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2005/04/30

暗号・季語

 俳句・和歌・短歌関連で暗号というと、柿本人麻呂好きの小生としては、藤村由加著『人麻呂の暗号』(新潮社)を連想したりするが、今回は扱うのをやめておく。
 我が季語随筆日記は、一応は、俳句や川柳(あわよくば短歌や詩)を念頭に置いている。なかなか肝腎の焦点に狙いが絞れないのが悩みだが。
 その短歌や俳句の世界は、枕詞を筆頭に謎や暗号に満ちている。言葉遊びの次元から、かなり危うい世界までを示唆していると思われたりするのである。
言葉遊びと遊び心(About the parody and joyful mind)」を覗くと、枕詞、季語、謎かけ、回文、尻取りの楽しさを改めて気づかせてくれる。
 同時に、季語というのは、特に江戸時代以降に醸成されてきた伝統の結晶でもあるが、冷凍食品や空調機、地球温暖化を含め(更に含めるなら、句作あるいは句の鑑賞の地域的拡大。江戸や明治の世だと、京都か江戸を場所的な焦点として思い浮かべればよかったが、今は北海道から沖縄、小笠原諸島、果てはブラジルやアフリカに在って句作されることも当たり前の時代になっている)季節感に狂いの生じつつある現代にあっては、悲しいかな記号めいた色彩も帯びつつあるのではないかと思われたりする。
 暗号というと仰々しいが、言葉遊びと思えば、楽しいものである。短歌も俳句も川柳も詩も小説もと、欲張りすぎると虻蜂とらずになってしまいそうだが、別に小生は構わない。言葉に絡むあれこれを楽しみたいのである。
 
 と書いた舌の根も乾かぬうちに、以下は、ちょっと野暮な領域に渡るかもしれない。扱うのは、スティーブン・レビー著の『暗号化』なのである。
 タイトルを聞いただけで、拒否反応を起こされた方もいるかもしれない。
 でも、小生は、言葉、記号、表現の世界を可能な限り広く解したいのである。しばし、コンピュータの暗号の世界の暗闘のドラマを想ってみよう。

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2005/04/29

春の灸…青い鳥

「春の灸」は、春の季語で、「二日灸」という縁語があるようだ。
「蓬(よもぎ)」は、「餅草、艾草(がいさう)、さしも草、蓬生(よもぎう)、蓬摘む」という類語があり、「香気ある新しい葉を摘み、草餅、もぐさを作ったりする」という。春の季語。
 この「もぐさ」というのは、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」によると、よもぎの別名で艾(もぐさ)と表記し、「灸(きゆう)に使う、ヨモギの葉を乾燥して綿状にしたもの」という。
 物臭(ものぐさ)な人間にお灸を据える草だから「もぐさ」というわけではなさそう。

 この度の尼崎脱線事故は、一体、誰に対してのお灸になったろうか。小生はタクシードライバーを生業(なりわい)としているので、事故は決して他人事ではない。会社の朝礼や同僚の雑談でも、事故の話が珍しくもなく飛び出してくる。あわや事故寸前という状況に遭遇しなかったといえば、ウソになる。自分にとっても、他山の石としてあれこれ考える契機になるだろう。
 ただ、事故の原因や責任を運転手など一部の人間に全てを押し付けるのは、必ずしも納得できない。過密すぎるダイヤ、私鉄や航空機との競争、厳しいノルマや日程下で、当人にひたすらプレッシャーが懸かるだけの状況。
 サービス残業やノルマの極端な増加。この数年の急激な貧富の差の拡大。自殺数の高止まり。今の<改革>って、人間不在なのではないのか。
 幸福の青い鳥は、どんな光景にあってこそ、見出されるのだろうか。

 そんなことを思ったりもする…が、ま、気分を変えて、以下、多少は風流のことで眼福の一時を。

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2005/04/28

逢う魔が時…花は橘

maco-lilac
 あるブログサイトを覗いていたら、日記の中で久しぶりに、「逢魔ヶ時」という言葉に出会った。実に久しぶりのような気がする。決して死語ではないが、かといって頻繁に使われるわけでもない。
「逢魔 時」をキーワードにネットで調べてみると、日本語に限定しても28000件をヒットする。ざっと見たかぎりでは、妖怪談義、怪談モノ、魔界モノで使われることが多いようだ。
 あるいは、「[藤田あけ烏の世界] 名田西の鴉」によると、夕暮時は「魑魅魍魎や物の化の現れる時でもある」のかもしれない。
 また、「夕暮時」から想像されるように、交通事故は日中の眩しい日差しが和らぎ、やや暮れなずんで来た、でも、宵の口にも早いような時間帯での、ちょっと冷っとするような体験、具体的な状況を表現する際に使われることが多いようである。
逢魔ヶ時 同盟」の「逢魔ヶ時とは」によると、「逢魔ヶ時とは、夕方・黄昏の頃のこと。日が沈み、周囲が闇に浸かる時刻。この時間帯は一般的に、奇妙な感覚を覚えたり幻覚を見たりしやすいと言われています。その為なのか、事故などが多い時間帯でもあります。 あらぬものを見る、事故を起こす… 一番 “魔”に遭遇しやすい時刻。 魔に出逢う刻…それが逢魔ヶ時」などと説明してある。
 あらぬものを見るかどうかは別として、日没時は、目がまだ明るさに慣れた状態だけに、僅かに暮れ始めているだけでも、その薄闇が視界を遮ること、想像以上のものがある。黄昏時に事故が多いのも、無理はないのだ。
 
[冒頭に掲げたライラックの画像は、マコロンさんから戴いたものです。]

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2005/04/27

狐の牡丹…雑草のこと

 もうすぐ連休である。休めるかどうか分からないが、休みを取って帰省したいとは思っている。五月の連休というと、いつもは田植えの手伝いの為に帰省するのが恒例になっていたし、オートバイを駆って東京から富山へと高速道路を使って往復する。
 が、既にどこかで書いたように、田舎では一昨年で田植えを止めてしまった。さすがに昨年は、一昨年までの習慣みたいになっていたので、連休には帰省したが、することもないし、ということで手持ち無沙汰になり、まあ、拍子抜けの状態だった。
 今は手の加わることのない田圃が荒れ果ててしまっていることも、今更、語るのも寂しい。
「去年(こぞ)の田は夢かとばかりに舞うトンボ」なんて、句を昨年の夏だったかに、捻ったりして見たけれど、雑草の生い茂る田圃…空き地を家の居間から眺めると、まさに、あれあれ去年の今頃は稲穂が青々としていたじゃないか、なのに、この有様はなんだ、去年までのことは夢だったのか、それとも場所を間違えたのか、と、おろおろするばかりなのである。
 休みが取れたら(取るのは簡単だ、ただ、一回でも営業を休むと、その後の祟りというか、皺寄せがきついのだ)、まあ、僅かに残る畑や庭で草むしりをすることになるのかもしれない。
 その連想というほどでもないが、草むしりで毟られるのは雑草と決まっていることだし、今日の季語随筆の表題は「雑草」で決まり、というわけである。
「雑草 季語」でネット検索してみたら、「何処でも見かける丈の低い雑草」だという「酢漿の花(かたばみのはな)」など(「夏の季語(動・植物-種類順)」より)、雑草はどちらかというと、正式にという訳ではないが、夏の季語扱い(気味)のようである。
 それでも、物色してみると、狐の牡丹という雑草が春の季語扱いとなっている、といった情報を得ることができた。

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2005/04/26

指パッチン

 4月の22日の金曜日、そろそろ仕事のため外出の時間が迫っているなと思っていたら、テレビのワイドショー的番組の中で、タレントのポール牧さんが自殺されたようです、という一報がキャスターの口から飛び出した。
 話題は忘れたが楽しげな話で盛り上がっている最中に、その報せを書いたメモがキャスターの手元に回ってきたようで、それまでのにこやかな表情を曇らせなければならない、でも、人間だもの、そんなに簡単に表情をコロコロ変えられるはずもない、そんな戸惑い気味の顔が印象的である。
 というより、その一報を伝えた後、すぐに楽しい話題の続きに戻っていってしまったことのほうが記憶に鮮明なのか。
 それからほどなくして仕事へ出かけ、続報などは車中、ラジオで断片的に窺い知るだけだった。
 翌日、ポール牧さんの自殺のことは、テレビでも採り上げられていたが、遺書が残っておらず、自殺の本当の理由は分からないままのようだ。
スポニチ Sponichi Annex 速報 2005年04月22日」によると、「22日午前4時50分ごろ、東京都新宿区のマンション敷地内で、9階に住むタレントのポール牧(本名榛沢一道)さん(63)が血を流して倒れているのを、タクシー運転手が発見した。ポール牧さんは全身を強く打っており、病院に運ばれたが間もなく死亡した」と冒頭にある。
 タクシー運転手が発見した。我が同業者である。だからといって、彼の自殺が自分に意味を持ったというわけではない。
 非常につまらない理由だが、小生、今でこそ手(指)の圧力などが弱まっていて、とてもじゃないけれど、その気にはなれないが、実は指パッチンが得意だったのである。

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2005/04/25

躑躅(つつじ)と髑髏と

 過日、「ツツジの宇宙」と題した季語随筆に、「躑躅(つつじ)」の語源やツツジに纏わる逸話などについてメッセージを戴いた。表題にあるように、「躑躅と髑髏」とは、ちょっと見ると印象が似ていたりして、また、それぞれの言葉や漢字表記そのものが興味深くもある。
 そこで、小生自身、疑問を放置したままで来たこともあり、ここで若干、触れておきたい。
 小生自身のツツジについての拙稿は、ホームページにもあるのだが、末尾に転記しておく。
植木花観賞シリーズ」の「樹木の名の由来記」の頁中にある、「ツツジ」の項によると、「ツツジの当て字の躑躅は、羊がこれを食べて足踏みして死んだところからの命名といい、本来の漢名は羊躑躅(ヨウテキチョク)だったという」とある。さらには、「韓国の単語で躑躅をtchyok-tchyok、またはtchol-tchukと発音し、これが日本でツツジとなったのではという推定説がある」という説も紹介してくれている。
 
「羊がこれ(躑躅?)を食べて足踏みして死んだところから」とあるからには、躑躅には毒が含まれているということなのか。
 実際、「花よりのメッセージ」の「3月の花」には、「躑躅の語源は中国にあって、この躑躅の花や葉に毒が含まれているので、羊が食べると足蹴りして動かなくなるからだといわれています」などと書かれている。
北信州の道草図鑑」の「レンゲツツジ(蓮華躑躅)」の頁には、「れんげつつじ【蓮華躑躅】:ツツジ科の落葉低木。山地や湿原に生え高さ約1.5メートル。6月頃に、大形で橙赤・黄または赤色の合弁花を蓮華状に付ける。有毒。 広辞苑」といった説明が付されているが、同時に、薬効の項には、「山のツツジはたいがい食べられますが、レンゲツツジは毒があって食べられません。レンゲツツジから採れる蜂蜜にも毒があるようです」とある。
 中国にある羊が食べたという躑躅の種類(羊躑躅?)は、毒の含まれるものだったということか。
 でも、そもそも羊って、躑躅を食べるのかどうかが分からない。草を食べるのは、テレビ等で時折、目にすることはあったけれど、木々の葉っぱも食べることがあるということか。この辺りは更に調べる余地がありそう。

静岡県花の見どころ案内「花の歳時記 ツツジ」」にある「ツツジの語源」という項によると、「「躑躅(ツツジ)」とは中国語で「躊躇する」を意味する。
平安時代に、中国自生のシナレンゲツツジ「羊躑躅」Rhododendron molle var.molleが記載された本草書の渡来により、日本のツツジにあてた事に由来する」などと説明されている。
 やはり中国にある羊躑躅は、蓮華躑躅の一種なのだろう(か)。

四季のいきもの前線調査-つつじ開花前線-」なるサイトを覗くと、レンゲツツジの分布図と共に、「中国で「羊躑躅」と呼ばれるものはレンゲツツジとは変種の関係にあたりますが、キレンゲツツジよりさらに鮮やかな黄色の花をつけます」などといった説明を得ることができた。
 羊が羊躑躅を食べるのかどうかは別として、とにかく、羊躑躅はレンゲツツジの変種で、毒を含むと思っていいらしいということか。

 ネット検索していたら、ツツジを巡る味わい深いエッセイが見つかった。部分的に引用するに忍びないので、サイトを紹介するに留める。「忘れられた花      野崎 茂太郎 著」の「躑躅(つつじ)」の頁である。是非、一読を! それだけでも、小生の拙稿に付き合われた甲斐があるというものである。
 この「忘れられた花」というサイトを発見したのは小生にとっても収穫だった。

 さて、大雑把ながら躑躅(ツツジ)の語源などについては見渡してみた。
 次は、髑髏という言葉の周辺を巡っておかないと、表題を「躑躅(つつじ)と髑髏と」にした意味がない。
 が、この髑髏も、一筋縄ではいかない言葉でありイメージであり、歴史を担っており、現物も無言の迫力で迫ってくる(といっても、座右に髑髏があるわけではない。小生は朝倉義景・淺井久政・淺井長政の髑髏を肴に酒宴を催す織田信長のような座興のできるほどの者ではないのだし)。
 ここでは、ネット検索で見つけた、「髑髏について」というエッセイを示しておくに留めたい。
 その上で、以下に掲げるエッセイを眺めていただければと思ったりするのである。
 またまた季語随筆とは名ばかりの雑文になったけれど、まあ、俳句の世界を広く深く味わいたい一心なのだと理解願えればと思う。
 尚、戴いたメッセージには、「十三塚とツツジの毒」という民話があることも教えてくれている。さすがに、そこまでは時間的にも調べきれないので、これまた話を覗くだけに留めておく。
 では、 「つつじのことなど」へどうぞ。

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2005/04/24

荒れ野の40年

 あるブログサイト(Wein, Weib und Gesang)を覗いていたら、「嘗て覗き込んだ中で最も印象的な目は、連邦共和国大統領を務めたリヒァルト・フォン・ヴァイゼッカー博士のものである」といった書き出しで、「IDの危機と確立の好機」と題された印象的な文章に出会った。
 その全文についてはリンク先を覗いて欲しい。
 この一文を読みながら、小生は、早、読んでから十年以上も経ってしまったマルティン・ヴァイン著『ヴァイツゼッカー家』(鈴木直・山本尤・鈴木洋子訳、平凡社)を読んだ当時の印象を思い出していた。
(言うまでもないが、本稿の内容は文責については全て小生にあり、書く契機を戴いた上掲のサイトさんとは内容は基本的に関係がない)
 といっても、記憶力の覚束ない小生のこと、本書の内容の大半は忘れている。ただ、本書で扱われているヴァイツゼッカーの最後の一人、つまり、嘗て大統領だったリヒァルト・フォン・ヴァイツゼッカーについての記述を読んで、大統領とは、国家の指導者とは斯くも厳しい認識と省察とに裏打ちされているものなのかと感じたことが今も、本書を座右の書たらしめているのである。
 なのに、ネットで調べてみたら、この本は品切れになっており、重版の可能性も今のところないらしい。何故?と問い掛けたい気分だ。

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風光る…杉菜…こきりこ

 サイト巡りをしていて、あるブログサイトの写真に目が止まった。
 小生、自分では、やたらと長い文章を書いておきながら、妙な話だが、そこは素敵な画像と簡潔なコメントで、訪れるのも楽しみなサイト。
 自分でデジカメを使い始めて分かるけれど、撮れば光景は写し出せるけれど、逆に対象の生命感とか、今だからこそ撮ったという感じを画像で示すのは案外と、いや、結構、難しい。撮るだけならカメラがあれば撮れる、多くの人が撮っている、つまり、画像はライバルが多いし、誰もが見慣れているのだし。
 目が止まったサイトというのは、「武蔵野だより」というサイトの「風光る。」なる画像。
 画像もいいが、小生だと、こういう光景に目が止まるかどうか、怪しいものである。まして、朝露に濡れる杉菜の目に鮮やかな<いのち>は、文章はもちろんだが、写真でも表現はできないなと感じさせられる。
 ところで、その画像の表題は「風光る。」とある。「「風光る」は3月ごろの季感3月ごろの季感」だというが、小生、季語例の表をほぼ毎日のように見ていながら、「風光る」がいつ頃の季語例として示されていたのか、気づいていない。
 調べてみると、サイトに依っては四月の季語例に挙げられていたりする。
 しかも、画像に付せられたコメントには、「写真は〈杉菜光る〉(^v^)です。」ともある。
 あれ、杉菜っていつの頃の季語なの、と、これも季語例を探ってみると、同様に四月の季語例表に載せてあった。ホント、我が目は節穴だと、つくづく自覚させられるのだった。
 三月なのか四月なのかは、歳時記上は厳密に決まっているのか、あるいは伝統的に一定の範囲に収まってきてのものなのか、地域による若干の季節感の相違を容れる余地が俳句を実作する上で許されているのか、小生にはトンと分からない。

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2005/04/23

蛤 浅蜊 桜貝 鮑 飯蛸 海雲 海胆…

 春四月の季語例を幾つか並べてみた。これらの季語の共通点は、などと訊くのは野暮だろう。みんな海の生き物で、且つ、魚ではないが食べ物としても馴染み深いものばかりであろう。
 馴染み深いというのは、漢字表記しても大概の言葉(名前)が読めることからも言えそうだ。
 以下、野暮の上塗りになってしまうが、いつも勝手にお世話になっている「風香」さんサイトの「季語集・春」を参照させてもらいつつ、一通り、季語例を見渡しておこう。
「蛤(はまぐり)」は、「蛤汁 蛤吸 蛤つゆ 焼蛤」などの類義語があり、「二枚貝、肉は美味で吸物に良く鍋物や焼蛤は絶品」
「浅蜊(あさり)」は、「ハマグリ科の二枚貝、浅海の砂浜、砂泥地、河口で取れる」
「桜貝(さくらがい)」は、「花貝 紅貝」という類義語があり、「桜色の透きとおった殻をもつ二枚貝」
「飯蛸(いいだこ)」は、「望潮魚」という類語があり、「タコ科に属する小型の蛸で、頭が親指大と小さく主に煮付で食す」
「海雲(もずく)」は「水雲 海雲採 海雲売 海雲桶」などの類義語があり、「細くもつれた糸状をした紫褐色の海藻、三杯酢や汁の実に使う」
「海胆(うに)」は「海栗 粒雲丹 海胆の棘」といった類義語があり、「海底の岩礁に付着して生息する棘皮動物で種類も多い」
 他にも、「海髪(うご)」なんかがあって、「おごのり」という類語があり、「暗紅色の紐状の海藻、熱湯をかけると緑色になり刺身のつまにする」というのだが、小生、恥ずかしながら、この生き物というのか食べ物は初耳。
「蜆(しじみ)」は「真蜆 紫蜆 瀬田蜆 業平蜆」などの類義語があり、「淡水または帰水産の小粒の二枚貝」
「鹿尾菜(ひじき)」は「ひじき刈 ひじき干す ひじき藻」などの類義語があり、「海中の岩石に付着成長する食用藻、総菜としてなじみ深い」
「磯巾着(いそぎんちゃく)」は、「磯の割れ目などにくっついている腔腸動物」というが食べ物ではないのか。
「若布(わかめ)」は「和布 新若布 若布刈 若布売」などの類語を持ち、「一般的に太平洋の若布は肉厚で日本海のそれは薄い」
「海苔(のり)」は「岩海苔 海苔舟 海苔掻く 海苔干」などの類義語を持ち、「食用の海藻」

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2005/04/22

ツツジの宇宙

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 今日は「八重桜」を表題にして季語随筆を綴るつもりだった。
 ソメイヨシノという種の桜は呆気なく散り果ててしまったけれど、八重桜や江戸彼岸などはまだこれからで、特に江戸時代などは江戸彼岸(エドヒガン)が主な桜だったという(「江戸東京物語|池袋15'」参照)。
 同上サイトによると、「小川和佑著『桜と日本人』(新潮選書)によると、エドヒガンは樹齢が長く、盛岡の石割桜など伝統的な古い桜はこの種に属するという。「江戸府内の桜も、このエドヒガンが多かったに違いない。例えば八代将軍徳川吉宗植樹の向島、玉川上水、飛鳥山の桜もこのエドヒガンを中心にヤマザクラやシダレザクラなどの多様な桜だった」というのである。
 ネットで八重桜など、桜のあれこれを調べると、ちょって手に余るほどの情報が溢れている。纏めきれないので、せめて、今日は、「サクラは跡見学園女子大学のシンボルであり、構内全域にわたって多くの種類が植栽されています」ということで、「跡見学園女子大学の構内サクラガイド」を覗かせていただくに留める。
 勿論、実際に覗き見に行くわけではない。誘っていただけたら、飛んで行くけれど。「本学のサクラの特徴はヤマザクラが最も多いことで、50mにも及ぶ並木道は他に例が少なく、ソメイヨシノの華やかさとは違う楚々とした野趣に満ちた美しさで愉しませてくれます」となると、小生、垂涎の穴場所ではないか。
 このサイトで八重桜を調べると、「しかし、「八重桜」という品種は存在しません」と、いきなりピシャッと叩かれた感じである。「一般に「八重桜」といった場合‘カンザン’や‘フゲンゾウ’等のサトザクラの特定の園芸品種を指すことや、サトザクラ類の総称として使われることが多いようです」とのこと。
 鬱金(ウコン)、嵐山、普賢象、松月、手弱女、江戸、御衣黄、仙台枝垂…。これら、八重の種類を眺め愛でるだけで、眩暈がしそう。しかも、他に、「ソメイヨシノが登場する以前は最も日本人に親しまれてきたサクラ」である、山桜など、数々の種類の桜が居並ぶ。
 山桜というと、つい、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(宣長)なんて歌を思い起こしてしまったり。小生の発想法も紋切り型だなと、つくづく感じてしまうが。
 で、準備が間に合わないので、今日の題材は、表題の如く、「躑躅(つつじ)」である。
 といっても、躑躅の世界も桜に負けず劣らず奥が深い。とりあえず、ちょうど昨年の今頃、書いた文章を以下、掲げる。
 念のために書き添えておくと、ツツジは春の季語である。

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2005/04/21

苔の話…ひかりごけ

 秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めたということで、前日の季語随筆・番外編「苔の話あれこれ」では、「苔」の周辺を主に季語との関連で若干、探ってみた。本書については、読みかけだったこともあり、「はしがき」の一部を紹介するのみに留め、中身には触れないでおいた。
 本書から「苔」の生態その他についてあれこれ説明するのも小生の手に余る。
 それよりも、「苔」というと連想する文学作品の筆頭の「ひかりごけ」に焦点を合わせて見たい。言うまでもなく、武田泰淳の小説(戯曲)である。
 本作品は、所謂「「ひかりごけ」事件」に話の糸口を得ている。その事件の詳細は:
「ひかりごけ」事件
ひかりごけ事件

 見られるように、「「ひかりごけ」事件」は本当にあった事件なのである。
 武田泰淳は、この実際にあった事件を知床半島・羅臼の地元中学校の校長に聞くことから小説を書き出している。
 小説(戯曲)「ひかりごけ」の粗筋は、例えば、「ひかりごけ - goo 映画」などで読める。
 また、例によって当然ながら、「松岡正剛の千夜千冊『ひかりごけ』」も採り上げている(「ひかりごけ」新潮文庫)。
 この小説はメタフィクション的な構造を有していて、小説の中の登場人物が突然、書き手になってしまったりする。「ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みる。ここが奇妙である」
 そう、とても奇妙な構造の小説なのだ。

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2005/04/20

苔の話あれこれ

 昨日から秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めている。図書館で書棚をざっと眺めて回っていて、パッと目に飛び込んできたので、即、手に取った。
 それほどだから、小生は苔に興味がある…のかどうか分からないが、既に手には借りられる冊数の本を抱えていたのに、一冊を棚に戻して本書を代わりに借りることにしたほどだから、その行動からすると、興味がないとは言えないはずなのである。
 読み始めているといっても、車中での待機中の齧り読みなので、まだ冒頭の辺りをうろついているだけだが、でも、楽しみつつ読めている。自宅では、スティーブン・レビー著『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店)を読み出してしまったので、『苔の話』は車中で読みとおすことになりそうである。
 ちなみに『暗号化』は、「ハッカーに関する本などで有名なサイエンスライターのスティーブン・レビーが、インターネット時代の暗号技術を取り上げて、一般の読者向けに解説した、全体で500ページ近い大部な本である」ということで、エシュロンも出てきたりして、ひたすら好奇心で読んでいる。

 苔というのは、一般的にはそれほど人気のある対象ではないのだろう(と思われる。確かめたことはないので、断言はできない。もしかしたら、日本人だと密かに愛着して方が案外と多いのかもしれない)。
 苔など、下手すると、黴(かび)や錆(さび)の仲間扱いされかねない(掌編「黴と錆」参照)。
 が、日本のような湿気の多い、山も木々も多い土地柄だと、ともすると花や木々以上に馴染みのある生き物と言えるかもしれない。
 そもそも、「苔」という漢字自体が、苔の性質を表しているような気がする。小さくて目立たず、その存在を花を咲かせたりして大袈裟に自己主張するわけではない…そう、植物としては雑草と比べてさえも、とても無口な存在なのだ。クサ冠(カンムリ)にムクチと書いて「苔」と、名は体を現しているわけである(無論、これは小生の戯言なのだ。読んで、コケた方もいたりして)。

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2005/04/19

磯遊(いそあそび)…混沌の海

 表題の「磯遊(いそあそび)」は、春四月の季語のようである。
春の季語(行事・暮らし編-種類順)」によると、「春の大潮の頃、磯部で遊ぶこと」だという(磯部って、磯辺と表記するのでは?)。「磯祭」という類義語があるらしい。
閑話抄」の<磯遊(いそあそび)>によると、「「磯遊」というのは春の磯に出かけて貝などを捕って楽しむ行事です。 それは「汐干狩」じゃないの?と思われる方もいらっしゃいますよね。「汐干狩」という季語は別 にあります。ただ「汐干狩」のほうは、時には小舟を出して魚なども捕るのに対し、「磯遊」の方は浜辺で時には炊事道具を持参し、捕った獲物をその場で煮炊きして楽しむというような面 で分けているようです」とのこと。
 このサイトによると、「「磯遊」と同義の言葉に「磯菜摘」というものがあ」り、「狭義では、浜辺に打ち上げられた海藻を採る事をさしている」とか。
 21世紀が、こんなにも困難で多難な世紀になるとは、誰が予想しただろう。しかも、幕開きが9・11の同時多発テロだったというのが象徴的だったりする。
 冷戦が終わってベルリンの壁が壊され始めたとき、何か雪解けの時が到来したかのような印象さえ、マスコミは伝えていたような。今となっては夢のような話であり、冷戦構造が崩壊して、パンドラの箱の蓋が開いて、とんでもない混沌の世界が現実のものとなった。
 磯遊も潮干狩りも楽しい戯れなのだろう。海の水がせいぜい膝元を浸している間、漕ぎ出した小舟に穴が開いていることに気付かなかった間は。
 けれど、今は、海の水は腰の辺りまで、やがては咽喉もとの辺りまで寄せてきている。
 遠い昔、かのニュートンは、「私は、浜辺で貝がらを拾って遊ぶ子供のようなものだ。真理の大海は眼前に広がっている」と言っていたとか。偉大なるニュートンの一見すると謙虚なような言葉。
 でも、ニュートンは本気で自らを浜辺で戯れる子供に過ぎないと思っていたのだろうと、小生は思う。海岸線は、つまりは足元にある。が、その足元が常に揺らいでいるし、浸食されてもいる。
 浸食されない幸運なる場合でさえも、つまり、海岸線をほんの僅か広げたり護岸することができた場合であってさえも、その目の先には広大なる海が広がる。海の先には崖はさすがにないだろうけれど、宇宙が広がっている。地球は宇宙の中の塵ほどの存在。揺れて定まらないのも、無理はないのだろう。真空はありえない、のだから。
 
 以下は、ウルトラマンの話である。夢があるって? 児戯に堕しているって? さて、どうだろう。

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2005/04/18

人丸忌…言の葉

 表題の「人丸忌」ということで本日の季語随筆をほぼ書き終えていたのだが、「Windows」の例外何とかで、画面がダウンしてしまった。二時間以上もかけて書いた文書が消滅してしまった。ショックである。
 ちょっと、やり直す気力も時間もないので、以下、過日、アップさせると告げていた拙稿を掲げる。
「人丸忌」を採り上げたからといって、文書まで「忌」とは実に実にショックである。どうして、「Windows」はこういうトラブルが多いのだろう。
「人丸忌」は、春四月の季語だが、柿本人麻呂の生没年などは不明のはずである。なのに、どうして「人麿忌」は「旧暦三月十八日」ということになっているのだろうか。
山邊赤人とならんで歌聖と崇められる柿本人麿の忌である。その没年については諸説があつて確とはわからないのであるが、陰暦三月十八日とせられ、播州明石の柿本神社(俗に人丸神社といふ)では、四月十八日に人丸祭を行つてゐる。神輿の渡御などあつて相当に賑はふ」という(「三省堂 「新歳時記」 虚子編」から)。
 柿本人麻呂にはあれこれ謎が多い。その辺りのことを書き綴ったのだが、全て雲散霧消してしまった。
柿本人麻呂(柿本人麿) 千人万首 注釈無し」で人麻呂の歌の全貌を伺うことができる。このサイトには、「略伝」も付されている。
 あるいは、小生が勝手に贔屓にしている「たのしい万葉集」の中の「万葉集 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」という頁を覗いてみるのも楽しいかも。

 消滅してしまった文書で扱ったのは、過日読了した岡野 弘彦著『折口信夫伝―その思想と学問』(中央公論新社)のほぼ冒頭に柿本人麻呂の歌について、折口信夫の評価・鑑賞が見出されたのだが、その内容にショックを受けたこと、そして折口信夫がどのような理解を示しているかに触れたのだった。
 後日、図書館から借り出して、再度、触れておきたいものである。

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2005/04/17

はなにあらしの…春愁

 春四月も中旬である。そろそろ新しい環境に慣れてきた頃だろうか。四月末から五月初めには、五月病、なんてことになったりする人も出てくるだろうか。
 三月、そして四月は出会いと別れの季節でもある。小生はタクシードライバーとして働いているが、やはり2月3月には、長年、タクシードライバーとして働いてきた人たちが、何人か、静かに、あるいは賑やかに、見送られて、あるいは寂しく、会社を、そしてタクシー稼業から離れていった。
 尤も、タクシー業界の場合、人の異動は激しい。事故やトラブルを起こすと、退社を迫られることもあるし、有能な方は他社に引き抜かれることもある(らしい)。あるいは、法人から個人のタクシードライバーと立場が変わる場合もある。
 タクシー稼業という神経を擦り減らす仕事で体を壊しての退社という方も、実は多い。
(そういえば、高田渡さんも亡くなられてしまった。高田渡のドキュメント映画「タカダワタル的」があったとか…)
 その意味で、今の時期だけが異動の時期とは限らないのがタクシー業界の特徴かもしれない。それでも、気がつくと、会社で見かける人の顔ぶれが、結構、変わるし、不況を反映して、営業所に在籍する人の数も、相当に減っている。
 別れの歌というと、今も新しく作られ歌われている。が、ここは、長く親しまれてきた歌を紹介しておこう。先日の風と冷たい雨で桜も一気に散ったことだし。というか、その光景を見ていて、ふと、「はなにあらしの…」を連想したのだった。
 有名だから紹介というのは当たらず、まあ、今の時期だから、改めて噛み締めてみる、ということだろうか。

 勧君金屈巵
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

 于武陵 (晩 唐)の『 勧 酒 』という漢詩である。この詩だけからすぐに意味を感得できたかたは、すばらしい。
 小生は、井伏鱒二による有名な訳を参照する。付して再度、載せる:

  勧君金屈巵    このさかずきをうけてくれ
 
  満酌不須辞    どうぞなみなみつがせておくれ
 
  花発多風雨    はなにあらしのたとえもあるぞ
 
  人生足別離    さよならだけがじんせいだ

 今の時期を表現したような漢詩が幾つか紹介しているサイトがあった:
Kuribouのホームページ」の「さよならだけが人生か」という頁である。
 若さの証明とは、別れよりも出会いの機会に恵まれているということだろうか。
 でも、気持ちの上での若さの証明とは、この両者への感動の深さにあるのかもしれない。日々が出会い、一期一会、今日という日は今日限りのもの。この感覚を有しているかどうかだけで、人生は相当に違ったものになりそうだ。もっと抽象的に云うと、センス・オブ・ワンダーということになろうか。驚異の念。何事をも新鮮な感動を以って受け止めること。

 …そうはいっても、何故か春というのは憂鬱な感じがあって、訳もなく重苦しかったりする。しかも、この感じ、年々、きつくなる。木々が芽吹き、女性の服装も華やいで、街は生気に溢れていく…だけど、だからこそなのか、まるであてつけのように生命の横溢を感じてしまう自分が居たりする。体力が草いきれのムンムンする濃密なる命の爆発を受け止めきれない、のか。
 桜の花も散って、路肩などにはツツジが咲き揃ってきつつある。散り果てた桜の余韻が消え去ったら、もう少し、気分も落ち着くのだろうか。緑の滴るような街に成り代わったら、気散じの風も吹いてくれるだろうか。
 でも、やっぱり、今は、春愁(しゅんしゅう)という言葉を持ち出したくなる気分だ。「春の何んとはなしにもの憂い感じ」という意味合いを持つ、この言葉。
 うーん、分からない。この気鬱な感じのわけが。ま、いっか、こんな気分に浸るのも乙なものなのかも。
  
 さて、以下は、例によって今、読んでいる本からの、野暮に渡る書評…というより抜書き集である。
 云うまでもないが(言ったほうがいいのか)、「はなにあらしの…」は、扱う本からの連想でもあるようだ。

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2005/04/16

ライラック…リラ冷え

 過日、この季語随筆日記「花冷…花の雨」の項で、北海道在住の方にコメントを戴いた。その中で、ライラックやリラ冷えのことなど紹介してくれていた。
 小生は、そのコメントには、「リラ冷え…素敵な言葉ですね。渡辺淳一が書いた『リラ冷えの街』で、この「リラ冷え」は一気に有名になりました。小生が大学受験を控えていた頃にベストセラーになったような。札幌が京都のように碁盤の目のような街になっているという印象が残ったのも、この本の影響かな(小生は、新聞か雑誌の書評などで読んだだけ)」云々と簡単に応えるに留めておいた。
 留めておいたと云っても、じゃ、小生にライラックについて語るべき何かがあるわけじゃない。ただ、ライラックのことをもう少し、じっくり調べてみたい、とにかく知りたいと思っていたのだ。
 まずは、なんといっても、実物を拝みたい。が、ネットではとりあえずは画像で我慢しておこう。

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2005/04/15

ムスカリの花

s-DSC01435
 あるサイト(「武蔵野だより」を覗いたら、ムスカリの花の画像が。満開だという。
 小生は、ムスカリという名の花があることを知ったのは、昨年の今頃だったか。これまたあるサイトでムスカリの話題が出ていたので、へえー、そんな花もあるんだ、ってな具合である。
 小生のこと、せっかくだからと、ムスカリの花のことをあれこれ調べ、昨年は年間掌編百篇をノルマとしていたこともあって、早速、「ムスカリの花」なんていう掌編に仕立てたものだ。
 勿論、好きな猫を話に絡めて(同じ頁に、「海辺の猫」なんていう掌編も載せてある)。
 
 さて、ムスカリの花は、地域や場所によっても違っているのだろうが、ほぼ今頃が満開の時期のようである。
 では、ムスカリの花は四月…少なくとも春の季語なのだろうか。

[断っておくが、掲げた画像は、決してムスカリの花ではありません。今朝、未明に撮った八重桜(?)なのです。]

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2005/04/14

二輪草…二輪、そう!

 表題の二輪草は、花としては目立たない、というより、二輪草というくらいで、草にポイントがあるのかもしれない。野草、ということなのだろう。
北信州の道草図鑑 ニリンソウ(ニ輪草)」を覗いてみよう。
「やや日陰のような場所に群がって咲いています。はじめは花が一つだけ咲きますが、一輪草よりも花は小さい」…。それが、一つの茎に、「やがて花が二つ並んで咲くので、二輪草と名付けられました」というわけである。
 この<草>については、「にりんそう【二輪草】:キンポウゲ科の多年草。茎は柔軟で、高さ10~20センチメートル、根生葉は掌状に深裂。4~5月頃、普通2本の長花柄を出し、白花を開く。山地にしばしば群生し、観賞用にも栽培。 広辞苑」と説明してくれている。
 一つの茎に二つの花…だから二輪草というわけだが、一輪から四輪という変異種もあるらしい。
TKK・上高地の花々2 二輪草(ニリンソウ)」によると、「花言葉は「愛らしい」」なのだとか。

 では、一輪草は、どんな草花なのだろう。同じく、「北信州の道草図鑑 イチリンソウ(一輪草)」を覗かせてもらう。
「蕾はやや赤みがあるが、開くとほとんど白く見え」、「花が一つだけ咲くから一輪草と呼ばれ、花が二つ咲く二輪草よりも大きな花です」だという。
 この<草>については、「いちりんそう【一輪草】:キンポウゲ科の多年草。各地の草地に自生。観賞用にも栽培。茎の高さ約20センチメートル。葉は三回三出の複葉で、小葉には深い切れ目がある。春、約10センチメートルの花柄を出し、微紅紫色を帯び、梅花に似た花を1輪開く。近縁種にニリンソウ・キクザキイチゲがある。イチゲソウ。 広辞苑」だという。一輪草には、この草に咲く花が一輪ということでだろうか、一花草(いちげさう)という別名もあるらしい。
 花は多少、大小はあっても、似ている。が、葉っぱは、結構違う。それに、咲く場所も違っているようだ。
 無論、一輪草も二輪草も、共に春の季語である。また、「四季の花 アネモネ」によると、大きくは、「福寿草、クレマチス、翁草、金鳳花、秋明菊」などと共に、「アネモネの仲間」だという。

 今日の季語随筆は、以下も、途中までは季語随筆である。あくまで、途中までは、だが。
 但し、小生の好きな歌手の一人である川中美幸が唄ってヒットさせた「二輪草」へは話は向かわない。

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2005/04/13

竹の秋…竹筒のこと

 表題の「竹の秋」は、決して秋の季語ではない。立派な春四月の季語なのである。「秋」なのに春とは、これ如何である。
兵庫教育大学 子午線の歳時記第5号」による、以下の説明が面白い:

「竹の秋」という季語の解説には微妙な差異があっておもしろい。名古屋大学の池内了先生は、「竹にとって春はつらい季節である。筍に栄養を取られるので、親竹の葉は黄色くなり落葉する季節なのだ。」(『天文学と文学のあいだ』廣済堂出版)と見る。大野林火監修の歳時記は、有機成分を地下茎にたくわえる必要を述べた後、「その役目を果たし終えるころにようやく黄葉が始まり、やがて落葉を迎えるのである。」(『入門歳時記』角川書店)とする。
                            (転記終わり)

季節のことのは・季語 春のことのは」の説明もまた興味深い。〔竹秋〕〔かげろい〕などの類義語を示しながら:

 植物の葉が黄ばむと、日本人は秋を感じるらしく、春の竹は地中の竹の子に養分を取られ、四月頃になると葉が一斉に黄ばみ始めます。
 これが竹の秋ですが、逆に秋には葉がつやつやとしてきますから、こんどは竹の春と呼びます。
                            (転記終わり)

 竹については、このサイトが素敵だ。
 ついでに拙稿を参照願えると嬉しいかも:「独活と竹の子
筍 の 家」という掌編も小生にはある。

 ところで、筍と竹(の子)とは、どう違う?

 さて、例によって、以下はやや野暮に堕す拙稿となる。ただ、表題を「竹の秋…竹筒のこと」とした訳は、分かるかも。

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2005/04/12

花冷…花の雨

 昨日の季語随筆では、「花散らしの雨」という季語はないようだと書いた。書き終えてからも、ネット検索を繰り返してみたけれど、その実例は見つからない。
 が、関連する言葉なら、幾つか見つかる。
 例によって「春の季語(自然編-種類順)」というサイトを参照させてもらう。
 たとえば、「花冷(はなびえ)」という春の季語がある。これは、「花の冷」という表現例もあり、「桜の咲く頃の冷え込み」だという。
 ちなみに、「桜の花が咲き終わってしまった頃」のことを表現する「花過ぎ」という季語がある。
「春雨」乃至は「春の雨」は、前にも採り上げたが、これは、「しとしとと降る春の雨」という意で、ちょっと意味的に遠い。
「花の雨」という春の季語がある。「桜の咲くころに降る雨」だという。
 この「花冷」と「花の雨」とを組み合わせたら、花散らしの雨という意味合いに近付くだろうか。実際、桜(多くはソメイヨシノ)は一斉に咲き、一斉に散る、しかも、開花している期間は極端なくらいに短い。特に今年は短かったような気がする。
 だから、満開になった頃に、雨が降り、ちょっと冷え込んだりしたら、開花の期間を直撃すること、すなわち、花散らしの風、花散らしの雨、そしてそこに冷え込みが加わると、大半の花びらの散ってしまった桜の木の何処か凍えた感じ、という結果になってしまうわけである。
 以下、今日は、いつも以上に駄文調になるので、自らを真面目だと思われる方は、読まないほうがいいかもしれない。どうも、体調がすぐれないと、自制の力が弱くなるようである。

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2005/04/11

花散らしの雨…言の葉

 東京は昨夜来の花散らしの冷たい雨である。日曜日の花散らしの風のあとの、追い撃ちを掛けるような雨。ソメイヨシノなる桜は、昨日でさえ、淡いピンクの花びらより緑色の芽が目立つようになっていたけれど、これで、一気に緑の葉桜へと化粧変えしていくのだろう。
「花散らしの雨」は、季語なのかどうか、小生は知らない。が、花といえば桜のようだし、現代の日本において桜というと、圧倒的にソメイヨシノのようなので、春、それも桜の散る頃の季語として通用しそうである。
 あるいは既に季語と成っているのか。
 ただ、桜といっても、種類はいろいろある。もっと色鮮やかで、花びらの密集しているような桜もある。こちらのほうは、この冷たい雨にも関わらず、もう少し咲き続けるのではなかろうか。散るのが桜の美学のように言われたり感じられたりするようだけれど、花は咲いてこその花なのだと思う。決して散った風景が、まして路上に撒き散らされ、車に轢かれ吹き飛ばされ、人に舗道のちょっとした化粧だとばかりに踏みつけられていくのが素晴らしいはずもない。
 明治以降に醸成された美意識の底や裏側を、たまには考えてみるのも、一興だと思うのだが、やはり野暮というものだろうか。
 小生に、「池の桜」という掌編や、「坂口安吾著『桜の森の満開の下』 」という書評エッセイがある。こららには、桜についてのコラム的知見を書いておいたので、覗いてもらえたらありがたい。

 さて、散る桜の花びらから、言の葉を連想したわけでもないが、以下は、これまでにも増して野暮な書評風エッセイとなっている。
 言葉への拘りという点で、紹介する本は、小生には興味津々の世界に導いてくれる。扱った本は、そうした言の葉の世界への入門書でもある。

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2005/04/10

黄砂…地球環境の主役?!

 黄砂というと、野暮でミーハーな小生は、工藤静香が歌ってヒットさせた「黄砂に抱かれて」を思い出すくらいだが(ちなみに、中島みゆきには「黄砂に吹かれて」という曲があるとか。小生は聞いたことがあるのかどうか…)、富山で生まれ育った小生、それと気付かずに、黄砂の洗礼を受けていたのかもしれない。
[(筆者注:)工藤静香の曲名で、小生の勘違いがあります。コメントを参照してください。]
 そもそも春先になると、雪解けとなり、春の嵐が吹き荒れると、何しろ当時は道路も砂利道が多かったわけで、学校の校庭の土、田圃や畑の土埃が舞っているのだくらいしか、認識がなかったと思う。
 晩生(おくて)の小生が「黄砂」なる概念をぼんやりとでも捉えるようになったのは、二十歳以降のことだったような。
「黄砂」は俳句では春の季語扱い。黄砂は、たとえば南島だと、「大陸から麦の黒錆病菌が飛んで来るので、農家では、黄砂を忌み嫌ったという」が、逆に言うと、それだけ栄養素が豊富だということだろう。
 珊瑚礁の島がいつの間にか緑豊かな南国の楽園に生まれ変わるのも、島によっては黄砂が長年のうちに堆積し、その栄養タップリの土壌があって初めて、花粉が飛来し土着するし、他の微生物たちも集まり、やがて鬱蒼たる森と化するのだとか。

 さて、以下は、例によって、書評風エッセイというか野暮な内容になるので、あしからず。

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2005/04/09

春宵花影…

 影がちらついて離れなかった。
 昼間の喧騒に紛れていた何かが、夜の帳(とばり)が降りると、やにわに蠢きだす。
 それは、生きること自体の不可思議への詠嘆の念に近い。
 この世に何があるのだろうとしても、とにかく何かしらがあるということ自体の不可思議への感動なのだ。この世は無なのかもしれない。胸の焦慮も切望も痛みも慟哭も、その一切合切がただの戯言、寄せては返す波に掻き消される夢の形に過ぎないのかもしれない。
 そうだ、蠢いているのは、あの人の影などではない、ただただ、春の夜の悩ましいまでの妖しさのゆえに過ぎない…。そう言い聞かせた。
 そうだ、それで十分なのだ。他に何もない。朧なる春の霞に誑かされているだけのこと。
 今夜も眠れるはずがない。たとえ夜通しになろうと、春の夜という幻の世に導く隧道(ずいどう)を歩き通そう。

 春の夜の妖しさゆえにあくがれて

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2005/04/08

桜餅・草餅・椿餅・鶯餅…ソメイヨシノ

s-DSC01420
 表題に掲げた「桜餅・草餅・椿餅・鶯餅」は、いずれも春四月の季語例の数々である。
俳句歳時記」の中の、「春の季語(行事・暮らし編-種類順)」の説明を引用させてもらう:

 草餅(くさもち)    蓬(よもぎ)の葉をいれて作った餅
 鶯餅(うぐいすもち) 青黄粉をかけて鶯色にし、鶯の形に似せた餅
 椿餅(つばきもち)   椿の葉ではさんだ餅菓子
 桜餅(さくらもち)    しん粉の薄皮で餡をくるみ、塩付の桜葉で包んだ菓子

 小生は不幸にして、椿餅は(恐らくは)目にしたことも、まして食したこともない(はずである)。
 せめて、御尊顔だけでも拝したいものと、ネットで画像を探してみた:
和菓子日記」の「鶯餅&椿餅(虎屋)」という頁を覗かせてもらう。
 鶯餅(うぐいすもち)の美味しそうなこと。甘党の小生にはたまらん! 小生は、求肥(ぎゅうひ)で餡(特に白餡)を包んだ和菓子が一番の好物だ。が、カロリーを気にしているので、実際に食べることは、めったにない(せいぜい、二日に一度くらいである)。
 その欲求不満が昂じたというわけでもないが、「和菓子のこと(多分、駄文)」なるエッセイを綴ってみたこともある。
 そういえば、「団子より月」なんて掌編を編んでみたこともある。我が掌編の小道具にお菓子は不可欠だったりする。

[掲げた写真は、木曜日の午後、芝・増上寺の近くから撮った東京タワー。下のほうに白バイの勇姿も写っていたりして…。]

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2005/04/07

朧月…春の月

s-DSC01425
 今日の季語随筆の表題を何にするか…、小生、四月の季語(季題)を見ていて、つい「春の月」を選ぼうとした。
 が、あれ? 前に使ったことがあったような気がする。念のために調べてみたら、案の定である、せっかちで堪え性のない小生、先月の19日に「春の月・春の星」という表題で使用済みなのだった。
 危ない! 僅か二週間あまり前のことなのに、忘れてしまっている。それにしても、この季語が四月にこそ相応しいのに、我慢しきれずに3月の中旬に選び取ってしまった…のは、何故だろう。
 と疑問に思ったら、「月影に寄せて」という一昨年秋に書いたエッセイをブログにアップさせたからということ、そして、比較的寒い日の多い春先にあって、やや春めいた陽気を感じたからだったらしい。
 いかにも、単純極まる。分かりやすいというべきか。

「朧月」とは、春四月の季語であり、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書 朧月」によると、「春の夜のほのかにかすんだ月」だという。このサイトには、「朧月大河をのぼる御舟かな」という蕪村の句が載せられてある。
春の月・春の星」などでも紹介した、「大原や蝶の出て舞ふ朧月」がやはり、評釈も含めて印象的である。
 これも前に紹介したはずだが、類義語に「朧夜」や「朧月夜(おぼろづきよ)」があり、「照りもせず曇りもしない春の夜に、月にぼんやりした輪ができ、これを暈(かさ)とよび、この暈が月にかかると朧月にな」るという。

[掲げた写真は、金曜日未明、某公園で撮ったもの。心地良い風に吹かれながら、居眠りしていた桜さん。いきなり、フラッシュされて、びっくりしちゃったかな。ごめんよ。]

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2005/04/06

沈丁花の思い出…

 今、我が邸宅(人によっては集合住宅と呼ぶ人もいるが)の玄関先には、沈丁花の花が咲き誇っている。
 沈丁花は「季節の花 300」の「沈丁花 (ジンチョウゲ)」によると、「中国原産。室町時代に渡来した」であり、「花芽は前年の12月頃からできているが実際に咲き出すまでに寒い中3ヶ月ほどをこのまま過ごす」という。
 このサイトにもあるように、白い、どちらかといえば地味な小さな花である。白木蓮の大柄な花とは大違いだ。花言葉は、「優しさ、おとなしさ」だというが、なるほど、と思う。その実、「香りでは夏の梔子、秋の金木犀に並」ぶと言われるほど、「遠くにいても匂ってくる」花でもある。
 春四月の季語でもある沈丁花を、ネットで「沈丁花 季語」をキーワードにして検索しても、人気があるようで、結構な件数をヒットする。
 沈丁花を織り込んだ句も多いが、「沈丁花 いまだは咲かぬ 葉がくれの くれなゐ蕾(つぼみ) 匂ひこぼるる」とか、「沈丁花 みだれて咲ける 森にゆき わが恋人は 死になむといふ」といった若山牧水の歌を挙げているサイトも目立つ。
 沈丁花というと、小生の場合、ちょっとほろ苦い思い出に繋がっていく。それも、最初は歌の題名に過ぎなかったはずなのに、段々、沈丁花の花を見るとその思い出に直結してしまうようになってしまって…。
 そうはいっても、さすがに記憶も思い出も段々と薄れていく。そのうちにすっかり忘れ去って、沈丁花の花はあくまで花であり香りであり、ただその地味なのかそれとも自己主張は案外としっかりしている、芯の強さを感じさせる花を愛でるだけになっていく、のだろうか。
 小生には、その名も「沈丁花」という掌編がある。それもご丁寧にも同じ題名で二つも、一昨年、作っている。
 その上、一昨年は、題名は、「紫陽花ばなし?」だが、その実、本編の中には紫陽花がほとんど登場しない、むしろ、「沈丁花の思い出」といった題名を付した方が相応しいと思われるようなエッセイまで綴っている。
 まあ、一昨年は、それだけいろいろ思うことがあったということか。
 我がホームページの命運が分からなくなっているので、ここに転載しておく:

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2005/04/05

柳絮:植物状態の<人間>

 とらへたる柳絮を風に戻しけり   稲畑汀子

2005年03月 [月別記事]-学習院大学田中靖政ゼミ0B・OG会/深秋会」によると、春の季語である「柳絮(りゅうじょ)は、柳の綿という意味です。ヤナギには枝が上に立つ楊と、垂れ下がる柳があり、日本のものは主に柳の方」だとか。
 柳の綿が、なんとなく、脳の神経細胞を連想させる…というわけでもないが、今日の話題は、脳のこと、尊厳死のことに関わるもの。

「米フロリダ州で15年にわたって植物状態にあるテリー・シャイボさん(41)の尊厳死をめぐり、米連邦最高裁は24日、テリーさんの栄養補給を再開するよう求めた両親の訴えを退けた。尊厳死の阻止を実現する有効な法的手段は、ほぼなくなった」こと(「asahi.com」より)は、テレビ・ラジオなどの報道で夙に伝えられ、日本でも話題になっていたようである。
 そして、3月18日に生命維持用の栄養チューブが取り外されてから14日目の31日午前10時前(日本時間1日 午前0時)、収容先のフロリダ州ピネラスパークのホスピスで死亡したことは、日本ではやや静かなトーンで伝えられていたような気がする。

 一体、この事例がこれほどにまで話題になり、ブッシュ大統領の弟である フロリダのジェブ・ブッシュ知事による行政介入、さらにはジョージ・ブッシュ大統領が差し止め令に署名といった事態にまで至ったのは何故なのだろうか。アメリカに限らず、植物人間状態に陥っている人、生命維持装置に頼って辛うじて延命されている人は、何万、何十万といるというのに。
 明らかに、植物状態となった人間の延命をどう考えるかという一般論で議論が沸騰したわけではなさそうだ。
 テレビやラジオではあまり事情が分からないので、ネットで調べてみると、案の定というか、人間ドラマが複雑に絡まって泥沼状態だったことが分かってきた。
 ネットでざっと探してみた限り、比較的丁寧に背景事情などが示されているのは、下記のサイトのようだった:
「CUBE New York Catch of the Week by Yoko Akiyama」の中の、「Mar. 21 ~ Mar. 27 2005 Life Or Death Battle

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2005/04/04

春の塵…塵の河

「春の塵」は、春4月の季語の一つである。「春塵(しゅんじん)・黄塵・霾る(つちふる)」などの類義語があり、「春先の乾燥しほこりっぽいさま」を表現するとか。
雪どけ後強風に飛ぶ土ぼこり」と説明するサイトもある。
 小生には目新しい「霾る(つちふる)」は、「大風が砂や土を空にまきあげて降らすの意」だとか。「蒙古風」とも言うらしい。
 ネット検索してみたら、「奥の細道」の本文の中にこの「つちふる」という言葉が使われているとか(「奥の細道スタディー」より得た情報。ここには、杜甫の漢詩を例に「つちふる」という語を詳細に説明してある)。
「春埃(はるほこり) 」を類義語とするサイトもある。「砂あらし」や「黄砂(黄沙・霾天)」もつながりがありそうだ。
 関連するといえば、「春風(はるかぜ)」「春の風」もそうだろう。「花曇(はなぐもり)」を関連付けても構わない気がする。「霞(かすみ)」や「朝霞 昼霞 夕霞 遠霞 薄霞 棚霞 鐘霞む 草霞む」の数々も。
 考えようによっては、「朧月(おぼろづき)」「月朧 淡月」とか、「朧(おぼろ)」「朧夜 朧月夜」なども、無縁とは思えない。
 例えば、「朧月(おぼろづき)」とは、「月光がぼんやりと滲んだ春の月」を表しているとは、既に紹介した。
 その際、「大原や蝶の出て舞ふ朧月」という内藤丈草の句も紹介している。
「朧月」については、「照りもせず曇りもしない春の夜に、月にぼんやりした輪ができ、これを暈(かさ)とよび、この暈が月にかかると朧月になります」と説明してくれるサイトもある。

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2005/04/03

鳥雲に入る

s-DSC00709 春四月の季語例では、「鳥の巣、古巣、鷲の巣、鷹の巣、鶴の巣、鷺の巣、雉の巣、烏の巣、鵲の巣、鳩の巣、燕の巣、千鳥の巣、雲雀の巣、雀の巣、蜂の巣」と、「巣」にちなむ季語例が多い。
 さすがに四月ともなると、鳥達も巣作りに励む…、それとも巣立ちの時なのか…と思ったら、必ずしも単純に鳥などの巣に絡む季語、というわけではないようだ。
 上掲の「巣」つながりの季語で、他の季語群とは性質を異にする季語がある。それは、どれか。
 まず、「蜂の巣」は、明らかに違うと分かるだろう。他の季語群が鳥の巣といった分類ができるのに対し、「蜂の巣」は、文字通り「蜂」の「巣」なのだから。
 では、この「蜂の巣」を覗いても尚、他の季語群からは性格を異にする季語があるとしたら。
 そのヒントは「蜂の巣」にある。

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2005/04/02

春宵花影・春宵十話

 春というと、「春風駘蕩」とか「春宵一刻値千金」、「春眠 暁を覚えず」といった表現を連想したりする。冬の寒さ厳しさに耐えた後だけに、春の日というと、日中だろうと、宵の口だろうと、夜半を過ぎた頃合いだろうと、さらには明け方にしても、それぞれの風情があり、しかも、その風情を家の中に、あるいは身を縮めながらではなく、じっくり、ゆったり、のんびりと愛で楽しむことができる。
「春の宵」というのは、「春宵(しゅんしょう) 宵の春」といった類似する表現があり、「春宵一刻値千金の詩句から出た」のだという。
「春の宵」は、四月または三春の季語である(三春とは、春季の三ヶ月をさす。陰暦の一月~三月)(「言葉の泉」の「春宵(しゅんしょう)の頁より)。

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→ 松林桂月 「紅梅小禽」 (画像は、「Yahoo!オークション - ≪真作保証≫ 松林桂月 「紅梅小禽」 二重箱-象牙-山口-掛軸」より)

「言葉の泉」では、 「春宵(しゅんしょう)」とは、「春の日が暮れて間もない宵のほどで、のどかで艶冶(えんや)な感じのひととき」であり、「通い婚の時代では、男が妻通いする時刻である」などと書いてあった。
 さらに、「現在では、「春の宵」というと、ライトアップされ幽玄な光を放つ夜桜が想い浮かぶ」として、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき」といった歌が掲げられている。
「ライトアップされ幽玄な光を放つ夜桜が想い浮かぶ」という文言に刺激されたわけではないが、小生がメルマガにて公表した拙稿に、「春宵花影あれこれ」があることを思い出した。
 以下、この小文をブログに載せさせてもらう:

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2005/04/01

万愚節(ばんぐせつ)

「万愚節」とは、つまりは、「四月馬鹿」であり、いまや「エイプリル・フール」という言い方のほうが一般的のようである。謹厳実直をもってなる小生には縁の薄い行事であり季語の一つである。
 今日、4月1日からは、個人情報保護法案が施行されるし、銀行でのペイオフも関係者も昨年から慌しく動いていたようだし、高速道路での二輪車(オートバイやスクーター)の二人乗りが原則解禁となるし、新潟県の山古志村が新潟市と市町村合併ということで合併となるが、我が富山市も大きくなる。その一方、山古志村(の名)が消えるように大沢野町・大山町・八尾町・婦中町・山田村・細入村などの名称が消えてしまう。
 なんだかウソのような、ウソであって欲しいような、けれどホントの話だ。
 目出度いのか、不幸なのか、よく分からない話でもある。

「万愚節」は外来語の感が強い。英語からの訳なのだろうか。が、「万愚節」を英訳すると、「All Fools Day」となる。
 一方、「四月馬鹿」を英訳すると、「April Fool」となる。決して、「エイプリル・フール」だからって、四月の雨というわけじゃない。
 一体、「エイプリル・フール」は、何処の国の風習が導入されたのだろうか。
 あるサイトを覗いたら、もとはフランスだともいうが、本当だろうか。また、『日本国語大辞典』には、昭和三十一年の『母郷行』という句集からとして中村草田男の「銅像の片手の巻物万愚節」という句が載っていたというのだが、信じていいのだろうか。
 どうも、テーマが「エイプリル・フール」だけに、何を読んでも眉唾モノに思えてならない。これでは、真剣に書いている方も辛いだろうが、読むほうも疑心暗鬼なのだから、どっちもどっちなのである。
 というのも、「「銅像の片手の…」の句をネット検索しても、上掲のサイトしかヒットしないのだ。ということは、このサイトだけの情報なのか、それとも全くのデッチアゲなのか、判断が付けかねるわけである。

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