« 2005年2月 | トップページ | 2005年4月 »

2005/03/31

野蒜(のびる)

「野蒜(のびる)」は春三月の季語。その三月も今日で終わり。今日で今年も四分の一が終わってしまう。
 早い! ちょっと待ってくれよ、と嘆きたくなるほど、年月の過ぎるのは早い。鈍足の小生には到底、追い着けないほど…。ホント、春の心はのどけからまし、である。
 なのに、気が付いてみると、せっかちな小生も悠然と構える人も、若い人も老いた人も同じだけの歳月が過ぎ去っている。ゆっくり…というか、ダラダラと生きている小生のような人間の場合は、時間がゆっくり過ぎていくってことは、決してない。「野蒜(のびる)」を表題に選んだからといって、命が延びるようなことはまるでない。
 自然のいいところは、そんな誰にもどんな物にも平等なところなのかもしれない。
 花鳥風月。花というと、俳句の世界に限らず「桜」ということになるが、桜だけではなく、それぞれの季節に咲く花や目立つ鳥、虫、光景というのは、なんとなく罪なものだという気がする。
 真冬には梅が待ち遠しく、いよいよ寒椿が赤紫の花を雪の白の合間に見せ、梅などほころび始めたかと思うと、次は桜の開花を待つ。今年など、寒気が日本の上空に入り込んだりして、今か今かと待つ人の待ちわびる心を甚振るかのように、開花の日が先延ばしにされる。
 それにしたって、やがては咲くのだろうけれど、となると、花見で気忙しい日々を送る。満開の時期、散り始めた頃を見逃してはならない、場所取りだ、などとやっているうちに花見フィーバーは終わる。と、次は躑躅(ツツジ)などが町中、至る所に寒椿の赤紫よりやや淡いが、しかしコンクリートやアスファルトの灰色の世界、緑の葉っぱなどとの対比で目に鮮やかなことでは決して引けを取らない花の色の帯を延々と延ばしていく。
 そのツツジが散り始める頃には梅雨で、早く鬱陶しい梅雨など終わって欲しいと思っているうち、もっと気だるく暑い夏が生を囃し立て煽り、弱き者を攻め立てる。気息も絶え絶えになってやっとサバイバルすると、九月の後半で、秋の夜長をどう過ごすかで頭を悩ます。
 かと思うと、ゴマフアザラシ(?)の「かもちゃん」が現れたり、二足歩行(?)するタコがテレビやラジオで話題になったりする。
 とにかく、気が休まる時など、花も鳥も虫も風景も与えてはくれない。日本人のせっかちな気性、物事を短期的に目先の現象で捉えてしまう性分というのは、こうした移ろいやすい風物に恵まれすぎていることに起因するのだろうか。
 ま、そんな愚痴なのか、嬉しい悲鳴なのか分からない独り言はともかく、表題の「野蒜(のびる)」に取り掛かろう。

続きを読む "野蒜(のびる)"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/03/30

母子草…シャネル

s-DSC01412「母子草(ははこぐさ)」は、「御行 ほうこぐさ」といった類義語・関連語があり、「春の七草の一つ、茎の先端に黄色い小さな花を密集させて咲く」という。
北信州の道草図鑑 ハハコグサ」などでその可憐な姿を見ることができる。「キク科の越年草。路傍に普通で、高さ10~30センチメートル。茎と葉には白い綿毛を密生。春・夏に、黄色の小頭花を密につける。春の七草にいう「ごぎょう」で、若い茎葉は食用。ほうこぐさ。漢名、蓬蒿・鼠麹草(広辞苑)」とか。
「絵手紙 母子草(ははこぐさ)」を久しぶりに覗くと、「(前略)けれど、暖かくなり枯野だった空き地や庭の片隅に小さな緑が萌え出す。淡い黄色の小さな花、柔らかいうす緑色の葉、母子草の名がやさしいこの草に春の慈愛に満ちたやさしさがまるで母そのもののように思えた。
 名もない路傍の雑草は、心を止めてみなければ気づかないで通り過ぎてしまうだろう。あらゆる緑が萌え出すこの季節だからこそ、路傍の草花にも、美しさが見出せるのだと思い春の季語として読んでみた」と、いつもながらの詩文と共に、「その名にはやさしき響き母子草」という句と絵とが載せられている。

「母子草」は春の七草、だから春の季語。が、不思議なのは、「御行」といえば新年の季語だということ。
 小生、「母子草」と「御行」の関係が今一つ、理解できていない。
 さて、今日の表題に無理を承知で「母子草」を選んだのは、以下に採り上げる人物が、「母と娘の二世代にわたって時代に合う新しいファッションを提供した」稀有な女性だからということ、けれど、その出自においては、孤児院出身だったということ、親は行商で身を立てていたこと、また、愛人となって身を浮かび上がらせる切っ掛けを得るまでは、ひたすらに日陰の身だったし、時代に恵まれなければ、才能があったとしても、一生、浮かばれることがなかっただろう人物だったことを思ってのことである。

続きを読む "母子草…シャネル"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/29

春の野…愛・地球博

「春の野」とは、春3月の季語であり、〔春野〕〔春郊〕〔弥生野〕といった関連する語がある。意味合いは、字義から予想される通りのようで、「草萌えの始まった野、野焼きを終えた野、すみれやれんげの咲く野、ひばりの声高く鳴く野、いろんな春の野が想像できます」とあるのも、素直に受け止められる(「季節のことのは・季語」より)。
草萌(くさもえ)」や「青き踏む(踏青)」もニュアンス的に近いようだ。
 ついでながら、「青き踏む(踏青)」の項では触れることができなかったが、「★俳句レロレロ★ AAKO 's lasy days」の中の、「今日の俳句 2005.3.24」によると、「陰暦三月三日に野宴を催し、青々とした草を踏む中国の行事が元なのだけどその日に限らず、春の野を散策することを言う」のだとか。
 この頁では、「難転ずる石有り薩摩の青き踏む」という句が掲げられていて、「難転ずる石」はこれ、という画像も見ることができる。

「春の野に」と来ると、万葉集の中の有名な歌をすぐに思い浮かべられる方もいるだろう。そう、山部赤人の歌である:

 春の野にすみれ摘みにと来し我そ
       野をなつかしみ一夜寝にける   山部赤人 巻八 1424

 小生の語源探索癖で、「スミレの語源は大工道具の墨入れ(墨壺)の形に似ていることに由来するそうだ」などと注釈を加えておくのは、野暮だろうか。
 
 あるいは、「春の野」というと、百人一首にも加えられている光孝天皇の歌を思い起こさずにはいられない方もいるのだろう:

 君がため春の野に出でて若菜摘む
         我が衣手に雪は降りつつ    『古今集』春・21

 前にも紹介したが、「季語の風景|草萌」の写真は、草萌えの光景であり、「春の野 新たな命の営み」の画像でもあったのである。

 いずれにしても、「春の野」を句に織り込むには、こうした伝統を踏まえておくのは当然として、あからさまにではなくとも、どこかしら滲ませるうように句を吟じるほうがいいのだろう。
 こう考えると、なかなかに難儀である。

 さて、小生が「春の野」を表題に選んだのは、春の野の光景も素晴らしかっただろう、愛知県瀬戸市にある「海上の森」(かいしょのもり)で今、まさに、「愛・地球博」が開催されているからである。
 その会場を、どんな気分で散策したらいいのだろう。

続きを読む "春の野…愛・地球博"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/28

薔薇の芽それとも青いバラ

 表題の後半を「青いバラ」にしたけれど、別に小生が青いバラの現物を見たわけでも、まして、作ることに成功したわけでもない。
 単に、最相葉月著『青いバラ』(小学館刊)を読んだので、魅惑のタイトルを使ってみたかっただけである。
英語で「Blue rose(青いバラ)」は「ありえないもの」を意味」するとか。
 不可能という花言葉を持つ幻の青いバラ、ということか。
 バラは、「冬薔薇」だと、冬の季語である。「薔薇」だけだと、夏の季語。「薔薇の芽」だとだとか。
 この「薔薇の芽」という言葉については、「春の雨」の項で、「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」という正岡子規の歌を紹介した際にも登場していたことを覚えておられる方もいるだろう。
 
 桜は、ようやく堅い芽が解きほぐされつつあるようだ。都内だと、各地にチラホラと早咲きというのか、気の早い桜が咲き始めているのを、先週の金曜日だったかに見ることができた。
 薔薇の芽のほうは、小生、確かめてはいない。誰か、見かけた方がいたら、教えて欲しいものだ。
 さて、明日(既に本日だ)は、全国的に雨模様のようだ。この分だと、桜の開花は、幾分、遅れそう。
 月曜日の夜半になり、雨が上がった頃、開き始めた桜と月、という光景を愛でることができたらいい…。それを楽しみに、仕事に励もう!

続きを読む "薔薇の芽それとも青いバラ"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/27

お知らせ:TB企画「桜月夜の記憶」

131moonつきのくさぐさ」variousmoon様の企画です。
名前の示すとおり、お題は「月」と「花」。要領などは、下にもコピーしておきましたが、詳細は、「つきのくさぐさ」サイトを覗いてみてください。頁のトップに銘記してあります。期間は、「桜前線が日本列島を北上し終えるまで」だとのこと。作品は写真や文章などでもいいのだとか。

夢音の木」のhirononさんにお誘いいただきました。

[以下は、企画の主宰者である「つきのくさぐさ」さんからのテンプレート(コピー)です]:

 TB企画“桜月夜の記憶”へのトラックバック募集中!!

 お月さまはいつでも空にいらっしゃいますが、
 花は盛りのときがわずか。
 雪・月・花と並び称される日本の美。
 そのうちの2つを、春らしく味わおうではありませんか!

 トラックバックのやり方は、この記事のトラックバックURL↓
 http://kusagusa.exblog.jp/tb/1761377
 をコピーの上、ご自分のトラックバックしたい投稿の”編集”をクリック
 →トラックバックURLにさきほどのURLをペーストして”送信”です。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

卒業

「卒業」が春三月の季語だというのは、あまりに尤もすぎる。日本的というべきか。
 小生自身の卒業というのは、あまりいい思い出がない。小学校も中学校も、高校も、卒業式の日は、一人、学校をあとにした。
 大学も留年したこともあり卒業式を迎えることなく、青葉山のキャンパスを悔しい思いなどを胸にテクテクと降りていったものだ。
 卒業とは言うものの、一体、何から卒業したのか。ただ、心太(ところてん)式に後続する者たちもいるし、追い出されただけではないか…。
 それでも、開放感だけはたっぷりと味わったような気がする。
 
 この季語「卒業」の類義語には、「卒業生、卒業式、卒業期、卒業証書、卒業歌」などがあるようだ。
 卒業の意味(意義)についてはともかく、「卒業」という季語の意味は、説明を要しないだろう。

 さすがに、卒業は多くの人に馴染みの体験、光景であるようで、「卒業 季語」でネット検索すると、今まででは、一番多い検索結果の約 15,900件をヒットした。
 卒業の織り込まれた句も多いようだ。どれか掲げようと思ったが、あまりに多くて眩暈しそう。
 ここでは、「ikkubak」から一つだけ、載せさせてもらう。小生の苦い卒業の思い出に比べ、晴れ晴れしている、いや、眩しすぎる!:

 黒板をぬぐえばみどり卒業す  三宅やよい

 敢えて、小生の卒業時の気持ちを表すかなと思う句を挙げておくと、「卒業やそれぞれ風の中へ散り」だろうか。句の載っているサイトの評釈とは違う理解を小生はしているのだけど。
 
 さて、別窓は、昨日以上に野暮な内容。でも、卒業して社会に出た時、世間や社会、そして世界がいかに広いかに驚かれる人も多いのでは。逆に言うと、学校という世間の狭さ、その代わりの揺籃的雰囲気を後になって感じるのである。
 漫画を含めて本を小生は小学校の時から読み始めている。本に啓発され(人にも薫陶され)将来の道を選んだりもしたけれど、気がつくと学生時代よりはるかに多くの数の本を読んでいる。若い頃に世界に驚異の念を覚えたりもしたけれど、幸いというべきか、その頃にも増して、書物の世界(だけではないが)に親しみ、一層、世界の深さ広さ多彩さ際限のなさを思い知らされている。
 学校なるものは卒業したけれど、書物の世界に限ってさえも、世間や世界からの卒業は、末期の日までありえないのである。
 以下に示す本も、幸いにしてそうした一冊となってくれた。

続きを読む "卒業"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/03/26

伊勢参(いせまいり)

 今日の表題に選んだ「伊勢参(いせまいり)」は、春三月の季語扱いだとか。
 類似あるいは関連する季語には「伊勢参宮、伊勢詣、伊勢講、参宮講、抜参、御陰参(みかげまゐり) 、十三詣 じゆうさんまゐり 知恵詣、知恵貰ひ」などがあるようだ。
 説明するまでもないだろうが、「春になって伊勢の神宮に参詣すること」という意があるとか。
 伊勢の名物というと、『赤福餅』ということになるのか(小生も大好きだ)、「伊勢参 季語」でネット検索すると関連サイトが登場してきた。
 小生自身は、伊勢参(いせまいり)を試みたことがない。せいぜい、「お伊勢参りはー 屋形船で♪」というメロディも快調なナツメロを思い出すくらいである。
 あるいは、伊勢とは今の三重県ということで、鈴鹿サーキットへは、真夏の祭典、鈴鹿八時間耐久レースを観戦するためなどで、三年連続(四度)ほど、オートバイを駆って参ったことがある。
 ネット探索を続けていたら、『江戸の遊歩術―近郊ウォークから長期トラベルまで』(著者:中江克己,出版社:光文社知恵の森文庫)を紹介するブログサイトを見つけた。「Cozy's 東京スナップ書評」の中の、「2005年03月01日 書評:江戸の遊歩術」という頁である。
 以下、別頁でも紹介する本に関係する本ではある。その紹介の中に、「江戸時代の寺社参りは旅行のための大義名分であったそうだ。徳川幕府の圧政下の管理社会にあって人々が自由に動き回ることはできない。関所を通る通行手形を発行するにもそれなりの目的を必要とする。そこで大義名分として利用されたのが寺社めぐりや湯治だ。そういう名目を立てれば旅に出ることができる。実際は他の場所をめぐるにしても、目的は寺社めぐりとしてあったそうだ」などとある。
 その旅行の本当の(?)目的の一つには温泉地への湯治があったりするわけだ。
 そうはいっても、「伊勢神宮」への伊勢参りは、毎年五十万人が「おかげ参り」したそうだから、江戸時代の一大イベントだったのである。
 
 さて、別頁は、神聖なるお伊勢さんとはまるで違う内容となっている。ご用心。

続きを読む "伊勢参(いせまいり)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/25

草萌(くさもえ)

「草萌え」は春の季語だが、2月の扱いのようだ。以前、既に、「下萌(したもえ)」という季語は扱っている。その際、 以下のように書いている:

 表題の「下萌(したもえ)」は2月の季語であり、「早春の頃、枯れ草や残雪の中から草がわずかに顔を出し始めることを」言うとか。
Sizuku ONLINE」の「絵手紙」という頁では、似たような言葉に、「草青む(くさあおむ) 畦青む(あぜあおむ) 草萌(くさもえ)」などがあるとした上で、「草萌という言葉は草の方に重点があり、下萌は下、つまり地に重きをおいた言葉であるといえる。早春、まだ冬枯れの大地から、草の若芽が萌えだすと路傍も庭も野原も春の訪れを示しているかのようだ。下萌はそのような季節の感覚を明瞭に表現する言葉である」などと丁寧に教えてくれた。
                          (転記終わり)

 三月も下旬になって「草萌(くさもえ)」を表題に選んだのは、ネット巡りをしていて、我がお気に入りのサイト「季語の風景|草萌」で素晴らしい画像を見てしまったからである。
「草萌えの春の野は、冬に枯れた命が再び甦り、芽ぐみ、青み、若々しい生気がまさに育とうとしている。本格的な春到来の、ちょっと手前の初々(ういうい)しさ、瑞々(みずみず)しさが、人の心をいっそうわくわくさせるのだろうか」などといった、山崎しげ子氏(随筆家)の文章と共に、画像(写真部・河村 道浩)をまずは愛でるのもいいのでは。

続きを読む "草萌(くさもえ)"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/03/24

青き踏む(踏青)

 三月の季語例の数々を眺めていたら、「踏青」という言葉で目が止まった。何、これ、である。
「踏青 季語」でネット検索してみると、「たふせい」と読み、「青き踏む」という表現もあるとか(「俳句季語辞典 季語」より)。
 どうやら、「春の野遊び、そぞろ歩きの意」らしい。
 類似すると思しき季語に、「野遊び」(山遊 野がけ)があり、これらも、「春の野原で遊び、飲食などする風習」といった意があるようだ。違うのは、飲食の有無と後者は風習らしいということ。
「遠足」(遠足子)も関連する季語だろう。「主に学校で、野山や海へ一日の行楽をすること」だって。そういえば、小生も小学校の時、遠足に行ったはずだ。大嫌いな行楽だったけれど(その理由は、どこかで書いたことがあったはずだ)。
 他に、「花見」も遠からぬ意味合いの季語だと思っていいのだろう(か)。
 これが、「春の航」(春航)となると、「春の海を船でゆくこと」で、優雅過ぎ、小生には縁遠い。でも、春の海を水面に浮かぶ水鳥のように、ひねもすのたりのたりと漂ってみたいものである。
 春には、陽気に誘われての花狩りなどを名目の行楽に関連する季語が実に多いと改めて感じる。

続きを読む "青き踏む(踏青)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/23

目貼剥ぐ(めばりはぐ)

 ついこの間、三月になったと思っていたら、もう、残すところ九日。なのに、きの季語随筆で扱っている季語例の少なさ。
 もともと一日に一つだとしても網羅するのは無理だとは初めから分かってはいるのだけど、でも、多少なりとも触れておきたい、あるいは、その意味合いを知っておきたい季語がまだまだ沢山残っていることに焦ったりする。
 今日の表題に「目貼剥ぐ」を選んだのは、三月の季語例を眺めていて、ふと、そこに目が向いたからというに過ぎない。この季語だけは、読んで字の如くであり、意味合いの見当を付けるのは、それほど難しいことではない。
 実際、調べてみたところ、予想通りだった。[ 花鳥風月 ]によると、「冬に寒いすきま風が入らないように貼ってあった目貼りを、春になって剥がすこと」だという。
 このサイトには、「ここ八王子の冬の寒さと言ったら、朝起きたときに部屋の中のコップの水が凍っていたりもします。部屋を暖かくしていた時は窓が朝に凍り付きますね。夕方には道路が凍って光ってます(^^;)」などとコメントが続く。

続きを読む "目貼剥ぐ(めばりはぐ)"

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2005/03/22

厩出し(うまやだし)

 今日の表題を何にしようかと【3月の季題(季語)一例】を見ていたら、「厠出し」という言葉が見えた。
「厠出し(かわやだし)」って、何?
 早速、当該の季語をコピーし「厩出し 季語」でネット検索して、意味を探る。すると、「厩出し(うまやだし)」と仮名がふってあるではないか。
 とんだ、勘違いだった。小生のパソコンは古いし、モニターの解像度が低いので、「厩(うまや)」ではなく、「厠(かわや)」と読めてしまったのである。
 ただ、ネット検索する場合は、文字を記入すると面倒なので、季語例のその言葉をカット&コピーの上、検索の窓にペイストするので正しい言葉を検索している。なので、ちゃんとした検索結果が出てきてくれた。
 これが小生のような無精者でなかったら、勘違いしたとおり、「厠出し(かわやだし)」(と「季語」)で検索したはずである。但し、実際に試みた人は分かるはずだが、「厠出し 季語」でネット検索しても、「該当するページが見つかりませんでした」となり、あれ? という戸惑いに終わるはずである。
 さすがに、ネットの世界は広いとはいえ、小生ほどの頓珍漢はいないということか。なんだか、世の中の人が皆、我より偉く思えて、劣等感など覚えたりする。

続きを読む "厩出し(うまやだし)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/21

トンボのこと

 あたら、季語随筆と銘打っているばかりに、時に窮屈になることがある。多少の飛躍には目を瞑りつつも基本的にはその都度の季節に見合った季語をキーワードに、気随気侭な小文を綴っていく。
 実際、季語例は豊富なので、話のネタに困ることはない。
 というより、ネタが多すぎて、どれにしようかと目移りして、結局は尻切れトンボの中途半端な話に終わってしまう。忸怩たる思いで、話を切り上げることがあまりに多いので、読まれる方には申し訳ないし、自分としても不甲斐ない。
 そんな中、今の時期とは懸け離れたような話題を手がけたくなる時がある。その時期が来たら扱えばいい、その時まで、テーマを温めておけばいい…と思うのだけど、それが出来ないのが小生なのである。
 さて、昨日だったか、テレビで、羽子板の話題が出てきた。正月などに羽根突きをする、今はそんな風景を見かけることも皆無に近くなった、多くは子どもの遊びである。
 例によって聞きかじりするラジオと同様、テレビも食事や居眠りの傍ら、垣間見る風なので、断片的な記憶・半端な情報しか脳裏に残っていない。
 ただ、羽根突きの羽根は、トンボの羽根を意味している云々という話があったようなのである。
 なので、かなり時節外れなのは承知の上で、羽根突きの羽根を話の糸口に、ネットから得られる情報を手がかりにしつつ、トンボの話をあれこれ経巡ってみたい。
 まずは、以前、「富山とトンボのこと」というエッセイでトンボのことを、富山と絡めつつ、多少、調べてみたことがあるので、その文章を掲げる。
 その上で、足りない部分、新たに得た情報などを補足したい(断るまでもないと思うが、少なくとも「トンボ」は春の季語ではない!):

続きを読む "トンボのこと"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/20

チューリップ・原色…

 今日は何の日か。「今日は何の日~毎日が記念日~」によると(「3月20日」参照)、「上野動物園開園記念日」で、「1882(明治15)年、日本初の近代動物園として、上野動物園が上野公園内に開園した」とか、「東京国立博物館開館記念日」で、「1882(明治15)年、上野動物園と同時に、上野公園内の上野寛永寺跡に東京国立博物館(東博)が開館した」とか、「LPレコードの日」で、「1951(昭和26)年、日本コロムビアからLPレコードが「長時間レコード」の名前で発売された」、「電卓の日」で「日本事務機械工業会が1974(昭和49)年に、日本の電卓生産数が世界一になったことを記念して制定」(今は特にイベントは行われていないらしい)とか、他にもいろいろあるようだ。
 彼岸の頃(3月17日~3月23日)であり、春分の日であったりする。

 先に進む前に、大急ぎで断っておかないといけない。表題に掲げた「チューリップ」は春の季語だが、春四月の時期の季語例だということ。さすがにまだ、ちょっと早すぎる。気の早い小生も、それくらいは分かる。
 今日、3月20日の誕生花が、チューリップだという理由だけで表題に選んだのである。
 尤も、「意外な思い、豊かな力」といった花言葉を持つ「みつまた」だとするサイトもある。
 更に急いで断っておくが、今日の誕生花を紹介したからといって、小生の誕生日が今日だというわけでもない。勘違いして誕生日のプレゼントを大童になって贈って来ないように(届いたら、失礼に当たらないよう、受け取ることは受け取るけれど)。
 チューリップのことは、あとでまた採り上げるはずである。

続きを読む "チューリップ・原色…"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/03/19

春の月・春の星

 どうも、せっかちなもので、春四月に相応しいような季語を表題に選んでしまった。曇りや雨でないかぎりは、春の月や春の星を愛でつつ、散歩などできたりする。夜は、時にまだ冷たい風が吹くこともあるが、それでも、一頃に比べたら随分とましである。
 最初に季語随筆らしく、語彙の説明をしておくと、「春の季語(自然編-50音順)」によると、「春の月」とは、「朧なるを賞で、さやけきを賞でつのは秋の月」とあり、「春の星」については、「春の星はおぼろに柔らかい」とコメントされている。
「春の月」は、「春月」、「春の星」には、「春星 春北斗 春銀河 星朧」といった類義語があるようだ。
 探すと、「朧月(おぼろづき)」という春の季語もあって、「月光がぼんやりと滲んだ春の月」と説明されている。類義語は、「月朧 朧月夜」だとか。
 やはり、四月に入ったら、春の月や星をめぐっては改めて何かのテーマを設定して採り上げる必要がありそうだ。
 

続きを読む "春の月・春の星"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/03/18

鳥帰る・竹島のこと…

 いつもながら、季語随筆と銘打っているが、選んだ季語の周辺を巡るだけで、一向に随筆の想の膨らまないことに忸怩たる思いがする。
 というのも、たとえば三月の季語例にも相当数の季語が並んでいるのだけど、自分の生活に身近な言葉、ということになると、相応しいような、ピント来るような言葉などはなかなか見つからないのである。
 悲しいかな、そもそも自分が生活感のない、茫洋とした日々を漫然と過ごしているからなのだろうし、一人暮らしなので、自分が怠惰を決め込んだら、誰も異を唱える者がいるはずもなく、二十四節気など我関せずの生活に成るしかないのだ。
 などと言い訳しつつ、今日の表題は、では何故に「鳥帰る」を選んだかというと、小生はタクシードライバーとして都内を走り回っているのだが、日中、わりと海辺を走ることが多い。埋め立て地で、運河があり、橋も日に数回どころか数十回は渡っている。
 すると、自然、橋の上で信号待ちと相成ることが多いのである。そんな時、ふと脇に目をやると、運河の水がゆったりと流れている。水は春の日差しを千々に乱している。その上をユリカモメなのかどうか分からないが、鳥達がスイスイ泳いでいる。
 それとも、ただ浮かんでいるだけなのか。
 いや、きっと、彼らだって忙しいはずだ、小生と同様、お飯(まんま)を獲ようと結構、真剣なはず、鵜の目鷹の目で水中か水面の餌を漁っているはずなのだ、決して、のんびりなどしていない、だから、彼らが呑気そうでいいなーなんて、羨むことなど無用のことなのだ、などと取り留めのない想いに浸ってしまう。
 神経を摩り減らして町中を走る小生にとっての、束の間の和みの時。
「鳥帰る」は、「渡り鳥が、春、北方へ帰ること」であり、関連する語に「帰る鳥 鳥引く 引鳥 白鳥帰る」があるとか。
 ユリカモメやウミドリなどの生態は知らないが(そのうち、ゆっくり調べてみよう)、渡り鳥など、季節が来たら日本のどこかに飛来し、時期が来たら去っていく。行く先は、必ずしも日本列島の外とは限らず、列島の各地を点々としている鳥もいるのだろう…。

続きを読む "鳥帰る・竹島のこと…"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/03/17

蓮華草・紫雲英

 夜半近くになって、居眠りしてしまった。ふと、目覚めて時計を見たら、既に2時を回っている。さて、何か季語随筆のネタはないものかと思いめぐらし始めたら、なんだか、淡く紫色に染まる世界が見えてきたような。
 転寝している間、何か夢でも見ていたのだろうか。それとも、夕べ、買い物に行った際、空に霞を透かして三日月よりはやや半月に近い月を見た、その藍色の夜空が印象に残っていたのだったろうか。小生の頭は、なぜか蓮華草の野を思い浮かべてしまったのである。
 蓮華草は、春の季語のうちの一つだが、今の時期のものではないのだろう。四月? 
 そういえば、小生、昨年だったか、蓮華草を巡ってエッセイを綴ったことがあったはず…と、探してみた。あった。タイトルも、単純素朴に「蓮華草のこと」だって。分かりやすい。五月の連休の真っ最中に書いている。
 その雑文を書き下ろす前に、「目に青葉…」という、まさに五月という時期に相応しいエッセイを綴っていて、その連想のようにして書いてしまったようだ。
 その頃はまだ、小生は自分が俳句や川柳の世界に実作を試みるものとして参入していこうとは、夢にも思っていなかった。なんだか、不思議なような気がする。
 以下、転記する:

続きを読む "蓮華草・紫雲英"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/03/16

早蕨(さわらび)

北信州の道草図鑑」の中の、「ワラビ(蕨)」の頁を覗かせてもらう。
 「2003年4月29日 野菜畑で」ということで、蕨の写真が載っている。「春の代表的な山菜です。根茎から採ったワラビ粉は、食用のほかに、雨傘や合羽を貼り付けるノリに利用されていました」という。
「「鶯を招くやうなるわらび哉」(一茶)と句も付せられている。
「わらび【蕨】:イノモトソウ科のシダ。山地の日当りのよい乾燥地に群生。早春、地中の根茎からこぶし状に巻いた新葉を出し、これを「さわらび(早蕨)」という」のである。
 無論、春の季語で、「蕨野」「初蕨(はつわらび)」、「蕨手(わらびで)」、「干蕨(ほしわらび)」「蕨狩(わらびがり)」
「蕨餅(わらびもち)という類語・関連語があるようだ。
「蕨」単独でも、春三月の季語である。

続きを読む "早蕨(さわらび)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/15

チンドン屋

s-DSC01405 手元に季語辞典がないので、断言はできないが、恐らくは「チンドン屋」というのは、季語例にないものと思う(誰か、知っている人、資料を持っている方、教えて)。
 が、小生の中では、チンドン屋さん(のグループ)が、看板などを背負ったりして、繁華街を宣伝して回る光景というのは、季語ではないにしても、立派な春を告げる光景なのである。
 知る人ぞ知るだろうが、毎年、「富山市の城址公園で、5月の「桜まつり」の一環として行われるチンドンコンクール」だが、今年はなんと、「50周年ということで、盛りだくさんな企画が用意され」ているとか(「日本最大規模のチンドン屋写真館「チンドンの現場」CHINGDONG Photo archives」の「チンドン屋写真館「チンドンの現場」国内編」より)。

[ 添付した写真は、この記事を書いた翌日に、某駅で見かけたもの。噂をすれば影、ですね。「無精庵投句の細道」にも、違う角度から撮った画像を載せてあります。 (05/03/16 追記) ]

続きを読む "チンドン屋"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/14

利休忌・西行忌

「利休忌」も「西行忌」も、共に春の季語である。
「西行忌」は「旧暦2月16日、西行法師のご命日」であり、「利休忌」は「旧暦2月28日茶人利休のご命日」なのだとか。
 さすがに西行の死は、「ねがわくば花の下にて春しなんその如月の望月のころ」の歌で今頃の死なのだと、野暮な小生にも強く銘記されている。
 知る人は知るだが、「西行の享年は73才であるが、この歌は60才代中ごろの作といわれているから死に臨んで詠まれたものではない。然し如月(2月)、望月(15日)と所望した通り2月16日になくなった」のであり、しかも、「2月15日は釈迦の入滅の日であり」、「平安時代から涅槃会として釈迦の遺徳を偲ぶ習慣があった。これらの関連は単なる偶然の一致とはいえないものを感じる」のは、当時の人々なら、今の我々より遥かにそうだったのかもしれない(引用は、「渡部陽のホームページ」の中の「桜と西行」より)。
 西行の歌集山家集』をはじめ、高橋英夫『西行』(岩波新書)、白洲正子著『西行』(新潮文庫刊)、吉本隆明著『西行論』(講談社文芸文庫)、辻邦生著『西行花伝』(新潮社、文庫あり)などと、僅かながらにも西行の世界に親しもうとしてきた。
 小生には、西行は、柿本人麻呂、芭蕉に次ぐ存在なのである。

続きを読む "利休忌・西行忌"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/13

山笑ふ・花粉症・塵

「花粉症」が春の季語として定着しているのかどうか、分からない。仮に正式に季語扱いされていないとしても、季語例に含まれるのは時間の問題だろう。
(正式に、と、書いていて、一体、誰が決めるのだろうと疑問に思った。実は、日本俳句協会でもあって、何人かの委員が居て、侃侃諤諤の議論の末に多数決で、「はい、花粉症殿、貴殿は近年の目覚しい活躍ぶりに鑑み、目出度くも我が国の伝統ある俳句の世界の仲間入りを果たしたことを祝し、且つ、呪い、ここに季語例の一員に選ばれたことを確認するものである…」なんて殿堂入りの儀式があったりするのだろうか。)
 既に季語扱いしているサイトもある。「『増殖する俳句歳時記』季語検索」や「春の季語(行事・暮らし編-種類順)」などなど。
 いずれにしても、俳句に吟じられる機会と句の事例が増えれば、季語例の仲間入りを果たすのだろう。

続きを読む "山笑ふ・花粉症・塵"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/03/12

雪の果(ゆきのはて)

 今日の表題を選ぶのも迷ったり困ったりした。ある本を読んでの感想文を書こうという思惑(?)があって、そこへ繋げるには何がいいかとなると、なかなか適当な季語が見つからない。
 挙げ句、「春の光」にするか。重苦しかった冬が終わって春の光が差しかかってきて…というところから本のテーマに絡めて行こうかと思ったのだ。
 が、色の話に結び付けるということで、既に「春光」は使っている。では、どことなくユーモラスな感のある「山笑う」はどうかなどと物色しているうちに、「雪の果」が見つかった。ああ、これなら、なんとかなると即決。
 けれど、とんだ勘違いだった。
「雪の果」は、表題にあるように、「ゆきのはて」と読むのだ。小生は「ゆきのか」だと表記を見た時には勝手に決め付けていた。雪の中から顔を出す、何かの実、というのは、季節柄、まだ無理があるとしても、「果」に何かの植物の土の中からの芽生えなり命の萌しを象徴させているのではないかと、勝手に決め付けていたけれど、見当違いだったのである。
「雪の果」は、「ゆきのはて」と読むのであり、「[名残の雪忘れ雪]・・・春になって最後に降る雪をいう」とか。

続きを読む "雪の果(ゆきのはて)"

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005/03/11

春の雨

 今日の東京は朝から雨が降っている。それも冷たい雨。もう少し気温が低ければ、氷雨、あるいは霙、さらには雪になっていたかもしれない。
 暦の上ではとっくに春なので、春の雨と呼ぶしかない。あの、「月さま雨が…」「春雨じゃ、濡れて参ろう」という時のどこか粋というか風流な雨ではないのだけど、とにかく本日の表題は「春の雨」にする。
「春の雨」は「春雨(はるさめ)」と表記されたりし、「春霖(しゅんりん)」という類義語があるようだ。「しとしとと降るのが春雨。長く降るのはしゅんりん」などと説明してあるが、今一つ、違いなどがよく分からない。
 語感からの印象に過ぎないが、小生の場合、「春の雨」というと、「水に輪をかく波なくば、けぶるとばかり思わせて降るとも見えじ春の雨」という情景を思い浮かべることになる。
 これは、文部省唱歌の「四季の雨」のうちの一番の歌詞である。ネット散策していて、「Humannet for elder」の中の「雨の季節との付き合い方」という頁で教えられたもの。

 そういえば、小生、既に、関連する季語で、「春時雨」を扱っている。このときは、焦点が「時雨(しぐれ)」に合わせてあるが、せっかくなので参考にしてみると面白いかも。
 ついでに言うと、「時雨ていく」と題した日記もある。

続きを読む "春の雨"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/03/10

春の川(はるのかわ)

 今日の表題を何にするか、迷った。
 今日、3月10日は、ひとそれぞれに銘記すべき何かがあるのだろうが、大きく日本ということになると、東京大空襲の話題を逸するわけにはいかない。季語随筆には、あまりに似つかわしくない題材だが、小生は季語ということで、花鳥風月のみを事とするようなつもりはないので、多少なりとも触れておきたい。
 が、さて、東京大空襲は、さすがに季語ではない。多くのことが語られ、書かれ、話題になってきたはずなのに、俳句の世界の対象ではない、ということなのだろうか。
 飛躍を承知で小生は敢えて「春の川」を選んだ。この季語は、春三月の季語である。「春雨や雪解水等で春の川は水嵩が増す。やがて落花を浮べ筏が始まる。」ということで、「春江(しゅんかう)」という類義語があるようだ。

続きを読む "春の川(はるのかわ)"

| | コメント (7) | トラックバック (5)

2005/03/09

春光・色の話

 今日の表題の「春光」は、お馴染みの「春の季語(自然編-種類順)」によれば、「光輝く春の日光。また風向や景色」を意味し、類義語に例えば、「春の色 春色 春景 春景色」があるという。
 表題を「春光」にしたのは、「色」のことを話題にしたかったからである。昨日、ラジオで色の話が出ていたが、仕事中でもあり、聞きかじりに終わった。記憶で鍵となる言葉をメモしておいたが、話の大半を忘失してしまった。
[ネットで調べたところ、小生が聴いた番組は、NHKラジオ第一の「気になることば」で、語り手は、梅津正樹(うめづまさき)さんだったようである。]
 但し、色の話といっても、色事という時の「色」ではない。それだったら世の大方の人のほうが詳しいに違いない。多分、恐らく、根拠はないが。
 そうではなく、信号機の信号の色、衣服の色、花の色である。
 いろいろ調べるため、「春の色 季語」をキーワードにネット検索してみた。まさか、「春の色」が季語ってことはないだろうな、と思いつつ。けど、予想に反して「春の色」も立派な春の季語なのだった。もう、季語の世界は小生の想像力などまるで及ばないほどに広い。手に負えないほどだ。
色(いろ) - 語源由来辞典」を参照させてもらう。
 すると、「色とは、光による視神経の刺激が脳の視覚中枢に伝えられて生ずる感覚。色相・明度・彩度の三属性によって表される。特に白や黒を除いていう場合もある。色彩。カラー。男女の情愛に関する物事」とある。
 今回は、生理学的な事柄は採り上げない。また、最後の「男女の情愛に関する物事」も、後日、機会があったらにする。

続きを読む "春光・色の話"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/08

啓蟄の春・二十四節気

 昨日辺りが、「二十四節気(にじゅうしせっき)」で言うと、「啓蟄」に相当するらしい。
 らしいというのも、情ない話だが、もとの暦や換算の都合もあって、一日くらいは前後するのだという。「国立国会図書館 「日本の暦」―暦の中のことば 二十四節気」の説明を参照させてもらうと、「二十四節気(にじゅうしせっき)は、今でも立春、春分、夏至など、季節を表す言葉として用いられています。1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもので、「節(せつ)または節気(せっき)」と「気(中(ちゅう)または中気(ちゅうき)とも呼ばれる)」が交互にあります。」とか。
 いずれにしても、雨水(うすい)である「2月18日~3月4日」から、春分(しゅんぶん)である3月20日までの間、つまり「3月5日~3月19日」の間は、「啓蟄(けいちつ)」のようである(「PLANT A TREE PLANT LOVE - 二十四節気」参照)。

 ただ、気になるのは、上掲のサイト(「PLANT A TREE PLANT LOVE - 二十四節気」)などで、「日本には「何月何日というデシタルな暦とともに、「立春」とか「清明」「白露」などの美しい言葉で示される「二十四節気」という暦があります。 四季に恵まれたこの国では、「二十四節気」によって、自然の再生循環と季節の移ろいを身体全体で感じ、 自然との共生をしてきたのです。」といった説明があること。
 四季があること、季節の移ろいを感じてきたのだろうということ、などは小生として、否定はできないところだ(だからといって、肯定も素直には難しい)。
 実際、この「二十四節気」は、「農作業の目安として中国で作られたもので」、「もともとは古代中国の黄河流域の季節に基づいているために、日本に置き換えると多少ずれが感じられ」る点は、留意しておいていいのかもしれない(「JWA Home Page 二十四節気」を参照)。
 尚、二十四節気については、「こよみのページ」が詳しい。

続きを読む "啓蟄の春・二十四節気"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/07

東風吹かば

 短歌や俳句の世界では、「東風」と書いて「こち」と読むことは、小生も知っている。間違っても、「ひがしかぜ」とか「とんぷう」などとは読まない。そんな風に読むと、相撲好きなのか、麻雀好きなのかと思われかねない。
 誤解されたっていいようなものだけれど、少なくとも季語随筆を銘打っている以上は、「こち」と読んでおかないといけない。

2009_0213071003tonai0021

 さて、この言葉を教養のない小生も「こち」と読めるのは、なんといっても、菅原道真の御蔭である。
 言うまでもないが、以下の歌のことを念頭においている:

 東風吹かばにほひをこせよ梅の花
             主なしとて春を忘るな

 菅原道真は、今も、天神様などと呼ばれて一部の地域では信心の、あるいは、古来よりの風習の対象となっている。
 我が郷里富山でも、天神様信仰熱は今も、なかなかに盛んのようである。
 が、そこには、入り組んだ事情があったりして、ナイーブな思いではありえないようだ。

続きを読む "東風吹かば"

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2005/03/06

蜃気楼・陽炎・泡(続)

 引き続き、「光と色と眼の雑学 No.098 2005年03月04日」から得られた知見をメモしていく。
 蜃気楼について、まず「冬の蜃気楼は逆に、海水で暖められた大気に、冷たい季節風が流れ込んで起こる現象で、冬なら何時でも起こる条件なのです」とある。この点は、特に付け加えることはない。
 問題は、春の蜃気楼についてである。「大気の温度差による密度の違う界面で屈折する現象で、富山湾の春は雪解け水で水温が下がり、陸地で温められた空気が、低水温の上空に吹き込むと起こります。」
 まさに、このメカニズムが問題で、これだと、「蜃気楼あるいは喜見城のこと」にも書いたように、雪解け水が海に注ぎ込む湾であれば、何処にでもありうることになる。富山湾は特に冷たい水の注ぐ量が多いということかと思うしかないわけだ。
 まあ、実際、富山は一級河川が多く、名水百選に富山県から四箇所も選ばれている。松川遊覧船などを目玉に、富山市の一部の方々など水の都を謳いたくてならないでいる、小生も含めて。

続きを読む "蜃気楼・陽炎・泡(続)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

蜃気楼・陽炎・泡

 小生が講読しているメルマガの一つに、「光と色と眼の雑学」がある。その「No.098 2005年03月04日」の回は、テーマが「蜃気楼」だった。いつも以上に関心を持って読んだ。
 蜃気楼というと、富山生まれの小生、富山は魚津市を連想してしまう。既に蜃気楼を扱った雑文も書いている。
 今回はそれを再掲し、「光と色と眼の雑学 No.098 2005年03月04日」から得た知識を付け加える形を取る。表題に「蜃気楼」の他に「陽炎」や「泡」があるが、あまり気になされないように。正直なところ、話がそこまで及ぶかどうか、予断を許さないのだ(自信がないのだ)。もし、「陽炎」や「泡」触れなかったら、表題こそが幻だったのだと理解されるのがいいだろう。

続きを読む "蜃気楼・陽炎・泡"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/05

風邪の季節・春の風邪

 三寒四温のせいなのか、例年になく寒い日が続くせいなのか、風邪を引いている人が多い。加えて花粉の吸引を防ぐためだろうが、事情を知らなかったら大仰なとも思われかねないマスクをしている人も目立つ。
 風邪そのものは、夏風邪という言葉もあるくらいで、何も冬に引くとは限らない。春にも秋にもで、時期を選ばない。インフルエンザとなると、時節的にかなり限定されるようだが。
 知り合いのお子さんにインフルエンザに罹患した人も居る。
 かくいう小生も、一月末から2月始めの頃に風邪気味だった。それは大事に至ることなく直ったようだが、一昨日の水曜日だったか、タクシーの中で仮眠を取っていて、油断したのか、体が不調気味になってしまった。なんと症状が腰に出た。
 風邪の初期症状は、その人の体の弱い部位から発症するというが(今まではずっと、額…頭だったのに)、なんとなく腰の調子が変だなとは、この頃感じていたけれど、とうとう腰に来たのか、これから先が思いやられると、実は小生、今、戦々恐々なのである。
 なので、季語随筆からは若干、脱線気味になるが、「風邪」を巡って少々、調べてみたい。

続きを読む "風邪の季節・春の風邪"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/03/04

淡雪・春の雪

「春の雪」は、文字通り、春の季語で、「しめっぽく、解けやすい。降るそばから消える」ことを含意し、「淡雪 春雪 牡丹雪 綿雪 斑(はだら)雪」などの類義語を持つ(「春の季語(自然編-50音順)」より)。
 関東地方に限らないが、西日本から次第に東のほうへと、冷たい空気が上空に入り込んできて、東京も、今(夜半を回った零時半)は雨模様だが、未明には雪になりそうだという。
 その意味で、表題を「春の雪」としたのは、積もることも予想されている雪よ、淡雪の如、あっさりと消え去って欲しいという願いも篭っての選択なのである。
 七年前だったか、小生の居住する東京も大雪になり、その日、小生はタクシーでの営業中だったが、雪に降り込まれ悲惨な目に遭ってしまった。その顛末などは、いつか、書き止めておきたいが、明日(既に今日だ)の営業での悪
夢の再現だけは御免被りたい。
 雪がもっとひどいと、会社に出向いても、会社は車を出させてくれない。また、別の降雪時は、実際、会社で足止めを喰らってしまった。
 こんな日こそ、社会的責務からいっても、スノータイヤ等を履いて仕事すべきはずなのに、と思いつつ、会社まで一時間あまりをかけて徒歩で来た道を、後ろ髪を引かれる思いをしつつ、また、トボトボ、歩いて帰ったものだった。

 春の雪は、淡雪であり、泡の消えるように、呆気なく溶け去り、消え去っていく。
[ 花鳥風月 ]によると、「淡雪が春の季語となったのは江戸初期からで、それまでは冬の季語でした」という。
 どういった経緯があって、変わったのか。

続きを読む "淡雪・春の雪"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/03/03

「桃の節句」追記?

「桃の節句」は、雛祭り。そのお雛様繋がりということで(?)、天文学の話題を少々。
 昨日だったか、ラジオを聴いていたら、星の赤ちゃんを発見したというニュースを耳に。誕生から数万年だとか。
 小生には興味のある話なので、帰宅してテレビのニュースを見ていたけど、とうとう見聞きできなかった。確かに今は、西武の堤氏のこと、ライブドアと日本放送(フジテレビ)との戦い、その他、ニュースは尽きないけど、少しくらいはテレビで画像を見たかった。
 今、気が付いたけど、このニュースは昨日のものなんだね。小生、遅れてる。

続きを読む "「桃の節句」追記?"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

桃の節句

 今日3日は、表題にあるように、「桃の節句」である。3月の季語。この言葉については、「杏林の気まぐれスクエアー」の中の、「季節の言葉 3月」にある説明が懇切丁寧で助かる。
「3月3日は『桃の節句』と言われますが、これは江戸幕府が定めた五節供のひとつ」であり、「五節供」とは、「正月の7日に食べる七種粥の『人日(じんじつ)』(1月7日の七種の節供)に続くのが『上巳(じょうみ)』(3月3日の桃の節供)で、さらに『端午(たんご)』(5月5日の菖蒲の節供)、『七夕』(7月7日の七夕祭)、『重陽(ちょうよう)』(9月9日の菊の節供)で季節の変わり目を節日(せつにち)と呼んで大事にしてきました」という。
 また、「現在では節句と書きますが、もとは節供と書き、「供」はおそなえする意味です。神と供に食べ、わざわいを祓う儀式でもありました」という。
 大事にしてきたという、その主体は、幕府なのか誰なのか、これだけでは分からない。また、そもそも、何ゆえ、「五節供」を決めたのかも分からない。
 いずれにしても、「桃の節供は庶民に伝わり、中国から伝わったひなまつりとも一緒になり、女の子のまつりとして幸福と成長を願って賑やかな宴とな」ったのは、事実なのだろう。
 念のために断っておくと、「閑話抄」の中の、「<桃の花>」の頁などにあるように、「「桃の花」と表すと季語は春ですが、単に「桃」とある場合は 果実の方をさします。「桃の実」の季語は夏(古くは秋)」である。
 が、込み入ったことに、「更に、「白桃」という言葉もあります。これは「白い桃の花」をさしますので、もちろん季語は春」だというから、頭が混乱しそう。まあ、桃の花なら、春で、白桃も花なのだから春なのだと理解しておくしかない。 桃の実(果実)は夏だという。だからといって、桃の缶詰は、決して夏の季語じゃない(!)と思われる。

続きを読む "桃の節句"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/02

独活(うど)

 三月は、季語が多い。特に季節柄か、植物に関する季語が多いようである。季語例を見ていても、目移りするほどだ。
 そろそろ芽生えの季節、萌す時、下手すると芽が出せずに悶々したりもする季節である。が、現実はというと、冬に逆戻りしたような寒さである。
 花粉症に悩まされる人にとっては、もうしばらく寒いままでいて、花粉の飛ぶ時期が少しでも先延ばしになればと願ったりもするのだろうか。
 
 さて、季語例を見ていて、「独活(うど)」が目に飛び込んできた。お、小生、以前、「独活」を採り上げたことがある。それも、季語随筆ではなく、どちらかというと、駄文系の文章の題材として。
 書いたのは、「04/06/13」なので、まだ、俳句も川柳にも読者としてはともかく、実作するつもりなど、まるでなかった頃だ。
 川柳(あるいは俳句モドキ)の実作を手がけ始めたのは、翌月の七夕の前日、つまり六日だったのだった。
 当然、「独活」が季語だとは、まるで思いも寄らないでいたのだった。
 ホームページにも載せてあるが、多少、手直しして、ここにも載せておく:

続きを読む "独活(うど)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/01

番外:お知らせ

[「無精庵徒然草」は、季語随筆日記と銘打っています。が、ほとんど、季語随筆に止まっており、日記の要素が僅か。
 日記、つまり、日々の記録ということで、あれこれ書きたいけれど、現状でも書きすぎで文章の量が多すぎるのも明らかです。
 なので、「無精庵投句の細道」で、日記的な文章を折々、綴っていくつもりです。
細道」のほうは気楽に覗いてみてください。写真も多めに掲載するし、携帯電話からの投稿も折々、試みます。
 早速、試みに書いて見ました。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

アホウドリ:オキノタユウ

 ラジオでアホウドリの話題を聞いた。アホウドリは、季語なのかどうか、分からない。「無季」扱いのようである。「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」によると、「無季」とは、「俳句で、季語を含まないこと。また、その句。 「―俳句」」とある。
「無季」の言葉と季語とを組み合わせて俳句を吟じていいものか、良く分からない。
 アホウドリとは、同上の辞書によると、「信天翁」あるいは「阿房鳥」と表記する。また、「(1)ミズナギドリ目アホウドリ科の海鳥の総称。海鳥としては最大。アルバトロス」とか、「(2)アホウドリ(1)の一種。体は白色で、翼と尾は黒色。全長約1メートル。体重約7キログラム内外、翼を開くと3メートルに達する。伊豆諸島の鳥島および尖閣列島でのみ繁殖する。羽毛業者による乱獲・火山の爆発などで個体数が激減したが、近年回復に向かいつつある。特別天然記念物・国際保護鳥。絶滅危惧(きぐ)種」とある。
 昨夜のラジオ(NHKのラジオ夕刊)は、「山階鳥類研究所」の上席研究員の方が話されていた。誰だったのか、名前は聞き漏らした。最終更新は、2004年12月28日のようである。
 せっかく、ラジオで研究員の方がインタビューに応じる形でお話されるというのに、予告も報告もない。勿体無い話だ。

続きを読む "アホウドリ:オキノタユウ"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

« 2005年2月 | トップページ | 2005年4月 »