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2005/02/22

山焼く

 今日の表題に選んだ「山焼く」は、春2月の季語であり、「害虫駆除と肥料をつくるために、山の枯れ草などを焼くこと」だという。
 同じような意味合いを持つ季語に、「野を焼く[野焼・野火・畑焼く]」といって、「山焼とおなじように野を焼くこと」や、「芝焼く[芝火]」といって、「新しい芝が生えてくるように芝を焼く」があるようである。
 似ているといっていいのかどうか分からないが、「奈良の山焼」があるが、これは、「奈良の嫩草山(わかくさやま)を焼く行事で、毎年もとの紀元節の日に行つて来た」という。

 さて、この「山焼く」を選んだのは、昨日、タクシーの中でラジオを聴いていたら、「古代の興亡舞台か 葛城氏「王宮」」というニュースが飛び込んできたからである(「asahi.com MYTOWN 奈良」より)。
 こうした記事は、短時日のうちに削除されてしまうので、一部だけでも急いで引用させてもらう。
「極楽寺ヒビキ遺跡は、日本書紀に描かれた古代ドラマの舞台だったのか。「葛城国王」説がある大豪族葛城氏の「王宮」とみられる建物跡が、奈良県御所市で見つかった。下界を見下ろす丘陵に立ち、堀をめぐらせた堅固なつくりは、大王(おおきみ)(天皇)家を支えながらそれに匹敵する力を蓄えた葛城氏の姿をいまに伝える」と冒頭にあるが、その「建物跡」が問題なのである。
「一方で激しい焼け跡は、雄略天皇の怒りに触れて火を放たれ、衰亡した事件の「証拠」となる可能性もある。5世紀の興亡が垣間見える」とあり、まさに史書の記述を裏書するかのような焼け跡なのだ。

 詳しくは上掲のサイトを覗いて欲しい。
 早晩、消えてしまいそうなので、続けて一部、転記しておくと、「ヤマト王権の中心は奈良盆地にあった。その南部を治めた葛城氏は、大王家の外戚(がいせき)として勢力を誇った。金剛山(1125㍍)のふもとの一帯に様々な施設の跡が点在しているのがそれを裏付ける」とある。
「水の祭りの場とされる導水施設、神殿らしい大型建物、工房、倉庫群、いくつもの居住区域……。それらを見下ろす位置に巨大な建物跡があった。「都市」の中心にふさわしい場所といえる」とか、「2階建て以上とみられる建物は広場や物見やぐらを伴い、一部は二重の塀が囲う。石を張った堤を持つ堀には、数カ所に大きな石を据えた庭のような部分もあった。土器の出土は少なく、生活臭がない。同研究所の西藤清秀・調査第2課長は「各施設を見渡した行政の中枢だった」とみる」という。
「「軍事的な施設の可能性も考え」る方もいる。
 ここからが小生の関心事でもあるが、「日本書紀に記された事件と直接結びつきそうなのは、建物や塀の柱穴が真っ赤な焼け土に埋もれていたことだ。炭化した柱もあった。全体が大火で焼損したが、建て直されることなくうち捨てられたらしい」という点。
「その事件とは。日本書紀では、雄略天皇が即位前、兄の安康天皇を殺した眉輪(まゆわ)王や、王をかくまった葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)らを焼き殺した。大臣は領地7カ所を差し出して許しを請うたが聞き入れられなかった。焼け死んだ大臣らの骨を区別できなかったと記されたほど激しい火事で、一族は急速に衰えたという」のである。
 小生がこじつけと承知しつつも、表題に「山焼く」を選んだのは、そうした史実の跡を示す火事の痕跡が山に残っていたことが発見されたというニュースがあったからである。
 たまたま、日曜日に図書館から借り出した本の一冊が、都出 比呂志著『王陵の考古学』(岩波新書刊)だった。松井章著の『環境考古学への招待』(岩波新書刊)の裏表紙裏に、こんな本もありますとあったこと、図書館で考古学のコーナーを物色していたら、目が合ってしまった、で、早速、月曜日、車内に持ち込んで読み始めていた。 
 本書は、「日本の前方後円墳,秦の始皇陵,そしてエジプトのピラミッド.「王陵」は,古代社会の遺産として今も人々の心を惹きつけてやまない.世界各地の王陵を,埋葬作法や副葬品,祭祀などもふくめて概観し,この巨大なモニュメントが登場する歴史的・社会的背景を明らかにする.あわせて王陵が現代に果たす役割と意味とを問う」と、表紙裏に書いてある。
 その第一章は、「前方後円墳の時代」で、(主に)日本における古墳の起源から古墳時代の終わりまでを扱っている。
 日本において墳丘(古墳)時代が最終的に幕を閉じるのは七世紀の後半らしい。推古朝に実施された冠位十二階がやがて大宝令による位階制で完成する身分制が定着し、律令制度も整ったことと反比例的に相関しているとか。
 大規模だった古墳も多少の例外を除いて、蘇我氏(本宗家)の滅亡と共に終焉したようである。
 ところで、その蘇我氏は出自において謎の多い氏族なのだが、彼ら自身は葛城氏に連なる一族だと主張している。蘇我氏が権勢を持った頃には既に権力の表舞台から消え去っている葛城氏の名を持ち出す…、それほどにまだ権威があった一族だったということなのだろう。
 ところで、ついでながら、「なぜ仏教は日本で普及したのか」という永井俊哉氏による講義がある。分かりやすく、面白いので、覗いてみても損はない。
 俗に古来よりの神道を護持しようとした物部氏、それに対し、中国(朝鮮)渡来の仏教を導入しようと図った蘇我氏の戦い。これが結果として蘇我氏の勝利に終わり…云々という説明が歴史の教科書などに書いてあることがある(最近のものは読んでいないので分からないが)。
 これは単なるイデオロギー闘争なのか。権力争いなのか。古来よりの宗教イデオロギーである神道が外様の仏教イデオロギーに負けたのは、何故なのか。
 仏教が教説において優れていたから?
 永井俊哉氏の講義によると、「西暦535年、史上空前の火山爆発」があり、「その後一年以上も太陽が暗くなり、洪水・干ばつ・ペストが全大陸を覆い、無数の人々が亡くなった」と、彼が紹介する本(注・下記参照)には実証してあるという。
[デイヴィッド・キーズ(David Keys)著『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』(畔上 司訳、文芸春秋刊):原題:「Catastrophe: An Investigation into the Origins of Modern Civilization」
 出版社の宣伝文句を転記すると、「西暦535年、史上空前の火山爆発が起こった。その後一年以上も太陽が暗くなり、洪水・干ばつ・ペストが全大陸を覆い、無数の人々が亡くなった…。大噴火がもたらした世界異変の数々を明らかにし、人類史の書き換えを迫る」というもの。
 この本、乃至は、この本に示されている説については、日立のクイズ番組「世界ふしぎ発見」でも紹介されていたようだ。その際は、恐らくはということで、インドネシアのクラカトア山の噴火だったのだろうと紹介されていたと、あるネットでは書いてあった。]

 世界的な異常気象は、日本も例外ではなかったようで、それまでは豊作だったのが、「536年には、一転して未曾有の寒冷化による大飢饉が発生したの」だという。
「実は、詔が出る1年前の535年から翌年にかけての時期は、世界的な寒冷化の年であった。そのことは世界各地の年輪データから実証されている。地域によって差があるが、535年から数年、場合によっては20年以上にわたって、年輪の幅が異常に狭くなっている。その間、木がほとんど生長しなかったの」であり、「グリーンランドや南極の氷雪を分析してみたところ、6世紀中ごろの氷縞に火山噴火の痕跡である硫酸層が大量にあることが確認された。このことは、火山噴火による大気汚染が日光を遮断し、世界的な気候の寒冷化をもたらしたことを意味している。535年以降、異常気象による飢饉と疫病で人々が苦しんだことは、世界中の文献に記載されている」という。
「日本でも535年以降、同様の天変地異が起き、このために伝統的な宗教が権威を失い、人々は現世利益をもたらす新たな信仰の対象を求めた。仏教をはじめ大陸の先進文明に通じていた蘇我氏が登用された背景には、大和朝廷が未曾有の危機に直面し、伝統的な手法に行き詰まったことがあったわけである」と永井俊哉氏は書いておられる。
 仏教の伝来は、公式には、「欽明天皇の戊午の年(西暦538年)」とか、「『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年壬申(552年)としている」とか、最終的に決着はしていないようだが、ただ、「仏教そのものは、538年以前から日本でもその存在が知られていた。『扶桑略記』によれば、継体天皇16年(522)に司馬達止が中国(南梁)から渡来し、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝した」というし、いずれにしても、非公式には、西暦538年以前より伝わっていたのは間違いないだろう。
 ただ、「しかしこの当時の日本人は、誰も仏教を信仰しようとはしなかった。豊かな時代には、人々は新しい宗教を受け入れようとはしない」のだった。「一般的に言って、社会不安が広がると、新しい宗教が普及したり、宗教改革が行われたりする。バブル崩壊後の日本でも、広がる社会不安を背景に、様々な新興宗教が跋扈した」と永井俊哉氏の書いておられる通りである。

 ちなみに、西暦535年の大噴火以降の数十年間は、世界的に「過去2000年間で最悪の気候だった」とも言われる(「西暦535年の大噴火/モナ丼/本読」より)。
「エフェソスのヨーアンネスが書いた歴史書『教会史』にこうある。「太陽から合図があったが、あのような合図は、いままでに見たこともないし、報告されたこともない。太陽が暗くなり、その暗さが1年半も続いたのだ。太陽は毎日4時間くらいしか照らなかった…」。東ローマの歴史家プロコピオスは「日光は一年中、輝きを失って月のようだった」と。カッシオドース「春は穏やかではなく、夏も暑くなかった。作物が生育すべき何ヶ月間かは、北風で冷え冷えとしていた。雨は降らず、農民は、また寒気に襲われるのではと恐れている」。中国の『北史』に「旱魃のため勅令が下された。死体は埋葬すべしという内容だった。…当局は、市門で水を配ることとした」。『南史』では南京に黄砂が押し寄せ「黄色い塵が手一杯すくいあげられた」。『日本書紀』では「食は天下の本である。黄金が満貫あっても飢えを癒すことができない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか」」という。
 最後の『日本書紀』からの引用は、上で紹介した永井俊哉氏による講義にも引用されている「蘇我稲目が大臣になった宣化元年(536年)における宣化天皇の詔」のものである。
 ただし、上掲のサイト(「西暦535年の大噴火/モナ丼/本読」)によると、惨状を紹介している原書には「Catastrophe」とあるだけで、「大噴火」と訳される言葉はないというのだが。
 同じサイト主の方の頁で、「154 サイモン・ウィンチェスタ 早川書房  クラカトアの大噴火」もある。
 このサイトのホームは、「モナ丼/ケノのモナド的混沌世界へようこそ」である。
 ま、「西暦535年の大噴火」も、取りあえずは、エンターテイメントとして楽しんでおきたい。
 そのうち、再度、採り上げることもあるかもしれない。

 歴史的に、ほぼ確実視されている歴史を変えた噴火というと、「紀元前(BC)1628年に比定されたサントリニ島の大噴火」があるようだ。

 あやふやな記憶で確認が取れないのだが、19世紀に起きた大噴火で膨大な塵や埃が舞いあがり、世界の空を覆い、その結果、夕焼けが以前とは比較にならないほどに真っ赤になったとか、絵画の題材に夕焼け(朝焼けも?)が多くなった、といった話を聞きかじったことがある。空に埃が多ければ、それだけ夕焼けの赤も美麗に華麗に、時に不気味に人の目には映ったということなのだろうか。
 この点は、また、新しい資料などが入手できたら採り上げてみたい。
 山焼けのあとも、天候の上で条件が整えば、さぞかし夕焼けも見事だった…のだろうか。
 
 山焼けの空の茜の目に染みて
 山焼ける空を眺める二人かも
 焼ける山思いは一つならざるも

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