季語随筆拾遺…紫陽花と雛罌粟
季語随筆日記は、いつも、ぶっつけ本番で書いている。勿論(勿論であっていいのかどうか疑問だが)、下書きなどない。何を書くか、画面に向かってから考える。これは創作であっても、エッセイであっても同じである。
一応は、テーマなど考えるが、テーマに関連する情報をネット検索などで集めているうちに、当たりが悪くて、どうにも話の展開の持って行きようがなかったり、裏づけとなるサイトが見つからなかったり、逆にあまりに充実したサイトが見つかって、何を今さら小生如きが屋上屋を架するような真似をするのかと情ない思いで、執筆から撤退というか断念に追い込まれることすらあったりする。
それもしばしば。
一方、当然ながら、限られた時間の中で慌しく資料を物色したり、引用すべきサイト、引用すべき文章を物色するもので、とてもじゃないが、丁寧に全体を遺漏なく書き尽くすなど、望むべくもない。
書き終えて、アップしてから、肝腎なことを書き漏らしているのではと、忸怩たる思いが募ったり、後になって、触れるべき重要な事項に気づくことがある。
これまた、しばしばのこと。
さて、今日はそのうち、「紫陽花と雛罌粟」のそれぞれについて、若干のことを加筆しておきたい。
そうそう、嬉しいのは読者からのコメントなどで、情報を戴くこと。
前にも書いたが、そもそも、小生は何も知らないから、ネット検索したり読書したりして知ったことの幾分かを書き連ねている。知らないから調べるのだし、書いているのだ。足りないこと、考えの及ばないことは、無尽蔵にあると思っている。
どうぞ、気兼ねなくコメントなど、お願い致します。
或る方から戴いたコメントで(「シーパラダイスで紫陽花」のコメント欄をどうぞ)、「以前紫陽花の下に死体が埋められていて、そこの紫陽花だけが違う色を発してた・・・というような小説を読んだことがあります」とあった。
調べてみたら、CLAMP著『XXXHOLIC 5 (5) 』(KCデラックス刊)が、そういったストーリーでした。
つまり、紫陽花は、土壌の酸性度に微妙に影響され、「アジサイの色素が酸性の土壌では青色が強くでて、中性、アルカリ性 の土壌では赤色が強くでることに起因していると」考えられているとか。但し、それもあじさいの種類により、必ずしもそうではないとか。
死体が紫陽花の花の直下の土壌に埋まっていると酸性度が高まるという理屈を生かした物語のようですね。(但し、他にもそういった小説があるのかもしれない)。
さらに調べてみたら、上述の理屈への異論を唱えるサイトも見つかった。
「万葉の花とみどり_あぢさゐ」によると、「アジサイの花の色の変化、種類そのものの色の多様性についてだが、これは長くアントシアン系色素の酸性度の違いによるものと、まことしやかに言われてきた。例のリトマス紙の色反応だ。しかし、それほど土壌中の酸性度に違いがないと思われる場合の色合いの説明がつかないこともあり、事情は少し違うのではないかと思われる。私は、酸性度による分子構造の変化という単純なものではなく、土壌中の金属イオン種(主にアルミニウムや鉄)が、色素分子と結合(配位:キレーションという)することで、微妙な色合いを呈するのでないかと考えてる」とか。
このサイトを発見したのは収穫だった。どうぞ、この頁の素敵な画像と読み応えのある文章をご堪能下さい。
情報提供、ありがとうございます。
「罌粟の花…ゾンビ」で、「けしの花」あれこれを綴ったが、まだ最低限、触れておきたいことが残っていたと気づいた。ここに補筆しておく。
「季節の花 300」の「雛罌粟 (ヒナゲシ)」の頁を覗かせてもらう。
「よく栽培されている」種類が記述されたあと、「いずれも英名の「ポピー」の名で親しまれる。 なお、スペインでは「アマポーラ」、 フランスでは「コクリコ」の名で呼ばれる」とある。
これら、ポピー、アマポーラ、コクリコのそれぞれに、名前の織り込まれた歌などがあり、機会があったら触れてみたいが、今回は自制する。
ただ、コクリコについては、「コクリコのこと」や「はぐれコキリコ余談」などの拙稿の中で若干、調べている。
同じく、「雛罌粟 (ヒナゲシ)」の頁の中の、「「雛」は小さい、かわいいの意で、ケシの中では小型でかわいい花であることから。漢字の罌粟(けし)は漢名からで、実の形が罌(もたい。液体をいれる口のつぼんだ甕(かめ))に似ていて、種子が粟(あわ)に似ているから。種子は非常に小さく、そこから 「芥子粒(けしつぶ)」の言葉ができた」という点、特に最後の芥子粒という言葉の由来など、小生自身の好奇心のためにも注意を喚起しておきたかった。
さて、「けしの花」について、これだけは触れておかないと、心残りになる点というのは、やはり、「雛罌粟 (ヒナゲシ)」の頁の中の、「別名 「虞美人草」(ぐびじんそう)」の項だった。
「中国歴史上の絶世の美女である虞美人にたとえた」など、詳しくは当該頁を読んで欲しいが、特に、「夏目漱石の小説に「虞美人草」がある。漱石が新しい小説のタイトル名を決めあぐねていたときに、街角の花屋さんで見た「虞美人草」の名に ”おっ、いい名前♪ これにしよう”ということで名づけた、ということらしい」(改行は小生が都合上、変更させてもらいました)というのは、これまで二度ほど、「虞美人草」を読んで、作品の世界の中に没入できなかっただけに、微笑ましいようなエピソードである。
漱石の小説で、「夢十夜」はそもそも消化などできるはずがないと感じさせる作品だが、「虞美人草」と「坑夫」は、特に小生にとって理解可能であるはずなのに、なぜか消化不良の感の残る小説でありつづけた。
が、10年ほど前の失業時代に改めて漱石の小説を全て読み直した中で、「坑夫」には興奮した覚えがある。どうしてこの小説の面白さが今まで分からなかったのかと我ながら不思議に感じられたほどだった。
漱石の小説の中で、これらはあまり触れられることは少ない。「虞美人草」もだが、「坑夫」は尚更である。「坑夫」は、現代性をさえ、十年程前に読んだ時、感じたものだが、今、更に読み直したら、どう感じることか、確かめてみたいものである。
それにしても、「作家としての漱石の、『虞美人草』に続く新聞連載第二作目」というが、こんな当代に在っても、意識の流れ的な手法を駆使した極めて高度な現代文学を読んだ新聞読者は幸運だったのか、それとも当惑したのか、当時の読者の反応の如何を知りたいものである。
「罌粟の花…ゾンビ」で、ガルシンの「赤い花」という小説のことに言及している。その中で、「この「赤い花」とは、狂気の花、芥子の花ではなかったか…」と曖昧な表現となっている。
この点につき、後日、「SUN'S COURT」の中の「いろいろなスパイス けしの実」なる頁を発見。若干の情報を得ることが出来た。
というより、「けし(の実)」についての情報が詰まっている。最初からこの頁にめぐり合っていたら、苦労はしなかった、あるいは、今更、書き足すことはないと、表題に「けし」を選ぶこと自体を断念したかもしれない。
さて、「中国でひなげしが虞美人草と呼ばれるに至ったゆえんです。別 名を麗春花ともいいます」などの記述も興味深いが、ガルシンの「赤い花」との関連で、文中に、「一方、ヨーロッパでは、昔からけしの赤い花の色は、戦場で倒れた戦士たちの流した血が乗り移ったものと伝えられ、けしの花はこれら英雄たちのシンボルとされていました」とある点が尚のこと、興味深い。
なるほど、戦場、それとも、古戦場だった広大な野原一面に「けしの赤い花の色」が咲き広がっていたなら、「戦場で倒れた戦士たちの流した血」そのものに映っても不思議ではないと思えるのである。
罌粟の花は、可憐であるだけに一層、どこまでも麻薬的というか、蠱惑的な花であり、その花畑の下には、本当にゾンビが、いや、この世に恨みを残して果てた死者たちの累々たる骸が埋まっていると思えたりする。
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