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2005/02/21

春泥(しゅんでい)

 今日の表題の「春泥(しゅんでい)」は、特に何の当てがあって選んだ訳ではなく、すでに日付上は昨日になってしまったが、日曜日、小生には似ず合計すると二時間以上も歩く羽目になったから…だと思う。
 曖昧だが、歩くといっても、東京だと土の上を歩くようなことは、まずないと言っていいだろう。何処かの公園の芝生を歩くわけにもいかず、我が邸宅(集合住宅)の庭を歩くことはできず、大概がアスファルトかコンクリート、歩道も石かレンガ(モドキ)の上を歩くしかない。
 まずは、季語の説明をしておいたほうがいいのだろう。2月の季語であり、「雪解け、凍解や春雨によるぬかるみ」を意味し、「春の泥」という言い方もされるようである。類義語なのかどうか分からないが、類似する季語に、「春の土」(あるいは「土の春」)もあるようで、「雪が解け、日差しにぬくもった土」の意だとか。
 いずれにしても、雨上がりの道であっても、否、雨が降っている最中の道であっても、東京にあっては泥濘(ぬかるみ)とは縁が薄い。水はねはあるが、泥はねというのは、久しく経験していない。盆や正月に田舎に帰っても、大学に入学当初の頃は、近所に砂利道などがあって、雨など降ると呆気ないほどに水溜りが出来、足元に気をつけながら歩かないといけなかった。
 それでも、帰宅して衣服が乾いたりすると、ズポンの裾に、それどころか、腰の辺りにまで泥の刎ね返りがあったりしたものだった。

 コンクリート舗装された道を歩く快感…というより、雨上がりなどの際の砂利道を歩く不快感からの解放は今ではだから田舎でも味わって久しいのである。久しすぎて、当たり前になっている。感覚的にはほんの少し前までは家の周りが泥の道、砂利道で、たまに自動車が通ると、家が揺れたのだった。それが、今ではコンクリートジャングルなのである。何もかもがコンクリートに埋め尽くされてしまった。田舎の家の庭にも、もう、二十年以上の昔、車で我が家に来る親戚達のために幅にすると二メートルほどのコンクリート舗装の道が家の前の小道から玄関先までの十メートルたらず、続いている始末である。
 始末であるというが、車だったりすると舗装されているほうが有り難いし、雨の日など、コンクリート舗装の道を伝って歩けば、泥で靴が汚れて困るということも、まずない。利便性が高いというしかないのだろう。

 それでも、田舎は目の前には田圃(それも昨年からは稲作を止めてしまって、荒れ放題になりかけている)や畑や泥のままの庭も残ってはいる。
 家の近所の小学校も、やや離れている中学校にしても、田舎だと校庭は泥である。土のグラウンドなのである。
 それが東京の小中学校と比べると、少し嬉しいような、ホッとするような気がする。
 東京の多くの学校は、校庭がコンクリートだったりするだけじゃなく、校舎や校庭の回りをコンクリートの塀がきっちりと囲っている。御丁寧にコンクリートの塀の上は金網で、体力のない中年男には侵入も叶わないが(侵入など思いも寄らないけれど)、まるで刑務所の傍を歩いているような錯覚に陥ることがある。
 学校への不審者の侵入を防ぐとか、校庭を舗装するのは、住宅などの密集する都会にあっては、土埃が舞って近所に迷惑を掛けないとか、敷地が何処までかの区画を明確にする必要があるとか、それどころか、マンションや高層のビルやコンクリートの塀で仕切られた街並みに慣れてしまった子供等には、むしろ、現状の光景の方が原風景になってしまっているのだろう。
 都会では、さすがに土の校庭には戻しようがないだろうが、土の感触のあるグラウンドに改善することは技術的に可能なはずと思うのだが。

 泥の道を歩く快感というのは、これは、コンクリートやレンガなどの道を歩くのとは、まるで違う感覚が得られたりして、都会では望みようのないものがある。
 まして、土の道の上を裸足で歩くことは、これは、ある意味、人間というより、その前に生命体としての人間の大地への結びつきを実感する、またとない機会なのではなかろうか。
 靴を履いたままであっても、子供の頃など、わざとのように、泥濘や水溜りで足を踏み込ませて、泥水をパシャパシャやったりして、泥、土、水などを蹴散らす生々しい感覚を楽しんだものだった。何かの鬱憤があって、まさに鬱憤晴らしだったのかもしれないが、純粋にただ楽しかったから、やんちゃを楽しんだといったほうが本当に近いのかもしれない。
 靴にしろ、裸足にしろ、土の上を歩く、その齎す豊かな感覚というのは、一体、何なのだろう。先ほど書いたように大地への結びつきなのだろうか。その前に、土の持つ豊穣感なのかもしれない。
 そういえば、松井章著『環境考古学への招待』(岩波新書)を読んだ時に、改めて実感したのは、土の世界の大切さだった。

「ペドロジー(pedology)と呼ばれる現代の土壌学」があって、「土壌自体を独立した自然物としてとらえ、植物や動物、地質などと同様に土壌を博物学的な視点から研究する」のだという(「土についてのお話」より)。
 上掲のサイトによると、「16世紀後半に書かれた日本最古の農書と呼ばれている「親民鑑民集」にも土壌分級とそれに基づいた作物の適性が記述されてい」るという。
 が、さすがは中国で、「世界で最も古い記述となると紀元前4~3世紀に中国で書かれた「書経禹貢篇」までさかのぼり」るのだとか。「チェルノーゼムと呼ばれる土があり」、「ロシア語で黒い土を意味するこの名称は狭い意味ではウクライナ地方に分布する黒い土壌を呼」ぶらしいが、「北米のコーンベルト地帯や南米のパンパスなど各地の穀倉地帯にも似たタイプの土壌が分布しており、広義には大陸温帯の半乾燥地帯の草原に分布する、有機物が厚く堆積した黒く軟らかな土壌を呼びます。一般的には、この土が世界で一番肥沃な土壌といわれてい」るのだとか。
「19世紀後半のロシアの地質学者ドクチャエフは」、「チェルノーゼムと呼ばれる土」を研究し、この土が、「草原の植物遺体が年々堆積し、微生物に分解されながら土壌粒子とよく混合した結果できたことを明らかにし」たのだという。
 その上で、「彼は「土壌は気候や地形などの多様な条件のもとで、岩石ないしその堆積物に対する生物の影響によって自然史的過程で生成されるもの」とし、土壌自体を独立した自然物としてとらえ、植物や動物、地質などと同様に土壌を博物学的な視点から研究することを提唱」したと続くわけである。
 日本でも既に、「わが国の失われつつある土壌の保全をめざして ~レッド・データ土壌の保全~」なるシンポジウムが何年かに渡り開催され、「土壌版レッドデータブック」なるものが作成されているようである。

 土へのこだわり、土への回帰の魂。小生は、エッセイや掌編などで折に触れ表現してきたし、デヴィッド・W・ウォルフ著『地中生命の驚異』(長野敬+赤松眞紀訳、青土社刊)や、リチャード・コニフ著『無脊椎動物の驚異』(長野敬訳、青土社刊)、リチャード・フォーティ著『生命40億年全史』(渡辺政隆訳、草思社刊)などを読んできたものだった。
 この無精庵徒然草の中(「都会の落ち葉」)でも、「土中には、地表の動植物より膨大な種類(と量)の生き物が生息している。落ち葉は(落ち葉だけじゃないが)腐葉土となって、大地の中の世界を豊かなものにしているのである」などと書き綴ったこともある。

 なんだか、話がまた野暮に渡ってしまった。
「都会の落ち葉」という項では、「散る枯れ葉行方の先の遥かなり」や「枯るるともやがて命の肥やしかな」などを吟じている。「春泥」ではどう、詠じたらいいだろう。


 泥の道跳ね回りしはいつならん
 雨上がり泥はね厭い縁伝う
 晴れ着にて雨上がりの道行くを観る
 雨上がり土の香嗅げば噎せるほど
 土の道命のめぐり見守るか
 春泥に蛙戯れ子等の声
 春泥の塀の向こうに声のする


 無精庵方丈記では、「今日も走るぞ! 」という題名でタクシードライバーの書くに書けない日誌なる小説(?)を書きました。好評だったら、続編を書きますが。

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コメント

春雷・・という季語はないの?

泥はねといえば・・小学生の頃は必ずつけてましたねぇ・・歩くのが下手なのでしょうか・・

というのも 大人になってくるとだんだん減ってきます。
それとも・・大人になるとコンクリートの上ばかり歩くからなのかな・・

いや・・やっぱり子供の時に比べて土の部分が減ったのかもね・・今の子供もあまりつけてないもの・・(x_x;)

投稿: rudo | 2005/02/22 00:04

春雷は春三月の季語。春の嵐という季語もある。雷だけだと、夏の季語になる。

 泥はねのことは、小生の名前をクリックしてみて。
 やはり歩き方があるみたい。

1.がに股はダメ。
2.かかとからつま先へ重心移動をスムーズかつリズミカルに。
3.可能ならズックじゃなく、パンプスがいい。
(裏側に滑り止めを貼ると、もっといい)

 同じ場所を歩くなら、子供の方が大人より泥はねが少ないはずみたい。

投稿: 弥一 | 2005/02/22 09:16

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