月影を追って
23日は仕事だった。日中の強い風も夜になると収まってきた。その日の予報だと24日には西日本のほうからまた寒気団がまたやってくる、関東も場所によっては降雪、あるいは凍結も、などと。
それでも、23日の夜のうちは、空は晴れていて、月影が煌々と照ってくれた。
日中、風の強い日の夜の楽しみは、星影、それとも、月が新月ではないなら、月影である。
生憎、月齢を先週末から確かめるのを忘れていて、満月は何曜日なのかを正確には知らないでいる。照る月影を見ている限りは満月のようにも思えた。
今、月齢を調べてみたら、24日が満月だという。
満月のはずの今夜は、東京は生憎の雨に祟られ、見る影もない。昨夜、じっくりたっぷりと眺めておいて、よかった。
そんな輪郭の冴え渡ったような月影を、仕事の合間に、つまり、お客さんの乗っていない間などに追いかけていた。
時には、場所によって車の向きによって不意打ちのようにして真正面に月影が現れたりして、ほんの一瞬だけれど、仕事を忘れ見入ってしまう、魅入られるように。
月影などを追うのは、男として珍しいのだろうか。そもそも男女を問わず、そんなことを一晩中やっているなんて、あまりいないのかもしれない。
(この先に進む前に断っておくが、今日の一文は季語随筆とは名ばかりの気紛れな日記、まさに随想に過ぎない。「春の月」などという季語はあるが四月辺りに使いたくなる表現だし、「冬の月」は今更だ。二月も終わりの月、あるいはそんな月の齎す感懐や風情を表現するに相応しい季語はない(恐らくは)ようなのだ。困ったものだ。)
「月に吠える」という萩原朔太郎の詩集がある。
その中に、「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする」という一文がある。
続けて、「私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに」とも。
犬は遠吠えすると言う。あるサイトを覗いたら、「犬は「群居捕食動物」といわれます。飼い犬になって単独で生活を余儀なくされておりますが、音に反応して仲間を呼びあう習性が生きています。特にこの例のような救急車の音やサイレンの音、宣伝車の声などは連続音でお互いに呼び合う声(遠吠え)の音に類似しているため犬は反応します。音でなくても、満月に反応して遠吠えをするのも、この本能に由来するといわれています。」などと書いてあった。
この説明を読んでいて分からないのは、「音に反応して仲間を呼びあう習性が生きています」まではいいのだが、「音でなくても、満月に反応して遠吠えをするのも、この本能に由来する」というくだり。
音に敏感で、音に反応して仲間を呼び合う習性というのは(正しいのかどうかは、小生には判断が付かないが)ともかく、それからどうやって満月に繋がるのか、議論の脈絡が見えない。
それくらいだったら、萩原朔太郎の言うように、「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである」のほうがよほど、詩的な論理なのだろうけれど、分かるような気がする。あくまで、気がするに過ぎないが。
が、そもそも、犬は月に吠えるのだろうか。夜鳴きする犬が、例えば月夜の晩だと尚更、シルエット的に印象的だから、月に吼えると表現しているだけなのだろうか。
あるいは、その前に、犬の祖先は狼だと一般に言われているが、その狼が月夜の晩に吼える、そんな場面が映画などで印象や記憶に残っていて、その延長というか流れで犬も月に吠えるという表現が一定程度通用しているに過ぎないのだろうか。
雨の晩には犬は吠えないのだろうか。月が出ていなかったら、どうだろう。吠える犬は、飼い主などが傍にいないと、折に触れ吠えるのであって、その様が月夜だと遠めにもはっきり見えるから、印象的なだけなのだろうか。
たまたま遠吠えする犬の前を夜などに通りかかったことがあるが、小生の気のせいか、犬は特段、月に向かって吠えているようには見えなかった。
しかも、一般的に猫は視角の動物、犬は嗅覚&聴覚の動物と言われているとあっては、犬が格別の思い入れを持って月を眺めるとは思えない。それくらいだったら、猫殿のほうが、よほど月影に敏感のはずなのである。
(但し、犬の名誉の為に付言しておくと、犬は猫には視角能力で負けるかもしれないが、人間様よりは(色を見分ける能力は別にして)優れているという説もあるようである。)
もっとも、犬の嗅覚は人間には想像を絶するものがあると言うし、あるいは月影は、本当は微々たる物ではあっても、匂いを発散しているのであって、それが特に満月の日は強めなのだということも、考えられないことは…ないね。
やはり、犬が月に吠えるというのは、萩原朔太郎などの詩の刷り込みに過ぎないのだろう。
先にも触れたが、狼が犬の祖先なのかどうかは議論のあるところらしい。それでも、「現代の犬は全て狼にだけ由来すると思われる。それも、南アジアの諸地域に今日でもなお生息している小型の、体つきのほっそりした狼の1亜種が、おそらく犬の祖先であろう」という見解が有力のようだが(「犬の起源」より)。
そもそも犬が仮に狼の1亜種から枝分かれしたのだとしても、どのようにして人間の生活と馴染むようになったのかも、謎のようである。いろいろもっともらしい説明はあるのだが。
まあ、そんなことより、萩原朔太郎の詩の一節を読んでみよう:
見しらぬ犬
この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
みすぼらしい、後足でびつこをひいてゐる不具の犬のかげだ。
ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
わたしのゆく道路の方角では、
長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、
道ばたの陰気な空地では、
ひからぴた草の葉つばがしなしなとほそくうごいて居る。
ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
おほきな、いきもののやうな月が、ぼんやりと行手に浮んでゐる、
さうして背後のさびしい往來では、
犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきづつて居る。
ああ、どこまでも、どこまでも、
この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
きたならしい地べたを這ひまはつて、
わたしの背後で後足をひきづつてゐる病氣の犬だ、
とほく、ながく、かなしげにおびえながら、
さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬のかげだ。
(萩原朔太郎『月に吠える』(大正六年二月)テキストデータ」より)
彼、萩原朔太郎を追ってくる犬は、そのあと、どうしたのだろう。萩原朔太郎は、どうなったのか。家があり、寝床もある身ではあるけれど、小生にしても、自分が一体、何処にいるのか、とっくの昔に訳が分からなくなっている。住居表示は言えても、自分の魂のあり場所がどこにあるなどとは、冗談にも言えない。
どこから来たのか分からないように、何処にいるのかも分からないように、この先、もっと寂しい空の月に向かって、しかも、吠える気力も覇気もないままに、とにかく歩き続ける。
月は、地上世界を遍く照らし出す。わたしだけの月などではない。そんな薄情な月に向かって吠えたりなど、しない。薄情…、だけれど、その冷たさが、ますます嬉しいのだ。
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