番外編「山焼く」
「山焼く」の末尾近くで、以下のように書いた:
あやふやな記憶で確認が取れないのだが、19世紀に起きた大噴火で膨大な塵や埃が舞いあがり、世界の空を覆い、その結果、夕焼けが以前とは比較にならないほどに真っ赤になったとか、絵画の題材に夕焼け(朝焼けも?)が多くなった、といった話を聞きかじったことがある。空に埃が多ければ、それだけ夕焼けの赤も美麗に華麗に、時に不気味に人の目には映ったということなのだろうか。
この点は、また、新しい資料などが入手できたら採り上げてみたい。
山焼けのあとも、天候の上で条件が整えば、さぞかし夕焼けも見事だった…のだろうか。
(転記終わり)
この記事に反応してくれたようで、読者から、「「山焼く」にあった19世紀の異常気象についてですが、ムンク「叫び」の真っ赤な夕景なども、心象風景でなく現実に空が赤かったのだと言われていますね」といったコメントを戴いた。
せっかくなので、関連情報をネット検索してみた。
すると、例えば、「ノルウェーの画家エドワード・ムンクが代表作「叫び」の背景を赤く描いたのは、火山噴火のせいで本当に空が赤かったから? 」と題された記事が見つかった。
記事内容を紹介すると、「ノルウェーの首都オスロ出身の有名な画家であるムンクの作品で、日本人観光客に一番人気がある有名な「叫び」について先日のCNNニュースでは面白い学説が紹介されました」として、「米国の天文物理学者によると、ムンクが「叫び」を描く10年前の1883年8月、現インドネシアの火山が大噴火し、大量の火山灰を大気中に飛散。この影響で同年11月から翌2月ごろまで欧州など広地域で、火山灰の乱反射によって夕焼け空が真赤に見えるようになったとのこと。当時のオスロの新聞も赤い夕焼けについて報道しています。学者らはさらに、絵の背景の様子などからムンクが実際に立ったと思われる場所をオスロ市内で発見し(この場所についてはツムラーレ コーポレーションさんのツアーで弊局ニュースレターでもご紹介いたしました。)ムンクはそこから、南西の空を見上げていたに違いないと特定しました。この噴火による夕焼けはオスロ市内からは南西方向に見えたため、ムンクも火山による夕焼けを見上げていたはずだと結論づけたそうです。」とある。
さらに、「「叫び」はこれまで、母親や姉の死などムンクの個人的体験への想いをもとに描かれたものとされてきましたが、この学者らはムンクが実際に目にした真赤な空を、10年後に絵を描く際にヒントにした可能性もあるとしています。」とも付記されている。
「SmartWoman 第11回 ムンクの〈叫び〉 」には、「ムンクは〈叫び〉を描いたスケッチに、次のようにその成立についてのエピソードを書き込んでいる」として、次のようなムンクの言葉が引用されている:
「ぼくは二人の友人と散歩していた。陽が沈んだ。突然空が血のように赤く染まり、ぼくは憂鬱な気配に襲われた。立ち止まり、欄干に寄りかかった。青黒いフィヨルドと市街の上空に、血のような、炎を吐く舌のような空が広がっていた。友人たちはいってしまい、ぼくは一人不安に震えながら立ち竦んでいた。自然を貫くひどく大きな、終わりのない叫びを、ぼくはこのとき感じたのだ」(『ムンク』マティアス・アルノルト著、真野宏子訳、パルコ出版)。
(転記終わり)
上に紹介されている「米国の天文物理学者」とは、米テキサス州立大学の天体物理学者ドナルド・オルソン教授らであり、「現インドネシアの火山」とは、インドネシアのクラカトア火山のことのようである。
関連情報は、例えば、「Japanese JoongAngIlbo 「ムンク作の『叫び』は火山噴火を描いたもの」」などで読める。
ところで、気になるのは、こうした記事内容の受け止め方である。上掲のサイトでも、「19世紀末の象徴主義美術の代表作であり、20世紀ドイツの表現主義画風に至大な影響を及ぼした「美術史的な傑作」と評価される、このぞっとする名画について、著名な美術評論家や美術史学者らは、一様に大げさな解釈をしてきた。作家ムンクが恐怖を感じさせる画面を通じて「現代の人々の精神的苦悩」や「生の恐怖」、「産業化についての批判」または「人間の内面の絶望的な心理状態」を象徴的に描き出したというのだ。 」と、まさに、幽霊の正体見たり枯れ尾花式の理解をしている。
ムンクの作品の価値を貶めるかのようでもある。
が、今更、小生如きがムンクの作品を擁護する必要などないだろうが、仮にムンク(ら)が見た夕焼けの光景が、実は遠地での火山灰の飛散の影響に過ぎなかったとしても、問題は、そうした光景から何を感じるか、なのである。
もっと言うと、路傍に咲く小花、もっというとただの雑草に過ぎない、花さえも咲かない植物を見てさえも、感じる人は感じる。一粒の草露にも、宇宙を感じ取ることだって、ありえないとは思わないし、むしろ、小生は断固、ある! と主張したい。
例を見ないような夕焼けではなく、折々に見る夕焼けでも、その光景から何を感じ、何を想像するか、そして何を創造するかは、結局は見る人、感じる人の感性と想像力次第なのである。
あのクラカウア火山の遠い影響による、常ならぬ夕焼けを見て、「叫び」を生み出せるのはムンクだったのだし、あるいは火山の噴火を受けての被害者の悲鳴がムンクには聞えた…なんてことはないのだとしても、天変地異に何を感じるかは、やはりその人次第なのだろうと、逆に「叫び」を見て感じるのだ。
ムンク自身が言っている。「友人たちはいってしまい、ぼくは一人不安に震えながら立ち竦んでいた」と。
そう、多くの人は、感じることもなく去っていく。けれど、感じる魂、孤独な魂は釘付けされたようにその場に立ち竦むしかなくなるのである。
一般に遠方の地で火山の噴火があり、火山灰が飛散するとして、夕焼けの色合いなどに影響が現れ始めるのは(天候にまで異変があっては、困るが)、一定の時間を要するという。昨年末のスマトラ沖地震は、火山の噴火ではないので、天候に関わることはないと思われるが、これが火山だったら、あるいはムンクが立ち会った状況に遭遇することになる。
そんな時、ただ立ち去るか、その場に止まるか、一体、自分はどうなのだろう。やはり、日々の煩いに紛らせて、行過ぎてしまうのだろうか。
最後になるが、肝心のムンクの「叫び」の絵を改めて見てみようか。
この絵を見て、「高知県立美術館ミュージアムショップ 世界のミュージアムGOODS ムンクスクリーム」なるビニール人形やキーホルダーなど入手する? ムンク美術館公認だっていうし。
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