ツツジの宇宙
今日は「八重桜」を表題にして季語随筆を綴るつもりだった。
ソメイヨシノという種の桜は呆気なく散り果ててしまったけれど、八重桜や江戸彼岸などはまだこれからで、特に江戸時代などは江戸彼岸(エドヒガン)が主な桜だったという(「江戸東京物語|池袋15'」参照)。
同上サイトによると、「小川和佑著『桜と日本人』(新潮選書)によると、エドヒガンは樹齢が長く、盛岡の石割桜など伝統的な古い桜はこの種に属するという。「江戸府内の桜も、このエドヒガンが多かったに違いない。例えば八代将軍徳川吉宗植樹の向島、玉川上水、飛鳥山の桜もこのエドヒガンを中心にヤマザクラやシダレザクラなどの多様な桜だった」というのである。
ネットで八重桜など、桜のあれこれを調べると、ちょって手に余るほどの情報が溢れている。纏めきれないので、せめて、今日は、「サクラは跡見学園女子大学のシンボルであり、構内全域にわたって多くの種類が植栽されています」ということで、「跡見学園女子大学の構内サクラガイド」を覗かせていただくに留める。
勿論、実際に覗き見に行くわけではない。誘っていただけたら、飛んで行くけれど。「本学のサクラの特徴はヤマザクラが最も多いことで、50mにも及ぶ並木道は他に例が少なく、ソメイヨシノの華やかさとは違う楚々とした野趣に満ちた美しさで愉しませてくれます」となると、小生、垂涎の穴場所ではないか。
このサイトで八重桜を調べると、「しかし、「八重桜」という品種は存在しません」と、いきなりピシャッと叩かれた感じである。「一般に「八重桜」といった場合‘カンザン’や‘フゲンゾウ’等のサトザクラの特定の園芸品種を指すことや、サトザクラ類の総称として使われることが多いようです」とのこと。
鬱金(ウコン)、嵐山、普賢象、松月、手弱女、江戸、御衣黄、仙台枝垂…。これら、八重の種類を眺め愛でるだけで、眩暈がしそう。しかも、他に、「ソメイヨシノが登場する以前は最も日本人に親しまれてきたサクラ」である、山桜など、数々の種類の桜が居並ぶ。
山桜というと、つい、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(宣長)なんて歌を思い起こしてしまったり。小生の発想法も紋切り型だなと、つくづく感じてしまうが。
で、準備が間に合わないので、今日の題材は、表題の如く、「躑躅(つつじ)」である。
といっても、躑躅の世界も桜に負けず劣らず奥が深い。とりあえず、ちょうど昨年の今頃、書いた文章を以下、掲げる。
念のために書き添えておくと、ツツジは春の季語である。
「ツツジの宇宙(04/04/20)」
いよいよ東京都内は、ツツジの花が妍(けん)を競い始めている。三月末、そして四月初めの桜に事寄せた喧騒が嘘のような、緑滴る街路樹や公園の樹木。その深い緑の中から顔を覗かせつつも、決して緑陰に埋もれることなく、独特な鮮やかさを溢れさせている。
小生は、桜の舞い踊り散る喧騒の侯より、今のツツジの季節が好きである。
それは、やはり桜のいつ咲くのか、いつ満開になるのか、今日の雨で散ってしまうのか、今度の日曜には葉桜になりおおせてしまうのかという気忙しさとは無縁だからだろう。
路上に散り、吹き寄せられ、あるいは掃き寄せられた桃色の桜の花弁の堆積の見るも無慙さ。
その哀れさを人は殊更に無視しようとしているようだ。
それら散り敷かれた花弁たちは、まるで一時は恋い焦がれた相手なのに、一夜の酒宴の座興と共に役割を終え、杯盤狼籍の酒席の静寂の果てに、裏のドブ川に棄てられた初心な恋人の剥ぎ取られた衣装のようだ。
棄てられ見捨てられるために、ただそのためだけに一夜だけの契りを交わす。燃えて恋の手練手管に操られ酔い痴れて、踊って踊らされて、舞って舞わせて、それでも散ることを運命付けられ、また散らなければ、その場から消え去らなければ、反って憾みや白けの気分を呼ぶだけの悲しい皮肉。
路上の塵に塗れ、土足の下に薄汚れて、茶褐色に見るも哀れなほどに変貌し、邪険にされ、見てみぬ振りをされる花弁たち。
しかし、そんな感傷など、それこそ初心と言うものなのだろう。
桜はしたたかなのだ。花弁など映画のスクリーンの埃にさえも敵わぬ見せ金に過ぎないのだ。人びとが花に酔い、花を愛で、花弁の舞い狂う中、退屈な日常に帰っていくように、桜の木も、つい一ヶ月ほど前には、張り過ぎた枝の数々が断ち切られたことが信じられないほどに、気が付くと小枝が生え伸び、そして一晩で桜の花が一気に咲き誇る、その様変わりの見事さをさらに圧倒するほどの生命力で緑の葉っぱで我が身を埋め尽くす。
そう、喧騒の日々など我関せずとでも言うように、深い緑の衣装を纏って、戦ぐ風を心地良さそうに受け流している。風のシャワーを存分に浴びているのだ。儚い恋の季節は終わったけれど、長く熟成の日々を静かに深くたっぷりと心行くまで謳歌しているのである。
そうした落ち着いた緑の滴る町並みにツツジが色を添えるのである。
「カエデ・モミジ資料-写真植物園(玩槭庭)」の「ツツジ類」という頁によると、「ツツジの語源は、続き花、続き咲とか、筒花、筒咲とか言ったところから名付けられたと伝えられている」とか。
尤も、同サイトによると、「ツツジは躑躅と難しい漢字を使うが、中国ではシナレンゲツツジのことのようだ。物の名前には伝達間違いのようなものが沢山ある。中国で普通ツツジにあてられている文字は杜鵑。日本の古い書物、万葉集などに使われている漢字を引き出してみると、筒自、筒仕、筒士、乍自、都追慈、茵、躑躅なが見られる。何だか花と釣り合わないように思える」とかで、結構、語源などを辿ると厄介なようだ。
ヨーロッパなどでツツジの花をアザレアと呼ぶ。
このサイトによると、「日本ではアザレアとツツジは区別して呼ぶが海外ではまとめてアザレアと呼ぶ。中国原産の台湾山ツツジや日本産の霧島ツツジをヨーロッパで改良したのがアザレア」なのだとか。
他にも語源について説はあるようだ。
別のサイトによると、「蕾が女性の乳の先に似ているから、という説と、花に粘りがあって、ツキツキてジッとつくから」とも言うらしいのである。
このサイトの書き手によると、円山応挙の弟子の長澤蘆雪は「ツツジの花を好んで描いた」とか。残念ながら、他の画題の絵は見つかったが、ツツジの絵は発見できなかった。ここでは、「隻履達磨図」の画像を拝見するに留める。
[さらに、[EPSON~美の巨人たち~」で「虎図」を見ることもできた。 (05/04/22 追記)]
さて、ツツジを巡っては、以前も多少、書いたことがある。「ツツジは、3月末から四月の初めにかけての桜の季節が終わるのを見計らうように咲き始める。道路脇に桜の花びらの、最初は淡いピンクの絨毯か帯だったものが、やがて乾き切り、色褪せ、埃に塗れ、茶褐色のゴミという憐れな末路を辿る頃に、そんな情ない光景などに目を向けさせるものかとばかりに、ツツジの花が咲き始めるのである。」とした上で、「闇の中で浮かび上がる濃く豊かな緑を背負った赤紫のツツジは、つまりは俺の命をドラキュラが生き血を吸う如く掠め取っているのかもしれない、そんな悪夢をさえ連想させるのである。」という末尾の一文に至る、ツツジの映える風景に絡む一色とは言えない心情をその時は綴ってみたのだった:
「幻の青いバラと女心(花三題)」
今、読み返してみると、ちょっとばかりその時の心の状態に引き摺られすぎた気味がある。
もっと素直に緑滴る風景を愛でていればいいのだと今にして思う。
白色や桃色、あるいは赤紫色のツツジの花も、その奥に、あるいは根っ子には小振りな葉っぱが連なっている。その葉っぱは幹にあるいは枝へと連なっている。葉桜といい、ツツジといい、彩りを支えているのは、深い緑だったと、改めて思う。
悲しむべきなのかどうかは分からないが、大地の色が都会では窺えないこと。たまに道路工事などで掘り返された、アスファルトやコンクリートの下の何処か無慙な姿を晒す土砂では、とても大地を目にしたとは言えそうにない。もしかしたらコンクリートで埋め尽くされた都会だからこそ、ツツジがやけに目に映えるのかもしれない。
車道と歩道との境、公園の縁、狭い庭の一角…。緑の帯として意識的にツツジが使われていると聞いたことがある。それは、ツツジが排気ガスに強いからだとか。本当だろうか。正確な情報がないので、うっかりしたことは言えない。
ただ、下記サイトによると、街路樹に使われるツツジは、大紫ツツジという種類で、「樹木には総じて空気を浄化する作用があるが、ツツジの中でも街路樹としてよく見かけるオオムラサキは、特に空気をきれいにする能力に優れている。」とか、「ツツジは樹木の中では背が低いため、街路樹として植えると排気ガスなどから歩道をゆく子供を守ってもくれるのだ。」とのこと:
[昨年、参照した時のURLはhttp://weather.odn.ne.jp/docs/topics/cexp6.html だったが、今は文章の中身が入れ替わっている。
代わりに、「2000-05-28 なぜ街路樹を植えるの?」を参照のこと。 (05/04/22 追記)]
踏みつけにしようと思えば踏めるから、動物の放縦に逃げることも出来ない、だから、植物は弱い…。毎年のように植物は我々の目の前で、芽吹き、咲き、萌え、絢爛たる光景を現出し、やがて枯れていったり、萎んで目立たなくなったりする。命の儚さを勝手に思い入れしてみたりする…。
けれど、植物のことをいろいろ調べると、我々の感傷や思い入れを他所に、結構、したたかで逞しい生命力を持っているということをつくづくと感じさせられる。
たとえ、踏まれ萎み窶れ腐り土に返っても、それは束の間の急速の時に過ぎず、やがては次の世代の植物達の滋養となって吸収され取り込まれ形となり、つまりは蘇る。死と生との循環を日々、身を以って、われわれに教えてくれているかのようだ。
今、生きているものもやがては死ぬ。須臾(しゅゆ)の時を生きているに過ぎない。命の讃歌。命を謳歌すること。命とは生きていることというより、生成と衰滅の繰り替えしなのかもしれない。
風に舞う埃だって、やがては時を経る中で、何某かの形を得るに至るのだろう。塵芥であるとは、モノであるとは、形を得るまでの束の間の自由の時、慰安の時を満喫している、モノの仮初の姿なのかもしれない。
生命とは、どこかに偶さか蠢く何かなのではなく、宇宙に偏在する夢のようなもの。
ツツジやパンジーを際立たせる滴る緑の深い闇に、何か禍禍しいような、毒々しいような危険の予感を覚えてしまうのも、生きていることの土台としての大地、否、地球、否、宇宙の震撼たる沈黙を予感せざるを得ないからだろうか。
ツツジ。つつじ。躑躅。漢字でツツジを躑躅と表記する時、命の底の宇宙の豊穣さと永遠の沈黙を予感せずには居られないのだ。
だから、春は憂鬱なのかもしれない。そう、あまりに重苦しすぎて。
(転記終わり)
関連するエッセイとして「日の下の花の時」など、読んでいただけたらと思います。
冒頭に掲げた写真は、18日、都内の某公園脇で撮ったもの。牡丹雪が舞っているようでした。
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コメント
「躑躅」。私も「髑髏」を連想していました。(字の印象が似ていると思います)
「つつじ、漢字」で検索したら、あるサイトの説明で、羊がツツジの葉を食べ、躑躅(あしぶみ)するよう地を打ちながら死んだところから名が付けられたとありました。
「十三塚とツツジ毒」という民話もあって、子供たちが山ツツジの枝を折って箸の代りにして亡くなった。原因は山ツツジの枝に含まれている猛毒だとか・・。
弥一さんが、どこかに、もう書かれていたらごめんなさい。
不思議な漢字が気になっていたもので。
投稿: なずな | 2005/04/24 01:45
なずなさん、コメント、ありがとう。
いずれも、初耳の話ばかりです。
そのうち、機会を設けて、ツツジのことを調べ直してみたいと思いました。
ホント、何を調べても、知らないことばかりです。
投稿: 弥一 | 2005/04/24 07:03