清楚の花紡ぐ(2014.04.29)
- 鈴虫の終の宿(2012.09.27)
- 我が家の庭も秋模様(2012.09.25)
コメント
こんにちは、TBありがとうございます。「さなえ」さんのツテで、読ませてもらいはじめました。
あおあらし、と、このしたやみのあわいですか。
あおあらしのイメージは少し難しいですね。森全体がばさばさと揺れるほどの大風なのか、広葉樹林をさっと吹きぬけて、風で葉が揺れ動くような情景なのか。
木下闇は、ゴルフ場でよくいきます。
投稿: おおた葉一郎 | 2005/05/24 20:57
おおた葉一郎 さん、こんにちは。
「青嵐」は、要は、鮮やかな緑(青)が目に眩しいほどに溢れ返っている、その状態を嵐に喩えているのでしょう。緑の洪水、というわけですね。「広葉樹林をさっと吹きぬけて、風で葉が揺れ動くような情景なのか」に近いけれど、風で葉が揺れる云々には直接は関係ない。緑の横溢、生命力の横溢だと理解します。
「木下闇は、ゴルフ場でよくいきます」というのは、羨ましい。珠探しと林からの脱出で苦労した昔が懐かしい。
投稿: 弥一 | 2005/05/25 03:00