春の月・春の星
どうも、せっかちなもので、春四月に相応しいような季語を表題に選んでしまった。曇りや雨でないかぎりは、春の月や春の星を愛でつつ、散歩などできたりする。夜は、時にまだ冷たい風が吹くこともあるが、それでも、一頃に比べたら随分とましである。
最初に季語随筆らしく、語彙の説明をしておくと、「春の季語(自然編-50音順)」によると、「春の月」とは、「朧なるを賞で、さやけきを賞でつのは秋の月」とあり、「春の星」については、「春の星はおぼろに柔らかい」とコメントされている。
「春の月」は、「春月」、「春の星」には、「春星 春北斗 春銀河 星朧」といった類義語があるようだ。
探すと、「朧月(おぼろづき)」という春の季語もあって、「月光がぼんやりと滲んだ春の月」と説明されている。類義語は、「月朧 朧月夜」だとか。
やはり、四月に入ったら、春の月や星をめぐっては改めて何かのテーマを設定して採り上げる必要がありそうだ。
ただ、一点だけ、触れておくと、朧(おぼろ)という言葉に類する(かのような)言葉に、「霞(かすみ)」がある。朧な月、春霞(はるがすみ)。一体、「霞」と「朧」とはどう違い、あるいは共通するのか。
ネット検索してみると、「goo 教えて!goo」の、「[教えて!goo] 大原や蝶の出て舞ふ朧月」という頁で、内藤丈草の「大原や蝶の出て舞ふ朧月」という句の解釈をめぐり、これらの言葉についても、説明が付されていた。
「「朧」(おぼろ)は、「霞」(かすみ)の夜バージョンの呼び名で、霧ほど濃くないかすみ方をしているもの」だという。
それよりも、この句について、まことに簡潔で明瞭な説明を施されていて、小生は、そちらのほうに感心してしまった。是非、当該の頁を覗いてみて欲しい。
参考に結論(?)の部分を転記してみると、「という感じで、山里の穏やかで暖かな春の夜、霞のかかった明るい月夜に、蛾が誘われるように飛び交う情景を詠んだ句だと思います。そこに、どんな思いを込めたのか、これはこれを読んだ人1人1人が感じるところがあるでしょう。純粋にその光景の美しさなのか、冬の終わりと春の訪れなのか(大原の冬は寒いですよね)、山里の自然の豊かさなのか、お寺での修行の合い間の息抜きの一コマなのか、いろいろあるんだと思いますが」とある。
別のサイト(「Mainichi INTERACTIVE 歳時記」の「旅の歳時記」)を覗くと、「朧月の夜に大原を歩くと、蝶がひらひらと舞っていました。能の舞台のような趣も漂う、美しい情景です。大原は、謡曲「大原御幸」などでもよく知られる『平家物語』ゆかりの土地。丈草は、『平家物語』の世界を幻想的に表現しています。」とコメントされている。
これは、どういう意味なのだろう。まさに「丈草は、『平家物語』の世界を幻想的に表現してい」るのか、それとも、『平家物語』の舞台としての大原を幻想的に表現している、ということなのか。
小生には、判断が付けかねる。
春の月の画像があればいいのだが、小生の腕前では月影は覚束ない。「夕方西の空が茜色に染まるころ、東の空を見るとオレンジ色のおおきな月が昇ってきていました。
さわやかな春の夕空にぽっかり浮かんだ月はとても風情がありました」ということで、「山梨県立科学館 サイエンス玉手箱 春の月」の画像があったので、ちょっと拝借というか、借景させていただこう。但し、案の定、四月の半ば以降の画像である。気の早い小生向き、ということか。
こうした表題を設定したのは、たまたまさきほど、随筆の館である「無精庵明月記」に「月影に寄せて」という随筆をアップさせたからである。
この稿は、一昨年の晩秋に書き綴り、メルマガに掲載したもの。小生が勝手にファンになった方への想いが募って一番、苦しかった頃に書いたものなのである。まあ、夢想的な恋文みたいなものか。
昨年、一年間を懸けて、思いは鎮まり、今はもっと大らかな気持ちになっている。「地上の星々」を緩やかに愛でるような気持ちなのである。
参考に、一部だけ、転記しておく:
小生は太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえないのかもしれない。
でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだとしても。
月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見えないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そして反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。
月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。
月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かばせる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
せめて、月の影ほどに、この世に寄り添いたいと思う。
太陽の光も素晴らしい。
けれど、陽光を浴びた月が惜しげもなくこの世に光を満たしていることを思うことも素晴らしい。
(転記終わり)
それにしても、春の空は何故に朧だったり、霞が懸かったりするのだろうか。野暮な小生のこと、つい先日の「山笑ふ・花粉症・塵」の中でも似たような疑問を呈している。
湿気が増すこともあるのだろうが、やはり、花粉症に代表されるように、植物や動物の活動(人間も!)が盛んになることに伴う、花粉・ゴミ・塵の類いの発生量の増大が原因として大きいのだろう。
上掲の日記でも紹介したハナ・ホームズ著『小さな塵の大きな不思議』(梶山あゆみ訳、紀伊国屋書店)を読むと、つくづく、その感を強くする。まして人間の活動が盛んになると、どうしても塵の類いの発生が膨大になってしまう。
そのうち、本書の感想文を綴ってみたいが、読みやすいので、一読を薦めるものである。
またまた、野暮な、季語随筆とは名ばかりの一文になってしまった。これじゃ、俳諧の道は遥かに霞んでいる。俳諧とは霞んだ道に行き倒れになることなのだろうか。
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コメント
こんな風に季語が並んでいるのを見ているだけで
日本人って感性が豊かなんだな~って思います。
(他の国を知らないので・・・)
それにしても今年は全国的に雪が降って
春が足踏みしているのかしら?
例年なら今頃の北海道はあちこちで道路の氷割りをしてる時期。
こういう風物詩も季語にはならないのかな?
その土地の人にしか解らないような季語は・・・無理ですね^^;
束の間の 陽射しを背中に 氷割り
投稿: マコロン | 2005/03/19 15:37
マコロンさん、メッセージ、ありがとう。
どんなローカルな風景、ローカルな風習であっても、いい句を作る人がいて、話題になって、などの条件が揃うと、季語例に入るかもしれない。そもそも多くの句は京都や主に江戸の地、乃至はその生まれの人、あるいはそうした場所や人の生んだ文化に関わった人が大勢を占めていて、そういった人たちが作った作品が主流になっていた結果なのだと思います。北海道や、まして沖縄などは、かなり通常の季語の季節感とずれていて難しいけど、努力している人はたくさんいらっしゃるようですし。
>束の間の 陽射しを背中に 氷割り (マコ)
泥濘(ぬかるみ)の道をはしゃいで園児たち (や)
投稿: 弥一 | 2005/03/20 05:12
朧月って、どこか艶めいた響きがあります。
源氏物語の朧月夜の君のエピソードのせいかもしれません。
小説と優劣つけがたく、マンガも好きなんですが、
源氏物語をマンガに書き上げた「あさきゆめみし」
で、右大臣の六の姫が光源氏に墜ちていく場面が
綺麗でした。
ってか、現代風の美人に描かれた姫君たちが素敵で♪
・・・朧月夜に似るものぞなき
さて、見かけはともかく、霞んだ夜にそぞろ歩いてみちゃおうかな。
投稿: Amice | 2005/03/20 23:27
Amiceさん、コメントをありがとう。
「さて、見かけはともかく、霞んだ夜にそぞろ歩いてみちゃおうかな。」って、書き込みは夜半前だけど、それからそぞろ歩きに行ったわけじゃないよね。
これから、そんな夜も増えるんだろうな。花粉症でさえなければ、じっくり楽しめるでしょうね。
源氏物語をマンガに書き上げた「あさきゆめみし」は、小生も知っているけれど、まだ、読んだ(見た?)ことがない。どんな姫君たちなのか、拝見したいものです。源氏物語への入門篇ということでなく、大和和紀さんの世界を楽しんでみたい。
投稿: 弥一 | 2005/03/21 03:49
冬の月、冬の星座、冬の空気は冴え冴えとして、澄んでいる感じがしますね。春のそれらはふんわり、やんわり、霞のせいばかりではない「柔らかな雰囲気」を持っている気がします。頭のほうもぼんやりしてたりね。
「教えてgoo」の句の解釈の方、きちっと科学的なお話で納得させ、情緒の面も忘れず、でも大切な「感じる事」は読み手にゆだねてる・・そういう説明の仕方、いいなと思いました。
作者のことをもっと調べていくと、確かに作者の意図した世界に近づく「解釈」はできると思いますが。
投稿: nazuna | 2005/03/23 10:04
nazunaさん、コメント、ありがとう。
句の解釈。自分なりに解釈したことを全て書き切るのではなく、読まれる方に想像と解釈の余地を残すように、そのための素材と情報提供に徹する…というのが理想ですね。
せっかちな小生にはできない芸当ですけど。
それにしても、夜昼のない、生活リズムの狂った生活をしている小生、霞も靄も朧も区別が付かない。寝ては夢、覚めてはうつつ幻の…、という状態です。
目は霞み頭は朧で心靄
我が頭年中春で目出度いな
春の夜の思いの深さに戸惑って
投稿: 弥一 | 2005/03/24 17:17