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2005/04/27

狐の牡丹…雑草のこと

 もうすぐ連休である。休めるかどうか分からないが、休みを取って帰省したいとは思っている。五月の連休というと、いつもは田植えの手伝いの為に帰省するのが恒例になっていたし、オートバイを駆って東京から富山へと高速道路を使って往復する。
 が、既にどこかで書いたように、田舎では一昨年で田植えを止めてしまった。さすがに昨年は、一昨年までの習慣みたいになっていたので、連休には帰省したが、することもないし、ということで手持ち無沙汰になり、まあ、拍子抜けの状態だった。
 今は手の加わることのない田圃が荒れ果ててしまっていることも、今更、語るのも寂しい。
「去年(こぞ)の田は夢かとばかりに舞うトンボ」なんて、句を昨年の夏だったかに、捻ったりして見たけれど、雑草の生い茂る田圃…空き地を家の居間から眺めると、まさに、あれあれ去年の今頃は稲穂が青々としていたじゃないか、なのに、この有様はなんだ、去年までのことは夢だったのか、それとも場所を間違えたのか、と、おろおろするばかりなのである。
 休みが取れたら(取るのは簡単だ、ただ、一回でも営業を休むと、その後の祟りというか、皺寄せがきついのだ)、まあ、僅かに残る畑や庭で草むしりをすることになるのかもしれない。
 その連想というほどでもないが、草むしりで毟られるのは雑草と決まっていることだし、今日の季語随筆の表題は「雑草」で決まり、というわけである。
「雑草 季語」でネット検索してみたら、「何処でも見かける丈の低い雑草」だという「酢漿の花(かたばみのはな)」など(「夏の季語(動・植物-種類順)」より)、雑草はどちらかというと、正式にという訳ではないが、夏の季語扱い(気味)のようである。
 それでも、物色してみると、狐の牡丹という雑草が春の季語扱いとなっている、といった情報を得ることができた。

 早速、「北信州の道草図鑑」でネット検索して調べてみると、「狐の牡丹」という頁で画像と共に、この雑草(花)の説明が読めた。
「葉がボタンに似ているということで名付けられたそう」だが、牡丹なのか、釦なのか、このサイト主ならずとも悩むところである。
 説明を引用させてもらうと、「きつねのぼたん【狐の牡丹】:キンポウゲ科の越年草。道ばたや原野のやや湿地にごく普通の雑草で、有毒。長い柄のある根葉と短柄の茎葉とがあり、いずれも3裂。花は春から秋にかけて咲き、黄緑色5弁、多数の雌しべ・雄しべがある。果実にかぎ型のとげがあり、衣服などによく着く。漢名、毛コン。 広辞苑」だとか。
 この雑草に咲く花が牡丹(釦)に喩えたのだとして、狐(キツネ)というのは、何処から来たのだろう。
 ネットでは、「日金色狐のボタン蝶舞へり  角川源義」という句が見つかる(「藍生愛知句会報  からふね  第119回」より)。
 その評釈に、「雑草には狐を冠する名が多い」とある。そうなのか?!
 確かに、猫じゃらし(キンエノコロ)と呼ばれる雑草は英語ではFoxtail grassというらしいけれど…。

 が、その前に、「コンペイトウのような実が衣服にくっつくので、子どもの頃投げ合って遊んだ」という記述が楽しい。そういえば、そんな遊びをしたものだ。あるいは野原など遊んで回っていたら、小さな実が衣服についていることに、ふと、気づいたりしたのだったっけ。

 それにしても、「狐の牡丹」を織り込んだ句が上掲の一つしか見つからなかった。これも、雑草ゆえの寂しさということか。「野原など遊んで回っていたら、小さな実が衣服についていることに、ふと、気づいたり」する…、なんだか、身近にその人が居た時は、それとは気付かなかったけれど、会えなくなって、ふと、寂しくなっている自分を見つけ、もしかして、あれが恋だったのかと気づかされるようなもの…。

 疼く胸狐の牡丹の恋なのか

 さて、以下、昨年の夏の帰省に際して綴ったもの。雑草を巡っても、探れば実に奥が深いと思う。


 「雑草のこと」(04/08/17)

 事情があって、幾度となく帰省している。田舎では、父母らと会うのは勿論だけれど、時間があると、この頃するのは草むしり。ちょっと前までは、そんな仕事はしなかった。年にせいぜい三度ほど帰るだけだし、学生時代ならともかく、今は、一泊か二泊がやっと。ほとんどとんぼ返りの感覚なのである。
 また、田舎に滞在する時間が短いから、(母が元気で外出できた頃は)一緒にドライブしたり、親戚の者達が集まっての、一緒の食事に時間を掛けたりする。その他に時間が空けば、たまに帰る田舎の街を見ておきたいと、一人、散歩したり、車で各地を回ってみたりする。
 自宅で過ごす部屋には、母が花を生けてくれていたし、滞在のための準備をしてくれていた。普段、せっせとやっている家事は勿論だが、掃除も家の中の雑事も、小生がいる間は小休止というわけである。
 だから、父母が庭の手入れや草むしりなどをする姿を見ることは、ほとんどない。冬が近付けば、雪吊りだってするわけだし、庭木の世話も必要、まだあった田圃の面倒、畑の様子見、場合によっては実りがあれば、必要に応じ、ナスやキュウリ、タマネギ、ネギ、トウモロコシ、カボチャなどを食べる分だけもいだり切り取ってくる。
 小生がたまに田舎に帰って、しかし、一番、気がつけなければならない、しかし、つい見過ごしな部分というと、家の中の掃除や賄いはともかく、草むしりだろうか。雑草のことである。
 ほんの一年前までは田舎に帰っても、庭を歩いて雑草に気が付くことはあまりなかった。そう、(父は庭木の世話などをするので)母がこまめに雑草を刈り取っていたのだ。場合によっては、除草剤を父が散布したりもしていたようである。そんな舞台裏の、しかし日常的な苦労をあまり小生の前では見せていなかった。
 それとも、小生が余りに鈍感で、目に入らなかったというのが正確なのか。

 が、段々、父母が年老いてきて体の自由が利かなくなると、どうやら、姉が父母の家に来た際に、時間を作って草むしりなどをしていたようだった。昨年のいつだったか、姉が「草むしりしてくっちゃ」なんて言うものだから、呆気に取られたというか、なんだか小生への当てつけのように感じたりしたものだが、姉にしたら、毎度のことに過ぎなかったのだろう。
 そう、次第に姉が父母の労苦の肩代わりをしてくれていたのである。そんなことにも、気の及ばない小生だった。
 さてしかし、昨年の秋、お袋が原因が必ずしも定かでない神経性の不具合で倒れ、歩くことが侭ならなくなってからは、特に春先からは、我が家の庭は一気に緑が豊かになった。
 別に新たな植栽が増えたというわけでは毛頭ない。そう、雑草が延び放題になってしまったのである。
 デジカメで写真を撮ると、遠目には、緑豊かな、まさに緑滴るという表現を使いたくなるような風景を愛でられる…のだが、実際は、到底追いつかなくなった雑草の伸び方に我が家はお手上げ状態になったというわけである。
 父は、母の世話で目一杯である。姉も従来にも増して家のこと、父母のことを気遣ってくれているが、仕事のある身であり、土日ならともかく(客商売なので、土日も必ず休めるというわけではない)、週日を割くというのは難しい。
 とうとう、我が家は、まさに緑覆い被さる、悲惨な状態になりつつあったわけである。
 というわけで、さすがに鈍感で、のんびり屋の小生も、このところの帰省の際には、母の世話や家事などもあるが、時間がある限りは(実際には、情なくも、体力との相談なのだが)、草むしりをするというわけである。

 たまにしか働かない者の悲しさ、また、あまりに雑草が繁茂しているものだから、意図的に植えてある植物と雑草とが窮屈なほどに混在してしまっていて、毟り取っていいものなのか、遺しておくべきものなのか、花の咲かない時期だったりすると、判別が付かず、まあ、貧相そうな草、無秩序な風に生えている草を抜き取っていこうとするしかない。
 が、中には、花なのか雑草なのか、どうにも分からないものもある。
 あるいは、雑草だとはっきり分かるのだけれど、しかし、見れば見るほど可憐だったりして、何故、これが雑草であり、こちらの(今は花の咲いていない)草を人の愛でる植物だとして区別(差別?)するのか、理解できなかったりする。
 田舎にいる時、「雑草と花とを分ける人のエゴ」なんて駄句をひねったが、偏屈な小生は、このまま雑草の生い茂るがままにして、人の通る道筋だけ、毟ることにすればいいと思ったりする。
 そんな、自棄な思いを背景に掌編を作ってみたこともある:
草 む し り

 雑草には、大概が名前を付ける際に外見のみすぼらしさに辟易したのか、あるいはやけになって付けたのではないかと邪推したくなるような、哀れな形容や印象がそのまま名前になったような植物名が多い。
 雑草の名前については、既に紹介したが、ここに再度、紹介しておこう(無論、画像も見れる):
雑草

 ちなみに、その一部を羅列しておくと……

猪の子槌(いのこづち)大葈耳(おおおなもみ)大葉子(おおばこ)寒菅(かんすげ)羊蹄(ぎしぎし)金狗児(きん
えのころ)背高泡立草(せいたかあわだちそう)種漬花(たねつけばな)父子草擬(ちちこぐさもどき)毒痛み(どくだみ)猫じゃらし(キンエノコロ) 鼠麦(ねずみむぎ)掃溜菊(はきだめぎく)繁縷(はこべ)母子草(ははこぐさ)姫踊子草(ひめおど
りこそう)屁糞蔓(へくそかずら)箆大葉子(へらおおばこ)仏の座(ほとけのざ)耳菜草(みみなぐさ)薮枯らし(やぶがらし)

 尤も、何処か可憐でもあるような名前の雑草もあるし、人の好みによっては花に分類する人がいるに違いないと思わせる草もある。それにしても、屁糞蔓(へくそかずら)や掃溜菊(はきだめぎく)は、あまりと言えばあまりのような気がする。

 蚊に思いっきり刺されながら草むしりしていて、ふと疑問に思ったのは、雑草と花との区別の根拠は何処にということもあったが、例えば生きとし生ける全てを命と思い、大切に思うはずの仏教において、雑草と花との区別をどう考えているか、だった。
 京都のお寺を見ると、その掃き清められた境内の素晴らしさが印象的である。特に庭の風情は、得も言えぬものがある。苔むした築山に瀟洒にあるいは清々しく木々が立っている。美的感覚の粋(の一つ)がそこにある。あるいは、日本人の美的感覚の規範(の一つ)が京都や奈良などにある有名な寺社の庭や建物などの在りようなのではなかろうか。
 あれだけ綺麗な庭を保つには、並並ならぬ日常的な世話が為されているのだろう。お寺によっては、若いお坊さんの修行で朝早くなどに庭などの手入れをするのだろうし、お寺によっては専門業者に任せているところもあるのかもしれない。

 さて、人間のみならず動植物の全てを尊しと為すはずの仏教において、雑草とは如何なる存在と考えられているのだろうか。これは花、これは雑草と区別する根拠があるのだろうか。それとも、アプリオリにはこれは花、これは雑草という種類分けなどはなく、意図的に植えられたものが残され世話されるのであり、綺麗であっても、計算外のものは雑草として、人目につかない明け方などに刈り取られていくということなのだろうか。
 苔さえも、風情の一点景として利用されるところを見ると、雑草と世間で呼称されるものであっても、場合によっては美的な感覚のもと、庭の風景を為すものとして塩梅されるというわけなのだろうか。
「雑草 寺」をキーワードにネット検索してみると、ヒットしたサイトの上位に、例えば下記のサイトが現れた。
 表題には、「お墓に雑草が生えない土「浄土」」とある…。
「墓地霊園の雑草対策に「浄土」」と銘打っている。
「墓地、霊園に雑草が生えるのを抑える土です。(除草剤等の薬品は含有していないので安心です)」であり、「「浄土」で、美しく墓地、霊園の維持管理が出来ます!草取りで大変だったお墓参りが快適になります。」という。
 以下、「雑草が生えません。玉砂利の下地にも最適です」などと長所が縷縷(るる)、強調されてる。なるほど、墓地や霊園にこんな土が使われていたら、雑草の問題など初めから生じないわけだ。なんて賢いんだろう。
 他にも類似するサイトとして下記のサイトが上位に現れた:
RC工法/国道8号線・緑地帯雑草抑制
「雑草の抑制として」「特殊加工した樹皮繊維(RC抗菌性樹皮繊維)」「石こうと砂れきの粉末」「竹炭の粉末」など、「RC工法を含め3種類が施工され」たのだという。
 この記事では試験段階のようだが、これがうまくいけば、将来的には「路肩や中央分離帯の雑草刈りのために交通規制」されていたものが、不要になるし、美観も損なわれないし、いい事尽くめのようなのである。
 場合によっては、都会のみならず、市街地、宅地の全てがコンクリートジャングルとなってしまったように、将来は、天然の土など見当たらなくなり、地面と言えば、雑草の全てがシャットアウトされた「浄土」と化すのかもしれない。
 とにかく、見かけでは天然か人工なのか分からないのだから、文句の付けようがない。
 つまりは、雑草は、徹底して忌避され、数えるほどの種類の<花>や<木>、盆栽、生け花の類いのみが、温室栽培さながら、人間の指定した区画に整然と育てられ並んでいくというわけだ。
 悲しいけれど、天然自然のものは次第に排除される傾向にある(運命にある、と書こうとしたが、傾向に変えた)。多くの自然愛好家の言う自然とは、ヒルもいなければ、ダニも蜘蛛も白蟻もいない、人間に害する虫のない、せいぜい小鳥が囀り、夏には蝉が鳴き、リスかウサギがひょいと顔を出すような、小奇麗な、刈り込まれた、庭園のような<自然>なのである。
 そうした身勝手というか我が侭な傾向は強まることはあっても、抑制されることがあるとは、悲しいことにありえそうにない。
 理論的には、種の保全もあるし、天然の動植物にどんな医薬品の種になるような宝が秘蔵されているか分からない、などとして、天然の自然の保全が訴えられているのだが。
 つまり、頭では、雑草を邪険にしてはいけないと誰しもが思っている。
 けれど、現実に雑草の繁茂という脅威に曝されると、花と雑草を何故差別するのかなんて、そんな悠長な問いに耳を貸す余裕などなくなってしまう。
 雑草のことを思うだけでも、なかなか悩ましいものがあるのだ。

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