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2005/04/24

荒れ野の40年

 あるブログサイト(Wein, Weib und Gesang)を覗いていたら、「嘗て覗き込んだ中で最も印象的な目は、連邦共和国大統領を務めたリヒァルト・フォン・ヴァイゼッカー博士のものである」といった書き出しで、「IDの危機と確立の好機」と題された印象的な文章に出会った。
 その全文についてはリンク先を覗いて欲しい。
 この一文を読みながら、小生は、早、読んでから十年以上も経ってしまったマルティン・ヴァイン著『ヴァイツゼッカー家』(鈴木直・山本尤・鈴木洋子訳、平凡社)を読んだ当時の印象を思い出していた。
(言うまでもないが、本稿の内容は文責については全て小生にあり、書く契機を戴いた上掲のサイトさんとは内容は基本的に関係がない)
 といっても、記憶力の覚束ない小生のこと、本書の内容の大半は忘れている。ただ、本書で扱われているヴァイツゼッカーの最後の一人、つまり、嘗て大統領だったリヒァルト・フォン・ヴァイツゼッカーについての記述を読んで、大統領とは、国家の指導者とは斯くも厳しい認識と省察とに裏打ちされているものなのかと感じたことが今も、本書を座右の書たらしめているのである。
 なのに、ネットで調べてみたら、この本は品切れになっており、重版の可能性も今のところないらしい。何故?と問い掛けたい気分だ。

 本書の内容を帯の謳い文句で示すと、「ドイツ教養市民一族の現代史」と題され、「膨大な資料を博捜して一族7名の動静行跡を丹念にたどり、ドイツの社会・政治・文化・宗教生活の中でヴァイゼッカー家が演じた役割を歴史的地勢図の上に描き出す」とある。
 本書の表紙(カバー)には、リヒァルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカーの言葉として、以下の言葉が小さく目立たぬように(ちょっと手に取っただけでは、見逃してしまうほど小さなポイントの文字で)引用されている:

未来への道は確定したものではありません。それは暗い道であると同時に、開かれた道であります。その方向を定めることが、私たちの仕事なのです。人間は自由な存在です。[ドイツ]という概念に一つの内実を与えること、私たち自身が、そして世界が、喜びと平和の中で生きてゆくことができるような内実を与えること、これが私たちの仕事であります。
                          (転記終わり)

 帯の背表紙部分には、「ドイツ教養市民一族の列伝体家族史」とある。

 これらで、本書の性格はつかめたかもしれない。

 ヴァイツゼッカー元大統領の演説は、『ヴァイゼッカー演説集』(永井 清彦訳、岩波書店)で(ヴァイツゼッカー大統領が在任十年の間に行なった演説約六百篇の中から、とくに重要かつ興味深い内容のもの十一篇)読むことができる。

 ネットでは例えば、表題にも使ったけれど、『荒れ野の40年 (1985)』(『ヴァイツゼッカー演説集』より)を読むことができる。
 本稿の表題を「荒れ野の40年」とさせてもらったのも、この演説に改めて注目したいからである。
 ナチズム下のドイツとはいえ、ドイツが犯した「筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)」の全貌!とその反省や教訓。
 全文は引用するわけにもいかないし、リンク先を覗いてみてほしいが、一部だけ、転記させてもらう:

 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
          (転記終わり。一部改行を変更させてもらいました)

 特に後段の「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。」という部分は重要だと思われる。
 日本にしても、一部の狂的な軍国主義者の主導で行った中国などでの蛮行は、目を覆いたくなるものがある。
 それどころか、戦後の教育では戦後史があまり学校の現場では触れられない、乃至は、授業がそこまで何故か追い着かないという実状があって(小生も高校のときは、現代史は最後の一時限ほどという猛特急で扱われて、何がなんだか分からなかったものだ)、戦争を知らない世代は自ら学ぼうとしないと、実状の一端をさえ知らずに終わる。
 ヴァイツゼッカー元大統領と小泉現首相の言葉とを比べるのはやめておく。悲しいだけだ。そもそも比べようにも、小泉首相には自分の言葉がない(あるいは表に出したのを聞いたことがない)。村山元首相の談話を読むしかできないのでは、話にもならない:
 せめて、「村山総理大臣談話」「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)だけは読み直しておこう。

 ところで、小生の記述には若干ならざる誤魔化しがある。「一部の狂的な軍国主義者の主導で行った中国などでの蛮行」と書いたが、実際には悲しいことに、先の戦争は日本の人々の広範な支持、むしろ時に熱狂的な後押しがあったことも事実なのである。
 それをA級戦犯のみの罪だと押し付けてしまうのは、あまりに無責任な所業だ。
 けれど、アメリカも中国なども、罪はA級戦犯にあるとして、昭和天皇を初め日本の多くの人々には罪を問わないとした。みんな軍国主義者が悪いんだ…。
 そんなわけ、ないのに。
 戦争へ向けての躁な気分の状態にあったとはいえ、事実はかなり広範な人々も責任が問われてしかるべきだったのである。
 けれど、大概の人々は戦中・戦後の混乱で辛酸を嘗めた。沖縄の人々ほどではないとしても。
 いずれにしても、中国など海外の人々がどう詰問するかどうかには関係なく、本来は自国の問題として、責任を一部の連中に押し付けて、はい、お終いというのでは、過去の反省など皆無となってしまう。
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります」というヴァイゼッカー元大統領の言葉、また、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」とか、「戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります」といった村山元総理の言葉は、以って瞑すべきだと思う。
 小生としては、小泉現首相が辞めない以上は、せめて、一刻も早く、店晒しのままになっている「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の審議を促進させ、「追悼・平和祈念施設」の実現に向け努力してもらいたい。
 戦争の加害者の関係者も被害者の関係者も共に施設の前で二度と過ちを起こさない、また、犠牲になられた方の冥福を宗教・宗派・政治的立場・国家を超えて祈ること、祈ることができることが大切なのだと思う。
 靖国神社については、一つの民間の宗教施設として、A級戦犯を合祀し続けたいのなら、それは民間の神社としての一つの識見なのだろう。政治的な圧力でA級戦犯を分祀するなどという姑息な、下手すると政治の宗教への介入とも見なされかねない手段に訴えることなく、静かに活動を見守ればいいのである。

 さて、話が逸れてしまった。マルティン・ヴァイン著『ヴァイツゼッカー家』の内容については、700頁もの浩瀚な中身をかいつまんででも紹介する力は小生にない。
 まあ、訳者あとがきにもあるが、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』(や小生は未読だが『楡家の人びと』)を読むようなつもりで楽しんで読めばいいのだと思う。何しろ、神学者も居れば、政治家も物理学者、医学者もいるのだし、読んで退屈するはずもなく、「功罪はともかく、エリート層の育成母体としてあるいは知的文化の担い手としてヨーロッパ上流階級が演じてきた特権的役割の一端を垣間見る思い」をしてみるのもいいのではないか。

 本書は見られるように決して戦争モノではないのだが、時節柄、そんな話題に引き摺られてしまった。
 それならと、戦争モノの拙稿を幾つか掲げておく:
「堀川潭/著『 悲劇の島』(光人社NF文庫)」
「本間猛著『予科練の空 かかる同期の桜ありき』(光人社NF文庫刊)」
「常石敬一著『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書)」
「高橋哲哉著『戦後責任論』(講談社刊)」
「ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて 上・下』(三浦陽一・高杉忠明訳、岩波書店刊)」

 あるいは、昔読んで今は懐かしい、ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカー著『ゲシュタルトクライス』(木村敏・濱中淑彦訳、みすず書房)を松岡正剛氏の紹介(千夜千冊)で当たってみるのもいいかも。物理学者で、のち医学者となった彼も、本書『ヴァイツゼッカー家』の中で扱われている7人の1人なのである。

 元大統領のヴァイツゼッカーを巡る小論ということで、下記の一文が、賛否などは別にして、自身のいじめ体験(しかも加害者側だった)に照らして切実感があり、興味深かった:
ヴァイツゼッカー『過去の克服・二つの戦後』   Sachiko


[上出のジョン・ダワー氏に関連し、「インフォシークニュース トピックス」で「戦争 米国で「原爆の絵」紹介 MITのダワー教授ら」というニュースを発見。同上から情報が削除されないうちに転記しておく:

 米国で「原爆の絵」紹介 MITのダワー教授ら (共同通信)

 【ボストン29日共同】米マサチューセッツ工科大(MIT)のジョン・ダワー教授らが、被爆者が描いた「原爆の絵」を使い、被爆の実態を伝えるサイトを作成し4月中旬、月50万件を超えるアクセスがある同大のホームページで公開した。
 ダワー教授は「被爆者の絵には原爆の真実に目を向けさせる力がある」と話している。
 広島の原爆資料館が保管する「原爆の絵」と、著書「敗北を抱きしめて」で知られるダワー教授の解説を組み合わせ、「1945年のグラウンド・ゼロ(爆心地)」で何が起きたのかを効果的に伝える画期的な試みだ。
 ダワー教授は「地獄の火」「幽霊」「希望」などの項目に沿って、原爆投下後の広島を約40枚の絵を通じて紹介。大やけどを負い、列になって歩く被爆者の姿や、家族や友人を救えずに逃げた罪悪感などを詳細に記述している。
      [ 2005年4月29日16時13分 ] 
                           (05/04/29 追記)]

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コメント

弥一さん、相変わらず筆の音、冴えてますね~
『ヴァイツゼッカー家』、読んでみたくなりました。『楡家の人びと』は途中まで読んだのですが、独特のリアルな世界がそこに有って、なにか現実の世界と本の中の世界と2つの世界を行ったり来たりしてるみたいで、だんだん混乱しそうに成ってきたので挫折しました。
私は音楽の世界にいますけど、それでも、色々な社会問題は何かの形で関わって来ます。「戦争責任」という事も、劇団の音楽を担当した時に、戦争を扱ったテーマだったので、調べざるを得なかったです~
「戦争を知らない子ども達」という歌がありますが、戦後生まれの私達の果たせる責任とは、まず最低ライン「知ること」かな。なんて思った。村山さんは歴代の総理の中で、唯一、戦争責任を認めた、という事だけでも好感を持ってます。冴えないオジサンだったけれども・・・。けっこう好き。ホロ・コーストは「シンドラーのリスト」とか「ライフ・イズ・ビューティフル」とかの映画の印象が強いかな。

投稿: hironon | 2005/04/26 17:54

hironon さん、コメント、ありがとう。
音楽であれ、舞台であれ、政治は勿論、文学も、日本の現実を突き詰めていくと、何処かしらで過去を引き摺っていることに気づかざるを得ない。
人によって立場も発想もいろいろあっていいけれど、素晴らしい過去も、悲しい過去も共に見つめておかないと、結局、海外から日本人が軽くみられてしまう。お前達は、素知らぬ顔をしていても、清算も断罪も決着もつけ居ないことは歴然としているぞって、ずっと言われつづけることになる。
ホロ・コーストは「アンネの日記」とかフランクルの「夜と霧」が定番なのかな。
『楡家の人びと』は未読。ドクトルマンボウものしか読んでない。
あ、日本の戦争物というと、ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて 上・下』の感想文を書いたことがある:
 http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/embrace-1.htm


投稿: 弥一 | 2005/04/26 19:38

TBありがとうございました。
キリスト教徒ではありませんが原罪ということを考えることがあります。
国と国のことは毅然とした態度で言うべきことは言うべきですが、あまりの無神経さにあきれるばかりです。
日本のように神のいない社会で、従来の社会の基盤であった恥をなくした今、この先どうやって生きていくのでしょうか。あらゆる意味で日本は転換期にさしかかっているような気がします。

投稿: さなえ | 2005/04/28 21:45

さなえさん、コメント、そしてTB、ありがとう。
小生、いきなりTBしてしまい、失礼しました。
率直な意見の数々が表明されていて、好感の持てるサイトだと思って、つい、先走ってしまって。
これからも、覗かせてもらいます。
日本の国は、プラザ合意以後のバブル景気とその崩壊で、何かが失われ、質的な変化を被ったのだと感じます。後世、89年から91年を区切りに日本は変わったと叙述されるかも。

投稿: 弥一 | 2005/04/29 11:14

TBありがとうございます。
私自身は、脱線事故発生時の住民や近隣社会の相互扶助を見て、
まだ今の日本は過去からのすばらしさを保持していると思いますが、
現在の政治家はこのようなことを理解せずに、日本と国家のアイデンティティを軍事に紐付けようと必死になっているとしか思えません。
これは小泉政権もそうですが、民主党も同様ではないかと思っています。
自衛隊や遺族会からの圧力もあると思いますが、バブル崩壊後の自信喪失というのが、
目に見えるパワーをアイデンティティとする方向に政治家を導いているのではないかと感じています。
これは、まさしく時代の流れと逆行する愚行ではないかと思っています。

投稿: だんな | 2005/05/18 21:08

だんなさん、TB、そしてコメント、ありがとう。さなえさん、つながりですね。

>現在の政治家はこのようなことを理解せずに、日本と国家のアイデンティティを軍事に紐付けようと必死になっているとしか思えません。

 小生は、明らかにそうだと見なしています。アジア各国はもとより、ヨーロッパにも信頼されていない日本は、軍事で前例を積み上げるには、今の変則的な形を採るしか選択肢がないのですね。

 フジテレビや読売系列、最近はテレビ朝日(朝は拉致問題一色)も、かなりプレッシャーを受けてしまって、出演する人が偏向している。平沢勝栄氏、安倍晋三氏、町村信孝氏、小泉純一郎氏…。まるで世論が彼らに代表されているかのよう。
 少年犯罪など治安の問題を過度に採り上げ、騒ぎ立てるのも、明らかな偏り。テレビや新聞などで採り上げるべき社会問題は、他にも数知れずあるというのに、今、治安問題しかないかのようです。
 改憲問題も切羽詰ってきたようだし。これからが正念場なのかも。

投稿: 弥一 | 2005/05/19 15:33

TB、コメントありがとうございました。
引用されていらっしゃいますWein, Weib und Gesang様で、当方のサイトもリンク先として末に添えていただいており、幾ばくかのご縁も感じさせていただいております。今後とも一生懸命ついていきますので、「ヴァイツゼッカー家」のような読むべき図書をこれからもどんどん教えて下さい。

投稿: | 2005/06/09 00:45

氷さん、こんにちは。TB、こちらこそ、ありがとうございます。
今頃、気づきましたが、確かに「Wein, Weib und Gesang」さんサイトで貴サイトがリンクされてますね。今まで何を見てたんだろう。
コメントにも書きましたが、法律関係のことなど、あれこれ教えて下さいね。

投稿: 弥一 | 2005/06/09 01:43

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