野蒜(のびる)
「野蒜(のびる)」は春三月の季語。その三月も今日で終わり。今日で今年も四分の一が終わってしまう。
早い! ちょっと待ってくれよ、と嘆きたくなるほど、年月の過ぎるのは早い。鈍足の小生には到底、追い着けないほど…。ホント、春の心はのどけからまし、である。
なのに、気が付いてみると、せっかちな小生も悠然と構える人も、若い人も老いた人も同じだけの歳月が過ぎ去っている。ゆっくり…というか、ダラダラと生きている小生のような人間の場合は、時間がゆっくり過ぎていくってことは、決してない。「野蒜(のびる)」を表題に選んだからといって、命が延びるようなことはまるでない。
自然のいいところは、そんな誰にもどんな物にも平等なところなのかもしれない。
花鳥風月。花というと、俳句の世界に限らず「桜」ということになるが、桜だけではなく、それぞれの季節に咲く花や目立つ鳥、虫、光景というのは、なんとなく罪なものだという気がする。
真冬には梅が待ち遠しく、いよいよ寒椿が赤紫の花を雪の白の合間に見せ、梅などほころび始めたかと思うと、次は桜の開花を待つ。今年など、寒気が日本の上空に入り込んだりして、今か今かと待つ人の待ちわびる心を甚振るかのように、開花の日が先延ばしにされる。
それにしたって、やがては咲くのだろうけれど、となると、花見で気忙しい日々を送る。満開の時期、散り始めた頃を見逃してはならない、場所取りだ、などとやっているうちに花見フィーバーは終わる。と、次は躑躅(ツツジ)などが町中、至る所に寒椿の赤紫よりやや淡いが、しかしコンクリートやアスファルトの灰色の世界、緑の葉っぱなどとの対比で目に鮮やかなことでは決して引けを取らない花の色の帯を延々と延ばしていく。
そのツツジが散り始める頃には梅雨で、早く鬱陶しい梅雨など終わって欲しいと思っているうち、もっと気だるく暑い夏が生を囃し立て煽り、弱き者を攻め立てる。気息も絶え絶えになってやっとサバイバルすると、九月の後半で、秋の夜長をどう過ごすかで頭を悩ます。
かと思うと、ゴマフアザラシ(?)の「かもちゃん」が現れたり、二足歩行(?)するタコがテレビやラジオで話題になったりする。
とにかく、気が休まる時など、花も鳥も虫も風景も与えてはくれない。日本人のせっかちな気性、物事を短期的に目先の現象で捉えてしまう性分というのは、こうした移ろいやすい風物に恵まれすぎていることに起因するのだろうか。
ま、そんな愚痴なのか、嬉しい悲鳴なのか分からない独り言はともかく、表題の「野蒜(のびる)」に取り掛かろう。
「ikkubak_0303」を覗いたら、「野蒜つむただただ天のあるばかり」(赤木和子)という句の季語に関して興味深い話題が坪内稔典氏により付せられていた。
「「野蒜摘む」という季語。野蒜は根を食べるから、「摘む」はおかしのではないか、という意見が出たのだ。それはもっともで、松本たかしには「野蒜掘れば強きにおひや暮の春」がある」というのである。
坪内稔典氏によると、「小さなラッキョウのような地下茎は掘るが、若葉は摘む、とあった。摘んだ若葉はぬた、和え物などにするらしい。というわけで、「野蒜摘む」という言い方の根拠が分かった」という形で決着(?)が付けられている。
実際、「俳句歳時記」の中の、「春の季語(動・植物編-50音順)」によると、「野蒜」の類義語に「山蒜(やまびる) 野蒜摘む」を挙げてくれている(「根蒜 沢蒜 小蒜」などもあるらしい)。
ここには、「葱に似た20センチほどの細葉で、辣韮に似た球根がある」といった解説が載っているが、より詳しく知りたい。
いつもながら素晴らしい画像を見せてくれる「北信州の道草図鑑 ノビル」を参照させてもらう。
野蒜(のびる)については、「ユリ科の多年草。広く山野に自生。地下に球形の鱗茎があり、細い長管状の葉は、長さ約30センチメートル。夏、花茎を出し、紫色を帯びた白色の花を開く。多くの珠芽を混生。全体にネギに似た臭気がある。葉および鱗茎を食用にし、根・茎を摺りつぶして外傷・打身などの薬用とする。ねびる。ぬびる。のびろ。古名、アララギ。( 広辞苑)」と説明されている。
「野蒜の花」となると、夏の季語扱いとなるらしい。夏といっても、五月の季語例のようだが。
「都城盆地植物愛好会」の「ノビル 野蒜」の項を覗く。野蒜の可憐な画像と共に、「由来:和名は野に生えるヒルの意味で、ヒルはネギ、ニンニク等の総称で、その語源はかめばひりひりと口を刺戟(刺激)するのでこういう」といった記述が目を引いた。
また、「北信州の道草図鑑 ノビル」では、野蒜の「古名、アララギ」とあるが、「平安王朝クラブ」の「野菜類 野蒜・蘭(あららき) 」の項を見ると、「ノビルの古名。『倭名類聚抄』では藤袴のこととしているが、『延喜式』では年間を通じて漬物に利用していることから、ノビルのこととみられる」という。
アララギ!
「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」の「あららぎ」を覗くと、平成9年末に廃刊となった短歌雑誌「アララギ」の誌名のこと、「アララギ」の語源のことなどの説明がある。
ここでは、「「のびる」は、「疎々葱(あらあらき)」でまばらに生える葱(キ)、(イ)「いちい」は、「アラハレギ(顕木)」の義((ア)(イ)とも小学館『日本国語大辞典』による)」とした上で、こじつけと思われるとして、サイト主の方の独自の説を示されている。
「一位 (いちい) 」を覗く。先に示した野蒜の画像とは大分、違う。なんだか、野蒜と一位の関係が見えなくなった。
アララギ派というと、正岡子規の唱えた写生の歌風を取り入れた歌人たちの一派で、斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明、原阿佐緒(彼女のご主人は、理論物理学者で歌人の石原純である)、中村憲吉などがいる。
アララギ派の人物と関わった人というと、数知れない。中でも小生の好きな歌人に吉野秀雄がいる。彼は次第に会津八一に傾倒し、のちに師事するに至る(拙稿である「吉野秀雄著『良寛』」を覗いてみるもよし)。
改めて、別のサイトで「野蒜」の姿を見てみる。「野びる」ここでは、「古事記」の中の有名な歌など載せてくれている:
いざ子ども 野蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道の 香ぐはし 花橘は 上枝(ほつえ)は 鳥居枯らし 下枝(しづえ)は 人取り枯らし 三つ栗の 中つ枝のほつもり 赤ら孃子(をとめ)を いざささば 良らしな 〈古事記「応仁記・髪長比売の項」〉
この歌謡の注釈などは、「応神天皇 千人万首」に当たってみるといいだろう(応仁記→応神記?)。
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コメント
拙ブログへのコメント,ありがとうございました。
実は,私は小学生のころ,こののびるがとても好きでして,学校帰りに毎日のように取ってました。
そういえば,うどやつくしもよく取っていました。
なんという小学生や‥‥(笑)。
それにしても,内容の濃いブログですね。
ウェブサイトに伺ったら,他にもいっぱい。
楽しみに読ませていただきます。
投稿: さっかん | 2005/03/31 18:45
さっかんさん、来訪、ありがとう。
さっかんさんのサイト、日々新たなアイデア(視点)でテーマを出されてますね。「ライシャワー事件」も、そういえばそうだったと改めて気付かせてくれました。
我がサイトは文章しかないので、ひたすら地味です。こうしたメッセージでサイトに膨らみを持たせてもらっているのです。
学校帰りにのびるやつくしやうどを採っていた。実に風流心のある小学生だったのですね。それとも、ませていた?
小生の学校帰りはどうだったろう。学校から我が家まで百メートルなかったので、道草するまでもなかったかな。
投稿: 弥一 | 2005/03/31 21:07