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2005/04/02

春宵花影・春宵十話

 春というと、「春風駘蕩」とか「春宵一刻値千金」、「春眠 暁を覚えず」といった表現を連想したりする。冬の寒さ厳しさに耐えた後だけに、春の日というと、日中だろうと、宵の口だろうと、夜半を過ぎた頃合いだろうと、さらには明け方にしても、それぞれの風情があり、しかも、その風情を家の中に、あるいは身を縮めながらではなく、じっくり、ゆったり、のんびりと愛で楽しむことができる。
「春の宵」というのは、「春宵(しゅんしょう) 宵の春」といった類似する表現があり、「春宵一刻値千金の詩句から出た」のだという。
「春の宵」は、四月または三春の季語である(三春とは、春季の三ヶ月をさす。陰暦の一月~三月)(「言葉の泉」の「春宵(しゅんしょう)の頁より)。

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→ 松林桂月 「紅梅小禽」 (画像は、「Yahoo!オークション - ≪真作保証≫ 松林桂月 「紅梅小禽」 二重箱-象牙-山口-掛軸」より)

「言葉の泉」では、 「春宵(しゅんしょう)」とは、「春の日が暮れて間もない宵のほどで、のどかで艶冶(えんや)な感じのひととき」であり、「通い婚の時代では、男が妻通いする時刻である」などと書いてあった。
 さらに、「現在では、「春の宵」というと、ライトアップされ幽玄な光を放つ夜桜が想い浮かぶ」として、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき」といった歌が掲げられている。
「ライトアップされ幽玄な光を放つ夜桜が想い浮かぶ」という文言に刺激されたわけではないが、小生がメルマガにて公表した拙稿に、「春宵花影あれこれ」があることを思い出した。
 以下、この小文をブログに載せさせてもらう:

春宵花影あれこれ」(04/04/13)

 春の予感が漂い始めると、実際に桜の花の咲くのを待ちきれないというのか、つい、松林桂月(まつばやしけいげつ 1876 - 1963)の画、「春宵花影」を脳裏に思い浮かべてしまう。
 この絵を初めて見たのは、平成3年に東京国立近代美術館で「荒川修作の実験展」が開催された時だった。
 企画展を観終えて、さて、帰ろうと思ったが、なんとなく荒川氏の作品の印象を咀嚼しきれないで、素直に帰れず、いつもは常設展を観ないのだが、つい、足が常設展の会場に向った。
 すると、目は、松林桂月の「春宵花影」に釘付けになったのである。
 松林桂月は、上掲のサイトに付された自身の言葉にあるように、ある「町の両側は桜の並木で埋もれ、陽春四月の候に入ると、万朶の花影が爛漫として咲き乱れ、両々交叉して一条の花の隧道をなして居る。」そして、「夜に入つて花下を逍遥すると、東坡の「花有清光月有陰」の詩句を想起し、春宵一刻、真に千金の値あるを覚ゆるのである。」と続く。
「更に、王安石の詩に「春色悩人眠不得、月移花影上欄干」と云ふのがあるが、私も古人と同じく、月下の花影を見ては、恍惚として夢の世界にあるが如く、自ら詩意を催ほし、画意をそゝるのである。」として、「一夜、朧ろ月夜の光景に打たれて、眼裏に深く印せるその花影の一端を追つて、遂に此の図を試作したのであつた。」と、絵の制作の舞台裏を語る。

 小生は、もとより、齧ったことがある程度の東坡の「花有清光月有陰」などの詩句を思い起こすはずもないし、まして、「春色悩人眠不得、月移花影上欄干」という詩句を王安石に結び付けられるはずもない。
 ただただ、「春宵花影」図に春の眠るあたわざる夢幻への誘惑を思ってみる。
 年を取るごとに、悩ましき春の命の芽吹きを春宵の中に韜晦しないと、何か耐えられないものを覚える。新陳代謝する自然、人事の更新を迫られる現実の社会の切迫が、あからさまに過ぎて、最初のうちは、冬篭りの時を経、春の到来を待ち望んでいたはずなのに、殊更に春眠を貪って、気が付くと春の終わりを待っている自分がいたりするのである。
「東坡」というのは、中国の北宋時代の詩人・蘇軾の号であり、「花有清光月有陰」をその前の有名な詩句も含めて、読み下すと、「春宵一刻直千金、花ニ清香あり月に陰あり」となる。
「春宵」は、「しゅんしょう」と読む。「春宵一刻直千金」は、読み下すまでもないのではないか。
 余談だが、「春宵」という言葉(漢字)を見ると、小生は、つい、数学者の岡潔を連想してしまう。そう、名著『春宵十話』である(今は、角川文庫にも入っているのかな?)。

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← 松林桂月『春宵花影図』(1939 墨画 絹本彩色・軸 119.3 x 134.5 国立近代美術館蔵) (画像は、平成3年に上記の展覧会に足を運んだ際、惚れてしまった画なので、せめて複製でもと思ってショップで買い求めた複製画をデジカメで撮影したもの(の更に縮小画像。07/12/24 撮影)。手元にある複製画で見てさえも、本物の迫力や気品、静謐さ、心地いい気だるさの感をどれほど再現できているか、制作された方には申し訳ないが、心もとない。まして、そのデジカメ写真の縮小サイズ画像である。ひたすら想像を逞しくしてもらいたい…。無理を承知でそう願うしかない。いずれにしても、この画像をコピーされる方は、くれぐれもその点を十分銘記願いたい。そうでないと、松林桂月(の作品)に対し、申し訳ない。)

 驚いたことに(驚くこともないのか。一昔前の必読書の一冊だったものだし)、松岡正剛氏も、「千夜千冊」でこの『春宵十話』を扱っている(松岡正剛氏は毎日新聞に岡潔のこの『春宵十話』が連載されていたのを読んでいたのだ!)。
 小生は、数学者を一番、尊敬している。別段、意味はない。小生が一番、苦手だが(苦手なものは、無数にある)一番、憧れる学問なのだ。その楽問に携わっているということで、羨ましいと思う以上に、とにかく無条件に尊敬しているのである。
 その数学者の書く随筆というのは、やたらと面白い。その中の筆頭が、岡潔なのであり、彼の著『春宵十話』なのである(松岡氏の表現を借りれば、凡兆、去来、芭蕉らの俳句の連句を例にとって示されている「岡潔は“情緒の数学”とでもいうものを自在に語ってみせたのだった」というくだりなど、是非、玩味してほしいものだ)。
 つまらぬ思い出をついでに書いておくと、「春宵」を「しゅんしょう」と読むと知ったのも、その本を読んだ時だった。そうでなかったら、せいぜい、「しゅんよい」とか「はるよい」ほどに読んで、済ませていたに違いない。
 あああ、また、長くなってしまった。
 大急ぎで、王安石の「春色悩人眠不得、月移花影上欄干」を読み下しておく:

 春色 人を悩して 眠り得ず 月は花影を移して 欄干に上らしむ

 まあ、読み下さなくとも、読み方も意味合いも一目瞭然かもしれない。
 ただ、この「春色」、性的な意味合いというより、生命の鬱勃たるさまを示しているように感じる。大地の底から命が噴き上げてきて、どうにも堪らないという感じを、年齢の差を越えて味わってもいいように思うのだ。
 そう、年を取ると、まるで我が身を置いてけぼりにするほどに、生命の横溢が凄まじく感じられるのである。
(転載終わり)

Okashunnsho

→ 岡 潔 著『春宵十話』(毎日新聞社) 小生は、高校生の頃、この単行本で読んだ。まだ、高校二年の途中まではいつか数学者になるという夢がかすかに残っていた…。画像は、オークションサイトで発見。

[ 『春宵十話』については、「生きる」というサイトの「春宵十話 岡 潔 著 角川文庫」を覗くと、「スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た」といった岡潔の有名な言葉などに接することができる。また、「岡潔 Cafe OPAL 店主の日記」を覗けば、岡潔についての逸話を知ることができる。 (05/04/02 追記)]

 冒頭に、「春眠 暁を覚えず」といった言葉を掲げているが、これについての説明が施されていない。白文を示すと:

 春眠不覚暁
 処処聞啼鳥
 夜来風雨声
 花落知多少

 書き下すと、「春眠 暁を覚えず  処処 啼鳥を聞く  夜来 風雨の声  花 落つること知る多少」のようである。孟浩然の「春暁」という「五言絶句」の漢詩で、無粋な小生だと、「春眠不覚暁」を示されても、そのあとには、自宅なら「ひたすらに眠るのみ」と、仕事中なれば「眠眠打破欲す」と続けるだろうか。

 今日は童話作家のアンデルセンの誕生日だとか。なので、彼について若干でも触れたかったが、準備が間に合わなかった。代わりに(はならないが)、『グリム童話』の周辺をめぐる拙稿があることだけ告げておく。
 小生、童話・民話・昔話の数々は大好きなのである。
 また、清少納言の『枕草子』の「春はあけぼの…」を思い起こさずには居られないが、別の機会に譲る。ただ、「俳句回廊」の中の、「春は夜」という頁を示すだけに留めておく。

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コメント

春眠暁を覚えず、加齢と共にそれも忘れる・・・
だんだんと眠りが浅くなって年だなぁと感じるこの頃です。
布団の中のぬくもり、陽の当たる縁側でのうたた寝
いいですよね~ちっちゃな幸せですけれど。

投稿: マコロン | 2005/04/04 17:08

マコロンさん、いらっしゃい。
ホント、眠りが浅いというのは、実感です。それに、グッスリ、たっぷりという眠りもなくなった。眠るにも体力が要る…。悲しい現実です。
「布団の中のぬくもり、陽の当たる縁側でのうたた寝
いいですよね~ちっちゃな幸せですけれど」
 全く、同感。そういえば、日曜日、夕方近く、図書館へ行く途中、あの白猫殿をいつもの場所で見かけました。その日は、日中は、春ウララだったから、白猫殿、気持ち良さそうでした。カメラ、持参していたら、撮っておいたのに。今年も、白猫殿に励まされるかも。もち、マコロンさんには、ばっちりと。
宜しくね。

投稿: 弥一 | 2005/04/04 20:01

アクセスが多い。けど、残念ながら、松林桂月の『春宵花影図』の画像はこれまで載せていなかった。
何故なら、著作権の問題もあるのだろうけど、何処も画像を載せていない。
小生、今日、画像に付した経緯で、デジカメ画像を載せました。
あくまで参考と思って眺めてください。
本物の素晴らしさの万分の一も分からないとは思うけれど。

投稿: やいっち | 2007/12/24 16:38

弥一さん、はじめまして。
私も松林桂月の春宵花影図に魅了された一人です。
東山魁夷生誕100年展を観に国立近代美術館に訪れた再、この作品に出逢いました。
墨画とは到底思えない出来栄え、表現の素晴らしさに圧倒されました。
私のブログで東山魁夷の記事をUPする際、松林桂月にもふれたいと思っています。
弥一さんのブログも紹介させて頂きたいと思います。
また、出来れば春宵花影図の直接リンクをご了解頂けるとウレシイのですが。

投稿: comet2054 | 2008/05/17 08:00

comet2054さん 
はじめまして。ようこそ!

松林桂月の春宵花影図、見事な作品です。
多くの方にもっと知られていいはずのもの。

「春宵花影図」の画像、使うことは一向に構いません。

但し、(ネットの画像はあくまで参考という一般的な留意は別にして)画像に注意書きしてありますが、掲げた画像はショップで買った複製画をデジカメで撮影したもの(の更に縮小画像)であることを明記しておいてほしく思います。
そうでないと、松林桂月の「春宵花影図」はこんなものかと思われてしまっては松林桂月に対しても作品の「春宵花影図」に対しても申し訳ないので。

投稿: やいっち | 2008/05/17 09:46

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