五月闇…回り道
表題の「五月闇」は、「梅雨闇」という類義語があり、「五月雨の頃、どんよりと暗い昼や月の出ない闇夜」の意だという。
「梅雨闇」という類義語があるのだとすると、今の時期というより、梅雨入りしてからのちょっとした雨の中休みの情景を描く際に使うべき言葉なのだろうか。
ただ、「shuuibak 2001年6月28日 梅雨闇(つゆやみ、tsuyuyami)」という頁を覗くと、「五月闇(さつきやみ)」「五月雨(さみだれ)」「梅雨闇」「梅雨晴れ」という四つの季語のそれぞれの意味合いの関係は、結構、入り組んでいるし、それ以上に季節感の違い、語感の違いが時代の変化もあり、微妙に生じているようでもある。
その上で、「もっともサツキのサは稲の霊をさすという説があり、サツキは田植えをする稲の月であった。五月闇は稲の育つ深い闇であったのだが、そんな伝統にこだわることももはやないだろう。むしろ、明に対する暗として、梅雨闇を生活空間に取り込んでみたい。暗(闇)が一方にあるとき生活空間は深みを増す」という指摘(坪内稔典氏)は玩味したいものである。
ネット検索していると、「書かれたものたち/『句と歩く「テ-マ・舌」』 樋口由紀子」というサイトに遭遇した。
ここでは「「五月闇」は夏の季語であり、「梅雨時は暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇である」と俳句歳時記に説明されている」という情報はさておき、「五月闇またまちがって動く舌 なかはられいこ」という句を俎上に載せ、俳句と川柳の境界や、さらには川柳の特質を考察している。
そう、この句は「五月闇」という季語を織り込んでいるにも関わらず、川柳なのである。
ここまで来ると、小生如きには川柳と俳句の区別は分からない。
「川柳人は季語を日常語と同じレベルで使用するが、あるいは同じようにしか使用できないが、俳人は季語に特別な美意識を持っていて、見事に一句の中で生き返らせる。どちらかというと、俳人の季語の使い方はメンタルであり、川柳人はフィジカルなような気がする。だから、れいこの「五月闇」は季語のように過剰な比重がかかった言葉としては使用されていない」という評釈をただ、押し頂くだけである。
この考えを、たとえば、俳人は生活実感にできるだけ根差すように心掛け、川柳人は生活実感に即しつつも、やや反省的(抽象的)に根差さんとしてしまう傾向にあると言い換えていいものだろうか。
ともかく、今日は、「書かれたものたち」というサイトを見つけただけでも季語随筆日記を綴った甲斐があったと思う。
いつか機会を設けて、改めてこのサイトを覗いてみたい。
さて、表題に「五月闇」を選んだのは、以下に示す一文「回り道」への導入のつもりだったのである。最初は「緑陰」にするかと思ったが、時期的に早すぎるし、ちょっと爽やか過ぎる。もっと、「暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇」、あるいは、「どんよりと暗い昼や月の出ない闇夜」の雰囲気を引き出したかったのだ。
「五月雨…一期一会」や「梅雨の話じゃないけれど」ではないが、カメママさん事件の余波を引き摺っていた頃、こんなことを思っていたという、「回り道」は、そうした例文の一つなのである。
回り道(04/01/13)
小生はモノを書くのが好きだ。少なくともありとあらゆることを(ちょっと大袈裟)書こうとはする。音楽も絵画も映画もテレビも、写真も、スポーツも好きだし、遊ぶことも好き。女性だって性懲りもなく好き。女性なしじゃいられない(なのに女性のために苦しんでばかり)。
文章を書く時、一番感じることは、書こうとしているテーマに対して、否、もっと言うと、この世のありとあらゆる事柄に対して文章も、そして言葉も決して太刀打ちなどできないという無力感だ。
雨のひと雫さえ描くことは出来ない。せいぜい雫とか水滴とか、一粒の涙だとか、つまりは描いているのではなく、先人が織り成した言葉を持ち出し綴っているだけのこと。真珠のネックレスじゃないけれど、自分にできることは真珠に糸を通すこと、その際、せいぜい真珠を傷つけないようにすること、真珠の輝きを損ねないように気を使うことくらいのもの。
言葉が無力だという感覚は強烈なものがある。音楽を聴いて感動して、どうしてそれが言葉に置き換えられようか。雨上がりの軒先から一滴、また一滴と垂れ落ちる雨の雫をどう表現できよう。女性の肌の輝きを言葉で表現できるはずがあろうか。せいぜい、叙述の妙で読み手の想像力(妄想力)を刺激する技を磨くまでのことだ。
その絶望的な無力感から全ては始まる。そう、何を書きたいとか、書きたいテーマがあるとかではないのだ。書く当てもなく空白の画面に向うほどの快楽があるだろうか。マッサラな、雪の日の未明の原という空間に自分だけが足跡を付ける、この愉悦!
まして、自分の中の書かねば、書きたいという衝動は、空白の空間が怖いから、言葉で埋め尽くすというのとも違う。耳なし芳一のように、万が一にも言葉で塗り込め忘れたアリの一穴のような洩れがあってはならないというのとは、ちょっと違うのである。
ある不可思議極まりない感覚。世界がそこにある。自分のすぐ目の前にある。だけど触れることも見ることも叶わない。あるいは叶っているのかもしれないが、すぐに求めたモノとは違う! と感じてしまう。その不可思議さというのは、女性の魔力や自然の風物の魔的なほどの懐かしさと癒しでさえも及ばない、絶望的な官能の海。真っ赤な海。ほとんど漆黒の闇ほどに深紅の闇の海。
何が不思議といって、何かがあるということ自体の不可思議さほどに凄まじい神秘などない。いや、賢しらな人間なら色即是空などと悟ったようなことをのたまうのに違いない。
そう、確かにこの世の一切は、あってあるものでありながら、なのに風前の灯火よりもっと儚く消えゆく定めの下にある。消えていくために生まれる幻の時の川。
けれど、かの哲人を気取るわけではないけれど、疑っても、どんなに疑い尽くしても、その疑っている自分のその思いそのものの存在までは疑いきることはできない。思い感じ考え嗅ぎ味わい求め懇願し切望し絶望し歓喜し愉悦に嗚咽する。その営みの数々の切なさと空しさを痛感しつつも、その都度の切迫した心の痛みを否定し去ることはできない。
この世は空しいほどに切なく厳しく痛くある。あってあり、消え行くものとして、つまり色即是空として空即是色としてありつづける。
そう、人は幻の存在までは否定できないのだ。
妄想をどう、否定するというのか。
言葉とは何だろうか。空中に幻のように浮かぶ楼閣へ架ける階(きざはし)の、その煉瓦ブロックの一欠けらほどには確かなものなのだろうか。言葉を積み重ねれば積み重ねるほど、足場から、まして大地からは徒に離れ行くばかりだと思い知りながら、でも、その営為を続けてしまう。
言葉は時に人間の心を突き刺す。心の肌を食い破る。血を流させる。相手を刺すだけじゃなく、刃を握るものをも同時に突き刺してしまう。握る柄(つか)の部分に至るまで刃であるような、それほどに危険な諸刃の刃、いや、切っ先しかない刃なのだ。
けれど、気持ちが萎えると、刃は途端に竹の棒、それどころか形だけは刀だが、実は古びた長っ細いだけの風船に過ぎなくなったりする。
自分は一体、何を書いているのだろう。何も書いていないのかもしれない。決して沈黙と空白が怖いわけでもない。孤立に耐えられないわけでもない。
書くとは、より一層の闇夜への誘いのような気がしてならない。
書きながら考える自分には、道の先など見えるはずも無い。目の前に、それとも脳裏に、すぐにも差し出した手に届くかと思われるほどに鮮やかな幻。あの似姿。あの消え行く影。そこに真実はあるという悪魔の囁き。そんな甘い唆しに踊らされて、さて、自分は一体何処へ行こう。
そう、何処へも行きはしないのだ。結局は、めぐりめぐってはるかに遠い、生まれいずることもなかった未出現の海の浜辺に立ち戻ってしまうような予感がする。こんなことなら最初から無為な旅などしなければよかったのだ。どうせ無に還るなら、無のままでどうしていられなかったのだろう。
それともその空しさをトコトン味わうために、自分は回り道をしているのだろうか。言葉を綴れば綴るほどに遠くなる回り道を。
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コメント
日本語って本当に多様で美しいですね。婉然としてエロチックといっていいような美しさです。
背景も状況も様変わりした中で現実的な力を持ち続けることは出来るのでしょうか。
骨董品のようなほの暗い美しさのものが多いのでこの先壊されずに生き残っていってくれるのか、好事家の収集品としてひっそりと片隅に置かれるのか…
投稿: さなえ | 2005/05/12 13:25
さなえさん、コメント、ありがとう。
骨董品があるように、骨董品のような人間はいるものです。小生はその一人を気取るほど身の程知らずではないですが、そんな骨董品的存在に憧れます。淡々と、でも時には背伸びしても、言葉による言葉への探究を続けたい。
投稿: 弥一 | 2005/05/13 16:37