朧月…春の月
今日の季語随筆の表題を何にするか…、小生、四月の季語(季題)を見ていて、つい「春の月」を選ぼうとした。
が、あれ? 前に使ったことがあったような気がする。念のために調べてみたら、案の定である、せっかちで堪え性のない小生、先月の19日に「春の月・春の星」という表題で使用済みなのだった。
危ない! 僅か二週間あまり前のことなのに、忘れてしまっている。それにしても、この季語が四月にこそ相応しいのに、我慢しきれずに3月の中旬に選び取ってしまった…のは、何故だろう。
と疑問に思ったら、「月影に寄せて」という一昨年秋に書いたエッセイをブログにアップさせたからということ、そして、比較的寒い日の多い春先にあって、やや春めいた陽気を感じたからだったらしい。
いかにも、単純極まる。分かりやすいというべきか。
「朧月」とは、春四月の季語であり、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書 朧月」によると、「春の夜のほのかにかすんだ月」だという。このサイトには、「朧月大河をのぼる御舟かな」という蕪村の句が載せられてある。
「春の月・春の星」などでも紹介した、「大原や蝶の出て舞ふ朧月」がやはり、評釈も含めて印象的である。
これも前に紹介したはずだが、類義語に「朧夜」や「朧月夜(おぼろづきよ)」があり、「照りもせず曇りもしない春の夜に、月にぼんやりした輪ができ、これを暈(かさ)とよび、この暈が月にかかると朧月にな」るという。
[掲げた写真は、金曜日未明、某公園で撮ったもの。心地良い風に吹かれながら、居眠りしていた桜さん。いきなり、フラッシュされて、びっくりしちゃったかな。ごめんよ。]
ところで、「春の月」と「朧月」とは、意味合いなどは同じなのか、それとも、何処かしら違うのか。こういう疑問に大しても、滅法頼りになる「閑話抄」というサイトの<春の月>という頁には、【春の月と朧月】として、まさにこの問題を扱ってくれている。
詳しくは、この頁を覗いてもらうとして、「朧月を使った場合には月そのものの美しさを讃え、句中でも主に据えて いる場合が多いようで」あり、「春の月は必ずしもメインの素材ではなく、例えば 花や水やその他諸々の風物を対象にし、その背景に春の月がある、、、という趣の ものがよく見受けられ」るという。
小生は、何故か月影が好きである。別に太陽が嫌いというわけじゃない。太陽とかお日様に絡むエッセイも書いている。が、太陽と月とを比べると、月(影)を巡るエッセイが圧倒的に多いのである。
目ぼしいものをあげておくと:
「真冬の満月と霄壤の差と」や「十三夜の月と寒露の雫と」、「月影に寄せて」や「有明の月に寄せて」、「真冬の夜の月」、「十三夜の月見」などなど、である。
掌編でも月をめぐるもの、あるいは月が小道具として使われている作品が結構、目立つ:
「団子より月」、「月と老い猫」、「月 光 欲」、「猫 月を眺める」、「蒼い三日月、「ブルームーン」、「月 光 浴」など。
挙げた作品はタイトルに「月」という言葉が使われているものと言ったほうがいいかもしれない。とてもじゃないが、全部の作品の中に月が登場しているかどうかを調べる時間もないし。
ただ、今、初めて気付いたことなのだが、エッセイにしても掌編にしても、比較的、秋から冬に懸けての季節に書いたものが多いということだ。
もっというと、夏は分からないが、春の月をテーマにしてのエッセイが見当たらない!
何故なのだろうか。春の朧な月もいいではないか。昨日の夕方、買い物に出た際、空を見上げてみた。言うまでもなく、月影を求めてのこと。が、霞みが懸かっていたせいなのか、それとも月の位置が周囲の建物に阻まれていたに過ぎないのか、全く、月影に恵まれることはなかった。
朧な月。印象がやや薄い。だから、敢えて採り上げる気になれない、ということなのか。
半分の真実は突いているような気はする。
秋の月、それも、夏の暑さの印象が薄らぎ、やがて夜ともなると体の芯が冷えてきそうなそんな刻限、何処かの公園の片隅にじっと立っていると、まるで月と自分とが二人きりのような錯覚に囚われそうになる。
秋や、まして冬ともなると、神経の背筋がピンと伸びるようで、その伸びた神経の突端が、湿度も低くなってシルエットの鮮やかとなった月影の、その鋭利な輪郭の描く線と鋭く交差するようで、何かが問われているような気に陥ってしまうのかもしれない。
比して春というと、神経も弛緩してしまう。だらんとした体と心。のびやかでゆるやかでゆったりしていて、まったりとさえしているような、つい漫然たる思いに眠気にさえ誘われるがままに、朦朧たる幽冥の境に迷い落ちていく…それならそれでいいじゃないか…。
ここに花の香も加わってくる。冬の間にだって健気にも咲く花はあった。春、遠からじという、まだ寒い時期に咲く可憐な花もあって、注意深くあれば、芳しい香りも漂っていなくはなかった。
が、やはり寒さは香りの印象を弱めてしまう。それとももともと香りそのものが強烈ではないのか。あるいは、花のせいではなく、人間の嗅覚の方が、今一つ、寒さの故に固くて働きが鈍かったのか。
それが、気温が上昇するに連れ、草の香り、花の香り、土の香り、それどころか、木々の枝や幹でさえもが、時には生々しいほどの<体臭>を発してくるのである。発していると感じさせられてしまうのである。
春の到来と共に、草花も勢いを増し、町の喧騒もその賑やかさを痛感させられる。遠くの電車の音さえも、部屋の中にあって聞えてきたりする。地上世界の賑やかさ。生き物の蠢き。
これでは、月影など、まさに文字通り、陰に隠れてしまうのは仕方ないのかもしれない。
しかも、追い討ちをかけるように霞や靄や土埃や塵である。遠い世界から黄砂も飛来する。花粉も舞う。
…なんてことをつらつらと書いてきたのは、頭の片隅に前にも紹介したが、「TB企画「桜月夜の記憶」」を意識しているからである。
せっかくだから、「月」と「花」をお題にした随筆か何か、書きたいと思っている。今週末辺りが、花(桜)も満開になるだろうし、愛でつつ、考えてみたい。
思いっきり話が変わるが、小生は今、網野善彦著『蒙古襲来―転換する社会』(小学館文庫)などを読んでいるが、6日夕方のNHKテレビでまさにこの話題そのものを扱った番組を放映していた。
「その時歴史が動いた 「異説!蒙古襲来」すれちがった日本と大帝国の思惑▽皇帝クビライの野望」という題名で、「その時歴史が動いた◇日本に襲来した元が撤退した1281年の弘安の役の真相を探る。鎌倉時代の日本を脅かした蒙古襲来は、元の皇帝クビライの領土拡大の野望によるものと考えられてきた。しかし大陸側の史料を読み解くと、クビライは当初、海洋交易の理想を実現するため日本との平和的な国交締結を求めていたことが分かった。だが外交経験に乏しい日本は元の真意を見抜くことができず、鎌倉幕府は態度を硬化させて元への返書を拒み、自ら元との対立を招いてしまった。やがて念願の南宋併合を果たし大海洋帝国に変ぼうした元は、抵抗を続ける日本を最初の攻撃目標として選び、大艦隊を博多へと差し向ける」といった内容。
小生は、故・網野善彦氏のファンなので、彼の本を折々に読むのが楽しみである。
その意味でタイムリーな番組を提供してくれたNHKさんに感謝だ。
『蒙古襲来』についての感想文を書くかどうか、分からないので、今のうちにメモしておく。
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コメント
朧月って言うのは、どこか艶めいています。
秋の透き通る月らしい月とは違うイメージです。
その辺が、好みの分かれるところなんでしょうか。
♪ 菜の花畑に 入日薄れ
見渡す山の端 霞ふかし ♪
タイトルを見て、すぐ、口から出ました。
桜も美しいですが、菜の花も気持ちを明るくしてくれます。
美しい季節です。
『月光浴』は、所有しています。
DVD版なんですが、本のほうが良かったかも。
全体的に青味を帯びて、色彩的には、好みです。
投稿: Amice | 2005/04/07 19:10
Amice さん、こんにちは!
いろいろ理屈を並べていますが、朧月、好きです。なんともいえない雰囲気や情緒があります。
そして幸い花粉症の症状の出ていない小生、春は好きな季節。今更、入学式の時節じゃないのだけど、なんとなくうきうきしてしまう。
うきうきと花の絨毯踏み締めて
『月光浴』、持っていらっしゃるのですね。羨ましいです。ネットでちょっと画像を見るだけ。
投稿: 弥一 | 2005/04/08 15:51