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2005/03/07

東風吹かば

 短歌や俳句の世界では、「東風」と書いて「こち」と読むことは、小生も知っている。間違っても、「ひがしかぜ」とか「とんぷう」などとは読まない。そんな風に読むと、相撲好きなのか、麻雀好きなのかと思われかねない。
 誤解されたっていいようなものだけれど、少なくとも季語随筆を銘打っている以上は、「こち」と読んでおかないといけない。

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 さて、この言葉を教養のない小生も「こち」と読めるのは、なんといっても、菅原道真の御蔭である。
 言うまでもないが、以下の歌のことを念頭においている:

 東風吹かばにほひをこせよ梅の花
             主なしとて春を忘るな

 菅原道真は、今も、天神様などと呼ばれて一部の地域では信心の、あるいは、古来よりの風習の対象となっている。
 我が郷里富山でも、天神様信仰熱は今も、なかなかに盛んのようである。
 が、そこには、入り組んだ事情があったりして、ナイーブな思いではありえないようだ。

 さて、歌われているのは梅の花である。梅の開花というのは、結構、早い。まだ本格的な冬はこれからだという時期にさえも、蕾が綻び始める。開いた花を愛でられるのは、束の間というわけではないから、年の初めに咲き始めても、三月に入ってからということはありえる。
 では、菅原道真が上掲の歌を詠ったのは何時の事だろう。
 この和歌が詠まれた経緯についても、「飛梅伝説」という話がある。
 詳しくはネット上でも知ることができるが、たとえば、あるサイトの説明を借りると、「23歳で文章得業生に、33歳で文章博士となっています。さらに寛平5年(893年)には参議、同8年中納言となり、昌泰2年(899年)には左大臣藤原時平と並んで、道真が右大臣とな」るといった目覚しい出世の結果、左大臣藤原時平に疎まれ、「時平は道真追放の陰謀を画策、道真の娘が斉世親王の妃となっていたことから、道真が斉世親王を皇位に就ける陰謀を企んでいると、醍醐天皇に密告したため、道真は昌泰4年、右大臣近衛大将の地位を解かれ、現在の福岡県太宰府に左遷され」たのだった。
 そして、「長年住み慣れた都を去る日、日ごろ梅を愛する道真は、自宅庭の梅の花に別れの涙とともに」かの和歌を詠んだわけである。
 配所先で、「道真は無実を叫びつつも、ひたすら国の安泰を祈」っていると、流されてから「1年後のある朝、道真を慰めるかのような不思議な出来事が起こりました。配所の庭先に、一夜にして見事な梅樹が咲き、その香気を一面に漂わせたの」だという。
「「これは都に残してきた梅の木ではないか。昨年都を去るときに詠んだ歌を忘れず、ここまで飛んできたのであろう。」道真は感涙に咽びました。これがいまも太宰府天満宮本殿横にある“飛梅”の伝説です。」というわけである。
 ここには、さらに別の話があるようで、「大宰府MUSEUM]の中の「飛梅」によると、「伊勢度会(わたらい)の社人、白太夫という人が、道真を慕って大宰府に下る折、都の道真の邸宅に立ち寄り、夫人の便りとともに庭の梅を根分けして持ってきたそうです。道真は都から取り寄せたことをふせて、「梅が飛んできた」ということにした、ともいわれてい」るという。
 この頁の題名にあるように、実際に、「飛梅」が太宰府天満宮の本殿横に移植され残っているという。
 なお、この和歌については、「春を忘るな」と、「春なわすれそ」という表現がネット上でも混在している。どちらが正しいのだろう。
 ここでは、「菅原道真 千人万首」に依り、「こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな」を採っておく。
 このサイトでは、「ふる雪に色まどはせる梅の花鶯のみやわきてしのばん」など、道真公の和歌をじっくり鑑賞できる。

 肝心の和歌の詠まれた正確な月日は分からないが、話を「東風」に移す。

[追記:夜半になってさらにネット検索していたら、「左遷の日」ということで、次のような一文を見つけた:

 901(延喜元)年、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された。彼の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。
 これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになり、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とすることとした。
            (「今日は何の日 2005年01月25日」より転記)
 この後、飛梅伝説の話に移っていく。さて、小生はこの一文の典拠を見つけられないでいる。とりあえず、参考のため、この一文をメモしておく。]

「東風」とは、[ 花鳥風月 ]によれば、「西高東低の冬の気圧配置が、春型の移動性高気圧になってくるとその後には低気圧が発生し、日本列島では東方面から西に向かって風が吹き始めます。春風は一般的な呼び名だとすれば東風(こち)は、そのなかでも吹きはじめの頃の寒気がゆるんだ程度の風になるでしょう」という。
東風(こち)とは漁師ことばで春一番の前に「ふっ」と吹く風の事を」言うとか。
 いずれにしても、道真公が使った言葉なのだから、彼の生きた当時にはあった言葉、あるいは、彼の生きた地域(それとも宮中?)では使われていた言葉であることは間違いない。
 漁師の言葉だとして、それをも道真は知っていたのか、それとも、元来は漁師らの言葉であっても、教養ある人も使うような言葉として流通していたのか。

 では、「東風(こち)」の語源を探ってみよう。
 ネットで見ると、小学館「日本国語大辞典」からとして、以下の説が示されていた:

1.コチ(小風)の義。春風のやわらかなところから(大言海・音幻論=幸田露伴)。
コは小の義、チはシと通じ、シは、古く風神をいうシナツ彦・シナ戸辺のシナの略。シナはシナフ(靡)の略(名言通)。
2.チはハヤチ(疾風)のチと同じ(和訓の栞)。
3.ヒカチ(東風)の約転(言元梯)。
4.日の方から吹くチ(風)の意(日本語源=賀茂百樹)。
5.コはコホリ(氷)、チはチラス(散)の意(和句解・日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解)。
6.コチカゼ(来雨知風)の義(紫門和語類集)。
7.コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか(本朝辞源=宇田甘冥)。
8.キオキタチ(気起立)の義(日本語原学・林甕臣)。
9.コフキの反コヒの転。コは木の精で、虎のこと、虎がウソブイて風を成すといったか(名語記)。
10.ヒガシの原型ヒムカチの上略形カチがコチとなり、東風をコチカゼというようになったものの略(語源を探る=田井信之)。
11.「風+兌」(Ti)の上に「谷」の別音Koを冠らせたもの。「谷」は東風の称(日本語原考=与謝野寛)。
(「風+兌」はJISコードにない字のようです。「颱」の「台」を「兌」にかえた字です。)
                             (転記終わり

 集中の(7)「コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか」という説など、面白い。「こっち、吹いて来い」ってことだから、気持ちはよく分かる。犬の名前で、昔から「ポチ」が多かったのも、呼びやすいから…、親しみやすいからなのだろう(か)。
[ついでながら、いつだったか、「東風」を「こち」と読めることが嬉しくて、「こち」が「ポチ」にまで若干の飛躍をし、「ポチ鳴なかば思い起こせよ道の花主なしとて荷物忘るな」などと詠ってみたりしたことがあった(道の花とか、荷物の意味は、言うまでもないだろう)。]

 ところで、集中の(9)「コフキの反コヒの転。コは木の精で、虎のこと、虎がウソブイて風を成すといったか(名語記)」だが、ネットで調べると、「海外旅行紀行・戯言日記」の中の「風の呼び名(こち、あゆ、はえ、たま)-…」の中に、「東風」の「語源については、次のような出典もある様です」として、「東よりふく風をこちと名付く、如何。これを推するに、虎うそぶいて、風を成といへる事ある歟。虎は、木神なれば木也。こと言いつべし。ふき返りて、ひ也。こひとなる。こひをこちとばしいひなせる歟。 (『名五記』巻五)」なる一文が引用されていた。
 ネットで調べた範囲では、『名五記』という書名のほうが正しそうな気がする(例えば、「清風鈴虫」など)。
 同じく、「海外旅行紀行・戯言日記」の中の「風の呼び名(こち、あゆ、はえ、たま)-…」をさらに覗くと、「あい(え、ゆ)(東風)」という項があり、「中部地方、富山、福井県を中心に用いられ、東風のこと」と説明されている。
 さらに、「大伴家持が任地越中で、越中ではコチ(東風)の語がないことも珍しく思ったらしく「東の風越の俗の語に東の風をあゆのかぜと謂ふ」と言い、次のような和歌が残されています」として、次の和歌を示してくれている:

 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟(おぶね)漕ぎ隠る見ゆ

 小生、「あい(え、ゆ)(東風)」で、ビビビと来た。もしや、である。あの有名な民謡「あいや節」の「あい(や)」は、まさに、この「あい(え、ゆ)」なのではないか、と(さすがに、浜崎あゆみまでは連想しなかったが。「あゆみ」ちゃんの「あゆ」って、何を含意しているんだろう)。
 早速、ネットの強みで「あいや節」をキー-ワードにネット検索。すると、「津軽三味線と津軽民謡」の中の、「~~~~ プログラム ~~~~」に、「六、 津軽あいや節」という項があり、「津軽あいや節」は、「北九州市平戸島の田助港から発祥した」「はいや節」が伝わったものだと説明されている。これがさらに「津軽海峡を東へまわって、八戸に及んで「南部あいや節」となっている」とも。
 ドキドキ。
 解説の最後に、「ちなみに「あいや」の語源は、「みなみかぜ(南風)」のことを「はえ(南風)」と読むことがあって、この「はえ(南風)」という言葉がなまっていろんな所をまわり「はえ→はえあ→はえや→はいや(はんや)→あいや」と変化したと言う事です」とある。
 ビンゴ!

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季節のことのは・季語 春のことのは」によると、「東風(こち)」に関連する言葉として、〔西東風〕〔朝東風〕〔夕東風〕〔強東風〕〔雲雀東風〕〔桜東風〕などが挙げられていた。
「東風」については、まだまだ調べるべきことが多そうだ。
 疲れたので、またまた中途半端な調査に終わったけれど、これでお開きにする。
 尚、菅原道真公についての全般的なことを知るには、「菅原伝授手習鑑 - 文化デジタルライブラリー」がよさそうだ。
 菅原道真の足跡をたずねるなら、「e京都ねっと・京の歴史マップ・菅原道真「七条~御所」」がいいかも。

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コメント

実際に見たわけじゃないので、本当かどうかは知りませんが、
「飛び梅」は、天満宮の中でも、いち早く咲くのだとか。
アルバム「風見鶏」の「飛梅」の解説に書いてあったと記憶しています。
伝説が伝説を呼んで、なんとも素敵♪

天神さんは、大怨霊さんでもありますね。
田辺聖子さんがお書きになった「小倉百人一首」
の解説本(?)では、
くまさんだか誰だかに「辛気臭いおっさん」とこき下ろされています。
気の毒だと思いながらも、笑ってしまった私。σ(^^;)
天神さんの罰が当たっちゃうかなぁ。

投稿: Amice | 2005/03/08 17:59

Amice さん、コメント、ありがと。
京都の北野天満宮は参拝したことがあるけど、九州へは行ったことがない。実際に見てみたいね。見たよ!という記事はネットで幾つか見つかるけどね。
天神さんは、辛気臭いのは仕方ないね。怨霊伝説の見本みたいな人だから。
配流先でも女性への未練たっぷり。未練がましい男は女性には嫌われるんでしょうね。

投稿: 弥一 | 2005/03/09 14:08

 やいっち兄さま

 ご無沙汰をしております。硯水亭では大変お世話に相成りました。あれ以降こちらで書き続けていました。引越しも特にお知らせせず恐縮に思っています。御免なさいませ!又今夜の記事『飛梅伝説』をお読み戴いたようで恐縮でした。

 本殿の左横に垣根の中に飛梅があり、まじに最も早く咲く梅です。左近の櫻と同じように殿中から見て左になりますから、拝殿を前面にすると右になります。梅が枝餅は名産の焼き餅で大変美味しいものです。又ここの近くに九州国立博物館が既に稼動始めたのはご存知だったでしょうか。

投稿: 硯水亭 Ⅱ | 2008/02/24 23:57

硯水亭 Ⅱさん

来訪、コメント、ありがとうございます。

「硯水亭歳時記 Ⅱ」、10万hit、おめでとうございます。
数が全てではないと言っても、なんらかのアクセスがあって初めて何事も始まるわけですから、ひとつの通過点であっても、感懐はあっていいものと思います。

こうして旧稿にコメントがいただけるのも、日々、地味ながらでも弛まず書き続けているからこその賜物なのでしょう。

いよいよ梅の話題がちらほらする頃となりましたね。
近くを歩いても、今にもほころびそうな梅が方々に。
正直、桜(ソメイヨシノ)より梅のほうが小生は好きなのです。

九州国立博物館は、福岡県太宰府市にあって、東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館に次いで開館する、最も新しい国立博物館なのだとか。

太宰府は、北野天満宮もあるし、まして博物館が出来たとあっては、ますます訪れてみたい地となりました。
我が郷里富山も天神様信仰の強い地で、太宰府は気になる土地なのです。

投稿: やいっち | 2008/02/25 02:34

はじめまして。
いきなり失礼致します。

自分の苗字の由来を調べていたら、こちらのサイトに到達いたしました。東風谷って本名です。

どんなに調べても解らなかったのに、こちらには詳しく掲載されていて驚きです。(1,000くらいのサイトを覗きましたが、こちらが1番です)

苗字の由来ではなく東風の読みの由来でしたが、たいへん勉強になりました。
ありがとうございます。

投稿: 東風谷 | 2009/02/24 16:22

東風谷さん

ようこそ!

「こちや」さんなのか「こちたに」さんなのか、分かりませんが、珍しい名前かもしれませんね。
それだけに、由来とかあれこれ気になるのも分かるような。
「東風(こち)」は、由緒ある名称。それにちなむとは、ご先祖様も風雅な方だったのか、あるいは気象や季節に敏感であらねばならない仕事だったのか、小生としても関心の湧くところです。

投稿: やいっち | 2009/02/24 20:01

失礼しました。
こちや
です。
父の実家の野田には多い名前です。

谷を”や”と読むのは、東日本の方言だ。
というサイトもありました。
西日本では”たに”と読むそうです。

先祖は京都から流れてきたという親戚の酔っ払い話も聞いたことがあるので、昔は”こちたに”だったのかも知れません。

今後のご活躍をお祈りしております。

投稿: 東風谷 | 2009/02/25 17:38

東風谷(こちや)さん

いらっしゃい!

ご先祖さんは、やはり何か菅原ゆかりの方だったのでしょうか。
珍しい名前だと苦労も多いでしょうが、何処か床しくもありますね。

調べたら野田には東風谷という名を冠した会社もありますね。東風畑という地名も。

活躍…。まあ、淡々とやっていくだけです。
お互い、無事これ名馬でやっていきましょう。

投稿: やいっち | 2009/02/25 20:05

今年もようやくこの記事にアクセスが来るような時期になった。
といっても、冬は今が本番、一番深くきつい時期だし、春は未だ先で、足音さえ聞こえはしないのだが、だからこそ、春を待ち望む気持ちの昂ぶりに敏感になるのかもしれない。

投稿: やいっち | 2010/02/06 10:12

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