鳥雲に入る
春四月の季語例では、「鳥の巣、古巣、鷲の巣、鷹の巣、鶴の巣、鷺の巣、雉の巣、烏の巣、鵲の巣、鳩の巣、燕の巣、千鳥の巣、雲雀の巣、雀の巣、蜂の巣」と、「巣」にちなむ季語例が多い。
さすがに四月ともなると、鳥達も巣作りに励む…、それとも巣立ちの時なのか…と思ったら、必ずしも単純に鳥などの巣に絡む季語、というわけではないようだ。
上掲の「巣」つながりの季語で、他の季語群とは性質を異にする季語がある。それは、どれか。
まず、「蜂の巣」は、明らかに違うと分かるだろう。他の季語群が鳥の巣といった分類ができるのに対し、「蜂の巣」は、文字通り「蜂」の「巣」なのだから。
では、この「蜂の巣」を覗いても尚、他の季語群からは性格を異にする季語があるとしたら。
そのヒントは「蜂の巣」にある。
そう、「蜂の巣」は、食べ物としての側面に焦点が合っている。
但し、小生に分からないのは、「蜂の巣」と言いながらも、「蜂蜜」のことを意味しているのかどうか、という点。山などで、熊さんが蜂の巣に手をやり、手にベットリと付いた蜂蜜を嘗める光景に遭遇することがあると聞いたことがある。さて、俳句の世界では、「蜂の巣」では、正確にはどういった光景を思い浮かべたらいいのだろう。
「蜂の巣」には、「蜂(はち)」単独も含め、 「密蜂、女王蜂、働蜂、熊蜂、穴蜂、土蜂、足長蜂」と春の季語仲間の例がある。
「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」(松尾芭蕉)といった、「春の雨」と「蜂の巣」の季語が堂々と重ねてある句もある(元禄七年 五十一歳「炭俵」からの句)。
が、よく分からないのは、「蜂の巣」が夏の季語扱いしているサイトも結構、見受けられること。小生には扱いをどうしたものか、判断が付けかねる。
いずれにしても、正解は「燕の巣」となる。中華の食材ということなのだろうか。
燕は、「泥と藁とをこね合わせて唾液で固め人家の軒先や梁に作る」という。ネットで検索してみる限り、食としての性格より、やはり「巣」として詠まれているほうが多い。
類語には、「巣燕(すえん・すつばめ) 」があるようだ。
この「燕の巣」も、夏の季語扱いしているサイトが少なからずある。うーん、小生には分からない。初夏…梅雨前の光景のようにも思えるし。
「燕の巣」というと、昨年、帰省を終え上京する高速道路のSAで休憩した際に、施設の庇の裏に見かけたことがある。
その記念というわけでもないが、「燕雀の思い(前・後)」と題した拙稿をその頃、書いている。覗いてもらえたら、嬉しい。
「鳥の巣」にも、「小鳥の巣、巣組み、巣篭、巣隠、巣鳥、古巣」などの類義語がある。「樹の上、藪、畑、人家などに巣を作り雛を育てる」というが、都会では巣などは、あまり見かけない。カラスの巣だって、人の目をうまく避けて作っているのだろう。ただ、注意深く観察すると、ビルの大きな看板の裏側とか、意外と身近な場所に巣作りしているのを見かけることがあるらしいのだが。
「鳥の巣」には、巣作りや巣立ちに密接に関係するのだろう、「鳥交る とりさかる 鳥つるむ、孕鳥、鳥の恋」などの類義語があるようだ。
話を最初に戻す。
ネット検索して見つかる句の実例を見てくると、「蜂の巣」や「燕の巣」が食の季語扱いというのも、必ずしも鵜呑みにはできないようだ。古来から、これらの季語、というより、実際の光景がどのように詠み込まれたかに懸かっているということなのだろう(か)。
となると、異質なのは、「蜂の巣」や「燕の巣」よりも、「古巣」なのだということになる、かも。
芭蕉には、「旅がらす古巣は梅になりにけり」という句がある(ちなみに、この句にも「古巣」と「梅」との二つの季語が織り込まれている。芭蕉の頃は、季語にはあまり拘りがなかったということか。俳句の世界での歴史が積み重なっていくに連れ、次第に拘るようになってきた、ということなのだろうか)。「伊賀市服部町くれは水辺公園の松尾芭蕉句碑」にも刻まれている。
「奥の細道」の冒頭の有名なくだりの中にも、「古巣」という語が見出せるが、ちと、句からは遠いのか。「奥の細道序文」より転記:
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋江上の破屋に、蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、面八句を庵の柱に掛置。
(転記終わり)
ここには、「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」という句が添えられてあることは言うまでもないだろう。
「古巣」を旅立つ鳥というと、「鳥雲に入る」という春の季語を連想する方もいるだろう。「北方に帰る鳥の姿が雲に入ってみえなくなっていくさま」だという。
古典の素養のある方なら、さらに『和漢朗詠集』の中の、「花は落ちて風に随ひ鳥雲に入る」というくだりが既に浮かんでいるのだろう。
調べてみると、「本歌取り」ということで、「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき 千載集(崇徳院)」に、さらに、「心なき花こそ根にも帰るとも鳥さへなどか雲にいりけむ 新後拾遺(大納言資名)」といったような流れがあるという(「心太俳諧通信 - フォーラム」より。このフォーラムには、「季語」に関しても、興味深い遣り取りがある)。
この「鳥雲に入る」は、夏目漱石の「わかるゝや一鳥啼(いっちょうない)て雲に入る」にも繋がっていくのだろう。
但し、この句を吟じた時の号は、「愚陀仏」だったとか。
同上サイトによると、「句の「鳥雲に入る」は渡り鳥が春になって北へ帰ることで「春」の季語」である。
上掲の句は、「夏目漱石が、熊本の第五高等学校教授となり、明治29年(1896)4月11日松山を去るにのぞんで、松風会会員近藤我観に書き送った別離の句双幅(3つ切り)の1つ。もう1つの句は「永き日やあくびうつして分れ行く」である」という。
この日漱石は鬱金木綿(うこんもめん)の袋に入れた大弓を自ら携えて、虚子と広島行きの船に乗り、三津の海岸から出発した」のだったという。
最後に、ちょっと、せっかくなので、「鳥の巣ウオッチング」などを。
[冒頭に掲げた写真は、昨年7月25日、スクーターを駆り中央高速を使っての帰京途上、某SAの施設で小生が偶然、目にし、撮った燕の巣です。]
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