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2005/04/19

磯遊(いそあそび)…混沌の海

 表題の「磯遊(いそあそび)」は、春四月の季語のようである。
春の季語(行事・暮らし編-種類順)」によると、「春の大潮の頃、磯部で遊ぶこと」だという(磯部って、磯辺と表記するのでは?)。「磯祭」という類義語があるらしい。
閑話抄」の<磯遊(いそあそび)>によると、「「磯遊」というのは春の磯に出かけて貝などを捕って楽しむ行事です。 それは「汐干狩」じゃないの?と思われる方もいらっしゃいますよね。「汐干狩」という季語は別 にあります。ただ「汐干狩」のほうは、時には小舟を出して魚なども捕るのに対し、「磯遊」の方は浜辺で時には炊事道具を持参し、捕った獲物をその場で煮炊きして楽しむというような面 で分けているようです」とのこと。
 このサイトによると、「「磯遊」と同義の言葉に「磯菜摘」というものがあ」り、「狭義では、浜辺に打ち上げられた海藻を採る事をさしている」とか。
 21世紀が、こんなにも困難で多難な世紀になるとは、誰が予想しただろう。しかも、幕開きが9・11の同時多発テロだったというのが象徴的だったりする。
 冷戦が終わってベルリンの壁が壊され始めたとき、何か雪解けの時が到来したかのような印象さえ、マスコミは伝えていたような。今となっては夢のような話であり、冷戦構造が崩壊して、パンドラの箱の蓋が開いて、とんでもない混沌の世界が現実のものとなった。
 磯遊も潮干狩りも楽しい戯れなのだろう。海の水がせいぜい膝元を浸している間、漕ぎ出した小舟に穴が開いていることに気付かなかった間は。
 けれど、今は、海の水は腰の辺りまで、やがては咽喉もとの辺りまで寄せてきている。
 遠い昔、かのニュートンは、「私は、浜辺で貝がらを拾って遊ぶ子供のようなものだ。真理の大海は眼前に広がっている」と言っていたとか。偉大なるニュートンの一見すると謙虚なような言葉。
 でも、ニュートンは本気で自らを浜辺で戯れる子供に過ぎないと思っていたのだろうと、小生は思う。海岸線は、つまりは足元にある。が、その足元が常に揺らいでいるし、浸食されてもいる。
 浸食されない幸運なる場合でさえも、つまり、海岸線をほんの僅か広げたり護岸することができた場合であってさえも、その目の先には広大なる海が広がる。海の先には崖はさすがにないだろうけれど、宇宙が広がっている。地球は宇宙の中の塵ほどの存在。揺れて定まらないのも、無理はないのだろう。真空はありえない、のだから。
 
 以下は、ウルトラマンの話である。夢があるって? 児戯に堕しているって? さて、どうだろう。

 昨夜、ウルトラマンの話を聞いた。正確に言うと、NHKのラジオ番組に大澤真幸(おおさわまさち)氏が出演し、彼にアナウンサーが戦後や現代について尋ねる中で、ウルトラマンの話が飛び出した、というわけである。
 大澤真幸氏とは、「はてなダイアリー」の「はてなダイアリー - 大澤真幸とは」によると、 長野県松本市生まれ(1958.10.15)で、専攻は比較社会学・社会システム論、1997.4より京都大学人間・環境学研究科助教授(現職)とのこと。
 小生も名前だけは散見したことがあるが、彼の著書も論文も読んだことはない。浅田 彰や柄谷行人、高橋哲哉、松浦寿夫、阿部和重、斎藤環らと並ぶ、今、一番、生きのいい評論家ということになるのか:
批評空間【批評空間アーカイヴ】

 仕事中ということもあり、話は断片的にしか聴くことができなかった。戦後を理想の時代(高度成長期)、虚構の時代(高度成長を遂げ、理想を見失った時代)、そして今は不可能性の時代、というふうに捉えているという話だった。分かりやすいし構図として見通しがよくなったような気がするけれど、小生の大嫌いな思考法だ。現代を不可能性の時代として捉える…。一見すると、なるほどと思ったりするが、現代というのは、いつの世にあっても混沌と猥雑と模索の中にあるものだ、というのが小生の認識である。過去を振り返ってみたら、ああ、あの時代はかのようだったのだ、と、それなりの括り方をすることも可能なようではあるが、過ぎ去った世界は、今ある我々や自分に何も手出しは出来ないし、変てこな括り方をしても文句の一つさえ、言えるはずもない。
 高度成長期で、学生運動も積極的な主張などなくて、幻想の中の理想を追って遮二無二邁進する社会への否(ノン)を突きつけていただけだとは、後の時代になってなら、言えなくもないが、渦中の学生たちにしたら、懸命だったし、模索し足掻き、見えない脱出口を求めて必死だったのではと思う。けれど、「出口なし」と思われていたのだ。混沌の中で不安の最中にいたのだと思う。キルケゴールの「不安の概念」の冒頭の文句のように、蟻地獄のような現実の中で、「砂の女」のように圧倒的に迫り来る砂の嵐に埋もれそうになる中、息をするのもやっとだったりしていたのではないか。
 さて、大澤真幸氏の話の中で飛び出したウルトラマンの話に移ろう。気のせいか、番組の中でも、アナウンサーの方たちも一番、興味津々で伺っていたような…。
 ネットで調べてみたが、大澤真幸氏が紹介したウルトラマンの話というのは、知る人にはとっくに知られている話であり、しかも、その話そのものは氏の独創ではないようである。
 その前に、ウルトラマンとはどんな物語だったか、説明しておく必要があるだろうか。ゴジラは数年前、アメリカで映画化されたし、今も大リーグでゴジラ松井が活躍していることもあり、若い人にも女性にもそれなりに知られている。
 が、ウルトラマンとなると、マニアの間ではともかく、一般的にはもう、陰が薄くなりつつあるかもしれない。特に若い人や女性には。
ウルトラシリーズ」を参照させていただく。
「日本の特撮史上初の巨大変身ヒーロー「ウルトラマン」がテレビに登場したのは1966年」だとか。小生がそろそろ小学校を卒業する頃か。小生の好みからすると、特撮ものでは、ウルトラマンよりナショナルキッドのほうが好きだったが。でも、ついつい見ていたことは間違いない。しかも、家族全員で。
「M78星雲光の国を故郷とする宇宙警備隊のウルトラマンは、怪獣墓場に護送中の凶悪な怪獣ベムラーに逃げられてしまった。ベムラーを追って日本の竜ヶ森にやってきたウルトラマンは、科学特捜隊のハヤタ隊員の乗る小型ビートルに接触。ビートル機は墜落し、ハヤタは絶命してしまう。ウルトラマンはハヤタを助ける為に、彼と一身同体となって地球にとどまり、地球の平和の為に戦う事を決意した。ハヤタ隊員は、困難な状況に陥った時ベーターカプセルを点火し、身長40メートルのウルトラマンに変身!次々と現れる宇宙人や怪獣に対し、スペシウム光線やスラッシュ光線で戦う!!('66年・全39話)」
 そう、小生が夢中になるには、このシリーズの登場は遅すぎたようだ。

 余談だが、主役のハヤタ隊員を演じていた黒部進さんというのは、ダンディな方で今も矍鑠とされているが、彼が富山出身だということを知ったのは、随分、後になってから…シリーズは終わって、懐かしく語られるようになって、何かのゲストとして番組に黒部進さんが呼ばれて、富山に縁のある人だと伺ってからだった。
 迂闊だった。そもそも黒部進さんの「黒部」という名にピンと来るべきだったのだ。実際、富山は黒部市の出身なのだった。
 その娘さんは、既に結婚されたが、女優の吉本多香美さんで、ウルトラマンティガのヒロインであるレナ隊員を演じたことでも知られている。
 4/26日に火曜サスペンス「箱根湯河原温泉交番(4)」に吉本多香美さんがご出演されるという情報もあるが、小生は未確認である(裏が取れていない)。しかも、お父さん役に黒部進さんという情報もあるのだが…。
WEBゆがわら◆◆(社)湯河原温泉観光協会◆◆」に載る画像を見ると、「4月26日 21:00~22:54 O.A.  箱根湯河原温泉交番(4)『天神様の涙』 湯河原出身の俳優 船越英一郎さん主演のドラマ「箱根湯河原温泉交番」シリーズの第4弾“天神様の涙”が放送されます。湯河原の温泉街を舞台に繰り広げられるサスペンスドラマです。ぜひご覧下さい!」とある。

 さて、大澤真幸氏がラジオ番組の中で紹介した説というのは、大澤真幸著『戦後の思想空間』(1998.7 ちくま新書)の中で紹介されたものらしい。
メル日記2001年9月」の中の、「2001年9月6日 木曜日」の頁を参照させてもらうと、要は、「ウルトラマンは、戦後の日本とアメリカ(また日本と沖縄)の関係を表しているという」ことのようである。
 日本は戦後、アメリカを理想の国と思い込まされ、戦後民主主義も無条件で是として受け止めていた。そして、日本はアメリカに守ってもらうのは当たり前であり、また、沖縄(脚本を書いた金城哲夫の出身地!)は日本に守ってもらうことも、当然のことで、そこに疑う余地などなかった。
「戦後の日本はアメリカの無条件の善意に頼っていたということになるらしい。つまり保守派からは、日本も軍隊を持てば、アメリカと対等な地位を獲得できるというが、しかしこの考えは、アメリカの日本に対する無条件の善意があるからこそ成り立つというわけです。要するに、もし日本が軍隊を持ち、アメリカと対等の位置になったとき、アメリカが日本を攻撃する可能性があるということが、思考から忘れられているということでしょう。つまり、ウルトラマンシリーズでは、ウルトラマンが突然地球を襲いはじめるかもしれないという可能性がすっぽり抜け落ちている。いつまでもウルトラマンは地球を守ってくれる味方であるということが前提にないと成立しない物語だったのでしょう。すなわち、ウルトラマンの善意を盲目的に依存していたということになるらしいです。それが、戦後の日米関係の構図であるということです」とのこと。
 ウルトラマンシリーズでの「ウルトラマンの致命的な弱点は、一つにウルトラマンが地球人を守る必然性があるのかどうかということ。さらに、宇宙からやってきた怪獣は一種の難民と考えられるのだが、ウルトラマンはそれを片っ端からやっつけてしまう。これはいくらなんでもまずい。そしてこの暴力を地球人が手助けすることになってしまう」のではないかということ。
 上記したように、「ベムラーを追って日本の竜ヶ森にやってきたウルトラマンは、科学特捜隊のハヤタ隊員の乗る小型ビートルに接触。ビートル機は墜落し、ハヤタは絶命してしまう。ウルトラマンはハヤタを助ける為に、彼と一身同体となって地球にとどまり、地球の平和の為に戦う事を決意した」というのだが、それだけのことで無条件に地球の平和のために戦う決意をする理由などない…少なくとも極めて必然性が稀薄なのである。

オキナワの中年 - 沖縄文学・文化に・・・」というサイトの、「 ☆ウルトラマン研究0 (1) 6月4日(水) 」という頁を覗く。
 ここでは、『帰ってきたウルトラマン大全』(白石雅彦・荻野友大編 2003,1双葉社)などの文献が短評付きで紹介されていたりして、ウルトラマンを知るにはかなりの助けになる。
 あるいは、『怪獣学・入門』(町山智浩編 JICC出版局 1992,7)から、「佐藤健志)は『諸君』に掲載しているだけに、反戦後民主主義の姿勢が顕著である。日本人の甘え、およびウルトラマン=米軍説は、非常に説得力があるのだが、ウルトラセブンの最終回に即して「(アメリカは)これまでのような覇権国としての負担には耐えられなくなってきているのである」などという部分は、本人、今読み返したら恥ずかしいだろうな。今や暴走し始めたウルトラマンをどう鎮めるかになっています」という感想を持たれたりする。
 そう、大澤真幸氏がラジオ番組の中で紹介した説というのは、元はといえば、佐藤健志氏のウルトラマン=米軍説なのである。
 ちなみに、このサイトによると、「ウルトラシリーズを担った若いスタッフ達の多くは、デモ等に参加した経験を持つ」のだとか。そうだったのか!
 このサイトの「☆ウルトラマン研究7  6月16日(月) 」という項が今の話題に関連する。
「ウルトラマンとは何であったか」、それは「M78星雲の「光の国」から来た宇宙人なのであるが」、そも、「無償の行為として、地球人を助けてくれるウルトラマンとは何者なのか」…。
「ウルトラマンが人間のために戦う動機は、公開された作品から見る限り2点である。一つはうっかりとハヤタ隊員と接触してしまい殺してしまったこと。二つめは「光の国」に帰る手段が無いこと。しかしこれは命がけで戦う動機としては不十分であり、それゆえこの問題に対する説は多くある」
 として、以下、「ウルトラマンは神である」とか、「ニライカナイの神」、「ウルトラマンは宇宙の米軍である」などの諸説が示される。
 中でも、「ニライカナイの神」説は脚本を書いた金城哲夫氏が沖縄出身であり、戦争体験もあったりすることを鑑みると、興味深い。
 文中にも引用されているが、つまり、「(沖縄戦中)彼はいまかいまかと救世主の出現を待ち望んでいたに違いない。おばあさんの昔語りに聞いたニライ・カナイからくるという神は、こんな時に現れるのではなかろうか」(p140)
「それ(最終回のエピソード)はニライ・カナイから訪れたまれびとが人々に祝福を与えたのち、ふたたび遠い南の空へ帰っていく姿を連想させた。このシリーズが神秘性をただよわすのは、ウルトラマンがまれびとだからではなかろうか」(p.141)というわけである。
「ウルトラマンは宇宙の米軍である」説では、これが佐藤健志氏の唱えた説であり、大澤真幸氏が『戦後の思想空間』(1998.7 ちくま新書)で、肯定的に引用したものであることが示される。
 この中で、大澤真幸氏による佐藤氏の説の援用の仕方が杜撰だと批判されている。「少年時代の記憶にのみ基づいており、おそらくビデオ等により再確認はしていない」と、サイト主の方は語っている。
 大澤真幸氏は番組の中で高度経済成長期が過ぎた辺りから、アメリカの価値観への無条件な信仰・信頼は揺らいでしまった、アメリカの無条件の善意という幻想が潰え去った時(日本の多くの人々から消え去ったのか、金城哲夫氏個人から霧散してしまったのか、小生ははっきり理解できなかった)、金城哲夫氏には脚本を書くエネルギーも湧いてこなかった、と認識していることを示していた。
 が、「オキナワの中年」サイト主によれば、「ここで注意すべきは、金城がウルトラマン=米軍と考えていた、というわけではなく、金城の博愛主義的な世界観がウルトラマンという、「善意の強者」を生み出し、それが防衛をアメリカに全て依存する日本人の心情にマッチした、ということである」というのだ。
 もっと根源的なところで、金城哲夫氏にはそれまでは辛うじてあった博愛主義的な世界観を支えるエネルギーが枯渇してしまった…のかもしれない。

 ウルトラマンにも、いろいろなシリーズがあった。ウルトラマンに始まり、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン、ウルトラマンA、ウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオと続く:
ぱるうぃーずの箱箱箱」の中の、「ウルトラマン
 あと、一年か二年早くこのドラマが誕生していたら、小生も夢中になったかもしれないのに。

 あれこれ綴ってきたが、現代からは不可能性の時代に突入しているのかどうかは別として、より混沌の深みに嵌っているとは感じてしまう。今が平穏無事だと思う人は、よほど、壺に嵌って吹き荒ぶ嵐の中のエアーポケットの中にたまたま居るに過ぎないのだろう。
 感じる心や求める心、他者を思う心、世界とは身の回りの世界に限られるのではなく、たとえどんな小さな世界であっても、その世界はもっと広い世界と通底し合っていると感じる心がある人は、きっと、心は常に立ち騒ぎ揺れ動いてやまないのだと小生は思う。
 心は感じることはあっても、見えないもの。不可能性の時代というより不可視の時代なのだと小生は思う。何ゆえ不可視なのか。心への拘りと憧れの念がますます強まるだろうことが容易に予想されるからなのである。

 最後に、思いっきりの余談であり、臆説なのだが、たとえば、ウルトラマンはもしかしたら宇宙の犯罪者であり逃亡者なのではないか。科学特捜隊のハヤタ隊員の乗る小型ビートルに接触したのも、ハヤタ隊員に何か秘密を握られたか、見られては困る場面を目撃されてしまい、わざと接触し墜落させたのではないか。
 ウルトラマンが懸命に宇宙から来るほかの怪獣をやっつけるのも、ウルトラマンから見たら、本当は宇宙の警察官か麻薬取締官なのかもしれない。地球の平和のためでは、毛頭なく、ただただ我が身可愛さのあまり、必死になって恰好のアジトである地球に立てこもって、追捕者を撃退していただけなのかもしれない。
 宇宙から来た生命体は、どんな形であれ、見慣れないうちは怪獣に見えても仕方ないわけだ。ハヤタ隊員を殺害し、人間の形を模したもの、その辺りの地球人(日本人)のナイーブさを見切ってのことだったとも考えられないことはない。
 が、今やウルトラマンの正体が露見してきたのだ。理想(アメリカという理想の国)も失い、虚構を描くエネルギーも消耗し、混沌の海に自力で漕ぎ出すことを余儀なくされた今こそ、世界を自分の目で見、自分の判断力と思考力で世界を理解せざるを得ない。不可能性の時代というより、不安に怯える時代なのかもしれない。


 ひたひたと寄せ来る波の絶え間なく
 笹舟の漕ぎ出す川の先の海
 憧れを知る心の果てのはるかなり
 心とは流れに逆らい差す棹か
 潮干狩りいつしか我が身も狩られしか
 遠い日の笹の舟の葉夢に出て
 

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コメント

ウルトラマンといえば『ウルトラマン研究序説』という
本を読んだことがあります。
・ハヤタ隊員はウルトラマンによる建造物破壊についての刑事責任を負うか。
・怪獣の死体処理は誰が行うのか
・科学特捜隊の基地を日本に置くことの憲法的論議
・未成年ホシノ君の雇用形態

など、各分野の学者が真面目に分析している面白い本です。

本題を忘れていました。
磯遊びって夏のイメージですが春の季語なんですね。
北海道では真夏しか遊べないので羨ましい風景だわ・・・

投稿: マコロン | 2005/04/20 14:29

マコロンさん、びっくりです。
『ウルトラマン研究序説』なんて本をどうしてマコロンさんが読まれていたのか。この本は、言及したサイトの中でも絶賛されていました。ここまで学者達が大マジにやるのかって。
でも、こういう精神があるから日本のオタク文化が独自なものとして世界に進出できるのでしょうね。
「本題を忘れていました」…本題はあってないようなもの。書いている本人がフラフラしてますから。それより、話を膨らませてくれる人が好きです。
夏の日が短い、それだけに貴重な時として過ごされるのでしょうね。北欧の人々のように?!


投稿: 弥一 | 2005/04/21 18:41

(///ω///)テレテレ♪
これは面白そうだ!と思ったら何でも読んでみるタイプなんです。
『ウルトラマン研究序説』はまだ手元にありますよ。
泣く泣く殆どの本を処分してきたのですが
何とか本棚2つ分くらいだけは持ってきました。
その中の一冊です。
本に読むことで世界が広がるので
私にとって読書は生活の一部になっています。

投稿: マコロン | 2005/04/21 19:18

マコロンさん、読書に関しては同士ですね。小生も、分野を特定することなく、可能な限り手当たり次第に読む。というか、読みたいのです。本を読むのは勉強のためより、好奇心を満たすためです。
でも、実際には時間的に無理で、週に2冊がやっとのよう。書くのと、寝るのが好きなので(食べるのも)。

投稿: 弥一 | 2005/04/22 03:17

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