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2005/02/13

蕗の薹(ふきのとう)

 今日の表題は、ちょっぴり願望も入れて「蕗の薹(ふきのとう)」を選んだ。例によって「2月の季題(季語)一例」にある。
 願望というのは、このところ寒さが厳しくなっているので、暖かい日よ早く来てくれよ、というほどのもの。他愛無いといえば、それまでだが。実際、土曜日の日中などは、東京も寒さが少し和らいでくれた。朝、通勤途上に、普段は見かけない老いた白猫が、日溜まりに、そう、まるで温泉に首までどっぷり浸かっているかのように目を細め、うっとり陶然と坐っていた。
 大概は、その猫が飼われている家の玄関先のコンクリート段の上に坐っているのだが、その時は、陽光を浴びるためもあるのだろう、道路上に坐っているのだ。そんな場所に坐っているのを見たのは、初めてだった。
 でも、それ以上に嬉しいのは、白猫殿が健在だったこと。
 我が仕事柄、帰宅は朝となる。時間は七時前後だろうか。昨年など、必ずと言っていいほどに帰宅の途上で白猫殿を見かけ、時には写真にも収めたのに、年末から見かけるのが稀になり、今年に入ってからは、めったに姿を拝めなくなっていた。
 特に、二月に入ってからは、見たことがあったかどうか。もしかしたら、白猫殿はかなりの高齢のようだし、悲しい事態に見舞われているのかも、などと思いつつ、猫のための食事を宛がう空っぽの皿のある、路地裏の餌場所を眺めて通り過ぎていたのだった。

 そう、見かける場所も道路上(といっても、勿論、道路の端っこだから、車が余程幅寄せでもしないかぎり、安泰で居られる位置だが)という初めても場所なら、猫の顔の向きも初めて見るものだった。本当に日光にまともに顔を向けているのである。背中に暖かい陽光を当てるのではなく、直射日光を余すところなく顔で受けようとばかりに日を浴びているのだ。
 浴びているというより、日光を当てているというべきか。だから、目など開けてはいられないのも、当然至極なのである。
 老い猫殿は、体毛が真っ白である。それこそ雪のように白い。
 小生がこの猫殿の存在に気付くようになったのは、昨年の夏ごろからだった。その前は通勤のルートも、通勤の時間帯も若干違っていて、姿を見かけることはないか、気付かない程度だった。
 だから、小生は白猫殿の老いてからの姿しか知らない。
 白猫殿などと勝手に呼称しているけれど、もしかしたら若かりし頃は、薄茶色の、三毛猫風だったりしていたのかもしれない。それが、年老いて、白い部分は一層白くなり、淡い褐色の体毛は脱色されて白っぽくなり、今では、元の色がどんなだったかも、窺い知れないほどに成り果ててしまったのかもしれない。
 そういえば、小生も、今年に入って、白髪が急に増えたような気がする。気がするというのは、増えているのは後ろ髪の部分で、いつだったか仕事の最中、鏡に向かって背広の襟首を直していて、その事実に気が付いたのだった。普段もたまには自宅で鏡に向かうが、部屋の中は薄暗いので、気付きようがなかったのだろうか。
 白髪の増加に驚く小生も、やがては父のように真っ白な頭髪になってしまうのだろう。
 輝くような白、というと、何処かのメーカーの洗剤の宣伝のようだけど、真っ白な頭髪を見ると、元の色が黒かっただなんて、夢のようである。最初から白だとしか思えないほどに見事な銀髪。
 その意味で、老いた白猫殿も、白猫殿と呼ぶのは、失礼に当たるのかもしれない。今は白いけれど、昔は、真っ黒な体毛の猫だったかもしれないのだ(そんなことは、さすがにないだろう。でも、茶色、褐色だってってことはありえる。金髪もないんだろう…)。
 とまあ、他愛もないことを思いつつ、出勤したり近所を歩いたりするのだ。
 話が小生の根性のように曲がりくねってしまって、一体、元の形はどうだったのか、何を話しようと思っていたのかも分からなくなった。

 そういえば、夕べというか、今朝の夢も変なものだった。
 夢の内容の大半は、いつものことだが、綺麗さっぱり起きた瞬間に忘れ去ったが、最後の数場面だけ、辛うじて覚えている(それだけでも、小生には上出来である。大概は、夢を見ていたようだったがという印象しか残らないのだから)。
 発表会か講演会の会場へ小生は(誘われて?)行った。案外と少ない人数の会場。とても講演をするような会場ではなく、どことなく厨房の周辺に無理やり椅子を並べたような印象。なぜか、小生も講演で自分の意見を発表することに決まっているらしい。
 小生の手元に資料らしいものがクリアーファイルに仕舞われている。が、中の書類が乱雑で、順番もバラバラ。これじゃ、とても喋れるはずがないじゃないか! と小生は戸惑っている。
 戸惑いの中には、小生には話したいことが山のようにある、だから、志願して講演乃至は発表会の会場に来たのに、いざ、会場にの指定された(残った)隅っこに坐ってみると、勝手が違う。何を喋ればいいのかも分からない。書類もいい加減、といった当惑の気持ちも含まれているようだった。
 
 なんだか、小生がこの季語随筆を綴る際の右往左往振りにも似ている。
 一応は、季語(季題)の表を眺めて、これにしようと、何かの季語などを選ぶのだが、選んだ瞬間には、ほんの一瞬、こんなことなど書けるかもと閃きのようなものが浮かぶのだが、それは大抵は夢幻のごとくに潰え去り、何を書けばよかったのか見えなくなり、そもそもなんでこの季語を選んだのかさえも、まるで分からなくなってしまう。
 敢えてこじつけるなら、かなり強引だとは思いつつも、表題に「蕗の薹(ふきのとう)」を選んだわけというのは、寒さが厳しい、寒さがぶり返しているけれども、そんな中、蕗の薹の健気な姿など垣間見て、春の到来を待ちわびる気持ちを綴ろう、春の到来を草木の芽吹きの中に探ってみようと思ったのだった…、ということになるかもしれない。
 で、白猫殿の話題を持ち出したのも、久しぶりに白猫殿の姿を見ることが出来たのは、三寒四温の果てに春がそこまでやってきていることの、一つの心温まる証拠の一つではないかということで採り上げたかったのだが、志とは違って、迷路に迷い込んでしまって、しかもどう抜け出したらいいかも分からないで居る。

 戻り道。家があって、そこに戻る。でも、戻ってどうなる、という気持ちが先に立ってしまう。迷い道にあっても一人であるように、戻っても、所詮は一人であることに変わりはないのだとしたら、迷子のままでありつづけるしかないのだとしたら、何もシャカリキになって迷路から脱け出る必要などない。このままでいいじゃないかと思われてしまう。
 それが大人ということ、年を取るということ、何処から来たのか、振り返っても真っ暗闇の不気味な世界が茫漠と広がっているだけで、まるで分からないように、行方にしても、もっと深い闇へと進むしかない。この場に止まっていたい、何かにしがみ付いていたいと思っても、時は迷子の魂を押し出していく。
 遠い昔、地球が丸いのかどうか定かではなかった頃、太平洋の先は、急に滝になっている。それも、流れ出した水の落ち行く先も見えないほど巨大な滝になっている、などと想像していたとか。海の彼方には大陸が取りあえずはあったけれど、時の潮流に笹の舟にも乗れないで漂う者は、もっと不安なの…だろうか。

 冬の寒さが辛いから、春の到来を待つ。でも、それは時という魔のとんでもない罠なのかもしれない。春など待たなくてもやってくる。誰に断りもなく、無論、この自分の気持ちの如何に関わらず、容赦なくやってくる。
 だったら、それこそ、今を感じる。今という時の中に、感じ想い考え想像しえるかぎの豊穣を示しえるかどうかが大切なのだろう。
 ちょっとだけ、表題に絡めると、「フキはフユキ(冬黄)の略、冬に黄色の花が咲くからという説もあるが、フフキからとする説の方が有力なようだ。フフキとは、ハヒロクキ(葉広茎)、ヒロハグキ(広葉茎)、ハオホキ(葉大草)などから派生しているようだ。いずれも葉が大きいところから来ているらしい」という。
 小生は、勝手に、「蕗(ふき)」を「芽吹く」に関連付けていた。
「薹(とう)」とは、「〔形が塔に似ているところからいうか〕アブラナ・フキなどの花茎」の意だという。
  冬と春の交錯する、冬の行きつ戻りつする、春の到来の躊躇するような、そんな宙ぶらりんの時期にも、着実に「薹」が、つまり春の萌葱色の芽が吹き出している…、そんな由来などを思い浮かべていたのだった。大外れだけれど。
 
 ところで、「薹が立つ」とは、一つは、「野菜などの花茎が伸びて硬くなり食べ頃を過ぎる」であり、さらには、「若い盛りの時期が過ぎる。年頃が過ぎる」だという。
 となると、やはり、春の到来など、足踏みしていてくれたほうがいい。「薹」など、まだ、土の中で寝そべってくれていたほうがいい。その方が、小生も薹が立たなくていい…なんて、一瞬、思ってもみたけれど、思えば、疾うに薹が立っていたのだった。
 だからこそ、今という一瞬一瞬を惜しんでいる。一瞬の中に可能な限りの想像を膨らませているのではなかったか。
 気分直しに、俳画などを眺めたりして。

「蕗の薹(ふきのとう)」という語の織り込まれた句は、上掲のサイトにも紹介されているので、長くなりすぎた稿に転記するのはやめておく(前田普羅の句は季重ねではないか、という野暮はやめておこう)。しかも、宮澤賢治の詩にも会える。

 蕗の薹ぬかるむ道にも色冴えて
 蕗の薹風雪耐えて傘となる
 蕗の薹その清冽なほろ苦さ
 蕗の薹土と雪との結晶か
 蕗の薹あの子に萌す春の夢
 蕗の薹春の日差しの透き通る
 蕗の薹立つほどに我は萎えゆく
 蕗の薹蕗は夏でも薹立てば春
 

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