春の川(はるのかわ)
今日の表題を何にするか、迷った。
今日、3月10日は、ひとそれぞれに銘記すべき何かがあるのだろうが、大きく日本ということになると、東京大空襲の話題を逸するわけにはいかない。季語随筆には、あまりに似つかわしくない題材だが、小生は季語ということで、花鳥風月のみを事とするようなつもりはないので、多少なりとも触れておきたい。
が、さて、東京大空襲は、さすがに季語ではない。多くのことが語られ、書かれ、話題になってきたはずなのに、俳句の世界の対象ではない、ということなのだろうか。
飛躍を承知で小生は敢えて「春の川」を選んだ。この季語は、春三月の季語である。「春雨や雪解水等で春の川は水嵩が増す。やがて落花を浮べ筏が始まる。」ということで、「春江(しゅんかう)」という類義語があるようだ。
東京大空襲のあったのは、昭和20年の3月10日だが、実際には前夜からアメリカ軍の作戦は始まっている。
「昭和20年3月9日22:30警戒警報発令、二機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心した10日00:08に第一弾が投下された。東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らない。00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた」というのである。
そして、「各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入した。都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40(平方km)の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた。折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされた」のだった。
上掲のサイトには、「幼子を背負ったまま焼かれた母親の背は白い、そして子供は・・・/浅草・花川戸」といった写真も載っているので、是非、見てもらいたい。
犠牲者は「縁者が引き取った遺体 約20,000人 無縁仏・行方不明者 約88,000人」だという。焼け出された人は、三百万人以上という。
東京に限らないが、戦争に借り出されるような人材の大多数はおらず、老人・女性・子供・病人など非戦闘員が犠牲者の大半だったわけである。
「東京都慰霊堂」には、「第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました」といった碑文が銘記されているとか。
さて、このように、死者・犠牲者が追悼されているが、軍人・軍属の戦没者は年金その他の補償があるが、戦災の犠牲者は、扱い上は行き倒れだという。
これでは、追悼の碑は、ただのリップサービスではないかと勘ぐってしまう。
この東京大空襲の日、永井荷風の偏奇館も炎上した。
「3-10 Today 東京大空襲、偏奇館炎上 (1945)」から、「この日の『断腸亭日乗』の記述」の一部を転記させてもらう。是非、サイトに飛んで全文を読んで欲しい:
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思い、早くも立迷ふ煙の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難しかるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火がありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃がしやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、余は風の方向よと火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもすこし知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮宅の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて來り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ、余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館樓上少からぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり、
この抜粋についてのコメントも同上のサイトに書いてある。一読の価値がある。
尚、永井荷風の『断腸亭日乗』については、小生にも、「荷風散人『断腸亭日乗』雑感」といった拙稿がある。
[ 東京都港区にある港郷土資料館(電話:3452-4966)では、「企画展 永井荷風と東京大空襲」を開催中。「永井荷風は、大正9年(1920年)~昭和20年(1945年)まで「偏奇館へんきかん」と名付けた居宅に暮らしました。区教育委員会は今年度、永井荷風旧居跡(六本木1-6先)を区指定文化財(旧跡)に指定しました。企画展では、偏奇館時代の荷風の様子や、荷風が港区を去る要因となった東京大空襲の様子を探ります」という。2月22日(火曜)~3月21日(月曜・振替休日) (05/03/11 追記)]
3月10日は、前日に続き、快晴だったようである。空襲した人たちは逃げ惑い、防空壕などに隠れたりしたのだろうか。あるいは、窓などを塞いで灯りが洩れないようにして、空襲の時の過ぎ去るのを待ったのか。
その日の空襲は、江東区・墨田区・台東区などの下町が中心だったという。あの辺りの、雪解けの水など流れていた川に死体が浮かんだりしたのだろうか。喉の渇きを癒すため、敢えて川の水を飲んだ人がいたのだろうか。
ということで、無理無理とは思いつつも、今回の表題を「春の川」にさせてもらった。
今年は、東京大空襲から60年で、空襲の悲惨さを今にして語り始める人も居る。あまりのことに、今まで口を開くことができなかったのだろう。
「東京大空襲から60年、海老名香葉子さんが慰霊碑」という記事を覗くと、「1945年3月10日の東京大空襲から60年がたつのを前に、落語家の故林家三平さんの夫人でエッセイストの海老名香葉子さん(71)が建てた犠牲者の慰霊碑が完成し、9日午前、台東区内の寺で除幕式があった。上野公園には、平和を祈念する母子像も建立し、同日午後に除幕式を開く。海老名さんは「長年の念願がかなった」と話している」という。
慰霊碑などに要する費用は、「いずれもイベントで寄金を募るなどして、海老名さんが」用意したという。
「海老名さんは60年前には静岡県に疎開。本所区(現墨田区)に住んでいた両親ら家族6人を東京大空襲で一夜にして失い、戦災孤児になった。家族の遺骨はいまも見つかっていない。「若い世代にも東京大空襲を語り継ぐきっかけとしたい」との願いを込めた」というのである。
「次代へ: 東京大空襲60年 折り鶴の平和のオブジェ、あすお披露目 /東京」と題された記事を覗く。
「東京大空襲のあった3月10日に墨田区役所で披露される、折り鶴約15万羽で作られた「平和のオブジェ」。折った人の思いが込められた鶴を、1枚ずつ作品の形に張り付けていく13人の制作ボランティアの中には、都外から1人参加した静岡県浜松市の鈴木厚子さん(63)の姿もあった」という。
日本は、犠牲者であるばかりではない。中国や朝鮮など主にアジア各国の人々に対しては、加害者の面を持つ。例えば、日本軍は中国だけで二千万人の中国人民を殺害したとされる。
さて、小生は今、常石敬一著の『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書)を読んでいる。
常石敬一氏というのは、オウムによる松本サリン事件、地下鉄サリン事件などの際に、オウムが使った毒ガス兵器を説明してくれた方だった。
本書は、カバー裏の内容説明を転記する:
日本は大陸で何をしたのか?軍医中将石井四郎と医学者達が研究の名で行った生体実験と細菌戦の、凄惨で拙劣な実態。残された資料を駆使して迫る、もう1つの戦争犯罪。戦争は終わらない。
告白――何度も人体実験をしたが、印象に残っているのは最初のものだ。1942年2月に山西省の陸軍病院に勤務して1月半後に、院長から「手術演習」の通告を受けた。……午後1時からというのをわざと遅刻をした。……今思って異様なのは、その場にいた皆が2人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。……1人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。……彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を覚えていた。その彼の胸を開け、内蔵を次々に取り出していった。もう1人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー」と泣きわめいた。看護婦は「麻酔をする、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと自分を見たのだった。それは自分を仲間と思ってなのか、それとも軍医さんは度胸がないねと思ってなのか、その意味は分からない。1度やるともう平気になる。3回目には進んでやるようになった。
(転記終わり)
一読して分かるように、実際に人体実験に関わり自らも手を染めた方の告白なのである。
銃を中国人に打ち、頭蓋の中の弾道を検証したり、腹に撃ち込み、外科医たちが銃弾を如何に早く摘出するかの練習を行ったという。おぞましいことに、生きている人に打っての実験だったのである。
弾丸を取り出す手術にあぶれた軍医たちは、中国人の「四肢の切断や、気管切開をし」ていたという。しかも、そんなことは当たり前の光景だったというのである。(p.97)
ところで、本書を読んで驚いたことがある。驚く小生が無知なのかもしれないが、以下の記述が引っ掛かったのである。
つまり、「(前略)八月十五日を敗戦の日というのは不正確で、この日は天皇が、連合国軍に対してこの日から一方的に停戦することをあらかじめ通報した上で、日本軍全体に停戦を指示した日にすぎない。停戦の日と言うべきは、東京湾のミズリー号上で降伏文書に調印した九月二日だ。」(p.29)という記述である。
小生は法的なことは分からないでいる。法的(正式)にはやはり、降伏文書に調印した日こそが敗戦の日ということになるのか。これは、調べてみる値打ちがありそうだ。
本書『七三一部隊―生物兵器犯罪の真実』については、後日、また、触れることがあるかもしれない。
七三一部隊については、「七三一部隊の簡単な歴史 常石敬一」という頁がある(「季刊『中帰連』WEB」より)。
また、七三一部隊というと、かの薬害エイズ事件とも無縁ではない。「薬害エイズと日本の医学者 七三一部隊の陰を引きずったミドリ十字」というサイトを覗いてみて欲しい。
七三一部隊の残党は、多くが免責された結果、堂々と戦後の日本で<活躍>していったのである。
本日は、いつも以上に野暮な季語随筆となった。けれど、小生は、俳句であっても、政治・経済・歴史・思想・文化・風俗、勿論、日々のささやかな随想や出来事も含め、あらゆることが対象であるべきだと考えている。どこかに俳句の世界があるのではなく、世界が俳句の対象であり、俳句は世界を可能な限り写し取るものでありたいと思うのだ。
美醜も愚劣も耽美も瑣末も退屈も歓喜も驚異の念も詠まれていい。
ただ、それが小生にできるかというと、それはまた別の話だ。たとえ非才と分かっていても、やるだけのことは試みてみたい。
春の川全てを呑んで流れ行く
春の川天上天下流すのか
行く川の流れの先の遥かなり
海の水天の飛沫も併せ飲む
滔滔と流れる春の川澱む
春は名のみの川の激しかり
春の川日の光をも弾くかも
春の川日の光をも呑み込んで
春の川オレの息吹と流れ行く
春の川光の海と競うごと
サンバチームのメンバーである小生、ホントは、3月8日の「サンバの日」に寄せて、ちょっと書いてみたかったのだけど、また、来年だ。
ところで、サンバって季語…じゃないよね。仮に季語にするとしたら、いつがいいのか。夏?
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コメント
弥一さん、こんにちわ。
弥一さんの こちらの記事を読んでいるうちに、どうしても東京都慰霊堂に行きたくなって、さきほど行ってきました。
弥一さんの記事を紹介させていただいた記事をTBさせていただきました。
行くきっかけを与えてくださって、本当にどうもありがとうございました。
投稿: きのこ | 2005/03/10 15:42
きのこさん、TBありがとう。
このような記事を書いていながら、小生は先ほどまで仕事。ラジオで東京都などで行われる追悼式の様子を聞いているだけでした。
お父様には実体験があるのですね。
小生の郷里は富山ですが、富山も大空襲があり、3千人が亡くなりました。我が家も全焼したとか。土蔵だけは焼け残ったのですが、土の壁には十数年前までアメリカの戦闘機に機銃掃射された弾痕が残っていました。
尚、記事に今、追記しましたが、東京都港区にある港郷土資料館(電話:3452-4966)では、「企画展 永井荷風と東京大空襲」を開催中だとのこと(3月21日まで)。
小生の方からもTBさせていただきます。
投稿: 弥一 | 2005/03/11 07:54
戦争時における人間の狂気というものは、
想像をはるかに超えます。
それは、何処の国の人だからとか、肌の色がどうだとか、
そう言うことは一切関係なく、
人の命に手を掛けるという行為が(たとえたった一度でも)、
人の心の芯の部分を吹っ飛ばすのだと思えます。
恐竜に理性があったとは思えません。
理性が無い上に、生きるための弱肉強食の殺戮と
理性を持っていながら行う殺戮と。
一体、どっちがより残酷なのか。
春の川から想像した
♪ 春の小川はさらさらいくよ ♪
の雰囲気とかけ離れた日記でした。ショッキング…。
投稿: Amice | 2005/03/11 23:00
「春の川から想像した
♪ 春の小川はさらさらいくよ ♪
の雰囲気とかけ離れた日記でした。ショッキング…。」
Amice さん、ごめんね。
でも、身元不明で葬られた死体が多かったという事実を厳粛に受け止めたいだけなのです。
そのうち、もっと軽快な内容のものも、書くからね。
投稿: 弥一 | 2005/03/12 04:30
本稿「春の川」から独立させた書評エッセイ「常石敬一著『七三一部隊』」に大幅の加筆を施しました。小生の名前をクリックすれば、その頁に飛べます。
投稿: 弥一 | 2005/03/19 12:56
ブログへの書き込みありがとう!
東京大空襲、これは、最初から市民をターゲットにした空襲ですよね。東京を焼け野原にされても戦争をやめようとしなかった当時の陸軍は、本土決戦を唱えて最後の最後まで、頑張りすぎ、結局、広島、長崎に原爆を落とす口実まで与えてしまった。
それにしても、市民をターゲットにした焼夷弾攻撃で日本の主要都市を全て焼け野原にし、原爆まで落としたアメリカと日本は一番仲がよく、牛肉の輸入問題だけでなく、全て、アメリカの言うことは何でも聞く。アメリカにとって、こんな都合のいい国はないでしょうね。そんな日本に中国や韓国の人たちは驚いているんじゃないですかね~。
投稿: よーさん | 2006/03/13 17:39
よーさん、ここでははじめまして!
レスもありがとう。
太平洋戦争で天皇制が残ったこと、戦犯の訴求が甘くなったこと、そして何よりアメリカの圧倒的な力に畏怖し平伏したこと、また、戦後のアメリカの占領政策が(イラクなどに比べて)戦略的に巧みだったことが、アメリカへの反感どころか親近感を抱くようにさえなった。戦後、アメリカ産のホームドラマや映画をどれほど見せられ魅せられたことか。
しかも、戦後日本で唯一、独自の海外戦略を持った田中角栄氏はアメリカに一気に潰されてしまって、もう、日本の政治家はアメリカに逆らうどころか独自に戦略を持つという発想すら完全に萎えてしまったのですね。
仲がいいというより、怖いの一言でしょう。
靖国云々は別にして、日本の近隣は中国であり韓国(朝鮮)であり、東南アジアであり、ロシアなのだと小生は思っています。近所付き合いをおろそかにしていいはずがないのではないでしょうか。
投稿: やいっち | 2006/03/13 19:22