猫柳(ねこやなぎ)
居心地がいいので、つい覗いてしまう、あるサイトで猫柳(ねこやなぎ)の素敵な画像を見つけていた。採り上げたかったけれど、写真に見惚れているだけで、いいかな、という気分もあって、この季語随筆の表題にするかどうか、決めかねていた。
でも、ちょっとだけ、そう、行きずりに眺める程度に触れておきたい。
こういうサイトというのは、紹介するのに躊躇いを覚える。野にある蓮華草のようなサイトなので、勝手にちょっと離れたところから風に吹かれながらでも、ぼんやり眺めていればいいような気がしてしまうからである。
そんなサイトが小生には幾つもあるのだ。どうしたもんだろう。
「猫柳」というのは、2月の季語である。歳時記の上では春になっているとはいえ、実際には日本列島は先週末から寒波に見舞われ地域によっては大雪だったりする。東京も昨日などは穏やかと言ってよさそうな、つい小春日和という言葉を使いたくなる日和だったけれど、今日あたりからはまた、天候も崩れてくるとか。
崩れると安易に書いたけれど、東京について言うと、空は晴れているけれど、空気が乾燥していて、小生など喉が弱いのでちょっと痛みを覚えたりする。睡眠時には口を開けて寝てしまっているらしいし、冷たい空気の外を歩く際も、鼻呼吸が困難な小生は、口呼吸を余儀なくされ、否応なく喉や肺を傷めがちである。
若い頃は体力もあってか、冷たさも乾燥も体力・気力で跳ね返せていたものが、今は、モロに体に堪える。
けれど、反面、体が敏感というのか、季節の移り変わりには微妙にどころではなく、過度に反応してしまう。ある意味、季語随筆を綴る身にはありがたい体なのだとも言える(のだろうか)。
さて、紹介したサイトの画像を見てもらっただろうか。ここには、なぜか、「断がたい恋心〈猫柳〉」とあるが、「猫柳」の花言葉は、「努力が報われる」なのだとか。
となると、努力しない小生には、無縁の花(言葉)であり、ただただ呆然自失と眺めているのがいいのだろう。
いつもながら疑問に思うのは、花言葉というのは、一体、誰がどのようにして決めているのだろうか、である。
花など植物の名前の付し方も、それぞれに来歴があるのだろうけれど、不思議だったり、名称の絶妙さに感嘆したりする。
この「猫柳」にしても、誰が命名したのか。なんとなく形状からして猫の尻尾のように見えなくもないが、別に猫でなくても、犬とかタヌキとかキツネとかでも、よさそうだし。
あるいは、むしろ、ネコジャラシに似ているような気もするのだが。但し、植物のネコジャラシではなく、人が猫に遊んでもらう際に使う道具というか玩具のネコジャラシである。画像を探したが、なかなか見つからない。やっと発見したサイト(「るいものお気に入り」)で、その玩具を見てみる。
が、とにかく「尾状の花穂を、猫のしっぽに見立てて命名」とあるのだから、取りあえずは、そうなのかなと思うしかない。ああ、でも、誰が名付け親なのか、名乗り出て欲しいものである。
「絹状の毛が密生している」のは、見たままだとして、「花の芽が膨らみ始めると、先端が北の方を向くようになるため、春には磁石がわりになるらしい」というのは、俄かには信じがたい。向日葵も不思議だが、先端が北を向くというのは、目で実際に見ないと納得はできない。
この一文を読まれた方で見たことのある人は教えて欲しいと思ったりする。
「猫柳」は、「川辺に自生するところから」、別名、「川柳」(かわやなぎ)とも言うとか。漢字だけだと「せんりゅう」と読まれかねない。
あるいは、「花を小犬の尾にたとえ」て、「狗尾柳」(えのころやなぎ)という別名もあるらしい。
狗児(えのころ)とは、子犬のことのようだ。「「イヌのコ」が「エノコ」の発音され、エノコは仔犬を指しました。漢字では「狗」という字を当てます。羊頭狗肉(ようとうくにく)の狗」なのだとか。このサイトには、続けて、「エノコロのロは、イヌコロと今でも言うときの、ロです」とも書いてある。
じゃ、その「ロ(ろ)」って、何?
いずれにしても、ネコジャラシというのは、犬の尻尾に似ているからということで命名された。だったら、イヌ(コロ)ジャラシじゃんと、文句をつけたくもなるが、誰に文句を言えばいいのか分からないので自重しておく。
「えのころ」というと、つい、「キンエノコロ」の絵を連想してしまう。一昨年、小生が書いたエッセイに「野原のことなど」があるが、その文中に、ある方が描いたキンエノコロの絵を挿画として使わせてもらったことがある(描き手や、絵の元になった写真サイトは、当該の文末に示してあります)。
花言葉を調べたサイトには、以下の歌が紹介されている:
山の際(ま)に 雪は降りつつ しかすがに この川楊(かはやぎ)は 萌えにけるかも
坂上郎女 (万葉集)
また、冒頭に示したサイト(「武蔵野だより」)では、「ときおりの水のささやき猫柳」(汀女)が載せられている。
さらに、「猫柳はとても強靭な生命力をもっています」として、「霰降り遠江の吾跡川楊刈れどもまた生ふといふ吾跡川楊」という歌が掲げられている。「刈っても刈っても芽を吹く猫ヤナギを断ちがたい恋心にたとえた歌だそう」だが、一体、誰の歌なのだろう。
分からない時は、人に聞くのが一番だが、生憎、そんな都合よくはいかない。困った時のネット頼みで、検索してみると、次の歌をヒットした:
丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
読みは、「霰(あられ)降り、遠(とほ)つ淡海(あふみ)の、吾跡川楊(あとかはやなぎ)、刈れども、またも生(お)ふといふ、吾跡川楊(あとかはやなぎ)」となるらしい。
小生がヒットしたのは、なんのことはない、小生の好きなサイトの一つである「たのしい万葉集」の中の、「第七巻 : 霰降り遠つ淡海の吾跡川楊」という頁だった。しかも、「作者: 柿本人麻呂歌集より」だって。小生、何度か、この歌を詠んでいるはずなのに、ピンと来ない。情ないし悲しい。
「吾跡川」とは「あどがわ」で、その川辺に川楊が生い茂っている。刈っても刈ってもまた茂ってくるという情景。
上掲のサイトにあるように、「「遠(とほ)つ淡海(あふみ)」は、奈良の都から遠い湖、という意味で、浜名湖(はまなこ)のこと」だとか。
丁寧にも、「都に近い湖である琵琶湖(びわこ)は、「近つ淡海(あふみ)」」なのだとも説明してある。
原文の「丸雪」とは、「霰」のこと。古代は、霰をそのように表現したということか。
「姫街道の旅 3日目 2001年 9月24日 気賀宿から三ヶ日宿(気賀~小引佐峠)」というサイトを覗くと、「吾跡川楊場跡」の(石碑)の画像などを見ることができる。
こうした碑を見て回る旅などしたいと、常々思うけれど、夢は寝床で叶えるしかないようである。
凄いなーと感心するのは、「吾跡川の柳堤を秋日傘」といった、吾跡川の柳を詠じた句があること。小生も、さりげなく、こんな風に詠い込めればと思ったりする。
万葉集には、「ねこやなぎを詠んだ歌は、3首あります。いずれも、「かはやぎ」と詠まれてい」るとかで、既に示した歌の他、以下の二つがあるようだ。いずれについても評釈が付されているので、サイトを覗いてみて欲しい:
1723: かわづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
1848: 山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの川楊は萌えにけるかも
さて、冒頭に示したサイトに「断がたい恋心〈猫柳〉」という表題が掲げられている理由も分かったことだし、そろそろこの稿を閉じよう。
「ねこやなぎ(sallow)」とか、「押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな」(木丹木母集より)という保田與重郎の歌など、触れてみたかったけど、また、いつか。
猫柳頬撫でるごと揺れており
ネコジャラシ子犬の尻尾とはこれ如何
猫柳雪の衣にぬくまれる
猫柳風と戯れんとて生まれしか
猫柳見れど飽かぬと暮れにける
川楊(かはやぎ)の萌えいずる春ならましを
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