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2005/04/25

躑躅(つつじ)と髑髏と

 過日、「ツツジの宇宙」と題した季語随筆に、「躑躅(つつじ)」の語源やツツジに纏わる逸話などについてメッセージを戴いた。表題にあるように、「躑躅と髑髏」とは、ちょっと見ると印象が似ていたりして、また、それぞれの言葉や漢字表記そのものが興味深くもある。
 そこで、小生自身、疑問を放置したままで来たこともあり、ここで若干、触れておきたい。
 小生自身のツツジについての拙稿は、ホームページにもあるのだが、末尾に転記しておく。
植木花観賞シリーズ」の「樹木の名の由来記」の頁中にある、「ツツジ」の項によると、「ツツジの当て字の躑躅は、羊がこれを食べて足踏みして死んだところからの命名といい、本来の漢名は羊躑躅(ヨウテキチョク)だったという」とある。さらには、「韓国の単語で躑躅をtchyok-tchyok、またはtchol-tchukと発音し、これが日本でツツジとなったのではという推定説がある」という説も紹介してくれている。
 
「羊がこれ(躑躅?)を食べて足踏みして死んだところから」とあるからには、躑躅には毒が含まれているということなのか。
 実際、「花よりのメッセージ」の「3月の花」には、「躑躅の語源は中国にあって、この躑躅の花や葉に毒が含まれているので、羊が食べると足蹴りして動かなくなるからだといわれています」などと書かれている。
北信州の道草図鑑」の「レンゲツツジ(蓮華躑躅)」の頁には、「れんげつつじ【蓮華躑躅】:ツツジ科の落葉低木。山地や湿原に生え高さ約1.5メートル。6月頃に、大形で橙赤・黄または赤色の合弁花を蓮華状に付ける。有毒。 広辞苑」といった説明が付されているが、同時に、薬効の項には、「山のツツジはたいがい食べられますが、レンゲツツジは毒があって食べられません。レンゲツツジから採れる蜂蜜にも毒があるようです」とある。
 中国にある羊が食べたという躑躅の種類(羊躑躅?)は、毒の含まれるものだったということか。
 でも、そもそも羊って、躑躅を食べるのかどうかが分からない。草を食べるのは、テレビ等で時折、目にすることはあったけれど、木々の葉っぱも食べることがあるということか。この辺りは更に調べる余地がありそう。

静岡県花の見どころ案内「花の歳時記 ツツジ」」にある「ツツジの語源」という項によると、「「躑躅(ツツジ)」とは中国語で「躊躇する」を意味する。
平安時代に、中国自生のシナレンゲツツジ「羊躑躅」Rhododendron molle var.molleが記載された本草書の渡来により、日本のツツジにあてた事に由来する」などと説明されている。
 やはり中国にある羊躑躅は、蓮華躑躅の一種なのだろう(か)。

四季のいきもの前線調査-つつじ開花前線-」なるサイトを覗くと、レンゲツツジの分布図と共に、「中国で「羊躑躅」と呼ばれるものはレンゲツツジとは変種の関係にあたりますが、キレンゲツツジよりさらに鮮やかな黄色の花をつけます」などといった説明を得ることができた。
 羊が羊躑躅を食べるのかどうかは別として、とにかく、羊躑躅はレンゲツツジの変種で、毒を含むと思っていいらしいということか。

 ネット検索していたら、ツツジを巡る味わい深いエッセイが見つかった。部分的に引用するに忍びないので、サイトを紹介するに留める。「忘れられた花      野崎 茂太郎 著」の「躑躅(つつじ)」の頁である。是非、一読を! それだけでも、小生の拙稿に付き合われた甲斐があるというものである。
 この「忘れられた花」というサイトを発見したのは小生にとっても収穫だった。

 さて、大雑把ながら躑躅(ツツジ)の語源などについては見渡してみた。
 次は、髑髏という言葉の周辺を巡っておかないと、表題を「躑躅(つつじ)と髑髏と」にした意味がない。
 が、この髑髏も、一筋縄ではいかない言葉でありイメージであり、歴史を担っており、現物も無言の迫力で迫ってくる(といっても、座右に髑髏があるわけではない。小生は朝倉義景・淺井久政・淺井長政の髑髏を肴に酒宴を催す織田信長のような座興のできるほどの者ではないのだし)。
 ここでは、ネット検索で見つけた、「髑髏について」というエッセイを示しておくに留めたい。
 その上で、以下に掲げるエッセイを眺めていただければと思ったりするのである。
 またまた季語随筆とは名ばかりの雑文になったけれど、まあ、俳句の世界を広く深く味わいたい一心なのだと理解願えればと思う。
 尚、戴いたメッセージには、「十三塚とツツジの毒」という民話があることも教えてくれている。さすがに、そこまでは時間的にも調べきれないので、これまた話を覗くだけに留めておく。
 では、 「つつじのことなど」へどうぞ。

 「つつじのことなど」

 四月の半ば頃からだったろうか、ツツジの花が東京でも見られるようになり、それが四月の終わりには、一気に咲き誇り始めた。
 あの赤紫というのか、独特の色合いは、日中、五月の強い日差しの下でも負けないような不思議なあくどさのようなものを感じさせる。白いツツジもあるが、小生にはツツジというと、赤紫のツツジの印象が強いのである。
 あくどさ、などと書いたが、一瞬、強さと書こうとして躊躇ってしまい、思いつかないままにあくどさという言葉を苦し紛れに使ってしまったのである。
 ツツジというと、小生はまず、仙台を思い出す。小生は仙台の地で6年も学生として過ごした。その仙台には、榴ヶ岡公園があって、これは「つつじがおか公園」と読む。
 何かの話の折に「つつじがおか公園」という言葉が出てくるのだが、小生、なんとなく場所が思い浮かばず、一体、何処の話なのだろうと、狐に抓まれた面持ちだった。
 ややあって、「つつじがおか公園」というのは、実は、榴ヶ岡公園なのであり、小生が仙台の地にやってきて選んだ居住の地からほど近いことを知るに至った。 その榴ヶ岡公園は野鳥観察のスポットであることを知ったのは、恥ずかしながら、たった今である。

 さて、なんとか榴ヶ岡公園をつつじがおか公園と読めるようになったはいいけれど、その後も榴ヶ岡が、どうしてつつじがおかと読めるのか、違和感が残ってならなかったものだ。
 それというのも、馬鹿の一つ覚えのように、ツツジというと、漢字では躑躅と書くのだと思い込んでいたし、こんな漢字を使わせるツツジという花の独特の雰囲気に相応しいようにも思えたのである。
 あるいはもしかしたら躑躅という漢字表現から、逆にツツジという花を見ると、何かあくどさのようなものを覚えるようになったのかもしれない。
 というのは、ここにはもっと遡る余地のあるささやかな思い出があるのだ。
 それは、たとえば、志賀直哉著の『暗夜行路』に限らず、江戸川乱歩など、明治以来の多くの日本の文学作品の中に躑躅が出てくる。
 小生がガキの頃には無論、躑躅など読めるはずもないが、記憶では父の書斎にあった文学全集にはルビが振ってあったような気がする。御蔭で未だに躑躅という漢字は書けないのだが、読むことだけは早くから可能になったわけである。
 その躑躅だが、似たような感じを持ったことのある人も少なくないと思うのだが、髑髏(どくろ)という漢字と何処か似ているような印象を持っていたものだった。
 無論、表記の上で躑躅と髑髏を並べたなら、何処が似ているんだ、お前の目は節穴か、ということになるのだが、一旦、本を手放し、何処か河原か田圃の畦道でも歩いている最中に、ツツジやどくろの文字を思い浮かべようとすると、両者の漢字が交じり合って、躑躅の中に髑髏の影が忍び寄り、髑髏の目玉から躑躅の花が、それこそあざとく咲き出でるような、そんなイメージが付き纏って離れない、そんな自分だったのである。
 それにしても、躑躅などという漢字表記は、どういう由来で成り立ったのだろう。そして、髑髏という漢字表記についても、由来を知りたいものだ。
 ま、とにかく仙台市の榴ヶ岡公園も、群馬県館林市の躑躅ヶ丘公園のように表記されているなら、小生の小さな胸を傷めずにすんだわけで、思えば罪な公園である。だからなのだろうか、榴ヶ岡公園でツツジを愛でた記憶はまるでないのだ。

 躑躅は古くは『出雲国風土記』にも登場している。万葉集にも幾首かツツジの歌いこまれた短歌がある。話は長くなりそうなので、気分転換も含め、せっかくなのでこのサイトから一つだけ、挙げておこう:

 水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも

 小生はつつじが日本の在来種なのかどうかも知らないが、歌の中に登場する礒の浦廻というのは、草壁皇子の宮殿の庭園にあり、すでにツツジが栽培下にあったことが知られる。また、江戸時代にいたって、ツツジの品種が爆発的に増えたという(『広辞苑』)。
 ツツジという名前だが、あるサイトによると、「花が連なって咲くことから「つづき」、また花が筒状であることから「つつ」などと呼ばれていて、次第に「つつじ」になったらしい」とのこと。

 さて、小生は仕事柄、都内を車で終日、走り回る。但し、日中は、交差点などで信号待ちの際に、道路脇のツツジなどを投げ捨てられた吸殻やペットボトルなどと共に眺めるのがせいぜいだ。
 それが、夜ともなると、車も少なくなり、走りながらでも赤紫色の妖しいツツジの花々が目に飛び込んでくる。
 特にその赤紫色は、深緑をベースにするから余計に際立つ。
 街灯やヘッドライトに照らし出されたりすると、闇の濃さと緑の深さと花びらの妖しさが言い知れない幻想を誘う。小生に小説を書く才能があれば、間違いなく、この独特の雰囲気を生かしたミステリーかサスペンスを書き上げようと思うに違いない。
 ツツジは、3月末から四月の初めにかけての桜の季節が終わるのを見計らうように咲き始める。道路脇に桜の花びらの、最初は淡いピンクの絨毯か帯だったものが、やがて乾き切り、色褪せ、埃に塗れ、茶褐色のゴミという憐れな末路を辿る頃に、そんな情ない光景などに目を向けさせるものかとばかりに、ツツジの花が咲き始めるのである。
 もう、入学したての生徒や学生や社会人なら、学校生活や新しい環境に慣れるまではいかないものの、そろそろ最初の緊張感は薄れてくる頃だろうか。
 逆に言うと、学校や会社に馴染めないものは、ツツジのどぎついような赤紫に辟易する頃でもあるかもしれない。
 あるサイトの掲示板の書き込みに、「つつじという花は、どちらかと言えば苦手な花である」それというのも、「……盛装の女性のようでちょっと距離を置きたくなる。いわば、強い香水にむせるような気にさせられる」こと、「この時期の陽射しは強く、むっとするようなぬくもりが地面を漂っている。この季節を苦手とする気持ちがつつじを見る眼にうつっているのだろう」とあった。
 さらに、「春、特に冬の寒さから抜け出したまぶしい春はどこか気持ちを落ち着かないものにする。田舎から都会に出てきた若い頃、この季節がなにかいろいろな夢を約束しているようだった。しかし、季節が過ぎてみれば、普段の生活は何も変わっていないことに気づかされる。そんなことの繰り返しだった」と続く。

 実は、小生がこの雑文を書く動機も、このエッセイ風な日記に触発された面が大きい。この一文を読んで初めて、自分でもハッキリとは捉えきれないでいたツツジに絡む胸のモヤモヤを言葉にしてもらったという気がしたのである。
 そう、若い頃は、春四月、そして五月は横溢する生命力の季節だった。時に過剰になりがちの萌え出でる泉に、若い肉体を持つ当人であってさえ、当惑を覚えることがあったにしろ、春は命であり、将来であり、可能性だったのである。
 それどころか梅も桜もツツジも眼中になかったに違いない。それどころではなかったのだ。
 それが、今では花や草や木々の生命力に圧倒されている。
 若いというのは、動物のようなものだ。何か得体の知れない闇雲なパワーに駆り立てられ、花も草も踏み越え、踏み躙っても、平気だった。
 自分のほうがはるかに命に満ち溢れていた。植物など、目立たない陰湿な生き物、大地の何処かしらに縛り付けられている、可哀想な生き物に過ぎなかった。
 そう、背景にあるものに過ぎず、彩りとしてあればいいものであり、なければないで一向に構わないのだった。それどころではなかったのだ。
 が、年を経るに従い、大地に縛り付けられ、時には通行人に踏みつけにされるはずの花や草に目が行くようになる。視線が次第に低くなる。自分という人間に幻想の欠片も持てなくなったりすると、俺は道端の雑草ほどにも逞しくはなかったのだと思い知らされる。
 踏み躙られても、草木は樹液や草いきれを放つ。その強烈な生命力、生々しさ。自分にはその樹液ほどの潤いさえ失われていることに否応なく気付いている。
 のろまなカメほどでさえなかったはずの草木に、今や嘗てはウサギであり、跳ね回るシカだったはずの自分が置いてきぼりを喰らいそうになって焦りさえ覚える。土に還ったなら、自分は植物どもの栄養分として吸われていく。
 いや、生命力が枯渇しているということは、既に空中を漂う目に見えない植物か闇のパワーにドンドン生命力が吸われ始めているということなのかもしれない。
 闇の中で浮かび上がる濃く豊かな緑を背負った赤紫のツツジは、つまりは俺の命をドラキュラが生き血を吸う如く掠め取っているのかもしれない、そんな悪夢をさえ連想させるのである。
 まあ、そんな悪夢などは早く忘れて、この世が命に満ち溢れていることを愛でていれば、それで十分なのだろうけれど。
                          (03/05/05 記)
(一部、ブログへの転記の都合上、若干手を加えた部分がある。05/04/25 記)

[「はじめまして。植木花観賞の検索で、貴作に接し拝読しました。「植木の由来記」をHPで述べている者です。躑躅をツツジと読むに至った自説を付加いたします。躑躅樹を対称語とし、漢音でテキチョクジュ、変音してテッチョジュ、約音してテツジュからツツジへ。また、現代中国音では、チチゥシゥで、チツシュと変音し、ツツシュからツツジへと転音したとも連想できる。シナレンゲツツジの羊躑躅に基づき、ツツジに躑躅の字を当てたのなら、羊が葉を食べて死ななくても、躊躇する、足踏みすると、解釈しても良いでしょう。」というコメントを、「植木花観賞シリーズ」のサイト主さんから戴いた(2005/06/02 13:34:58)。
 付加された自説などは、「植物名の由来」という頁に「樹木の名の由来記」という表題(その「ツツジ」の項)で載っている。
 ちなみに、同上のサイト主さんには、「花樹の話題」というブログがあることも教えてくれました。]

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コメント

「植木花観賞シリーズ」のサイト主さんから戴いたコメントなどを当該頁の末尾に載せました。サイト主のtataouさん、ありがとう!

投稿: 弥一 | 2005/06/06 03:24

HP「植木花観賞シリーズ」の管理者です。このたびは、私のコメントなどを、早速、採用ご掲載くださり、厚く御礼を申し上げます。

投稿: tataou | 2005/06/06 15:27

tataou さん、コメントや新しい情報、改めてお礼申し上げます。

投稿: 弥一 | 2005/06/07 03:02

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