草萌(くさもえ)
「草萌え」は春の季語だが、2月の扱いのようだ。以前、既に、「下萌(したもえ)」という季語は扱っている。その際、 以下のように書いている:
表題の「下萌(したもえ)」は2月の季語であり、「早春の頃、枯れ草や残雪の中から草がわずかに顔を出し始めることを」言うとか。
「Sizuku ONLINE」の「絵手紙」という頁では、似たような言葉に、「草青む(くさあおむ) 畦青む(あぜあおむ) 草萌(くさもえ)」などがあるとした上で、「草萌という言葉は草の方に重点があり、下萌は下、つまり地に重きをおいた言葉であるといえる。早春、まだ冬枯れの大地から、草の若芽が萌えだすと路傍も庭も野原も春の訪れを示しているかのようだ。下萌はそのような季節の感覚を明瞭に表現する言葉である」などと丁寧に教えてくれた。
(転記終わり)
三月も下旬になって「草萌(くさもえ)」を表題に選んだのは、ネット巡りをしていて、我がお気に入りのサイト「季語の風景|草萌」で素晴らしい画像を見てしまったからである。
「草萌えの春の野は、冬に枯れた命が再び甦り、芽ぐみ、青み、若々しい生気がまさに育とうとしている。本格的な春到来の、ちょっと手前の初々(ういうい)しさ、瑞々(みずみず)しさが、人の心をいっそうわくわくさせるのだろうか」などといった、山崎しげ子氏(随筆家)の文章と共に、画像(写真部・河村 道浩)をまずは愛でるのもいいのでは。
さて、昨日だったか、車中でラジオを聴いていたら、小泉八雲と津波の話があった。
津波(TSUNAMI)は、小泉八雲が津波を日本語そのままに音声表記したため、国際的に通用する公用語になったという話などがあったようである。
仕事中だったこともあり、例によって聞きかじりになってしまったので、小泉八雲ファンの一人として、改めてここに若干のことをメモしておきたい。
同じ小泉でも小泉首相の談話をラジオで聞かれた方もいるかもしれない。
「小泉総理ラジオで語る(第23回)」では、「第23回 インド洋の大津波に支援の手をということで話があったようだ。小生は聞いていないが。
関連する部分を転記させてもらう:
日本には、昔から津波の被害というのはあったようですね。
先日もインドネシアの緊急サミットで、その話を、シンガポールの首相も知っていました。
今から150年前の1854年12月、和歌山沖で安政南海地震というのが起こったんです。地元の豪族、浜口梧陵(はまぐち ごりょう)という人が、地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見て、「これはきっと津波が来る。」と、「村人に知らせなければ。」というので、夕闇の中、取り入れるばかりになっていた大切な田んぼの稲むらに火を付けて、「この丘に上がって来い。」と、避難の道しるべにしたんです。
この話を、ラフカディオ・ハーンっているでしょう、日本語では小泉八雲、これを短編小説に書いて、それを子ども向けに書き改めたものが、「稲むらの火」という題で小学校5年生の国語の教科書に載せられていたそうなんです。これをシンガポールの首相が知っていたんですから。私、聞かれて、私も知っていてよかったですよ。そうなんだと。
(転記終わり)
文中、「稲むらの火」というキーワードが出てくる。知る人は知るで、有名な話だと思っておられる方もいるかもしれない。
この話の背景や概容、簡略化された話などは例えば、「稲むらの火 東南海・南海地震 津波の教訓 いなむらの火 浜口儀兵衛 小学読本」などで知ることができる。
この頁の最後に掲げてある話そのものは短いし、いい話なので一読されるといいだろう。
また、「東南海・南海地震襲来が懸念される今日、地震や津波災害啓発の書として、「稲むらの火」は優れた防災教材であり、名作である。「稲むらの火」教科書再掲載運動に賛同し、一部仮名遣い等を現代使用にして紹介する」という主旨も理解されるべきなのかもしれない。
「(濱口)梧陵の手記」もネットで読める。
ここでは紹介しないが、「稲むらの火」をアメリカに紹介したラフカディオ・ハーン(小泉八雲) の原作(原文)などは、「稲むらの火 webサイト」を参照にするのがよさそうだ。
この話は、「1854年(安政元年)12月23日、安政の東海地震(M8.4)が発生し、その32時間後に襲った安政の南海地震(M8.4)のときの物語である」という。
さて、先に転記した「今から150年前の1854年12月、和歌山沖で安政南海地震というのが起こったんです。地元の豪族、浜口梧陵(はまぐち ごりょう)という人が、地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見て、「これはきっと津波が来る。」と、「村人に知らせなければ。」というので、夕闇の中、取り入れるばかりになっていた大切な田んぼの稲むらに火を付けて、「この丘に上がって来い。」と、避難の道しるべにしたんです。」という一文を読まれて疑問に感じられた方もいるに違いない。
かのスマトラ沖の津波に関する報道で、津波の速度が(特に海底では)ジェット機並みの猛烈なものだと幾度となく聞いている。だとしたら、安政の東海地震も安政の南海地震も日本の近海が震源地なのだから、「地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見て、「これはきっと津波が来る」と思い、村人らに知らせようと稲むらに火を点けても、津波の襲来に到底、間に合うはずがないではないか。
そもそも東海地震は午前10時頃、南海地震は午後四時で(それぞれ旧暦の11月4日と5日に発生)、午前10時は明るいし、午後四時は秋の日は釣瓶落としといっても、宵の口にもなっていない。大火事ほどの火にならないと連絡になったかどうか。なっても、火事と思うだけではないか。
実際、ネットの世界では、「「稲むらの火」の疑問」という頁があったりするくらいだ。
そこで、上掲の「(濱口)梧陵の手記」を丁寧に読んでみる。すると、最初の東海地震のときは、「四つ時(午前10時)強震す。震止みて後直ちに海岸に馳せ行き海面を眺めるに、波動く模様常ならず、海水忽ちに増し、忽ち減ずること6、7尺、潮流の衝突は大埠頭の先に当たり、黒き高波を現出す。その状実に怖るべし」だったが、震源地(あるいは実際に発生した津波の到来地)は、濱口梧陵の地からは幾分離れていて、彼らには大きな災害を齎さなかった(但し、関連の地には甚大なる被災を齎した)。
が、二度目の南海地震の時は、「午後村氏2名馳せ来たり、井水の非常に減少せるを告ぐ。予之によりて地異の将に起こらん事を懼る。」と、予兆を感知していたようだが、「果たして七つ時頃(午後四時)に至り大震動あり、その激烈なること前日の比にあらず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を覆う。遥かに西南の天を望めば黒白の妖雲片片たるの間、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動静りたれば、直ちに家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に当たりて巨砲の連発するが如き響きをなす、数回。依って歩を海浜に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異変を認めず。只西北の天特に暗黒の色を帯び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに心気の安んずるの遑なく、見る見る天容暗澹、陰々粛殺の気天を襲圧するを覚ゆ。是に於いて心ひそかに唯我独尊の覚悟を定め、壮者を励まし、逃げ後るる者を助け、興に難を避けしむる一刹那、怒濤早くも民屋を襲うと呼ぶ者あり。予も疾走の中左の方広川筋を顧みれば、激浪は既に数町の川上に遡り、右方を見れば人家の崩れ流るる音棲然として膽を寒からしむ」だったのである。
つまり、濱口梧陵自ら、津波の被害に遭い、見聞し、九死に一生を得たのである。
では、「取り入れるばかりになっていた大切な田んぼの稲むらに火を付けて」云々の話はウソなのか。「「稲むらの火」の疑問」の中にもあるように、そもそも11月に「稲むら」があること自体、不自然ではないか、となってしまうのか。
手記の続きを読む。「瞬時にして潮流半身を没し、且沈み且浮かび、辛うじて一丘陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流される者あり、或いは流材に身を憑せ命を全うする者あり、悲惨の状見るに忍びず。然れども倉卒の間救助の良策を得ず」ということで、「一旦八幡境内に退き見れば、幸いに難を避けて茲に集まる老若男女、今や悲鳴の声を揚げて親を尋ね子を探し、兄弟相呼び、宛も鼎の沸くが如し、各自に就き之を慰むるの遑なく、只「我れ助かりて茲にあり、衆みな応に心を安んずべし」と大声に連呼し、去って家族の避難所に至り身の全きを告ぐ」だった。
家族の避難所を「匆々(そうそう)辞して再び八幡鳥居際に来る頃日全く暮れたり。是に於いて松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流屋の梁柱散乱の中を越え、行々助命者数名に遇えり」だった。
なんだ、「松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流屋の梁柱散乱の中を越え、行々助命者数名に遇えり」に過ぎなかったのか?!
その先がある。「尚進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲むらに火を放たしむるもの十余以て漂流者にその身を寄せ安全を得るの地を表示す」…。
おお、ここに「稲むら」が登場してくる。
「路傍の稲むらに火を放たしむる」などの結果、「この計空しからず、之によりて万死に一生を得たる者少なからず」だったのである。
けれど、「斯くて一本松に引き取りし頃轟然として激浪来たり。前に火を点ぜし稲むら波に漂い流るるの状観るものをして転た(うたた)天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲来前後4回に及ぶと雖も、蓋し此の時を以て最とす。・・・」
このように、津波の波涛の襲来は前後四回に及んだというのだ。
濱口梧陵は、「地震発生前にも私財で「耐久社」(現県立耐久高校)や共立学舎という学校を創立するなど、後進の育成や社会事業の発展に努めた篤志家」で、「地震発生当時34歳の働き盛り、自らも九死に一生を得た後、直ちに救済、復興対策(橋梁、堤防構築、失業対策等)に奔走」し、「翌年から4年の歳月、延べ人員56,736人、銀94貫の私財を費やして全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤「広村堤防」を築いた。これは津波で職を失った人を助けるとともに、1946年(昭和21年)に発生した昭和の南海地震津波から住民を守り抜いた」というのである。
自らが被災し、震災対策に私財を投じるなどして奔走したことが、つまりは、「稲むらの火」というキーワードに象徴されるようになったのだろう。
ただ、今一つ、11月の初頭(新暦では12月下旬!)になってもあったという「稲むら」がどのようなものか、ピンと来ない。
まあ、疑問は疑問として、この少なくとも当地では有名な話だが、さて、この逸話が現代に教訓として生かされているのか。どうやら、「Webコラム 一灯 稲むらの火 2004/09/10」によると、「(静岡)県内で活動する人形劇団の有志が「稲むらの火」を防災人形劇に仕立て、普及に乗り出した」りしたものの、「県民もヒヤリとした5日夜の紀伊半島南東沖地震で、津波警報が発令された愛知、三重、和歌山の沿岸市町村のうち、実に7割以上が住民に避難勧告を出さなかった、と報じられました。(静岡新聞9月8日夕刊)」という。
津波警報がちゃんと住民に伝わっているか否かも調べる必要があるだろうけど、伝わっても、住民が自らの判断で、避難勧告に従うか否かを決める傾向にあるらしいのである。
さて、表題の「草萌え」とは、まるで無縁の話になってしまった。ほとんど、冒頭に紹介した写真を愛でたいばっかりに採用したようなものだ。
地震や津波、その他で被災された方々にお見舞い申し上げると共に、「冬に枯れた命が再び甦り、芽ぐみ」「草萌えの春の野」とならんことをお祈りするばかりである。
明日は我が身なのだ。
加えて、肝心の小泉八雲についても、触れることが出来なかった。以前、雪女との絡みでこの季語随筆でも八雲に言及したことがあるので、取りあえずは、「雪女郎」を覗いてくれたら幸いである。
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コメント
知らないことが多すぎて恥ずかしいのですが
「稲むらの火」というお話は初めて聞きました。
確かに疑問といえるようなこともありますが
ここで言いたいのは、自分の財を捨てても尊い人の命を救うこと
そこだけではなくその先をも見て的確な判断をすることの大切さ
そういうことなんでしょうね。
今回の福岡地震では(我が家の実家があるのですが)
「まさか福岡で地震が起こるとは思わなかった」
と言うようなコメントをしている人が多かったですね。
建物も地震対策がなされたいないような感じもしました。
確かに地震の少ない土地ではあるようなのですが
「稲むらの火」はきっとこういう感覚の人間に
警鐘をならす意味でも語り継がれているのでしょうね。
わかりきったことを並べ立ててごめんなさい。
投稿: マコロン | 2005/03/25 23:14
マコロンさん、コメント、ありがとう!
「稲むらの火」、細かなことはともかく、多少の脚色はあっても、小学校などの教科書に載せたらいいと思います(もう、載っているのかな?)。
小生は、この話を採り上げることで、今以上に世間に知ってもらいたいと願って、細かな詮索などやってみました。
学芸会で小学生や先生、保護者等がみんなで演じてみるのもいいかも。
他の誰もが気付いていない事態を真っ先に知ってしまった人間がどのように行動すべきか。勇気の物語としてこれからも伝えていってほしいですね。
それにしても、いよいよ東海地震、南海地震など(関東も)切迫してきたようです。
三十年以内なんて、あっという間。子供たち、孫たちに待っている厳しい現実の一つです。
投稿: 弥一 | 2005/03/26 08:18
「草萌」の画像、見ました。
小さい草花たちの輝きが、とても美しい画像でしたね。
見落としたままでなくって、ほんとに良かった・・。
投稿: nazuna | 2005/03/31 14:42
nazuna さん、「草萌」の画像などを楽しませてくれる「季語の風景」は素敵なサイトです。写真集も出ているとか。
素敵なサイトを発見するのも、季語随筆の楽しみなのです。
投稿: 弥一 | 2005/03/31 21:09