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2005/03/02

独活(うど)

 三月は、季語が多い。特に季節柄か、植物に関する季語が多いようである。季語例を見ていても、目移りするほどだ。
 そろそろ芽生えの季節、萌す時、下手すると芽が出せずに悶々したりもする季節である。が、現実はというと、冬に逆戻りしたような寒さである。
 花粉症に悩まされる人にとっては、もうしばらく寒いままでいて、花粉の飛ぶ時期が少しでも先延ばしになればと願ったりもするのだろうか。
 
 さて、季語例を見ていて、「独活(うど)」が目に飛び込んできた。お、小生、以前、「独活」を採り上げたことがある。それも、季語随筆ではなく、どちらかというと、駄文系の文章の題材として。
 書いたのは、「04/06/13」なので、まだ、俳句も川柳にも読者としてはともかく、実作するつもりなど、まるでなかった頃だ。
 川柳(あるいは俳句モドキ)の実作を手がけ始めたのは、翌月の七夕の前日、つまり六日だったのだった。
 当然、「独活」が季語だとは、まるで思いも寄らないでいたのだった。
 ホームページにも載せてあるが、多少、手直しして、ここにも載せておく:

「独活と竹の子」

 ことわざというのは、語感的に勘違いしそうな言葉だったりする。
 雨後と独活(うど)をつい、使い間違えて、雨後の大木とか、独活の竹の子、なんて、一瞬、口走っても、それほど違和感がない(小生の場合だが)。チラッと、「ウ…」と言いかけて、慌てて、脳裏を巡らせて正しい言葉の連なりを口にする。
 独活とか雨後なんて言葉を思い出したというのも、梅雨という季節のなせるわざなのだろうか。そこで、ちょっとだけ、独活とか雨後(の竹の子)について調べてみることにした。

 例によって、話の糸口に、下記の辞典を使わせてもらう:
食べ物ことわざ辞典

「独活(うど)の大木」
 身体ばかり大きくて、役に立たないこと。うどは高さ2mほどになる多年草。茎は太くて大きくなるけれど、食用にも木材にもならないことから。

 何はともあれ、独活の画像を見てもらおう。ホームページは、「季節の花 300」のようだ。

 このサイトによると、「独活」という言葉の由来は、「風のないのに動くように見えるので「うごく」と呼ばれ、しだいに「うど」になった。漢字の「独活」の字もそこから」という。
 但し、「本来は「生土」の意味で、土から芽が持ち上がるように出てくることを表わした名前」なのだという。
 別のサイトによると、「和名が埋(ウズ)から転じ、土の中の芽を食べることに由来することは、案外知られていません」というのだが…。
 更に別のサイトによると、「うど(独活)の名前の由来は、茎が生育すると中空になるので宇登呂(うどろ)と呼び、それからウドとなったと言われています」とあり、諸説紛紛のようである。
「春に若芽や茎の部分を食用にする」というが、小生は食べた記憶がない。「烏賊」と共に、独活の木の芽味噌」、あるいは「豆腐と独活のサラダ」などの料理があるようだ。はて、どんな味、食感なのだろうか。
 また、独活の根茎は、薬湯などの素材として使われるようだ。ちなみに、下記サイトによると、「シシウドの学名はアンゲリカといい、ギリシャ語のアンゲリスコやラテン語のアンゲルスに相当し、「天使」の意味を持つ。やはり、その薬効が著しいので、天使に例えられて、名付けられた」という。
 天使とは恐れ入った:
ネイチャーウオッチング 「夜空の花火のように咲くシシウド」

 では、問題の太く大きくなると言う茎の部分はどうなのかというと、そのように育つことのないよう、工夫されているようだ。
 例えば、下記のサイトにもあるように、「市場で扱われるのは栽培ものがほとんどで、軟化うど(軟白うど)と山うど(緑化うど)があ」り、「軟化うどは1年目に畑で根を育て、次に真っ暗な地下室などにその根株を植え付け軟白栽培される。平均1ヶ月、約80cm位で収穫される。全体が真っ白。根株は冷蔵保存され、ほぼ1年中栽培されている。
 山うどは、盛り土をしたりすることで一部を軟白して出荷される。先の方が緑色になるところから、軟化うどに対して緑化うどとも呼ばれる。約30-40cmで、軟化うどより香りが強い」という:
食材」の中の「独活

 ウドというと、誰しも、お笑いコンビのキャイ~ンのウド鈴木を思い浮かべてしまうだろう(それとも小生だけ?)。コンビ名のキャイ~ンは、決して、キャイーンではないのだとか。ナミセンの「~」にこだわりがあるらしい。
 ところで、キャイ~ンというのは、漫画などに使われる「ギャフン」同様、擬音なのだという。小生は、勝手に、「可愛い」→「キャワイイ」→「キャイーン」なのだと思っていたのだが、見当違いだったようだ。
 肝腎のウド鈴木のウドが独活(の大木)を意味的に借用しているのかどうか、確認することができなかった。

 さて、上掲の「食べ物ことわざ辞典」にて、「雨後の竹の子」を調べると、以下のようである:

 雨の後、竹の子が一斉に生え出すように、相次いで物事が発生すること。また、数が少なければ値打ちがあるが、たくさんになっては価値がさがる意にも用いる。

 本当に、一雨降るごとに(春の)竹の子は急に成長するのだろうか。確かに竹の子の成長というのは、時に怖いほどだったりする。
 小生が幼い頃、近所に竹薮があって、時折、それこそ竹の子の頭が土の表面にチラッと姿を見せている場面に遭遇することがあったりした。その竹の子、ガキの小生があれこれと遊び呆けていて、ふと、或る日、あの竹の子、どうなったのかなと見遣ると、昔日の(といっても、子供の時間感覚で昔日と表現しているのであって、実際には数日も経っていないはずなのだが)面影など見る影もなかったりするのだった。 この前、見たのは何だったんだ?!

 竹の画像を探していたら、下記のサイトを見つけた:
高間新治(たかま しんじ) 竹写
 どの写真も素晴らしい。最後のほうの、「筍の精」もいいし、そのものズバリの「竹」も、並みの水墨画を凌駕するような風情がある。

 ところで、竹の子と筍とは同じモノなのだろうか。単に表記が違うだけなのだろうか。
 ま、その前に竹の薀蓄などを見てみたい。ということで、「江戸東京重ね地図(ゆとりーと)」の「第15回 旬の筍(竹の子)」を読んでみた。
「品川区の小山一丁目、長応寺の裏に筍の碑がある」というが、何故、「筍の碑」などがあるのだろうか。「もともと孟宗竹は中国江南地方のもので、日本には全くなかったものだが、これが琉球を経て、薩摩に渡来したのが元文元年(1736)。この孟宗竹が江戸に伝来したのが約五十年後の寛政元年(1789)」という。
 調べると、碑とは、「孟宗筍栽培記念碑」と呼ぶらしい。
 そういえば、「安政二年の大地震の際に、孟宗竹の竹薮が地割れもなく安全であったことが一層これの栽培に拍車をかけた」というのは、何かの番組でだったかで、仄聞したことがある。
 かといって、何処にでも竹を植えるわけにはいかないだろうが。

 下記のサイトを見ると、筍(竹の子)にも、いろいろあると分かる:
鹿児島の竹
 孟宗竹は、「琉球を経て、薩摩に渡来したのが元文元年」というが、竹ということになると、「日本書紀」にも既に記載されているようだ。鹿児島の鹿児は、籠であり、「山幸は失った釣り針を求め無目籠{竹製}の船に乗って出かけ」たことに通じているとか。
 竹の歴史はさらに遡り、縄文式土器に既に竹を押し当てたような文様が見出されるという:
縄文式土器
縄文の風景-土器の発生
 縄文式土器と呼称されるけれど、「縄文土器もはじめは縄文を持たず無文、粘土紐を貼付した隆線文、爪や竹などの施文具を用いてハ字やC字形に刺突した爪型文などの紋様であった」という。

 それにしても、竹の子と筍の区別、あるいは区別などないのかが、分からない。「竹の子」でネット検索すると、「竹の子族のホームページ」をヒットしたりするが、彼等に尋ねるのも、筋違いだろう。

 と思っていたら、やっとヒントとなるサイトが見つかった:
きもね亭

 ここに、「漢字で書くと「竹の子」「筍」。字のごとく、竹の子供だから「竹の子」。「筍」と書くのは、成長が早く、地上に顔を出してから1筍(10日)で竹になることから」という説明があった!
 ここにもあるが、竹の子は時に一日に「1m以上も伸びるものもある」とか。「昼間の生長は特に早くて、1時間に8~10cmも伸びちゃう」とか。
 これじゃ、ガキの小生がビックリするのも無理はない。
 このサイトによると、竹の地下茎は数メートルにもなるとか。
 となると、竹の子は、雨後でなくても、ドンドン成長するのだろうし、雨が降ると、地味が豊かになって、一層、成長が促進されるということなのだろう。

 竹というのは不思議な…と書こうとして、はたと手が止まってしまった。植物なのはいいとして、草なのか木なのかが分からない。下記サイトによると、「竹は,草からも木からも大きく違っていますので,竹は草でも木でもなく「竹である」ということになりますが,いずれかのグループに入れようとすれば,年ごとに成長して伸びてゆくので,木のグループとみるのが当を得ていましょう」だとか:
竹文化〈竹の生態/竹は草か木か〉

 とにかく竹の生命力というのは、凄いの一言である。だからこそ、古来より、竹は神秘的で縁起の良い植物として珍重されてきたのだろう。松竹梅の一つにもなるわけだ。
 尤も、竹の生長する力も、時には厄介物だったりする。万が一、家屋の床下などに竹の子が芽吹きでもしようものなら、大変な事態がやってくることになる。気がつかないまま、数日間でも家を開けて、さて、帰宅してみたら、竹が床を破り、天井をも突き抜ける、なんて悲惨な光景を目の当たりにすることになりかねないのだ。
 独活も生長は、なかなかのものだが、ただ、せっかく育っても、茎の使い道がない。その点、やはり竹には敵わないようだ。語呂からしても、松竹梅はいいが、松独活梅では、納まりが悪い。
 でも、どちらも、工夫次第で食べられるし、役にも立つし、やや見落とししそうな独活も、名前からして、は、西欧では「天使」の意味を含むし、独活も竹も甲乙付け難いということで、本稿を閉じる。

                                (04/06/13)
(転記終わり)

 余談だが、上記の稿を書いて間もなく、「筍 の 家」という掌編を書いたものだった。

 
 さて、一読して分かるように、「独活(うど)」を扱いながら、季語だとか、俳句に絡むようなくだりは全くない。ひょんなことから手を染め始めた俳句(川柳)なのだが、一ヶ月前だとはいえ、風流めいた意識が皆無なのは、読んでいて我ながらおかしいほどである。
 ここで若干だけ、季語としての「独活」に触れておく。
 その前に、改めて、独活の花や実を見ておくのもいいかもしれない:
北信州の道草図鑑」の「ウド
 ここにもあるように、「ウド」は、「ウコギ科の多年草。山地に自生。茎の高さ約2メートル。葉は大形羽状複葉。夏、茎頭・葉腋に小白花が球状の花序をなして群がり開く。軟白栽培の若芽は食用とし、柔らかく芳香がある。根は生薬の独活(ドッカツ)で、発汗・解熱剤。 (広辞苑)」であり、「芽独活」「山独活」などと表記すると「春の季語なのだが、「独活の花」「花独活」だと、夏の季語になるのだとか。
秋桜歳時記」の「季語・春」を覗くと、独活の織り込まれた句がある:

  独活を掘る碇峠と云ふところ      渋谷一重
  独活掘りて母のおもかげ抱き戻る    嶋田つる女

現代俳句データベース」によれば、「もやし独活」「独活掘る」も、春の季語扱いのようである。
 他に、「流沙河通信 <群れと詩心> 小形さとる」の中に、以下の句が見つかった。語釈を参考にするといいかも:

  生涯を独活まで来たる思いかな       永田耕衣

 先に、独活の根が生薬になることを紹介したが、「佐藤院長の季節の小咄(37) 「ウド(独活)」」には、独活の薬効が更に詳しく述べられており、その上で、芭蕉の句が紹介されている:

  雪間より薄紫の芽独活かな     芭蕉

 ネット検索していると、子規が独活に絡めて箱庭的俳句を窘めている一文を紹介するサイトが見つかった(「私の俳句観について」の中にて。子規の「俳諧大要」からの引用のようだ)。
 当該の子規の一文を再引用すると、以下のようである:

終に小細工に落ちて活眼を開く時なし。初心の句は独活の大木の如きを尊ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくりたる松などを好むめり。しかり、宗匠の俳句は箱庭的なり。しかし俳句界はかかる窮屈なるものに非ず
(転記終わり)

 文章の脈絡などは、上掲のサイトを覗いてみて欲しい。

 独活のごと思いの丈をのびのびと
 独活のごと伸びんと思へど地を這えり
 独活ならん思いは縺れゆくばかり
 土の香を透き返らしてまっすぐと
 独活の大木さりながら草なのよ
 独活のごと一人立ちなど夢の夢

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