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2005/02/10

春時雨

「春時雨」というのは、2月の季題(季語)一例であり、春が冠せられているように、初春の季語である。
 では、「時雨」だけだと、いつの季語なのか。実は、冬の季語なのである。
 大辞林(国語辞典)によると、「時雨(しぐれ)」は、「初冬の頃、一時、風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨。冬の季節風が吹き始めたときの、寒冷前線がもたらす驟雨(しゆうう)。村時雨・小夜(さよ)時雨・夕時雨・涙の時雨などの言い方がある」と説明されている。
「時雨忌」などという言葉がある。これは、芭蕉の忌日である。芭蕉は、「時雨の降る頃、陰暦一〇月一二日に没したので、このように称する。「芭蕉忌」ならば効いた事がある人も多いだろうが。
 その前に、「時雨月」とは、「陰暦一〇月の異名」だと知っておくべきなのだろうか。

 ところで、「時雨」と書いて、「じう」と読ませる場合がある。この場合は、「ちょうどよい時に降る雨」という意味を持たせることもあるようだ。
「時雨心地」という言葉があって、「涙が出そうになる気持ち」だというのは、「時雨」という言葉を調べていて、初めて知った。
「時雨」だけだと、冬の季語ということで、秋の時雨は秋時雨であり、春の時雨は春時雨などと、それぞれ季節が被せられるわけである。
「時雨」を上掲の辞書で後方一致検索させてみると、結果が 22件となった。小生が思い浮かんだのは、蝉時雨くらいのものだったので、予想をずっと上回る結果である。「片時雨」は、「ある場所では時雨が降っていて、別の場所では晴れていること。[季]冬」だとか。
「北山時雨」という言葉は聞いたことがあるが、「京都の、北山方面から降ってくる時雨」以外にも、滑稽な意味合いがあることを知った。
「黄身時雨」なんていう言葉もある。何のこっちゃ、空から卵の黄身でも降ってくるのか、気味悪い! と思ったら、「白餡(しろあん)に卵黄と砂糖とを混ぜて練り、微塵粉(みじんこ)を加えて蒸した菓子」だとか。一度、食べてみたい。
 この他、「霧時雨」や「露時雨」とか「さんさ時雨」など、気になるが、「木の葉時雨」などは、「木の葉の散るさまや音を時雨に見立てていう語」ということで、そのうちに創作か随筆の中でさりげなく使ってみたい。
「小夜時雨」は、「夜に降る時雨。[季]冬」だとか。この言葉に気付いていたら、この季語随筆日記の表題に選んでいたはずである。迂闊だった。次の冬までこのブログが続いていたら(また、この言葉を覚えていたら)、何とか表題に設定して何か綴ってみたいものだ。
「時雨」にちなむ言葉はまだまだある。「袖時雨」とは、「袖に涙がかかるのを時雨にたとえていう語」だという。自分の涙なのか、それとも愛しい誰かの涙が袖にかかることを喩えるのか。
「初時雨」は、「その冬最初の時雨。[季]冬」というから、読んで字の如くである。「初時雨猿も小蓑をほしげ也」(芭蕉)なる句があるとか。
「蝉時雨」のほかに、「虫時雨」という言葉もあるらしいが、どうも、語感的に風情が感じられない。
「夕時雨」なんて、言うのが恥ずかしいほど、そのまんまである。

 まあ、「時雨」のことについては、昨年、既に、「時雨ていく」という表題のこの日記で「時雨」の語源も含め、大凡のことは調べている。興味のある方は、覗いてみて欲しい。
(但し、今日、ネット検索していて、「時雨しぐれとは、「過ぐる」からでた語で、通り雨のことで」云々という、小生が示した以外の語源説が見つかったのだが)
 なので、ここでは、急いで「春時雨」に戻る。
 あるサイトを覗くと、「春時雨」とは「春の驟雨」であり、「明るくはらはらと通り過ぎる」と説明してある。
 なんだか、最初から外された気がする。小生が「春時雨」を今日の表題に選んだのは、(東京では)月曜日の夜半過ぎから火曜日の夕暮れ近くまで降り続いていた氷雨とでも呼びたいような冷たい雨の中、仕事していたので、帰宅したら季語随筆日記の表題には、何か雨に関する季語を選びたいと思っていたからだ。 
 その際、小生の勝手な思惑では、「春時雨」というのは、春とは名ばかりの冬の名残が色濃い、冷たい雨なのであり、春の雨の持つ、何処か草いきれ(草熱れ=繁茂した夏草から醸し出される蒸されるような熱さのこと)の篭るような、生温かい雨、あるいは「春雨じゃ、濡れていこう」という科白に漂うような艶っぽさとは程遠いはずだったのである。
 なるほど、そういう「明るくはらはらと通り過ぎる」感じの雨ならば、「吾妹子の片袖ぬぐふ春時雨」なんていうも味わいが出てくるわけである。
 ただ、例えば、種田山頭火の句に、「うしろすがたのしぐれてゆくか」というのがあるが、これなど、春雨っぽい微温的な雨では、何処となく孤独感が薄れるような気がするのだが、山頭火は一体、どういうニュアンスで「しぐれてゆくか」と吟じたのだろう。
 ついでといっては、山頭火に失礼かもしれないが、彼の句を幾つか、「酒と山頭火 by~endoy」などを参考に、掲げておきたい。

 お骨声なく水の上をゆく
 分け入つても分け入つても青い山
 焼き捨てて日記の灰のこれだけか
 酔うてこほろぎと寝てゐたよ
 あの雲がおとした雨にぬれゐる
 笠へぽつりと椿だつた
 さくらさくらさくさくらちるさくら
 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
 雨ふるふるさとははだしであるく
 鉄鉢の中へも霰
 わらやしたしくつららをつらね
 ふくろふはふくろうでわたしはわたしでねむれない
 病めば梅ぼしのあかさ
 てふてふひらひらいらかをこえた
 うまれた家はあとかたもないほうたる
 お墓したしくお酒をそそぐ
 うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
 六十にして落ちつけないこころ海をわたる
 もりもりもりあがる雲へ歩む

 彼の句を詠むと、もっと自由に句を捻ったっていいじゃないかと思ったりするが、さにあらず。「明治15年(1882年)に山口県防府市の大地主種田竹冶郎の長男として生まれるが、11歳のときに母は井戸に投身自殺し、父は放蕩三昧で妾宅通いと、さんざんな子供時代を過ごす」などという「山頭火の一生」を見ると、自由気侭とは、よほどの覚悟と孤独に耐える勇気がないと難しい。
 やはり、小生ごときは、牛歩であっても、少しずつ勉強を重ねていったほうがいいのだろう。
 ああ、今日も、「春時雨」という季語を巡って、それなりのことを書きたかったのに、脇道に逸れてばかりとなってしまった。これじゃ、小生、時雨るんじゃなくて、ただ、ぐれてしまいそう。

 春時雨傘を差すのも迷いつつ
 春時雨消え行く姿追いもせず
 春時雨ハトの群れにも加われず
 春時雨止むとき待って日が暮れて
 春時雨放課後の庭ただ濡らす
 春時雨別れの予感漂わせ
 春時雨濡れてもいいのと去っていく
 春時雨どうせ濡れるなら二人とも
 春時雨しとどに濡れて明けていく
 

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