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2005/03/08

啓蟄の春・二十四節気

 昨日辺りが、「二十四節気(にじゅうしせっき)」で言うと、「啓蟄」に相当するらしい。
 らしいというのも、情ない話だが、もとの暦や換算の都合もあって、一日くらいは前後するのだという。「国立国会図書館 「日本の暦」―暦の中のことば 二十四節気」の説明を参照させてもらうと、「二十四節気(にじゅうしせっき)は、今でも立春、春分、夏至など、季節を表す言葉として用いられています。1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもので、「節(せつ)または節気(せっき)」と「気(中(ちゅう)または中気(ちゅうき)とも呼ばれる)」が交互にあります。」とか。
 いずれにしても、雨水(うすい)である「2月18日~3月4日」から、春分(しゅんぶん)である3月20日までの間、つまり「3月5日~3月19日」の間は、「啓蟄(けいちつ)」のようである(「PLANT A TREE PLANT LOVE - 二十四節気」参照)。

 ただ、気になるのは、上掲のサイト(「PLANT A TREE PLANT LOVE - 二十四節気」)などで、「日本には「何月何日というデシタルな暦とともに、「立春」とか「清明」「白露」などの美しい言葉で示される「二十四節気」という暦があります。 四季に恵まれたこの国では、「二十四節気」によって、自然の再生循環と季節の移ろいを身体全体で感じ、 自然との共生をしてきたのです。」といった説明があること。
 四季があること、季節の移ろいを感じてきたのだろうということ、などは小生として、否定はできないところだ(だからといって、肯定も素直には難しい)。
 実際、この「二十四節気」は、「農作業の目安として中国で作られたもので」、「もともとは古代中国の黄河流域の季節に基づいているために、日本に置き換えると多少ずれが感じられ」る点は、留意しておいていいのかもしれない(「JWA Home Page 二十四節気」を参照)。
 尚、二十四節気については、「こよみのページ」が詳しい。

 さて、小生には、「秋が芸術の秋ならば…」と題した、まさに「啓蟄の頃」を扱った小文がある。あやうく駄文になりかけている、随筆の瀬戸際にあるような文章なのだが、表題に引き続いて「春は啓蟄の春だ。啓蟄は、冬ごもりしていた虫が這い出るという意味らしいことは」云々となっている。
 その一文は、作成が(03/03/23)の日付となっている。
 さすがに、啓蟄の時期からは過ぎ去っていることは気付いているようだが、この言葉が季語だとも、二十四節気のうちの一つだということにも言及していない。というより、まるで関心の外だった。僅か二年前、されど二年なのである。
 以下、少々気恥ずかしいが、ここにホームページから再録しておく。その上で、多少、付言することがあれば、一言くらいは書き足すかもしれない:

「秋が芸術の秋ならば…」 (03/03/23作)
 春は啓蟄の春だ。啓蟄は、冬ごもりしていた虫が這い出るという意味らしいことは無学な小生も知っている。辞書によると太陽暦の3月6日頃だという。とっくにその時節は過ぎているのに、今年はやたらと寒く感じるのは何故だろう。昨年が暖かすぎた、その反動なのだろうか。
 昔、小生がまだ前髪の上げ染めし頃、というかガキの頃、啓蟄という言葉を聞いて、なんていやらしい、助平ったらしい言葉かと思った。人前でケイチツ(啓蟄)なんて、口に出していいのか、不審に思った。
 どうやら、チツという言葉の響きに過敏に反応していたのだ。それに、チツの、小生が思い浮かべていた(その実、正体を知らなかった)それを漢字では、 膣と表記することを知らなかったこともある。
 が、いつしか膣という表記も実態も知ってからも、チツという言葉を特に耳にすると、そこはかとなくムラムラしてしまう。こそばゆいような、あるいは面映いような感じがしてジットしていられなくなる。
 秋は芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、などと比較的前向きというか、どこか秋の風情に深く沈潜するような高尚な感じが漂うのに比べて、春は啓蟄の春。 生命の芽吹き、緑の葉っぱの輝く時、数々の花々の開く時、梅からやがて桜の開花する頃となり、卒業と入学の季節を迎え、心、浮き立ち、あるいは色、華やぐのに、どこか陰鬱な、それとも憂愁の感が漂うのは、何故だろうか。
 敢えて言うなら、秋は夏の盛りを過ぎて、火照った体も徐々に色褪せ始め、やがて来る冬を前に、身構えるような、身も心も閉じざるを得ないような、命の終わりへの傾きの予感めいたものを覚えるからなのかもしれない。
 だから、自然、心に深く沈湎する。
 しかも夏の湿気も吹き払われて、憂愁を胸に抱えているのだけど、カラッとしているので、何処か透明感めいた印象を人に与えるのかもしれない。
 春は、一方、湿気を次第に帯び始める。木には樹液が濃密に満ち始め、鬱蒼と生い茂る草には鼻にムンと来る草いきれが溢れ出す。そう、透明なる憂愁というより陰に篭った憂鬱という言葉が相応しい。
 では、その春の憂鬱の正体とは一体、何なのか。
 やはりそれは、横溢する命であり、しかも若い人に時ににきびが噴き出すように、生命の賛歌が晴れやかに生気として発散するに止まらず、樹液のように生命が濃縮され、胸のうちになど到底、抱えきれないほどに充満し、やがて爆発してしまうのだと思う。
 それが春なのだ。
 ある程度、年齢を経てくれば、渇いた肌、枯れた心にほどよい潤いを与えるかもしれないが、若いとなると辺り構わず生命のエキスを撒き散らしてしまう。陰陰滅滅たる憂鬱な気分は若さの証明でもある。などと、取り澄ましておれないほどに、炸裂する生命力は大地を駆け巡る。溢れる命を喚き立てる。
 などと言いながら、小生は、そんな時節は過ぎたような、過ぎていないような中途半端な年代にいる。人生五十年のほとんど壁際に来ていて、一昔前なら余生をどう生きるかの算段をしなければならない頃合いのはずである。
 なれど、青春の息吹とは程遠いにも関わらず、未だに陰陰滅滅悶々鬱々と悶絶の日々を送っている。涸れるなど、遥かに遠い状態である。
 だから、年甲斐もなく、秋が芸術の秋ならば、春は啓蟄の春などと語呂合わせなど、恥ずかしげもなく(いや、少々恥ずかしげに)人前で繰り広げてしまう。
 きっと、人は生きている限り途上にあるのだと思う。若いから前途有望で、年老いたからあとは余生を、などというのは、そんなことを考えるゆとりも含めて、時代錯誤になったのかもしれない。
 明日のことは分からない。板一枚下は地獄か極楽か。一寸先は闇か曙か。
 昔、誰かが春は曙、云々と表現してくれた。夜が明け染める頃を「春は曙 やうやう著(しる)くなりゆく山際 少し明かりて 紫だちたる雲の 細く棚引きたる。」などと素敵に表現してくれていた。
 秋は人肌が恋しくなる(小生はいつも恋しいが)。涼しげな夕べに人待ち顔の人がいる。夏とは違う、厚めの布団が恋しくなる。
 が、春はつい、布団が暑苦しくなる。跳ね除けたくなる。夜明けを待って目覚めるなどという悠長な気分ではいられない。そう、かの古(いにしえ)の方にとっても、啓蟄の春だったのだ。
 ただ、小生は野暮天だから啓蟄の春と思い、かの方は春は曙と表現する。意味合いは似たり寄ったりのはずだ。なれど、心に感じる深みに彼我の差があるのには、忸怩たる思いがあるとしても、致し方ないのだろう。
                           (転記終わり)

 こういった感覚を表現するのは、「啓蟄や神出鬼没の偏頭痛」(青木凛)というのとは、やや違うだろう(「インターネット俳句大賞・八木健選・4月の結果」から。相変わらずユニークなサイトだ)。この句は、痛みが鋭角的で若さを感じる。小生の場合、もう少し、鬱屈している。
 まして、「啓蟄の地となり天となりにけり」(杉浦東雲)とは大違いである(「秋桜歳時記」の「季語・春・時候」の頁より)。それほど、突き抜けた心境ではない。頭の天辺か、そうでなかったらお尻の一部が地面から顔を覗かせている。けれど、体の大半は土中で世間の様子を伺っている。
 実に中途半端なのである。
 あるいはネットでは、「啓蟄や闇と闇とが絡み合ひ」などといった句が見つかる(「WEB 575 Internet Haiku Magazine」の「私的季語辞典」にて)。いいなーと思ってしまう。羨ましさの念を以って。闇に潜むまではありかもしれないけれど、息苦しくて、もう、狭っ苦しいなかでモゾモゾするのは、御免被るとか。そう、啓蟄なんだから、息をさせて欲しいのである。この句を詠んで、こう感じてしまうというのは、小生の体力が持たないということなのか…。
 
 この啓蟄という言葉、地味そうでいて、結構、人気があるようで、当該の季語(例えば、啓蟄)と季語の二つをキーワードにネット検索すると、大抵は数百のサイト(それも五百以下)をヒットするのに、「啓蟄 季語」だと、1,850 件中も検索結果を得た。
 そんな中、「三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています」という頁を覗くと、「土中に蟄伏して冬眠してゐた蟻や地蟲の類が春暖の
候になつて、その穴を出づるのをいひ、又啓蟄といつて直に穴を出る蟲をいふこともある。暦でも二十四気に啓蟄といふのがあつて、丁度三月五日頃、蟲類の穴の出る頃にあたる。地蟲穴を出づ。地蟲出づ。蟻穴を出づ。地蟲。」と説明されたあと、啓蟄という言葉の織り込まれた句が幾つも紹介されている。
 この言葉は、句作の心を喚起する力があるのだろうか。
 ついでながら、この頁には、「東風(こち)」の説明とともに、同言葉の織り込まれた句が紹介されている。前日の「東風吹かば」の際には、あまり句を紹介できなかったので、ここに参考例のあるサイトを紹介できて、一安心である。

 それにしても、やはり、小生の感覚を表現してくれる句には出会えなかった(それとも、発見できなかった)。

 啓蟄の目覚めの音の鬱陶しや
 啓蟄の晴れがましさの眩しさよ
 啓蟄を晴れ晴れ迎えし若さ憂し
 啓蟄を恥ずかしげに読む若き時
 啓蟄や弱きの虫も湧き出でて
 東風吹いて命の息吹蘇れ
 東風吹かばそれはそれでやれやれだ
 東風吹けど我が思(も)う人は西になく
 東風吹けどビルの谷間で乱れ気味
 東風吹いてスカートの裾翻れ
 東風詠んでその続きに窮しける

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コメント

春と言えば、花です。
寒い頃の梅から始まって、空気の色を変える桃。
そして、春を宣言する桜。
地べたすれすれに咲くのは、いぬのふぐり。
シロツメクサに、タンポポに、春紫苑。
そして、気が付くと、初夏になっていて、
どろろ~~んと溶けそうな夏になります。

そして、春といえば、蛙です。
里の春は、轢き逃げされた巨大蛙の道のしみ。
そして、たま~~~に蛇。

あら?詩的じゃなくなっちゃいました?

投稿: Amice | 2005/03/08 18:11

春といえば……

 野球。田舎に居た頃は、雪が溶けてきて、ベタベタのグラウンドとか原っぱで野球ができるのが嬉しかった。他に鬼ごっことか缶蹴りとか縄跳びとか。

 蓮華草。雪が溶けて茶色と白の斑な田圃は一面の蓮華草。蓮華草の首輪とか小生も作ったっけよ。

 花見と酒と入学式。その前に卒業式もあるのか。あ、入学試験があった。小生、中学まではススーと上がれたけど、高校は青色で、大学は吐息で、今じゃ、溜め息の人生だ。

 引越し。秋などに越す人も居るんだろうけど、大概は春。これまで何度、引越しをしたんだろう。東京だけで四度。別に夜逃げしたわけじゃないよ。

 転入学。高校一年の途中だったかな。終わり頃だったか、気になるあの娘がさ、何処かへ転学しちゃったよ。小生、サッカー部で、練習してたら、見にきてくれたっけ。名前も覚えているよ。
 え? もう、忘れろよって。はい!

 万年筆と腕時計。高校入学のお祝いにもらった。大人になった気分。今じゃ、万年筆がキーボードに、腕時計をしなくなって五年以上経つ。
 いい万年筆、欲しい。

 煙草と珈琲。小生、真面目なので大学に入って、すぐに煙草を覚えた。嬉しかったね。ちゅうか、大人になったって感じた。あの頃は喫茶店も多かったし、ジャズ喫茶、クラシック喫茶で珈琲と煙草で何時間も。
 思えばリッチな時を過ごしていたんだ。

 恋。惚れっぽいっちゅうか。振られてばかりだけどさ。

 教科書。もち、入学(進学)の時は新品で、勉強嫌いの小生も新品の教科書を目にした時だけは神妙な面持ちだったのだ。でも、卒業(進学)の頃には、ボロボロに。勉強して、じゃなくて、落書きだらけ。漫画が多かったような気がする。

 桜。大学に入り、4月の17日に有名な観光地のお寺へ遊びに行った。すると、桜が満開で。今まで最高の桜吹雪の場面も。
 それにしても、どうして桜見物に酒が付き物なのか。sakura saku sakeってこと? だったら、鮭でもよさそうなものだ。

 

投稿: 弥一 | 2005/03/09 14:27

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