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2005/04/18

人丸忌…言の葉

 表題の「人丸忌」ということで本日の季語随筆をほぼ書き終えていたのだが、「Windows」の例外何とかで、画面がダウンしてしまった。二時間以上もかけて書いた文書が消滅してしまった。ショックである。
 ちょっと、やり直す気力も時間もないので、以下、過日、アップさせると告げていた拙稿を掲げる。
「人丸忌」を採り上げたからといって、文書まで「忌」とは実に実にショックである。どうして、「Windows」はこういうトラブルが多いのだろう。
「人丸忌」は、春四月の季語だが、柿本人麻呂の生没年などは不明のはずである。なのに、どうして「人麿忌」は「旧暦三月十八日」ということになっているのだろうか。
山邊赤人とならんで歌聖と崇められる柿本人麿の忌である。その没年については諸説があつて確とはわからないのであるが、陰暦三月十八日とせられ、播州明石の柿本神社(俗に人丸神社といふ)では、四月十八日に人丸祭を行つてゐる。神輿の渡御などあつて相当に賑はふ」という(「三省堂 「新歳時記」 虚子編」から)。
 柿本人麻呂にはあれこれ謎が多い。その辺りのことを書き綴ったのだが、全て雲散霧消してしまった。
柿本人麻呂(柿本人麿) 千人万首 注釈無し」で人麻呂の歌の全貌を伺うことができる。このサイトには、「略伝」も付されている。
 あるいは、小生が勝手に贔屓にしている「たのしい万葉集」の中の「万葉集 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」という頁を覗いてみるのも楽しいかも。

 消滅してしまった文書で扱ったのは、過日読了した岡野 弘彦著『折口信夫伝―その思想と学問』(中央公論新社)のほぼ冒頭に柿本人麻呂の歌について、折口信夫の評価・鑑賞が見出されたのだが、その内容にショックを受けたこと、そして折口信夫がどのような理解を示しているかに触れたのだった。
 後日、図書館から借り出して、再度、触れておきたいものである。

 以下、拙稿を載せる前に、どのような謎があるのか、「白川静『初期万葉論』/『後期万葉論』」から、当該部分を転記しておく:

 何が柿本をかのように謎めかせているのか。
 上掲のサイトで柿本の歌をどれでも詠まれる(朗詠される)と感じるだろうが、何か言霊という言葉をつい使いたくなってしまうのである。
 それは、彼が未だ本邦において、言葉で自国の文化や世界を表現する方法や規範が確立されていない中で、彼(ないしは彼の柿本衆と呼ばれる一群の人々)が中国の『詩経』や、それ以後の文学を学び吸収して独自の言語表現世界を構築しようと、想像を絶する努力を傾注したのだろうし、また柿本人麻呂という空前絶後の天才があったればこそ、それも可能だったのだろう。
 それまでの本邦に話し言葉はあったに違いない。あるいは記録などのため、中国語(や朝鮮語)に頼る表記も断片的には(そして散発的には)あったのに違いない。しかし、中国文化の既に数千年に渡る文化の蓄積の前には、独自の表記も美意識も表現する見込みなど考えられなかったのではないかと思う。
 実際、本書(『初期万葉論』)の中でも、『詩経』などに始まる漢文や漢詩の一千年の文化世界を、天武天皇の下、一気に吸収し消化し、しかも本邦独自の世界に咀嚼せんとした苦労が語られている。
 その中で、柿本人麻呂が、一際燦然とした輝きを放って屹立しているのだ。歌や詩に素養も感性もない小生でも感じざるを得ないほどに凄みを感じさせるものがある。
 柿本人麻呂が表現した世界と類似したような表現方法は、山部赤人を始め、多くの歌人が採っているし、それなりに表現もされている。柿本が構築した長歌も、以後の長歌は長歌にあらずなのである。長歌は人麻呂の死と共に死んだのだ。
 柿本の歌世界は、モノそのものが立つような、表現だと白川は言う。つまり、叙景であれ抒情であれ、そのように解釈されがちな場合でも、柿本の歌は、まさに古代的であり呪術的であると白川は言うのである。
 その挽歌に代表される柿本世界が、人麻呂の死後、僅か二十数年の間に憶良や家持らのような相聞的な叙情性に一気に傾斜していく。これ以後の歌は、まさに、いかにも『古今集』や『新古今集』に繋がっていきそうな、虚構性や叙情性のある叙景的世界に変貌・変質していくのだ。
 それはまた、天武天皇が壬申の乱を制して、律令制を導入しようとし、やがて律令制が確立していくことと平行しているかのような、歌世界の変貌でもあるようだ。
 挽歌は人麻呂と共に死んだのである。
                             (転記終わり)

「「言の葉」徒然( 04/06/27)」

 小生の古典というと、『万葉集』(や『古事記』など)に止まっている。追々、『古今和歌集』や、『新古今和歌集』などに巡っていきたいと思いつつ、『万葉集』の強力な引力圏を脱出できそうな見込みがまるで立たない。
 そうはいっても、『古今和歌集』に全く触れずにいるわけにもいかない。そこで、今日、たまたま「言の葉」という言葉を思い起こしたこともあり、せめて、その序だけでも覗いてみたい。
 この「言の葉」という言葉が、一体、いつの頃から使われるようになったのか、小生は知らない。小生の勝手な感覚だと、少なくとも『万葉集』の言葉の世界とは縁が薄いような気がする。
 そこで、せっかくなので、「言の葉」について調べてみたいと思った。『古今和歌集』というのは、最初の勅撰和歌集であり、和歌への意欲の高まった時期、醍醐天皇により、「延喜5年(905)4月18日、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人に撰進の勅命が下された」という。
『古今和歌集』の「序」をこのサイトから引用させてもらう:

 やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげき物なれば、心に思ふ事を見る物きく物につけていひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
                        (転記終わり)

 このあとさらに、「この歌天地の開け始まりける時より出できにけり。しかあれども世に傳はることは、久方のあめにしては、下照姫に始まり、あらがねのつちにしては、すさのをの尊よりぞおこりける。ちはやぶる神代には、歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わきがたかりけらし」云々と続く。
 できることなら、この「序」の全文を転記したいものだが、そうもいかないだろう。まあ、上掲のサイト(に限らず)にて心置きなく読めるので、敢えてそうする必要もない。
 ただ、「序」の終わりのほうだけは、敢えて転記したい。そこには、「それまくら言葉は春の花にほひすくなくして、むなしき名のみ秋の夜の長きをかこてれば、かつは人のみゝにおそり、かつは歌の心にはぢ思へど、たなびく雲のたちゐ、なく鹿のおきふしは、貫之らがこの世におなじくうまれて、この事の時にあへるをなむよろこびぬる」とした上で、「人麿なくなりにたれど、歌のこととゞまれるかな」とあるのが、目を惹く。
『古今和歌集』は、「紀友則が死んでのちは、いとこの紀貫之が中心になって編纂した」と言われているようだが、その紀貫之は、当然のことながら、人麿を強烈に意識している。『万葉集』を編纂したと言われ、実際、多くの歌の入っている大伴家持ではなく。
 そこには、人麻呂がその呪術的とさえ思えるような表現力で、想像を絶する試行錯誤の果てに、多少は無骨であっても、峨々たる言葉の山塊を築き上げたのだという認識があるのだろう。人麻呂の長歌は、その雄勁さに人間業を越えるような鬼気迫るものをさえ感じたりする。
 未踏の闇の世界に、とにかく舗装はされないまでも道を切り拓いたのである。その先を行かんとする紀貫之(ら)が洗練の道を究める以外にないのも、無理はない。
 ところで、その『万葉集』だが、表題に「葉」が出てくる。
 一体、この表題はいつからこのような形で使われていたのだろう。先に示した『古今和歌集』の「序」には、人麻呂の名前は現れても、『万葉集』という表題は出てこない。
 そもそも古来より、『万葉集』と呼称されたのかどうかも、小生は知らない。それにしても、一体、誰がこのような表題を付したのだろうか。あるいは、この表題の謂れは何なのか。このサイトを参照させてもらう。
「実は、「万葉」の名の意義には、諸説があり、代表的なものをあげる」として、以下の5つの説が示されている:

1.万の言の葉の意味とする説。つまり多くの歌を集めたという考え。
2.万世の意味とする説。万世まで伝わる歌集の意味。
3.万の葉、つまり多くの紙数の集とする説。
4.葉は木の葉で、これを歌に譬え、多くの歌を集めたという説。
5.「万葉」が多数の形容詞、「集」が詩文を集めたものとする説。

「万葉集」の表題の謂れにしても諸説がある。また、成立年代にしても、諸説紛紛なら、本当に古来より「万葉集」と呼称されたのかも、分からない。
 ただ、先に『古今和歌集』の「序」の一部を転記したが、その中の冒頭の記述「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」の中の、「よろづの言の葉」は、小生ならずとも、「万葉集」という表題を意識していると思うのが筋なのだろう。
 そう、直接にはこの書物に言及することは、『古今和歌集』が編纂された時代にあっては、憚られるものがあったのだろう。しかし、人麿という名前は口に出すことが許されていたようだ。その人麿というと、言うまでもなく「よろづの言の葉」の祖に当る人なのだというわけである。
 それとも、この「序」での遠回しの言及である「よろづの言の葉」が、宮中などにおいてその直接、名指しすることが憚られる書を指し示す名称となり、やがて後の世にその書の書名として「よろづの言の葉」つまり、「万葉集」と呼び習わされるようになったというのが、順序なのか。
 真相など、小生には分からない。
 ただ、いずれにしろ、和歌に限らず日本語表現において、「言の葉」という発想が、美意識を含め、多くの表現者たちの意識の根底に染み込んでいるということは言えるのだろう。
『万葉集』が、その名称で呼称されることで、「よろづの言の葉」の書という、その書の印象が強烈に方向付けられてきただろうということは、もっと認識されてしかるべきなのではないかと小生は思う。


「「言の葉」徒然(続)(04/06/28)」

「よろづの言の葉」という言い回しに、いかにも古今集的というか、かなり日本の土壌に溶け込んできた感じを小生は覚えてしまう。
 例えば、「未だ本邦において、言葉で自国の文化や世界を表現する方法や規範が確立されていない中で、彼(ないしは彼の柿本衆と呼ばれる一群の人々)が中国の『詩経』や、それ以後の文学を学び吸収して独自の言語表現世界を構築しようと、想像を絶する努力を傾注したのだろうし、また柿本人麻呂という空前絶後の天才があったればこそ、それも可能だったのだろう
「言霊の幸はふ国」という表現が『万葉集』に見受けられる(山上憶良)。あるいは「言霊の助くる国」という人麻呂の表現もある。さらに、人麻呂の歌には、「神ながら言挙げせぬ国」という表現もある。
 人麻呂は、その当時の<日本語>をそのような言霊的なものとして受け止めていたということなのか。
 しかしながら、こうした神秘性を殊更強調するような表現・姿勢というのは、えてして眉唾なものと思われたりする。霊とか魂とか(根性とか、まして大和魂とか)を持ち出すときは、ある意味、その人(や集団、クニ)が悲鳴を上げているようなものだと思ったほうがいいと推測する。
 人麻呂が活躍した当時、日本は国家作りに懸命だった。中国などに比べ、まだ、国の体(てい)を為していなかった。律令国家として中国どころか朝鮮からも独立しようと必死だった。
 が、法制度は、換骨奪胎しながらも、形ばかりでも輸入できるが、さて、文化や思想・風俗を表現する表記の言葉となると、簡単にはいかない。どうしても、漢語(中国の言葉、それも、朝鮮の文化人を媒介して)を使うしかすべがない。なにしろ、土着の言葉はあったとしても、それは話し言葉ではあっても、表記としては現実には存在していなかったのだ。
 だから、律令制度の整備と並行して、懸命に和語の創造に励むしかなかっただろうと推察される。漢語を使いつつ、和語であるような独自の表現世界の構築。ほとんど不可能なような難行を人麻呂らは果たした、果たすべく命じられたのだろう。
「言霊の幸はふ国」という表現、あるいは「神ながら言挙げせぬ国」という表現には、当時にあっての漢語を駆使しての日本の言語表現の構築に際し、中国などの言語表現への劣等感のようなものを小生は感じてしまう。もっと言うと、大陸文化への畏敬、さらに言うと大陸文化に睥睨され、併呑されてしまうのではという怯えをも感じてしまう。ほとんど、悲鳴に近いような気がする。
 だからこそ、霊とか魂とか神とかを殊更に強調するしかなかったのだと思う。日常的な話し言葉はあっても、記述する表現において、そもそも全く歴史も伝統もないのでは、遣隋使(や遣唐使)を派遣するにしても、当時の役人たち、為政者たちは付け焼刃の教養しかなく、戦々恐々だったのではなかろうか。
『万葉集』という題名が古来よりあったのかどうか、小生には分からないが、民間というか土俗的な表現のありったけを、それこそ「よろづの言の葉」を掻き集めて、我が国にはこれだけの文化の厚み、言語表現の豊穣さがあるのだと、古代において(原『万葉集』の形で)示そうと必死の、涙ぐましい営みが為されたのだろうと思われる。
 量(歴史と伝統)において(実は質においてもなのだが、さすがにそうは言えない、認められなかったろう)圧倒される中、せめて、質に於いて霊の篭る言葉を使う国だと、主張するのがやっとの段階だったのだろう。
 明治維新前後において、欧米の文化の流入が怒涛の如く日本を席捲したよりも、はるかに凄まじい文化の洪水が当時の日本の為政者を脅かしていたに違いないと思う。なにしろ、国家存亡の危機どころか、そもそも国家が成るかどうかの瀬戸際だったのだ。
 が、それでも、律令制度も徐々に整い、正史である『日本書紀』も編纂された段階で、『万葉集』も『古事記』も、歴史の闇に葬られることになった。そんな、今にも溺れそうな、懸命で必死な姿など、(海外の、つまり中国や朝鮮半島の)誰からも見られたくないし、自分たちでも、一時期の熱過ぎる、若さと未熟さに満ち満ちた姿が露骨過ぎる文献など、知らぬ存ぜぬで通すしかなかったのだろう。
 やがて、『古今和歌集』の時代を経て、日本の表記の上での言語表現が確立され、それなりの文化の厚みが蓄積され、国家として政治的にも文化的にも中国や朝鮮から完全に独立した地歩を確立すると、余裕も生まれ、改めて、秘本だった『万葉集』や『古事記』にも次第に表立って言及するようになる。
 さらに、江戸時代の半ば以降、改めて海外(南蛮)の圧力をひしひしと感じる中で、今度は、正史である『日本書記』より『万葉集』や『古事記』のほうが、日本の独自性が示されていると解釈され、重んじられるようになる。
 歴史の皮肉ということなのか。

[ 『古事記』については、「三浦佑之・現代語訳『口語訳 古事記』」や「白川静『初期万葉論』/『後期万葉論』」などを参照願いたい。(05/04/19 追記) ]

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コメント

本当にトラブル多いですねえ、困ってます

投稿: ららら | 2005/04/18 21:59

 そう、トラブルの種が多くて困ります。
「潮」もその一つなのかな。

投稿: やいっち | 2005/04/19 16:32

人麻呂はすめら聖武の平城宮(ならのみや)隠岐の加茂山「咎なくて死す」  銀河 秋彩

「柿本人麻呂」は、【書きの基の 一麻呂→朱鳥元号時の「官房長官」の名乗り】。
家持の言う「山柿の門」とは、【人麻呂&赤人&憶良】の時代別同一人物を指す。
「聖武天皇」……西暦660年生まれ~759年没(終焉地は隠岐島西郷町加茂山歌木)。

鴨山の岩根し枕ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ  人麻呂(巻2・223)
  和(こた)ふる歌
荒海にたゆたふ銀河待ちにけり隠岐に入り日の秋の夕暮れ  銀河 秋彩

『古今和歌集』序の、古よりかく傳はるうちにも、●奈良の御時よりぞひろまりにける。
かの御世【平城宮=聖武天皇・「右平城宮御宇  中太上天皇御書」
……『国家珍宝帳(東大寺献物帳)』末尾近くに在り。】

  共通語句【降る雪の】を使用した、次代の藤原北家王朝(雪)の祖・房前を寿ぐ歌(冬相聞)
新しき年の始めの初春の今日【降る雪の】いやしけ寿詞(よごと) 万葉集最終歌
   守大伴宿禰家持【(借名の)聖武天皇】作る。
   藤皇后、(聖武)天皇に奉る御歌一首
わが背子【聖武天皇】とふたり見ませば幾ばくかこの【降る雪の】嬉しくあらまし (巻8・1662)
【諷喩訳】
貴方(聖武天皇)と二人で「降る雪の」……【次代の藤原(北家)王朝を】見られないので、寂しいわ。

わが国の基(もとい)行ひし塵泥(ちりひぢ)を聖武(すめら)とぞ知る歌聖とぞ知る  銀河 秋彩

投稿: 銀河 秋彩 | 2008/02/13 12:03

銀河 秋彩さん

久しぶりですね。
小生にはなかなか理解が及ばない解釈ですが、古典の世界は分からないことがまだまだ一杯なので、一層想像が逞しくなるようです。

最近、「風」「空」「海」「水」「空気」などがブログのマイブームテーマになっていて、主に風景画を中心にあれこれ記事を仕立てていますが、そろそろ古典の時期が来たかなとも思っています。
何と言っても、今年は「源氏物語千年紀」なのですから:
http://www.city.kyoto.jp/sogo/sousei/genji/
http://www.2008genji.jp/

投稿: やいっち | 2008/02/14 18:33

『万葉集』の「タイトル」の出処

天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、
春山の【万花】の艶と秋山の【千葉】の彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、
額田王が歌をもちて判る歌(巻一・一六の詞書)

「表意」=【擬物法や諷喩(寓喩)に依る、裏意(真意)】
「万花」=【万(よろづ世)の君臨者(女王=中 太上天皇⇒中皇命・中宮)】、
「千葉」=【千(千代)の統治者(大臣=王⇒天皇)】。
【万花】+【千葉】+「(個人)集」=『万葉集』

即ち、『万葉集』は表裏一体の二重構造を持つ、「表」は歌集、【裏】は史書、になっています。
【裏】=真の『万葉集』は、【大倭国・蘇我大王家(聖武天皇)の勅撰史書(個人集)】だったのです。

投稿: 銀河 秋彩 | 2008/05/19 15:44

銀河 秋彩さん

『万葉集』は公に認知されるものとはなるには時間がかかったようですね。
家持らの悲劇の書でもある、謎の多い書。
題名の由来さえ未だ確たるものがないとは。

小生のような浅学菲才の徒は、『万葉集』の数々の歌を味わえればそれでいいようです。

「朝鮮語で「万葉集」は解読できない」は読み物として面白い:
http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo49.htm

投稿: やいっち | 2008/05/19 22:01

1) 「(台与の)邪馬台国の都」は、【(九州)京都郡香春】。

2) 「柿本人麻呂の正体」は、【大津皇子(人麻呂)=浦島子=聖武天皇】

3) 道隆時代の筆名「清少納言の正体」
=【(実人物は)高階(たかしな)貴子(きし・たかこ)】
=道長時代の筆名「紫式部の正体」

投稿: 銀河 秋彩 | 2008/09/12 06:44

銀河 秋彩 さん
ひさしぶり!
相変わらず独自の探求を続けておられますね。

小生、夏の暑い盛りが過ぎ、古典への回帰というわけじゃないけど、長部日出雄/著の『「古事記」の真実』(文春新書)を読み始めてます。
古代史は、謎が多いから、まだまだ解釈や探求の余地があるのでしょうね。
小生のように古典に(も)疎い人間には冷静な批判の目を持って読むのがなかなか難しい。
それでも、関心は深まるばかり。
困ったものです。

投稿: やいっち | 2008/09/13 09:13

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