立夏…幻想の未来
五月六日は立夏だとか。類義語に「夏立つ 夏に入る 夏来る 今朝の夏」があり、「穀雨の後十五日、五月六日頃、暦の上では夏になる」という。
「夏めく(夏兆す)」という表現も、「春の花が終わり、草木が緑一色となって夏らしくなること」ということで、似たような意味合いが嗅ぎ取れる。
「春の花が終わり、草木が緑一色となって」というと、その典型は桜なのだろうが、その桜、多くは葉桜となっている。桜の花の咲く頃、散る頃も素晴らしいが、葉桜もなんとなく清々しい気がする。茶髪(桃色髪か)に染めていた、あるいは来客があって、余所行きに装っていた髪の毛を、物見高いだけのお客さんも帰ったし、夏も近付いて自然に温(ぬる)くなったお湯で埃と共に洗い流し、その洗い髪を、今は、他のことに興味を奪われ、ただ通り過ぎていく表で、爽やかな風にゆっくりゆったり靡かせている…。
寛いだ、他人行儀ではない、内向きの、ほっとした表情を覗かせてくれている…。葉桜を見ると、そんな気がするのだ。緑の葉っぱに覆われて、枝葉の下に木陰を作ってくれさえもする。桜並木の真価が目立つことなく、これから晩秋に至るまで、樹下を通り過ぎる人々に与え続けてくれるのだ。
「春の花が終わり、草木が緑一色となって」という点に異論を抱く人も多いだろう。チューリップが満開だったりする。ツツジが赤紫や淡紫の花を今ぞとばかりに町を彩り縁取ってくれている。サツキの季節も近い。フジの花も軒先に可憐な様を見せてくれているではないか、というわけである。
[若葉が夏の季語ということで、もう少し詳しく知りたく思い、ネット検索していたら、「葉桜」は夏の季語だという記述を見つけた。あれ?! そうだったの?! である。「葉桜」は別の呼称では「桜若葉」であり「花が散った後の桜の若葉」を意味するのだとか。毎度の事ながら、迂闊なことである。 (05/05/09 追記)]
さて、この数日、帰省していて、ネットとは一切、縁がなかった。家事などに追われていたし、スクーターでの往復千キロ近くの高速ツーリングの疲れが田舎で出ていて、ダウン気味だった。連休の中日に風邪を引いたが、どうやら、ツーリングの疲労が抵抗力の減退を招き、風邪という症状となって現れたようだ。
今度は今日、午後、帰京して明日か明後日には東京で出てきそうである。
ま、それでも、徐々に調子が出てくるものと思う。
表題の「立夏」は季語として(時候として…六月扱い?)として頻用される。
そのあとの、「幻想の未来」は、知る人ならフロイトの名論文を思い起こされるかもしれないが、ここでは違う意味合いを担わせている。
連休中、家事などの合間にカール・セーガン著『百億の星と千億の生命』(滋賀 陽子・松田 良一翻訳、新潮社)と岡村直樹著『寅さん 人生の伝言』(NHK生活人新書)を読んでいた。後者は役者としての渥美清と同時に、それ以上に映画の中の寅さんに焦点を合わせた人生読本。
寅さんには、無理を承知の上で、まだまだ活躍して欲しかったと思っている(寅さんの本は、後日、扱うかもしれない)。
前者も、ご存知のように、物理学者カール・セーガン(1934‐1996)は、96年にまだ研究者として活躍中、62歳でなくなられている。
小生は、彼のファンという意識はなかったものの、彼の本は結構、読んできた。『Cosmos 上・下 』(木村 繁訳、朝日新聞社出版局)、『人はなぜエセ科学に騙されるのか 上・下』(青木 薫訳、新潮文庫)、『はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み 上・下』(妻であるアン・ドルーヤンとの共著、柏原 精一・三浦 賢一・佐々木 敏裕訳、朝日新聞、文庫本版あり)、『エデンの恐竜―知能の源流をたずねて』(長野 敬訳、秀潤社)など。
特に、最後の『エデンの恐竜』は、1978年刊行と古いにも関わらず、当然、後発の研究書・啓蒙書のほうがデータ的に豊富であり訂正された知見もあるにも関わらず、今もって「恐竜モノ」ではピカイチではないかと思っている。
何故、今も四半世紀以前の恐竜本が今も恐竜モノ、というか、科学啓蒙書として秀逸なのか、いつか、再読する機会を得て、自分なりに再吟味してみたい。
科学者として脂の乗り切っている最中での夭折(敢えて、そう呼ばせてもらう)は、一人の読者としても、実に惜しい。
科学関係の啓蒙書を書く人(勿論、多くは研究者としても優秀なのだが)で、小生がその翻訳本が出ると、必ずといっていいほどに買う書き手に、たとえば、ポール・デイヴィス(Paul Davies)がいる。書名だけ書くと、『時間について―アインシュタインが残した謎とパラドックス』、『宇宙 最後の3分間』、『量子と混沌』(J.R.ブラウンとの編著)、『宇宙を創る四つの力』、『宇宙の量子論』などがある。これからも、楽しませてくれるものと期待している。
一方、H.R.パージェル著の本も出るのを待望していたもので、『量子の世界』(黒星瑩一訳)、『物質の究極』(黒星瑩一訳)、『時の始まりへの旅 対称性の物理』(黒星瑩一訳)などと読んでいったが、彼も働き盛りの頃に登山の最中の事故で亡くなられた。『物質の究極』は刺激的なだったのだけど。
さて、『百億の星と千億の生命』は、カール・セーガンにとっての遺著となるのか。96年に亡くなられたのに、昨年、何故、新刊が出るのか。しかも、あちこちの雑文を纏めたのではなく、一冊の本として上梓するつもりで書かれていたというのに。
本書の末尾にある謝辞を書き終える前に彼は他界してしまった。この本も共著ではないものの、奥さんのアン・ドルーヤンの手助けが大きかったようだ。本書の本文には後記があるが、その日付は、96年10月! まだ、本人としても生きる希望を持っていたのだけれど。
本書の内容を出版社サイドから語ってもらう。
「Amazon.co.jp: レビュー 本 百億の星と千億の生命」には、「著者からのコメント」が載っている(思うに、出版社からのコメントなのではないか…)。
曰く、:
「今年の夏は異常な暑さ、異常な数と規模の台風に苦しめられました。日本だけではありません。アメリカやカリブ海の国々でもハリケーンがかつてないほどの猛威を振るい、全世界で自然災害が多発しています。地球温暖化の影響がついに牙をむき始めたのでしょう。本書の著者であり高名な天文学者であったカール・セーガンは、前々からこのことを予告し警告していました。「科学的にはまだ確実に証明されていないからと、政府も企業も本腰を入れて取り組まないが、証明を待ってからでは遅すぎるのだ」と。
本書で取り上げられているのは温暖化だけではありません。オゾンホール、大気汚染、酸性雨、放射能汚染、また全世界を破壊し人類を絶滅させうるほどの核兵器……。地球と人類がどれほど危ういバランスの上に立っているかを、セーガンはわかりやすい例を引きながら繰返し訴えています。かけがえのない地球を取り返しがつかなくなる前に救うのは、私たち個人個人の意識なのだと。
世界中で評判になり、テレビシリーズにまでなった「コスモス」の著者だけあって、身近な事柄に引き寄せた語り口は平易で、読み出したら引き込まれ、目が開かれます。そして最後の章では死の病と闘いながら執筆する彼の強い意志に思わず涙……。本書は宇宙と地球と人類を心から愛したセーガンの、私たち一人ひとりに向けられた遺言です。死の床からやむにやまれぬ気持ちで著した本書に、一人でも多くの方に接していただきたいと思います。
(転記終わり)
カール・セーガンの本は、どれもメッセージ性が強い(別に政治色が強いという意味ではなく、賛否が大きく分かれる問題にも科学者として果敢に挑む姿勢があるのだ)。本書でも、何故か上記のコメントには挙げられていないが、アメリカでは特に政治的にも宗教的にも敏感な問題である妊娠中絶という重い課題をも扱っている。
本書「第一五章 妊娠中絶」の副題は「胎児の「生存権」と母親の「選択権」、両者の尊重は可能か?」となっていて、奥さんのアン・ドルーヤンとの共同執筆の章である。
ここでは、その内容に踏み込むつもりはない。ただ、アメリカのように国論を二分するほどに公に議論されるのと、日本のように当事者・関係者が(そのつもりがあるかどうかに関係なく)密やかに呟かれるのとでは、大違いだとは思う。
参考に、荻野 美穂著『中絶論争とアメリカ社会―身体をめぐる戦争』(岩波書店)を挙げておく。
本書は、「中絶は,殺人罪か,基本的人権か.1973年の連邦最高裁による中絶合法化は,アメリカを現在まで続く泥沼の「中絶戦争」に引きずり込んだ.なぜ,もっとも個人的な出来事が,大統領選を左右し,国内を二分する熾烈な対立を生むのか.アメリカ現代政治を見るうえで欠かすことのできない「中絶戦争」についての初の網羅的研究」というが、読者レビュアー(: mtanaka7)のレビューが内容について参考になるだろう:「日本では、中絶が事実上、容認・黙認されているため、中絶に対する関心は低く、ましてや、政治的な争点になることは考えにくい。ところが、アメリカでは、さきの大統領選でも明らかなように、中絶や同性婚の問題がきわめて重要な争点となっている。日本人には理解しにくい、この問題を、豊富な文献によって分析しているのが本書である。本書が教えてくれるように、日本人にこの問題が分かりにくいのは、つまるところ、真の争点が中絶にあるわけではないためである。つまり、中絶論争という形をとって、実際に争われているのは、「性」とは何か、人間とは何か、個人の「権利」は無制限なものなのか、といった、社会の根幹を揺るがすような点だからである。そうだとすると、果たして、社会が分裂するほどの論争になるのと、ほとんど争点化する気配のないのと、いったい、どちらがよいのか、考え込まざるを得なくなる。いずれにしても、興味深い労作である」
脱線してしまったが、科学の発達は、何もかもがいつかは分かる…かのような幻想を齎しているような気がする。病気についても、どこかにいい治療法が既に開発されているのではないか。どこかにこの病気の名医がいるのではないか。国内では未承認でも海外にいい治療薬があるのではないか。あるいは、今はなくても、あと何年か待てば開発され、自分の病気が治るのではないか。心の不調(病)も、適当な薬を塩梅すれば、復調するのではないか。そもそも悩みとはホルモンバランスのちょっとした崩れで、何かのホルモン剤を飲めば一発で悩みは解消してしまうのではないか…。
幻想だけは目一杯、膨らんでいる。しかも、幻想ではないのかもしれない。が、体のいつの日かの絶命を先延ばしにしても、生老病死の問題は、遅かれ早かれ今の問題として差し迫ってくるという現実そのものが解消されるわけではない。心であれ肉体であれ病気は薬で直る。この発想を一旦、持って仕舞ったなら、決して自分の問題として病気を見つめることはしなくなる。要は薬の有無の問題に過ぎないのだから、なにをくよくよ考える必要があろう。病は、病を抱え込んだ当人の問題。周りの者には関係のない問題。不治の病を抱え込んだ時、その苦しみを分かち合うこともできなくなる。なぜなら、誰もが病を肉体、つまりは人間(生き物)の不可避の事柄とは思えないのだから。
そうした普遍的な問題と共に、中絶や同性婚、環境、貧富の格差など、科学というより宗教や社会通念、慣習、利害などに絡む問題も科学が近い将来解決してくれそうにはない。
というより、科学(医療)の発達が齎した高齢化社会という未知の課題も迫っている。
とはいいながら、科学への期待が薄らぐことはない。少なくとも自分の中では、科学が無力なのではないかという問題に当面していてさえも、気力が萎えた夜などに、天文学か生物学の啓蒙書などを手にして睡眠薬代わりにしている。
最後の最後は、好奇心なのだろうか。闇の向こうに何か未知の世界が垣間見えるかもしれないという幻想が自分を生かしめているのだろうか。
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コメント
はじめまして。ブログが貼ってありましたので来てみました。今日私は『海を飛ぶ夢』を観てきたのですが無精庵さんの文の中に>病は、病を抱え込んだ当人の問題。周りの者には関係のない問題。不治の病を抱え込んだ時、その苦しみを分かち合うこともできなくなる。なぜなら、誰もが病を肉体、つまりは人間(生き物)の不可避の事柄とは思えないのだから。
<に私の中の『怒り』に答えを見つけた様な気がします。言われてみればそうだ・・・って。また立ち寄りに来させて頂きたいと思います。
投稿: kuzira☆くじら | 2005/05/11 20:05
kuzira☆くじら さん、来訪、コメント、ありがとう。「無精庵万葉記」へTBしてくれた「孤独の醸造」という記事へのコメントで貴サイトを知ったのです。
映画『海を飛ぶ夢』は、いい作品だったようですね。なかなか映画を観る機会のもてない小生には、羨ましいことです。
投稿: 弥一 | 2005/05/12 03:11