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2005/03/30

母子草…シャネル

s-DSC01412「母子草(ははこぐさ)」は、「御行 ほうこぐさ」といった類義語・関連語があり、「春の七草の一つ、茎の先端に黄色い小さな花を密集させて咲く」という。
北信州の道草図鑑 ハハコグサ」などでその可憐な姿を見ることができる。「キク科の越年草。路傍に普通で、高さ10~30センチメートル。茎と葉には白い綿毛を密生。春・夏に、黄色の小頭花を密につける。春の七草にいう「ごぎょう」で、若い茎葉は食用。ほうこぐさ。漢名、蓬蒿・鼠麹草(広辞苑)」とか。
「絵手紙 母子草(ははこぐさ)」を久しぶりに覗くと、「(前略)けれど、暖かくなり枯野だった空き地や庭の片隅に小さな緑が萌え出す。淡い黄色の小さな花、柔らかいうす緑色の葉、母子草の名がやさしいこの草に春の慈愛に満ちたやさしさがまるで母そのもののように思えた。
 名もない路傍の雑草は、心を止めてみなければ気づかないで通り過ぎてしまうだろう。あらゆる緑が萌え出すこの季節だからこそ、路傍の草花にも、美しさが見出せるのだと思い春の季語として読んでみた」と、いつもながらの詩文と共に、「その名にはやさしき響き母子草」という句と絵とが載せられている。

「母子草」は春の七草、だから春の季語。が、不思議なのは、「御行」といえば新年の季語だということ。
 小生、「母子草」と「御行」の関係が今一つ、理解できていない。
 さて、今日の表題に無理を承知で「母子草」を選んだのは、以下に採り上げる人物が、「母と娘の二世代にわたって時代に合う新しいファッションを提供した」稀有な女性だからということ、けれど、その出自においては、孤児院出身だったということ、親は行商で身を立てていたこと、また、愛人となって身を浮かび上がらせる切っ掛けを得るまでは、ひたすらに日陰の身だったし、時代に恵まれなければ、才能があったとしても、一生、浮かばれることがなかっただろう人物だったことを思ってのことである。

 安達 正勝著『二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ』(白水社刊)を読んでいる。
 キュリー夫人など、他の女性達のことは、別の機会(があったら)触れてみたい。
 この四人の女性達、世界の中から著者が選び出したのかと思ったら、そうではなく、二十世紀のフランスから選んでいたのだった。キュリー夫人がフランス…。勿論、ポーランドの出身である。が、活躍したのはフランスだったのだ。
 四人が四人とも興味があるが、今は、シャネルの章を読んでいるので、今日は彼女をちょっと採り上げたい。
 といっても、ファッションにもド素人の小生、ファッションについての薀蓄を語ろうというのではない。それでは騙りになってしまう。とりあえずは、彼女の人生と発想法に焦点を合わせる。
 ココ・シャネルについては、ネットで十分過ぎるほどの情報を入手できる。
 例えば、「ココ・シャネル Coco Chanel(1883-1971)デザイナー  自分を貫き通しモードの世界で女性を解放した獅子座の女」というサイトを覗くのもいいし、関連書籍等の情報も豊かな「ファショコン通信 」の中の「シャネル:CHANEL」を覗くのもいい。
 あるいは、シャネルの表舞台への登場の契機ともなったベル・エポックなど、もう少し突っ込んだ形でシャネルのことを知りたいというのなら、またしても、「松岡正剛の千夜千冊『ココ・シャネルの秘密』マルセル・ヘードリッヒ」を覗くに如くはない。
 今は、松岡正剛のサイトからの参照などはしないが、ただ一点、「日本のお姉さん、おばさんたちがシャネラーになったのは1983年にカール・ラガーフェルドがシャネルの主任デザイナーになってからのこと、それ以前はそんなことはおこりっこなかったはずである」ということ。
 つまり、今のシャネラーのシャネルではなく、あくまでココ・シャネルの目指したものに関心の焦点を合わせたいのである。

 ここでは、上掲書からの引用で、彼女についての全般的なことを示すに留める:

 パリが世界の「ファッションの都」になったのは中世以来のことだという。「ファッションの都」としての地位を千年以上も保ってきたのには、それなりの努力があった。『パリモードの200年』を書いた南静さんによれば、「フランス社会はそれぞれの時代を通じて、文学、美術、演劇など芸術各界の第一級の才能が、『モード』とよばれるこの小芸術の発展に参画し、協力し、著名な哲学者がこのうつろいやすい人間的な営みについて瞑想を重ねてきた」のだという。
 男社会から見て普通は、「軽薄なもの」とされがちなファッションがフランスでは重要産業の一つであり、歴代政府はモード産業の育成に努めてきた。ルイ十四世の蔵相コルベールは、「今日のフランスにとってモードは、スペインにとってのペルー金鉱のような位置を占めている」という言葉を残しているし、ファッションにはなんの縁もなさそうな、あの無骨なナポレオンでさえ、統治者としてオード産業に気を配らざるを得なかった。
 シャネルは、ただのデザイナーではない。反逆のデザイナーである。シャネルは、まだ社会階層というものが厳然として存在する時代に、人生の出発点において「孤児院出」という大きなハンデを背負わされた女性であり、デザイナーとしての原点にあるのも「時代と運命に対する反逆精神」である。
 今は《シャネル》といえば高級ブランドの代名詞だが、シャネルは最初はファッション界の反逆児、オートクチュールに挑戦する革命的デザイナーとして世に出てきた。「シャネルのデザイナーとしての特徴は何か?」と問われたならば、私はまずは、「シャネルは行動する女の時代のデザイナーだ」と答えたいと思う。
 シャネルがファッション界で最初の大旋風を巻き起こしたのは、一九二六年のことである。第一次世界大戦につづくこの時代、一九二〇年代は《狂った年代》と呼ばれ、女性の生き方が大きく変わった時代だった。第一次世界大戦は人類が初めて経験する国民総動員の戦争であり、しかもフランスの場合は、第一次大戦による社会的影響のほうが第二次大戦より大きいくらいだった。今でもフランスで「大戦争」と言えば、それは第二次大戦ではなく、第一次大戦を指す。
 この「大戦争」によるショックで、それまでの風俗習慣が崩れ、女性の生き方・行動パターンも大きく変わる。女性が外で活発に行動するようになる。仕事に関してもそうだが、ほかに、スポーツ(たとえば、テニス)が盛んになり、車の運転、さらには飛行機の操縦をする女性も現れた。
 女性が外に向かって動き始めたからには、服もまた変わらなければならなかった。
 社会の底辺から時代の動きをじっくり見つめつづけ、時代の趨勢を鋭敏に見抜く感性を培ってきたシャネルは、行動する女性の時代にふさわしい、シンプルにしてエレガントな新しいファッションを打ち出し、これが女性たちの圧倒的支持を受けたのであった。そして、こうしてシャネルが発表した服が現代モードの起点になっているように思われる。なぜかというと、この頃にシャネルが作った服は今でも十分に着られるのに対し(私は何人かの女性の意見を聞いた上で書いている)、シャネル以前の服を今着るにはかなりの無理があるからである。
 シャネルは、これから三十年後、もう一度ファッションに革命をもたらす。第二次大戦後、クリスチャン・ディオールら若い男性デザイナーたちが、行動する主体としての女性を無視し、女性の身体を束縛すようなファッションを流行させていることに激しい憤りを感じたシャネルは、おしゃれであると同時に機能的な服を提供しようとした。こうして産み出されたのがシャネル・スーツである。後で詳しくふれるが、シャネルには第二次大戦後に「対独協力者」として十年間フランスから追放されるという苦い経験がある。シャネル・スーツが長いブランクと周囲の敵意を乗り越えて発表されたものであることを思うとき、デザイナーとしてのシャネルの執念によりいっそう心が打たれる。しかも、この時、シャネルは七十一歳になっていたのである。有名デザイナーには事欠かないフランスにあっても、母と娘の二世代にわたって時代に合う新しいファッションを提供した例はほかにない。
 シャネルは、「女性」という言葉と「実業家」という言葉が結びつかない時代に実業家としても大成功をおさめ、《シャネル》という大企業をゼロから築き上げた。キュリー夫人に、最初は「第一級の科学者になろう」などという気がまったくなかったのと同じように、シャネルにも最初は「大企業の社長になろう」などという気はまったくなかった。キュリー夫人がいつの間にか大科学者になってしまったように、シャネルもまた、いつの間にか大実業家になってしまったのであった。
                        (転載終わり)

ココ・シャネル  自分を貫き通しモードの世界で女性を解放した獅子座の女」には、「パリ近くの城に住むバルサンという男の愛人になり、そこで知り合ったアーサー・カペルと恋仲になります。このカペルの出資でココは帽子屋を開業。つまり、ココのモード界での出発点は帽子屋だったのです。今ではちょっと意外な感じがしますが、アドリエンヌの19歳年上のの姉が非常に帽子好きだったことの影響とも言われています」とあるが、確かに姉の影響もあるが、そもそも帽子が当時の女性には必需品だったこともある。
 つまり、当時の女性は、肌の色が白いことが上流階級の女性の証(あかし)だったので、帽子は外出の際には必ず着用しなければならなかったのだ。
 ベル・エポックの時代にシャネルは遭遇しているが、麗しき時代という語意とは裏腹に、女性は肌の露出も許されず、腰はコルセットでギュッと締め付けられ(走るどころか早足も息が苦しくてままならない! 「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが映画の中でドレス(正装)を着る苦労を見せてくれたっけ)、足は踵も含め外に露出されてはならなかった。手にレースの手袋をしているのは言うまでもない。
 この点を本書から引用する:

 服を着ている当人は置物ではなく生きた人間だというのに、着心地や動きやすさといった点はまったく無視され、女性を飾り物として、ごてごてと飾りたてることだけが考えられていた。これは、女性が華やかで、か弱い存在であることが求められていたためで、自由に身動きできない女性が男性の助けを借りれば、それが従順さの印ともなり、女性にとっても一種の社会的特権になっていた。
 シャネルは前々からこうした服に反感を持っていた。
                             (転載終わり)

 また、「ココ・シャネル  自分を貫き通しモードの世界で女性を解放した獅子座の女」には、「ココは、本名をガブリエルと言い、フランス、オーベルニュ地方に生まれたと言われています。名前の由来はカフェで歌っていた時のもののよう。また、のちに彼女が『嘘つき』のレッテルを貼られる原因の一つには私生児だったこともあるようですが」とあるが、私生児だったからではなく、出自を隠したり、年を10歳若く偽ったりしたこと、そもそも女性が活躍すること自体が保守層には嫌われていたこともあったようだ。

 ココというのは、カフェで歌っていた時のもので、まさに本名のガブリエルに、彼女の出自とファッションの原点が嗅ぎ取れるような気がする。泥水を啜るような生活を通し、女性の生き方を徹底して考え抜き生き抜いた女性。
 ファッション論を戦わせるような能も知見もないが、ファッションは生き方と密接に相関しているとは思う。今の時代にシャネルとまでは無理としても、革命を齎すようなデザイナーはいるのだろうか。
 いるとしても、きっと、顰蹙を買っている、日向で目立つような存在ではないのかもしれない。
 でも、ファッションは必需のものだし、時代が揺れ動いていることを感じる小生は、ファッションの世界にも激変があってしかるべきだとは思うのだけど。

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