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2005/03/12

雪の果(ゆきのはて)

 今日の表題を選ぶのも迷ったり困ったりした。ある本を読んでの感想文を書こうという思惑(?)があって、そこへ繋げるには何がいいかとなると、なかなか適当な季語が見つからない。
 挙げ句、「春の光」にするか。重苦しかった冬が終わって春の光が差しかかってきて…というところから本のテーマに絡めて行こうかと思ったのだ。
 が、色の話に結び付けるということで、既に「春光」は使っている。では、どことなくユーモラスな感のある「山笑う」はどうかなどと物色しているうちに、「雪の果」が見つかった。ああ、これなら、なんとかなると即決。
 けれど、とんだ勘違いだった。
「雪の果」は、表題にあるように、「ゆきのはて」と読むのだ。小生は「ゆきのか」だと表記を見た時には勝手に決め付けていた。雪の中から顔を出す、何かの実、というのは、季節柄、まだ無理があるとしても、「果」に何かの植物の土の中からの芽生えなり命の萌しを象徴させているのではないかと、勝手に決め付けていたけれど、見当違いだったのである。
「雪の果」は、「ゆきのはて」と読むのであり、「[名残の雪忘れ雪]・・・春になって最後に降る雪をいう」とか。

萬緑へようこそ」というサイトの「バックナンバー」の頁の「3月の季語 雪の果  中村 弘」の項に、「雪の果」が扱われている。丁寧に、「春を迎えつつ寒の戻りを繰り返している時期に小雪が舞ったりする。降り収めとでも言うべき雪への詠嘆の響きがあるが、そのことは別れ雪、名残の雪などの傍題からも窺える」と説明された上で、「雪国の人々の日常性が紡ぐような言葉の広がりと豊かな抒情性を覚えさせる。 降る雪に鬱陶しさはなく、むしろ本格的な春への喜々とした雪片を思わせる。時には大雪にもなるが結果的にはそれが雪の果になって、気まぐれな早春を象徴しながら確実な春の到来を告げてもくれる。」と続く。
「残留の泪大粒雪の果」(千空)といった句も紹介されている。
 この季語の意味合いなどが分かっていたら、過日の週末の雪の日に、この季語を使っていたか、表題に選んでいただろう。無知は、困る。
 もう、三月も半ばなので、「雪の果(ゆきのはて)」など、使う機会もなさそう(願望を篭めて)。
 この季語は、ネット検索だとヒットする件数は少ない。けれど、思い入れされる方はそれなりにいる。たとえば、「Sizuku ONLINE」というサイトの、「絵手紙」という頁(多分、依然、言及したことがある)を覗く。
「春の雪」として、「春雪(しゅんせつ) 淡雪(あわゆき) 名残の雪 (なごりのゆき) 忘れ雪(わすれゆき) 別れ雪(わかれゆき) 雪の果(ゆきのはて) 」が示され、「名残雪・別れ雪・忘れ雪 この言葉にはなんともいえない趣があるような気がする。寒い冬を越え、緑の萌え出す季節を待ち焦がれていても、ふと巡り行く季節への惜別の思いが湧いてくる。  早々と咲き出した満開の紅梅に、純白の雪が降り積もる・・・四季のある国に生まれて良かったと思えた。 」といった詩文が続いている。
 勿論、絵手紙とあるように、幾つかの句と絵が添えられている。こういう手紙や葉書を出せたらいいな、と思う。
 こういうサイトを見つけたり、紹介できるのが、敢えて季語随筆と銘打っての一文を綴る、ちょっとした余得のような気がする。

 さて、小生が読了した本というのは、J・M・クッツェー著『エリザベス コステロ』(原書:J.M. Coetzee 鴻巣友希子訳、早川書房)である。
 本書の紹介は、リンクした頁の「オーストラリア生まれのエリザベス・コステロは、『ユリシーズ』に着想を得た『エクルズ通りの家』で世界的に知られる作家だ。六十も半ばを過ぎてなお、彼女は先鋭的な発言をし、行く先々で物議を醸す。ある文学賞授賞式のためにはるばる渡米したときは、スピーチやインタビューで棘のある言葉を吐き、付き添い役の息子とも意見を闘わせる。また文学講師を務める世界周遊の船では、旧知の作家と再会しても、彼の作家としての姿勢、文学論に異論を唱えてしまう。人道活動家の姉ブランチが住むアフリカでは神と文学まで話が及び、さらに神話やエロスについて考察を深める。文学シンポジウムに出向けば、批判的に取り上げようとした作家本人が出席することが判明し、角を立てまいとスピーチを書き直すべく徹夜するはめに…。」で、十分だろう。
 ちなみに、エリザベス・コステロはJ・M・クッツェーの創作上の人物であると同時に、この登場人物が書き手であるクッツェーを評するかのような言動を繰り広げているような構図が組み込まれている。なかなか入り組んだ構造の小説風の評論、あるいは評論という名の小説なのか。
 本書の裏表紙には、「1940年、南アフリカのケープタウン生まれ。コンピュータ・サイエンスや言語学を南アフリカとアメリカで学ぶ。1974年、『ダスクランド』で長篇デビュー。In the Heart of the Country(1977)とWaiting for the Barbarians(1980)で、南アフリカで最も権威あるCNA賞を受賞。1983年に発表した『マイケル・K』で、英国のブッカー賞、フランスのフェミナ賞を受賞するなど世界中で高く評価される。1999年発表の『恥辱』で、史上初の二度目のブッカー賞を受賞。2003年にはノーベル文学賞を受賞した。2002年よりアデレード大学の客員研究員となり、オーストラリアに住む」と著者が紹介されてある。
 が、この紹介だと、ノーベル文学賞を受賞した肝心の作品は何なのかが分からない。当然、銘記すべきはずなのに、不思議だ。出版社が違うから、敢えて書かないのか?!
 それは、『夷狄を待ちながら』 (土岐恒二訳、集英社文庫刊)である。小生は一年前に読み、感想文も書いている。あまり感心しなかった。なのにまた彼の本を読んだのも、図書館で借りられたからこそなのだと思う。
 で、今度もやはり感心せず。
 ただ、印象に残ったのは、フーゴー・フォン・ホフマンスタールHugo von Hofmannsthal(1874-1929)の『チャンドス卿の手紙』という作品からの引用文だった。本書の中の、この引用文に寄せた注によると、「チャンドス卿からフランシス・ベーコンにあてた手紙という形をとる、ホフマンスタールの作品。文学へのさまざまな問題提起をふくむ」とある。
 せっかくなので、その引用文を転記する:

 そんな時々には、取るに足らない被造物さえ、犬でも鼠でも甲虫でも、いじけた林檎の木でも、丘の上を越えてくねくねと続いていく荷馬車道でも、苔むした小石でも、わたしには、絶世の美女、世にも熱烈な恋人とすごす至福の一夜より、すばらしいものとなるのです。これら口もきけず、場合によっては生き物ですらない被造物は、かくも愛に満ち、愛をまざまざと感じさせながらせまってくるので、有頂天になったわたしの視界には、生なきものなどなくなってしまいます。何もかもが、この世にある森羅万象が、思いだしうるすべてのものが、すっかりとり散らかったわたしの思考がふれるあらゆるものが、何か意味をもつかのようになるのです。
(転記終わり)

 脈絡は一切、分からない。
 一読すると、この世界が光り輝く瞬間を表現して印象的だったりする。
 けれど、じっくり読んでいくと、おや、という気もしないではない。小生は、次第に引っ掛かるものを感じた。
 ここで日本人の多くの人、特に季語とか言葉とか自然とかに感受するような人たちなら、何も文学者に殊更いわれなくとも、こうした感覚は抱いているのではないか。彼らヨーロッパの人、キリスト教徒には、被造物であり、しかも、人間を頂点にした被造物たちであって、犬も鼠も甲虫も、下等な生き物ということになり、普段は愛に満ち、愛をまざまざと感じさせながらせまってくることなど、ないのだろう。
 甲虫に限らず、コオロギや鈴虫などの秋の虫たちに風情を感じる我々の感覚とは、根底的に違うのだろう。そんな下等な生き物にさえ愛を感じるほどに、「何もかもが、この世にある森羅万象が、思いだしうるすべてのものが、すっかりとり散らかったわたしの思考がふれるあらゆるものが、何か意味をもつかのようになるのです」という格別な一瞬。至高の時。
 以前、どこかで書いたが、庭先や田舎の小川の土手などで見かけたり、耳にしたりする昆虫達の健気な姿、特に虫の鳴き声に風情を感じるのは、大方の西洋人には奇異な事であるようだ。この感性の違いは、広く調査され研究されているのかどうか分からず、ギリシャ人のように、我々の多くと似たような感性を持つ人も欧米の一部には他にあるのかもしれない…。
(小生の「秋に鳴く虫」などを参照願いたい)
 俳句や和歌・短歌が広く好まれるというのも、人事だけではなく、森羅万象が輝きと命に満ちていると感じているからに他ならない。
 歳時記にしても、春夏秋冬に分類され、あるいは、「季語は時候、天文、地理、人事(人事はまたさらに季節の行事、衣食住、農耕、狩猟など細かく分類されている)、動物、植物、宗教などの項目に分類され」ている、その事実の意味するもの。
 森羅万象というとき、虫けらたちが除外されているはずもなく、植物達ばかりに焦点が合っているわけでもなく、花鳥風月であり、まさに森羅万象であって、星月夜、雪月花、路傍の小石、田舎道の電柱、街灯、郵便ポスト、古びて錆び汚れた看板、草むらに打ち捨てられた自転車や家具、食器……、もう、ありとあらゆるものが抒情の種なのである。
 というより、そのことに気付き、感じ入った瞬間から詩が始まり歌心が湧き出で、句が生れ、体が自然に踊りとなって動き出し、世界と交歓する喜びに没入していく。引用したホフマンスタールのあの一節は、発端であり端緒であり、句や歌や詩に馴染む人たちの日常的な光景であり当たり前の感情なのではなかろうか。
 こうした感覚を抱き表明したなら、ヨーロッパでは神秘主義的などと評されるのは必定のようだ。あるいはせいぜいロマン派か。ホフマンスタールもそのように見なされたようである。
 モルゲンシュテルン、シュタイナー、ハイネ、ゲーテ、バイロン、ゴーチェ、ノディエ、メリメ、ヘルダーリン……。
 被造物という思想・宗教は、大方の日本人には知識を持つ方はいても、馴染んではいないだろう。神さえ、地にあるのであって、下手すると被造物扱いだったりする。そう、虫けらも人間も神も木石も同じ目線の先にある。上下関係など、皆無。
 その全てが輝いているか、燻ってみすぼらしく見えるかは、その人次第なのである。

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コメント

はじめまして、【光と色と眼の雑学】の奥田と申します。
メルマガをお読み頂きありがとうございます。また先日の蜃気楼に取り上げて頂き、重ねて御礼申し上げます。

アクセス解析を見るのが遅く、御礼もきょうになってしまいました。

突然ですが、森羅万象をナウマン象って読んだ高校生が居たそうです。あぁ~その位柔らかい頭になりたいものです。すみません、雰囲気壊してしまって…

今後もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

投稿: Okuda | 2005/03/12 08:03

Okuda さん、コメント、ありがとうございます。
小生、メルマガの愛読者です。
メルマガの相互紹介をお願いしようかと思ったけど、今、サボりっ放しなので、それもできず、今は読ませてもらっているだけ。
「森羅万象をナウマン象って読んだ高校生が居たそうです」
 小生に言わせれば、そこまで読めたら、平均的な大学生より学力は上じゃないでしょうか。少なくとも、彼、高校生としては平均点をずっと上回っているものと推察いたします。

 読み方としては、「もりらまんぞう」とか「もりらましょう」とか、「もりらまぞう」など、いろいろありえるし、そもそも、「森」や「羅」などをそれなりに読めるってことが立派。
 日本の若者、見所があります。日本の将来は安泰ですってば。

投稿: 弥一 | 2005/03/13 12:13

今、気付いたのですが、「森羅万象」に振り仮名を付さなかった小生の落ち度です。ルビを添えるべきでした。早く、ルビの振れるネットにならないかな。
ついでながら、「やいっち」の名をクリックすると、「大 手 小 町」の「発言小町」へ飛べます。驚天動地、抱腹絶倒の読み方事例集が楽しめます。

投稿: やいっち | 2005/03/13 12:20

果てという響き、なぜか好きなんです。
世界の果て、とか、地の果てとか、
とぉ~~~~~~~~い感じが好きなのかなぁ。

などと、浸っていたのに、
大手小町に飛んで、死ぬほど笑いました。
まだ、途中なんですけど、
ブックマークして、また読みに行こうと思っています。
苦し紛れの回答が、自分でも、経験があるだけに
余計におかしくって、おかしくって…。
ちなみに、我が旦那様、カタカナが苦手。
音楽の問題で、
四季を作曲したのは誰か?に
堂々と「ばべるでぃー」と書いたそうで。
しかも、×を貰っているにも拘らず、
合ってるじゃないかと抗議しに行った!
一刀両断されて、帰ったそうですよ。ふふ。

投稿: Amice | 2005/03/13 14:43

「大 手 小 町」の「発言小町」よかったでしょ。
あそこを読むと、森羅万象をナウマン象と読むなんて、優秀なほうなのだと分かると思います。もっと、日本の歴史に詳しい人なら、森羅万象を森蘭丸の異なった表記だと言い張るかもしれない。
自分の高校生の頃はどうだったか。本は少しは読んだけど、ルビの振ってある本を選んでいたような。漫画の本とか。

旦那様はカタカナが苦手だったとか。
でも、人間性がカタクナな小生より、ましでしょう!

投稿: 弥一 | 2005/03/13 19:42

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