柳絮:植物状態の<人間>
とらへたる柳絮を風に戻しけり 稲畑汀子
「2005年03月 [月別記事]-学習院大学田中靖政ゼミ0B・OG会/深秋会」によると、春の季語である「柳絮(りゅうじょ)は、柳の綿という意味です。ヤナギには枝が上に立つ楊と、垂れ下がる柳があり、日本のものは主に柳の方」だとか。
柳の綿が、なんとなく、脳の神経細胞を連想させる…というわけでもないが、今日の話題は、脳のこと、尊厳死のことに関わるもの。
「米フロリダ州で15年にわたって植物状態にあるテリー・シャイボさん(41)の尊厳死をめぐり、米連邦最高裁は24日、テリーさんの栄養補給を再開するよう求めた両親の訴えを退けた。尊厳死の阻止を実現する有効な法的手段は、ほぼなくなった」こと(「asahi.com」より)は、テレビ・ラジオなどの報道で夙に伝えられ、日本でも話題になっていたようである。
そして、3月18日に生命維持用の栄養チューブが取り外されてから14日目の31日午前10時前(日本時間1日 午前0時)、収容先のフロリダ州ピネラスパークのホスピスで死亡したことは、日本ではやや静かなトーンで伝えられていたような気がする。
一体、この事例がこれほどにまで話題になり、ブッシュ大統領の弟である フロリダのジェブ・ブッシュ知事による行政介入、さらにはジョージ・ブッシュ大統領が差し止め令に署名といった事態にまで至ったのは何故なのだろうか。アメリカに限らず、植物人間状態に陥っている人、生命維持装置に頼って辛うじて延命されている人は、何万、何十万といるというのに。
明らかに、植物状態となった人間の延命をどう考えるかという一般論で議論が沸騰したわけではなさそうだ。
テレビやラジオではあまり事情が分からないので、ネットで調べてみると、案の定というか、人間ドラマが複雑に絡まって泥沼状態だったことが分かってきた。
ネットでざっと探してみた限り、比較的丁寧に背景事情などが示されているのは、下記のサイトのようだった:
「CUBE New York Catch of the Week by Yoko Akiyama」の中の、「Mar. 21 ~ Mar. 27 2005 Life Or Death Battle 」
このサイトによると、テリー・シャイボさんの医学的見地からの見立ては、次のとおりである。
つまり、「今日、27日日曜日付けのニューヨーク・ポストには、テリー・シャイボに装着されていた栄養補給の管を考案したジェフリー・ポンスキー、マイケル・ゴーダラーという2人の医師のコメントが掲載されていたけれど、それによれば、栄養補給の管は1979年より医療現場での使用が始まったもので、現在では年間25万件のケースでこの管が使用されているという。管が装着されるのは、その殆どが、回復の見込みがない患者に対してで、ゴーダラー医師によれば、今回のテリー・シャイボの管については、「家族で話し合って決めるべきレベルの問題であり、決して行政が介入するような問題ではない」ときっぱりコメントする」というのである。
となると、「私だけでなく 今週、この件について私が話をした多くの人々が感じていたのが、「どうしてテリー・シャイボのケースだけが、こんなに特別に扱われるのか?」という点」が誰しも疑問に思う。
詳しい事情は上掲のサイトを見て欲しいが、「そんな中1994年、マイケル・シャイボは医師のアドバイスから自分の妻に回復の見込みがないことを悟ったと言われるが、彼が「自分の妻は生命維持装置で命を永らえることは望んでいなかった」ことを明らかにしたのは1997年のこと。当時彼は賠償金の全額を受け取った直後で、しかも現在のマイケルのガールフレンドで、彼との間に2人の子供を儲けているジョディ・セントンズとの交際を始めたばかりという時期で、このタイミングに疑いを抱いたシンドラー・ファミリーは 猛反発を見せることになった」のであり、1998年には、「尊厳死を巡る裁判がスタートした」のだった。
このサイト主の秋山曜子氏は、この頁で、「現在アメリカでは、自分がテリー・シャイボの立場になった場合に備えてのリヴィング・ウィル、すなわち人工的な延命よりも自然死を選ぶという遺言の 準備する人々が急増していることが伝えられている」など、丁寧なフォロー記事を書いておられる。
「従来リヴィング・ウィルを作成するのは70歳を過ぎた人々が多いのに対して、今週は40代、30代という若い世代からの問い合わせも寄せられているとのことで、テリー・シャイボが致命的な脳の損傷を受けた年齢が26歳であったという事実が、若い世代にも、リヴィング・ウィルを作成させるきっかけとなっているようである」とも。
「かく言う私も、もしテリー・シャイボと同じ立場になったら、絶対管を抜いて欲しいと希望するし、今週 私が同件について話した人々も皆、声を揃えて同様の意見であったけれど、私が個人的にこう考えるのは、「植物人間として生きていても仕方がない」というよりは、自分の肉体的な機能ではなく、機械がによって生命が保たれている状態が、不自然かつ、ある種 強制的な行為と受け取れるからである」という点に、賛同される方も多いのでは。
秋山曜子氏の意見でなるほどと思ったのは、特に最後の着眼点だった。
つまり、「ポタシウム欠乏症になるような無理なダイエットをしてまで、ルックスに気を使っていたテリー・シャイボは、脳に損傷を受ける前の写真を見る限り なかなかの美人であったけれど、そんな彼女の口を半開きにした植物状態の姿が、よりによって家族によってメディアに公開されたというのは、嘆かわしいと同時に、テリー本人にとって極めて気の毒に思えるもので、彼女の家族は、尊厳死以前に、人間の尊厳そのものさえも認めていないように見受けられるのが率直な感想である」というのだ。
以下では、3年前に植物状態に陥った人間について触れた拙稿を掲げるが、もとより、専門家でもない小生に知恵ある考えもあるはずがない。というより、小生には判断が付けかねる。
この切羽詰った重苦しい判断を迫られる問題に比して、ちょっとピントのずれた文章で気が引けるが、考える材料になればそれでいいのだと思っている:
「植物人間ということ」(02/06/03)
植物人間、それとも医学的には植物状態(vegetative state)。
事典(NIPPONICA 2001)によると、「正常な生活をしていた人が、なんらかの脳損傷によって、自力で動くことができない、自力で食事をとることができない、尿失禁状態となる、目で目的物を追うが認識できない、簡単な命令にはやっと応ずるが、それ以上の意思の疎通はない、声は出るが意味のあることばはいえないなどの状態が、どのような治療によっても改善することなく、3か月以上も続く場合と定義されている。(略)最近の医療の進歩・発展につれて、このような患者でも長く生存させることができ、いわゆる植物人間とよばれる状態で生命の延長が可能」となった。
「しかし、人間としての意思、尊厳にかかわる問題として、あるいは家庭的、経済的に重大な負担を家族に与える点などの面から、医学的のみならず社会学的にも大きな問題を提示している」とある。
ここでは、人間的尊厳の面に焦点を合わせて、少し考えてみたい。
そもそも植物状態ということは、いわゆる動物状態が不能になったということに他ならない。仮に解剖学者の故・三木成夫風に人間の肉体の成り立ちを考えると、(微生物の段階は脇に置く)栄養や生殖に携わる植物性器官と、感覚―運動にかかわる動物性器官に大別できる。
植物性器官とは、吸収(消化・呼吸)系、循環(血液・血脈)系、排出(泌尿-生殖)系である。
動物性器官とは、受容(感覚)系、伝達(神経)系、実施(運動)系である。
単純に言えば、植物段階をベースに動物段階が発達し、やがて人間に至って、神経の極限である脳が、すべてをコントロールせんと試みるわけである。養老孟司氏の言う唯脳化が極端になったのが現代人だということだ。
その前段として、三木氏は、植物性器官への動物性器官の介入がこころ(心情)の発達をうながしたと考える。その段階では、まだ内臓など腸(はらわた)への共感が見られるわけだ。昔、こころが何処にあるかというと胸(心臓の辺り)を指したのも、無理からぬというか、それはそれで自然なことだったのだ。
しかし、上述したように、やがて動物性器官の横暴というか専横が始まる。脳の専制が始まるわけだ。脳は知能と呼ばれるように精神的活動の座であることは間違いないのかもしれない。が、しかし、腸(内臓)や免疫系の働きを支配しているわけではない。あくまで壁を隔てた間接的な形での調子や具合が脳に届くだけだ。
けれど、唯脳化の進む我々は、脳による全ての支配を目指してしまうのである。あらゆる肉体という脳にとって一番近い自然である、本来は支配の対象というより脳を支える土台であり支配など論外である肉体をも完璧に理解し支配しようとする。そこに悲劇がある。
なるほど自分の意志で体を鍛えることはできる。生活のリズムをキチンと保ち、食事に気をつけることもできる。が、所詮は間接的な形での支援の域を超えられるはずもない。
肉体やこころへのストレスを直接滅却することも緩和することも、できるわけもない。脳(精神)を至上とする人間には、イライラが募るばかりだろう。
さて、植物人間(状態)というのは、多くは動物的器官ないしは、動物的器官と絡み合った筋肉や神経などがヤラレてしまうことである。脳も相当に損傷を受けている。脳死には至らないとしても。
精神という高度に脳の機能の象徴である働きは、脳に損傷を受けることで、機能不全に陥ってしまう。
しかし、植物状態にある場合、こころ(心情)までが完全に消滅してしまっているわけではない。つまり、臓器を含む肉体も、また、大脳はともかく、脳の幹部の機能までが喪失しているわけではないので、意識(但し、心情的な意識)は残存していると考えられる。
心情的な段階のこころの動きというのは精神より原始的であるかのような説明をしている。しかし、念のために言っておくと、むしろ、だからこそ、心情という曖昧なこころの動き・揺らぎというのは、肉体を含む自然に精神より近いのだということでもあるという点を忘れてはいけない。
腸(はらわた)の働き具合という、大脳には抽象的な、しかし肉体には切実な現実も、大脳には明確なシグナルとして届かないというだけで、実際には一つの現実として存在を続けているわけである。
また、体の表面からの情報も、神経を介して大脳には届かない(大脳で情報処理ができない)としても、シグナルの脈動自体が消え去るわけではない。ある種の振動ないし電気的な脈拍として、体内を巡るわけである。やがてフェイド・アウトしていくのだろうけど。
人間が人間として尊厳を保つとは、一体、どういうことなのだろうか。精神活動に尽きるのだろうか。大脳が損傷を受けて高度に知的な活動ができないこと、すなわち、人間ではなくなるということなのか。
それでは、ベッドに寝たきりで、外界との(親族や見舞い客との)交流ができないとして、また食事も排泄も自力でできないとして、傍から見て気の毒としか思えない状態にある方というのは、もう、人間ではないということなのか。植物状態にある人間は、人でなしということなのか。
恐らくは、今は技術的に可能でないとしても、脳の奥の部分で、肉体の各部からのシグナルを受けて、心情の波は立ち騒いでいることが、将来は分かるのではなかろうか。心情の揺らぎ、悲しみ、憂愁の念、深い生きていることへの共感の念が、脳の暗い闇の底を潜って行くことで、やがて気付くことになるのではないか。
そうして植物状態にあって、人間としての尊厳はどうやって保つことができるのだろうか。そもそも保つことが可能なのだろうか。情のゆらめきがあるというだけで、人間的と言っていいのだろうか。
他人(外界)との交流の可能性がない中で、孤独の闇に惑い、苦しむ一方であるということはないのだろうか。大脳(精神)によらない人間的尊厳の可能性を見つけること。植物に共感する心情。反省的意識のない、共感だけが漂う孤独な宇宙で人間は気が狂わないで居られるものなのか。
小生には、分からないことばかりである。
最後に参考に、「死ねない脳とクローン牛肉を食べること」という一文を紹介しておく。
(転記終わり)
[「最新医療技術 共同通信社 見直される心臓縮小手術」によると、「移植でしか助からない重い心筋症患者の心臓を切り縮め、心機能を改善する左室形成手術。臓器提供の不足が続くにもかかわらず、日本でも世界でも、思うほど普及していなかった。しかし、日本での地道な改良の結果、成績も向上し、世界の注目を集め始めた」という。
但し、「国内でも京大病院が多くの症例を重ねる。ただ根治手術ではない。「手の尽くしようのない重症の心不全を、薬でコントロールできる心不全まで持っていくということ」と堀井医長は強調する」とか。
小生は、脳死による臓器移植を将来の技術開発までの当座の代替方法だと考えている。脳死という判定には曖昧な余地が相当程度に疑義がありそうだからだ。その新規の技術が、こうした画期的な手術方法の開発なのか、小型化され改良された人工心肺装置なのかは分からないが。 (05/04/13 追記) ]
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コメント
お久し振りです。
「東風吹かば」ですか…。
春を待ちわびる気持ちがみなさんお強いのでしょうか?
YAHOOで検索してみました。
1番最初に検索されたのが、貴ブログでした。
投稿: 風花 | 2005/04/05 22:47
風花さん、こんにちは!
「風花」もとても人気のある言葉ですね。同じ題名のブログサイトもあったりする。
「東風吹かば」も相変わらず多いのですが、最近、「ポインセチア」で検索される方も何故か多い。
珍しいのは「ブラフマーは、ヴィシュヌやシヴァと比べると非常に抽象的な神である」で検索される方が居たらしいこと。物好きですよね…って、小生も書いているから人のことは言えないけど。
投稿: やいっち | 2005/04/06 18:33
あらら。。長々と書いたら蹴られてしまった(^^ゞもう1度手短に書きます(苦笑)
一つは、アメリカの件は色々問題があったようですが、介護の苦労は無視できないと思います。
次に、本人の尊厳の尊重については、15年間彼女が生きていたと考えるなら、15年後の彼女の姿を隠す必要はないですよね。本人の事を思い遣る話合いが出来なかった事が、尊厳を傷つけた行為ではないでしょうか。例え植物状態でなくても当てはまりませんか。
ん~分かり難い書き方ですいません。また機会があれば。。
投稿: ちゃり | 2005/04/06 23:48
ちゃりさん、コメント、ありがとう。
あらら、蹴られちゃいましたか。痛かったでしょうね。ごめんね。
時間を見ると、「11:48 PM」ですね。夜半前(後)は一番、混む時間帯なのでしょうか。
小生、この時間帯には基本的に書かないようにしている。ネット検索しても、画面の切り替えが遅いから(これは、あくまで小生のACSLの都合に過ぎないかもしれないけど)。
本人を思いやる話し合い。これが実はできるようで、できない場合が多いのかも。利害と誤解が絡んで、意思表示を出来ない当人とは懸け離れたところで諍いが生じている。それぞれが自分が当事者を理解していると思い込んでいるのでしょうし。
当事者が意思表示できない悲しさをもっと思い至るべきなのでしょうね。
そういった入り組んだ状況にならないためには、意志を明確に表明できるうちに、きちんと書面などで、こういった状態だったら、こうして欲しいという本人の意思を残した方がいいのかも。
それが、当事者の周囲への思いやりなのかもしれないですね。
投稿: 弥一 | 2005/04/07 01:38