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2005/02/28

比良八講(ひらはっこう)

 今日の表題に選んだ「比良八講(ひらはっこう)」(「ひらのはっこう」、あるいは、「ひらのはつかう」とも)とは、「比良大明神で叡山の衆徒が修した法華八講」のことで、「湖国に春の訪れを告げる恒例の法要「比良八講(ひらはっこう)」は、例年3月26日に大津市と周辺の琵琶湖で営まれ、僧りょや修験者らが、比良山系から取水した“法水”を湖面に注ぎ、物故者の供養や湖上安全を祈願する」ものだという(「歴史散歩・比良八講荒れじまい」より)。
 同サイトによると、「この法要は、比叡山僧が比良山中で行っていた修法。法華八講(ほっけはっこう)という天台宗の試験を兼ねた大切な法要で、戦後に復活された」とのことで、「この法要のころに寒気がぶり返し、突風が吹いて琵琶湖が大荒れになる。これは琵琶湖と比良山の温度差で突風が起こるものであるが、これを人々は「比良八講(ひらはっこう)」と呼び、この日を「比良の八荒、荒れじまい」の日として、この法要が終わると湖国にも本格的な春が訪れる、とされる」という。
 3月26日の行事のはずなのに、なぜか2月の季語扱いとなっている。
 文中にある「法華八講とは、8人の僧侶が法華経全8巻をそれぞれ朝・夕一巻ずつ4日間で読経する法会」だとのこと。
『源氏物語』に親しまれている方なら、法華八講などの法会の場面が出てくることは御存知なのかもしれない。

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2005/02/27

冴返る(さえかえる)

s-DSC01387「冴返る」は、2月の季語である。2月も残すところ今日を含めても二日。季語例が少ないといっても、言及していない季語が少なからずある。似たような意味合いかどうかは、分からないが、似た印象ないし語感を抱かせる、同じ2月の季語に「沍返る(いてかえる)」がある。
 それぞれの意味合いを説明しておくと、「冴返る」は、「春先に少し暖かくなってきたと思ったら、また急に寒さがぶり返すこと」で、「冴えると言う言葉には、光、音、色が澄むと云う意味を含んでいて、寒さでも冷えを伴う冬の季語になっている」という([ 花鳥風月 ]より)。
 既に、「月冴ゆる」や、「冴ゆる」は、先月、冬(一月)の季語として採り上げている。
 例えば、夏目漱石には、「人に死し鶴に生れて冴返る」という句がある(「漱石俳句カルタ」より)。

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2005/02/26

公魚(わかさぎ)

 二月も残すところ、後僅かである。
 今年は28日まで。
 一月というと30日ということに慣れているからだろうか、なんとなく試合の途中でリングの外から勝手にタオルを投げ込まれたような、中途半端な感じがいつもながらしてしまう。
 小生はガキの頃、自分の誕生日を29日と思い込んでいたことがある。もしかしたら26(日)という数字と29(日)との区別がはっきり付けられなかったのか、それとも、誕生日という概念をようやく掴み始めた頃だったのか。
 で、或る日、カレンダーを見て、驚愕の事実に気が付いた。なんと、ボクの誕生日がない?! 不幸にも小生は2月のカレンダー、それも、うるう年ではない年だったものを見てしまったらしいのだ。
 悩み事があっても人に相談できなで、物事をついくよくよ思い悩む性分は、ご幼少の砌(みぎり)の頃かららしく、また、<ボク>は、ボクの誕生日ってカレンダーに載ってないんだ。ボクって何? 生れてるはずだよね。父ちゃんと母ちゃんの子だよね。なのに、どうして、載ってないの? もしかして、ボクって、拾われた子なの?
 くよくよ、いじいじ、しなしな、ぐじぐじ、思い悩んだ挙げ句、<ボク>は、その難局というか苦難をどう乗り切ったのか、はっきりは覚えていないのだが、二つの極へ突っ走ったらしいことは朧げながら思い出される。
 一つは、不幸の極みの中で、その不幸をしみじみと味わう、で、幼子ながらにボクって特別な子なんだと思い込んでしまう。その頃はそんな言葉は思い浮かぶはずもないが、敢えて言うと世捨て人的な気分にさえ、陥っていった。
 寂しくはあるのだが、それはそれで結構、甘酸っぱいような感傷があり、もう、いいや、どうなってもいいんだ、ということで、なんとなく世の中を遠くに感じ、遠いことを理由というか、言い訳に、何もしない子になってしまった。努力しないことを自分の不幸で正当化していたらしいのである。

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2005/02/25

月影を追って

 23日は仕事だった。日中の強い風も夜になると収まってきた。その日の予報だと24日には西日本のほうからまた寒気団がまたやってくる、関東も場所によっては降雪、あるいは凍結も、などと。
 それでも、23日の夜のうちは、空は晴れていて、月影が煌々と照ってくれた。
 日中、風の強い日の夜の楽しみは、星影、それとも、月が新月ではないなら、月影である。
 生憎、月齢を先週末から確かめるのを忘れていて、満月は何曜日なのかを正確には知らないでいる。照る月影を見ている限りは満月のようにも思えた。
 今、月齢を調べてみたら、24日が満月だという。
 満月のはずの今夜は、東京は生憎の雨に祟られ、見る影もない。昨夜、じっくりたっぷりと眺めておいて、よかった。
 そんな輪郭の冴え渡ったような月影を、仕事の合間に、つまり、お客さんの乗っていない間などに追いかけていた。
 時には、場所によって車の向きによって不意打ちのようにして真正面に月影が現れたりして、ほんの一瞬だけれど、仕事を忘れ見入ってしまう、魅入られるように。
 月影などを追うのは、男として珍しいのだろうか。そもそも男女を問わず、そんなことを一晩中やっているなんて、あまりいないのかもしれない。
(この先に進む前に断っておくが、今日の一文は季語随筆とは名ばかりの気紛れな日記、まさに随想に過ぎない。「春の月」などという季語はあるが四月辺りに使いたくなる表現だし、「冬の月」は今更だ。二月も終わりの月、あるいはそんな月の齎す感懐や風情を表現するに相応しい季語はない(恐らくは)ようなのだ。困ったものだ。)

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2005/02/24

番外編「山焼く」

山焼く」の末尾近くで、以下のように書いた:

 あやふやな記憶で確認が取れないのだが、19世紀に起きた大噴火で膨大な塵や埃が舞いあがり、世界の空を覆い、その結果、夕焼けが以前とは比較にならないほどに真っ赤になったとか、絵画の題材に夕焼け(朝焼けも?)が多くなった、といった話を聞きかじったことがある。空に埃が多ければ、それだけ夕焼けの赤も美麗に華麗に、時に不気味に人の目には映ったということなのだろうか。
 この点は、また、新しい資料などが入手できたら採り上げてみたい。
 山焼けのあとも、天候の上で条件が整えば、さぞかし夕焼けも見事だった…のだろうか。
(転記終わり)

 この記事に反応してくれたようで、読者から、「「山焼く」にあった19世紀の異常気象についてですが、ムンク「叫び」の真っ赤な夕景なども、心象風景でなく現実に空が赤かったのだと言われていますね」といったコメントを戴いた。
 
 せっかくなので、関連情報をネット検索してみた。
 すると、例えば、「ノルウェーの画家エドワード・ムンクが代表作「叫び」の背景を赤く描いたのは、火山噴火のせいで本当に空が赤かったから? 」と題された記事が見つかった。

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春一番

 昨日23日、東京(関東地方)では春一番が吹いた。「春一番」は、言うまでもなく春の季語だが、春の季語として定着したのは、比較的近年で、昭和34(1959)年刊の平凡社版『俳句歳時記』に登場して以来という。
 もともとは、「壱岐の漁師言葉を民俗学者の宮本常一が採用した」のが始まりだとか(「週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年1~3月」より)。
 では、春一番の由来はというと、「1859年(安政6)2月13日,五島列島沖に出漁した壱岐郷ノ浦の漁師53人が強い突風にあって遭難してから,郷ノ浦の漁師の間で春の初めの強い南風を,春一または春一番と呼ぶようになったのが始まり」だという(「太陽・オゾンホール・天気・オーロラ・磁気嵐の科学」の中の「春一番」より)。
 この(長崎県)壱岐郷ノ浦町には、「春一番の碑」があるとか。遭難した53名の漁師たちの供養塔である。
 春一番の定義は如何というと、「立春から春分の間に初めて吹く暖かい南寄りの強風のこと。大まかな基準としては,東南東~南~西南西の風で,風速8m/s以上といわれている」とか(「太陽・オゾンホール・天気・オーロラ・磁気嵐の科学」より)。
 従ってというべきなのか、沖縄には春一番は吹かないという。
 春一番は太平洋上の暖かい空気なので、それまでの寒さが嘘のように或る日、不意に突風めいた風が吹きまくり、暖かくなる。

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2005/02/23

春うらら

鳩よ鳩おまえも俺も餌探し?
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[また、写真が傾いている。映っているのはハトです。誰かが撒いた餌を啄ばんでいるのです。ある駅のロータリーにて。(05/02/24 追記)]

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春一番

梅の香を我も欲しとて春の風
木の葉舞う日差し透かして小判かな
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[最初の句には迷い(季重ね)があって、「梅の香を我も欲しとて風の吹く」)(05/02/24 追記)]

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世界らん展

 季語随筆日記を綴るようになって、柄にもなく路上の草花に関心を向け、草木に関わる話題に耳を傾け、それどころか何も知らない無粋な小生が無謀にも草木について何事かを語るようになってしまった。
 これが、騙りにならないよう、ひたすら祈るばかりで、書きながら、ついでに冷や汗も掻いている。
 今日の表題は、「蘭」にしようと思っていた。昨日、車中でラジオを聴いていたら、「蘭」の話題があったからだ。仕事中だったこともあり、断片的にしか聴けなかったが、どうやら、「世界らん展」がどうだとか、言っているような。
 で、今、ネット検索してみたら、「世界らん展」が今、東京ドームにて開催中なのであり、「蘭のイベント 世界らん展日本大賞 公式Webサイト」もネット検索のトップに登場してくれた。「公式メールマガジン - ご案内 - 蘭のイベント 世界らん展日本大賞 公式Webサイト」なる、メールマガジンも配信されている。
「世界らん展日本大賞2004の上位入賞花を公開!」とかで、「日本大賞」を受賞した作品も見ることができる。
見所ガイド」の頁があって、「光のオーキッド・ファンタジー」や、「假屋崎省吾の蘭の世界」、「6か国の大使夫人による皿の上に蘭を飾りつけるディッシュ・ディスプレイ展示コーナー」など、いろいろあるが、個人的には、「日本を代表する6つの流派による特別展示」ということで、「池坊、小原流、古流松應会、古流松藤会、草月流、龍生派、それぞれの力作展示が並」ぶところを見てみたい。できれば、日本を代表する6つの流派による、鎬を削るような闘いの火花の散る生々しい様を見たいものだが。
特別企画『スペシャル・フライデー・ナイト』を25日(金)に開催! 」ということで、25日(金)には、「作家「椎名 誠」さんをゲストに迎えて講演会が行われ」るというが、どうして椎名 誠さん、なのだろう。
 小生は、同氏のファンではないので、彼のことは詳しくない。だからだろうか、彼と蘭とがどうやっても結び付かないのだ。
 ようやく得た手掛かりは、『砂の海-楼蘭・タクラマカン砂漠探検記-』(椎名誠著、新潮文庫)。「楼蘭」…。「楼蘭王国」…。「楼蘭の貴婦人」…。「蘭」が出ている…。が、さすがに少し、無理があるような。

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2005/02/22

山焼く

 今日の表題に選んだ「山焼く」は、春2月の季語であり、「害虫駆除と肥料をつくるために、山の枯れ草などを焼くこと」だという。
 同じような意味合いを持つ季語に、「野を焼く[野焼・野火・畑焼く]」といって、「山焼とおなじように野を焼くこと」や、「芝焼く[芝火]」といって、「新しい芝が生えてくるように芝を焼く」があるようである。
 似ているといっていいのかどうか分からないが、「奈良の山焼」があるが、これは、「奈良の嫩草山(わかくさやま)を焼く行事で、毎年もとの紀元節の日に行つて来た」という。

 さて、この「山焼く」を選んだのは、昨日、タクシーの中でラジオを聴いていたら、「古代の興亡舞台か 葛城氏「王宮」」というニュースが飛び込んできたからである(「asahi.com MYTOWN 奈良」より)。
 こうした記事は、短時日のうちに削除されてしまうので、一部だけでも急いで引用させてもらう。
「極楽寺ヒビキ遺跡は、日本書紀に描かれた古代ドラマの舞台だったのか。「葛城国王」説がある大豪族葛城氏の「王宮」とみられる建物跡が、奈良県御所市で見つかった。下界を見下ろす丘陵に立ち、堀をめぐらせた堅固なつくりは、大王(おおきみ)(天皇)家を支えながらそれに匹敵する力を蓄えた葛城氏の姿をいまに伝える」と冒頭にあるが、その「建物跡」が問題なのである。
「一方で激しい焼け跡は、雄略天皇の怒りに触れて火を放たれ、衰亡した事件の「証拠」となる可能性もある。5世紀の興亡が垣間見える」とあり、まさに史書の記述を裏書するかのような焼け跡なのだ。

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2005/02/21

春泥(しゅんでい)

 今日の表題の「春泥(しゅんでい)」は、特に何の当てがあって選んだ訳ではなく、すでに日付上は昨日になってしまったが、日曜日、小生には似ず合計すると二時間以上も歩く羽目になったから…だと思う。
 曖昧だが、歩くといっても、東京だと土の上を歩くようなことは、まずないと言っていいだろう。何処かの公園の芝生を歩くわけにもいかず、我が邸宅(集合住宅)の庭を歩くことはできず、大概がアスファルトかコンクリート、歩道も石かレンガ(モドキ)の上を歩くしかない。
 まずは、季語の説明をしておいたほうがいいのだろう。2月の季語であり、「雪解け、凍解や春雨によるぬかるみ」を意味し、「春の泥」という言い方もされるようである。類義語なのかどうか分からないが、類似する季語に、「春の土」(あるいは「土の春」)もあるようで、「雪が解け、日差しにぬくもった土」の意だとか。
 いずれにしても、雨上がりの道であっても、否、雨が降っている最中の道であっても、東京にあっては泥濘(ぬかるみ)とは縁が薄い。水はねはあるが、泥はねというのは、久しく経験していない。盆や正月に田舎に帰っても、大学に入学当初の頃は、近所に砂利道などがあって、雨など降ると呆気ないほどに水溜りが出来、足元に気をつけながら歩かないといけなかった。
 それでも、帰宅して衣服が乾いたりすると、ズポンの裾に、それどころか、腰の辺りにまで泥の刎ね返りがあったりしたものだった。

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2005/02/20

木の実植う

 今日の表題に選んだ「木の実植う」も、何処か苦肉の策めいている。とりあえず、2月の季語である、「木の実植う(このみうう)」について説明しておくと、春先にさまざまな木の実を山などに植えることが背景にあるようである。
 ネット上で見る限りは人気がない、それとも句に読み込みには馴染みがない、それとも、難しいのか、「木の実植う 季語」をキーワードにネット検索しても、ヒットする件数が今までで最低の10件だった。そこで、「木の実植う」だけで検索するも、27件なのである。
 木の実を植える…。これが庭先の何処かに球根の類いを植えるというのなら、風景的によく見かけることだし、無粋な小生でさえ、そんな真似事をやったことがあるような気がする。
 実際、「球根 植える」をキーワードにネット検索すると、2万件以上をヒットした。そのトップだけ、サイトを示すと、「球根を植える季節 - 大手小町 - YOMIURI ON-LINE」で、案の定、「計画的なガーデニングを目指すなら秋植え春咲き球根のことを考えなくてはなりません」などと縷縷、書いてあって、ポイントとして、「球根の植え付けは10月から11月に。チューリップ、クロッカス、ヒアシンスなど翌春花を楽しむ球根を植え付けます。日当たりの良い場所を選び、植え付け間隔は球根の直径の約2倍、植え付ける深さは球根の厚みの2倍程度を目安としますが、コンテにの場合は隣とくっつかない程度に密に、更に浅く植えるのがポイント。一般に種子から育てる草花より初心者にも育てやすく、花つきが豪華なものが多いため、楽しみが大きいものです」とも注されている。
「木の実植う」の場合、季語上は、あくまで山で木の実を植えるという制約(?)があるので、馴染みの風景というわけにはなかなかいかないのだろう…か。

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2005/02/19

冬も去りゆくとなると寂しくなる

 まあ、気紛れな呟きである。過日、ある本を読んでいたら、菅茶山(かんちゃざん)という名前が出てきた。久しぶりに垣間見る名前である。小生、名前であることは辛うじて分かった(文章の流れで、ではなくて!)。決して、日本地図を広げても、こういう名の山は出てこないはずである(まだ、確かめていないが)。
 でも、不安になったので、例によって「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」で「菅茶山」の項を引くと、以下のようだった。地名が出なくて一安心。
「かんちゃざん くわん― 【菅茶山】 (1748-1827)
〔茶山は「さざん」とも〕江戸後期の漢詩人。本姓菅波。名は晋師(ときのり)。備後(びんご)の人。京都の那波魯堂に程朱学を学び、神辺(かんなべ)に帰郷して黄葉夕陽村舎(のちの廉塾)を開く。写実を旨とした清新な詩風で知られ、ことに田園詩が名高い。頼山陽の師。著「筆のすさび」「黄葉夕陽村舎詩」など。」
 この説明には出てこないが、菅茶山は「近世山陽道の宿場町だった備後国安那郡神辺(現在の広島県深安郡神辺町)に生まれ」たのだとか。
 小生のネット上の輪の中に、広島在住の方も何人となく居られる。広島を厳島神社や広島への原爆投下などでのみ知っているのは寂しいので、この際だから、ネットで調べられる範囲(その中の更に最小公倍数程度)を見てみようと思い立った。

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2005/02/18

海苔

 今日は宇宙の話をちょっと。新聞などのマスコミでも話題になっていたお「最も遠い銀河団見えた」という話題に触れたいのだ。
 ただ、困ったことに2月の季語を眺めても、空、それも宇宙となると、なかなかそれらしい季語が見当たらない。
 仕方ないので、いじけた小生は海のほうに目を転じて、「海苔」を今日の表題に選んだ。「海苔」が2月の季語なのは、今頃が新海苔の収穫期ゆえのようである。この「清水哲男『増殖する俳句歳時記』」には「海苔あぶる手もとも袖も美しき」などという、かの『無限抱擁』の作家・滝井孝作の句が紹介されている。海苔は言うまでもなく、食用の海藻であり、類義語に「岩海苔 海苔舟 海苔掻く 海苔干」があるようだ。
 それにしても、いくらなんでも、宇宙の話題を出すのに、海苔ではあまりに懸け離れすぎているのではという声も聞こえそうである。小生の胸中からもブツブツと不満の呟きが煩かったりする。
 まあ、海苔は、「海」で、小生の好きな言葉が含まれていることもあるが、その際、小生は「海」という言葉に多くは宇宙を含意させていることが、かなり強引かもしれないが、理由の一つである。我々人類にとっては、海は地にあっての、もう一つの宇宙なのである。特に、日本に住む人にとっては。
 この、最後の、日本に住む人にとっては、という一言には、それなりの意味はある。
(最後尾に、関連する、但し、きちんとしたサイトを紹介する)

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車窓から

050217-2tokyo 春の日に火照っているよビルたちも

[昨日投稿したつもりだったのに、されていないので慌てて先ほど、投稿。が、句を投稿する際に、写真も添付するはずが、ドジで句だけの投稿に。まだ、携帯での投稿になれていないから…ということにさせてもらう。駄句あれば苦あり。]

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2005/02/17

これから休憩

050217-1tokyo画像は竹橋近くの高層ビル。反対側には高速道路が走っている。ここで休むのは初めて。落ち着かないけど睡魔には負ける。今日は春うららだね。

春の字に眠いの続く弥一かな zzzz… 

[ 写真も撮影者の性格が出るのか傾いていたので、今、訂正。 (05/02/18) ]

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薄氷(うすらい)

 今日の表題に選んだ「薄氷(うすらい)」は、平仮名で表現するときは「うすらひ」なのだとか。2月の季語である。季語上は、決して「はくひょう」とは読まないようである。
「春先、蹲(つくばい)や池の面に薄く張る氷」を言うとか。「春になってからうっすらと張る氷」なのであり、類義語に「残る氷 春の氷」などがあるとは、昨日も紹介した通りである。
 念のために注記しておくと、「蹲(つくばい)」とは、「石造りの手水鉢」のことで、「茶客が平伏して手を洗い清めるところから「蹲」(つくばい)と呼ばれ」るのだとか。
 冒頭にリンクしたサイトには、「日の滲み水のにじめる薄氷」(鈴木石水)「薄氷を置きつくばひを封じたる」(辻本斐山)「輝いてかがやいて消え薄氷」(三村純也)などが紹介されていて、本日の季語随筆日記は、もう、これでお終いにしてもいいようなものである。
 これでダメなら「会ひたくて逢ひたくて踏む薄氷」という「黛まどか「17文字の詩」98年2月の句」で見つけた句を味わうのもいい。
 この「薄氷」は、なかなか人気のある季語のようで、ネット検索にもなかなかの数の句の例が見つかる。これが「初氷」となると冬の季語だというから、季語の世界、俳句の世界というのは、実に微妙で繊細且つこれだから素人にはうっかり手が出せない世界となってしまいそうな気もする(既になっている?)。
 まして前日にも紹介したように、「春の氷・春氷・氷解(こおりどけ)・流氷」などの類義語があるのだから、日常何気なく出てくる言葉だからといって、うっかり使うことも出来ないのだ。

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2005/02/16

雪代水

 2月の季語には、言葉の上では、似たような意味合いを持っているのではないかと思われる季語が並んでいる。転記しておくと、「雪解、雪しろ、雪崩、残雪、雪間、凍解、氷解、薄氷」などである。いずれも、降雪の時期の峠も越えて積雪が溶け始めている光景を示唆している。
 最後の季語は薄氷を踏む思いでついでに転記したが、これも、初冬だったりしたら、寒さが募り、ふと気が付くと水溜りや池の端っこなどに薄く凍り付いてきて、いよいよの寒波の到来に身を縮める思いを抱かせるのが、寒さのピークがなんとか通り過ぎたかなと思うと、ついこの間までは氷も分厚くて、その上を歩いても、氷の表面に擦り傷の一つもつけられなかったのが、あれ、氷の下に水じゃないか、溶け始めている? 氷が薄くなっているのかとささやかな喜びを覚えたりするようになる。
 尤も、冬の到来を告げるかのような水溜りの薄氷も、大人なら身を竦めるばかりでも、子供だったら、麦踏みならぬ氷踏みというか、薄氷を長靴などで踏みつけて、バリバリ割って楽しんだりする、楽しみの一つにしか過ぎないのだろうが。

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2005/02/15

麦鶉(むぎうづら)

 最初に断っておくが、「麦鶉」は春の季語ではあるが、季節は四月の頃合いのようである。なのに表題に「麦鶉」を選んだというのは、単に横井也有の話題を引っ張り出したいがために過ぎない。
 では、横井也有と「麦鶉」との間に関係はあるか。恐らくはない。少なくとも文献的には見当たらない。
 そう、知る人は知るだが、横井也有の有名は俳文に「鶉衣」がある。この「鶉(うずら)」というのは、ひょっとして季語なのではないか。ということでネット検索してみたら、たとえば、「鶉の巣」だと夏、秋の季語としては、「鶉斑(うずらふ)」「片鶉(かたうずら)」「諸鶉(もろうずら)」「鶉の床」「駆鶉(かけうずら)」「鶉駆ける」「鶉合わせ」「鶉衣(うずらぎぬ)」「鶉籠」「鶉野」という豪華さ。
 それどころか、単に「鶉」だと、秋の季語になる。
(「麦鶉」の読み方だが、現代風の仮名を振るなら「むぎうずら」であり、旧仮名ならば「むぎうづら」のようである。)
 冬の季語には、「鶉」にちなむ言葉は見当たらないらしい。さて、春の季語としてはどうか。表題のように、僅かに、かろうじてというべきか、「麦鶉」があるのみなのである。
 とにかく、横井也有を話題に出すための苦肉の策の季語「麦鶉」なのだった。

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2005/02/14

バレンタインの日

 今日の表題は、「バレンタイン」である。2月の季語だとか。確かに日付的には納得できるが、季語のうちに取り込まれるようになったのは、きっと新しいのだろうと推測される。
 小生には無縁の日だが、触れずに済ましたりすると忸怩たる思いに駆られそうな気もするし、持てないからこの季語を避けてとおるのだろうなどと痛くもない(こともない)腹を探られるのも癪なので、採り上げる。
 そう、「かにかくにバレンタインといふ日かな」(黛まどか)なのである(「黛まどか「17文字の詩」2002年2月の句」より)。但し、「そんな騒ぎには少し食傷ぎみであっても、まったく無視するのも寂しいもの。バレンタインデーというお祭りを、せっかくならば楽しんでしまわなければソン! とやかく言っても、やっぱり華やかなバレンタインデーなのですから」とは思うものの、我が生涯において親から貰ったチョコ以外には、義理チョコも大義理チョコ(一袋百円のパックの中の一粒の類い)しか貰ったことのない小生には、季語随筆で多少、羽目を外した随筆振りを楽しむしか能がない。
 さすがに「バレンタイン 季語」でネット検索すると、約 3,530 件をもヒットする。他の季語だと数百件がやっとという中にあっては例外といえる殷賑(いんしん)ぶりである。
 バレンタインデーの由来などについては、雑誌などでも語り尽くされているし、ネットでもすぐに情報は入手できるので、改めてここに採り上げること必要もないだろう。本来は宗教的に意義ある内容をもつものなのに、愛の交歓の契機にされるというのは、日本だけの現象なのだろうか。

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2005/02/13

蕗の薹(ふきのとう)

 今日の表題は、ちょっぴり願望も入れて「蕗の薹(ふきのとう)」を選んだ。例によって「2月の季題(季語)一例」にある。
 願望というのは、このところ寒さが厳しくなっているので、暖かい日よ早く来てくれよ、というほどのもの。他愛無いといえば、それまでだが。実際、土曜日の日中などは、東京も寒さが少し和らいでくれた。朝、通勤途上に、普段は見かけない老いた白猫が、日溜まりに、そう、まるで温泉に首までどっぷり浸かっているかのように目を細め、うっとり陶然と坐っていた。
 大概は、その猫が飼われている家の玄関先のコンクリート段の上に坐っているのだが、その時は、陽光を浴びるためもあるのだろう、道路上に坐っているのだ。そんな場所に坐っているのを見たのは、初めてだった。
 でも、それ以上に嬉しいのは、白猫殿が健在だったこと。
 我が仕事柄、帰宅は朝となる。時間は七時前後だろうか。昨年など、必ずと言っていいほどに帰宅の途上で白猫殿を見かけ、時には写真にも収めたのに、年末から見かけるのが稀になり、今年に入ってからは、めったに姿を拝めなくなっていた。
 特に、二月に入ってからは、見たことがあったかどうか。もしかしたら、白猫殿はかなりの高齢のようだし、悲しい事態に見舞われているのかも、などと思いつつ、猫のための食事を宛がう空っぽの皿のある、路地裏の餌場所を眺めて通り過ぎていたのだった。

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携帯からの投稿(練習)

画像は、芝にある通称ロケットビルと呼ばれる某大手の電機会社本社ビル。昨日は空気が乾いていて、どこで見る風景も輪郭が鮮やかだった。晴れ渡っているけれど、夜半を過ぎてからは一気に雲行きが怪しくなるとか。pic_0000.jpg

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2005/02/12

余寒 (よかん)

 昨日は建国記念日だったようである。昔は、紀元節と称していたとか。せっかくなので、この記念日を巡ってあれこれ書こうかと思ったが、そもそも今日が建国記念日というのは、もともとかなり無理な話だということなので、止めた。
日本書紀には神武天皇が元旦に橿原に宮を建てたと書かれていますので、本来は建国記念日はお正月に祝うべきものです」が、その日付というのは、新暦に換算すると、「BC660年の2月11日になった」というわけである。詳しい事情などは、当該サイトなどを見てもらうほうがいいだろう。
 いずれにしても、計算の根拠があやふやだし、万世一系というのも、確かめようがない(つまり、肯定も否定もできない)、つまり、そうであったらいいなという夢物語と思われ、なんだか力が抜けてしまう。
 なので、2月11日の建国記念日は、一体、今の日本とは一体、いつ、建国されたのかを考える日だと、取りあえずは考えておいた方がいいのだろうと小生は思っている。

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2005/02/11

「雪祭り」追補

 2月8日の季語随筆「雪祭り」の稿に若干の追記をしておきたい。
 一つは「さっぽろ雪祭り」を巡る問題であり、もう一つは、樹氷についての雑学的あれこれである。
 ちなみに、祭りの正式名称は、あくまで「さっぽろ雪祭り」であり、「札幌雪祭り」ではないのだとか。
 何故なのかは調べることができなかった。

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2005/02/10

春時雨

「春時雨」というのは、2月の季題(季語)一例であり、春が冠せられているように、初春の季語である。
 では、「時雨」だけだと、いつの季語なのか。実は、冬の季語なのである。
 大辞林(国語辞典)によると、「時雨(しぐれ)」は、「初冬の頃、一時、風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨。冬の季節風が吹き始めたときの、寒冷前線がもたらす驟雨(しゆうう)。村時雨・小夜(さよ)時雨・夕時雨・涙の時雨などの言い方がある」と説明されている。
「時雨忌」などという言葉がある。これは、芭蕉の忌日である。芭蕉は、「時雨の降る頃、陰暦一〇月一二日に没したので、このように称する。「芭蕉忌」ならば効いた事がある人も多いだろうが。
 その前に、「時雨月」とは、「陰暦一〇月の異名」だと知っておくべきなのだろうか。

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2005/02/09

番外編

 この無精庵徒然草には、日に350から450ほどの来訪がある。
 来訪し、覗いて頂けることに感謝するばかりである。
 ところで面白いのは、我がサイトを検索ワード(或いはフレーズ)でヒットされる方が半数以上あるということ。
 ブックマークなどから、つまり、固定客として来てくれる方の割合がもっと多いと思っていたが、ブログの特徴なのだろうか、ネット検索の網に懸かる確率が高いのかもしれない。
 参考に、我がサイトを検索ワードで覗かれる方の、キーワードを火曜日(八日)の例で示してみる:

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下萌(したもえ)

 表題の「下萌(したもえ)」は2月の季語であり、「早春の頃、枯れ草や残雪の中から草がわずかに顔を出し始めることを」言うとか。
Sizuku ONLINE」の「絵手紙」という頁では、似たような言葉に、「草青む(くさあおむ) 畦青む(あぜあおむ) 草萌(くさもえ)」などがあるとした上で、「草萌という言葉は草の方に重点があり、下萌は下、つまり地に重きをおいた言葉であるといえる。早春、まだ冬枯れの大地から、草の若芽が萌えだすと路傍も庭も野原も春の訪れを示しているかのようだ。下萌はそのような季節の感覚を明瞭に表現する言葉である」などと丁寧に教えてくれた。

 ホームページの掲示板にある方が、武道館の前を通ったら、ジャイアント馬場の七回忌記念試合が行われていたなどという書き込みをしてくれた。
 調べてみると、ジャイアント馬場が亡くなったのは、平成11年の1月31日だった。
 その前後には、米ソルトレイクシティー冬季五輪誘致買収疑惑で6委員追放処分を決定とか、厚生省が性的不能治療薬バイアグラを承認、佐渡トキ保護センターでトキのひなが誕生、男性向け発毛剤「RiUP」発売、山陽新幹線でトンネル壁落下などといったニュースが並ぶ。前年度の自殺者が32,863人で、統計開始以来最悪という情報も話題になった。以来、(昨年は分からないが)自殺者の数はずっと3万人台だとか。 
 またこの年には、ブルースの女王、淡谷のり子さんやソニーの名誉会長だった森田昭夫氏も亡くなられている。

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2005/02/08

雪祭り

 今日の表題に「雪祭り」を選んだのは、ホームページの画像掲示板に「さっぽろ雪祭り」の画像を提供していただいたからである。が、最終的に確認できたわけではないが、2月の季語でも冬の季語でもないようである。
 雪祭りだけでは、必ずしも「さっぽろ雪祭り」を指すわけではないが、しかし、大方の人は、まずは今頃(今年は2月7日(月)~13日(日))行われる札幌でのイベントの雪祭りを思い浮かべるのではないか。
 ブラジルでは「リオのカーニバル」、日本では「さっぽろ雪祭り」と、対蹠的な両国で、雪のイベントと灼熱のイベントと、対照的な祭りが繰り広げられている。
 札幌の雪祭りには、平成13年には観客動員数が234万4,000人だったとか。一週間に渡るイベントだからこそかもしれないが、凄い集客力がある祭りのようである。そうした数の中に、いつか、小生も加わりたいと思いつつ、今日まで輪には入れてはいない。

[ この頁に出会われた方は、是非、「「雪祭り」追補」も覗いてもらえたらと思います。 (06/02/04 追記)]

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2005/02/07

猫柳(ねこやなぎ)

 居心地がいいので、つい覗いてしまう、あるサイトで猫柳(ねこやなぎ)の素敵な画像を見つけていた。採り上げたかったけれど、写真に見惚れているだけで、いいかな、という気分もあって、この季語随筆の表題にするかどうか、決めかねていた。
 でも、ちょっとだけ、そう、行きずりに眺める程度に触れておきたい。
 こういうサイトというのは、紹介するのに躊躇いを覚える。野にある蓮華草のようなサイトなので、勝手にちょっと離れたところから風に吹かれながらでも、ぼんやり眺めていればいいような気がしてしまうからである。
 そんなサイトが小生には幾つもあるのだ。どうしたもんだろう。

「猫柳」というのは、2月の季語である。歳時記の上では春になっているとはいえ、実際には日本列島は先週末から寒波に見舞われ地域によっては大雪だったりする。東京も昨日などは穏やかと言ってよさそうな、つい小春日和という言葉を使いたくなる日和だったけれど、今日あたりからはまた、天候も崩れてくるとか。
 崩れると安易に書いたけれど、東京について言うと、空は晴れているけれど、空気が乾燥していて、小生など喉が弱いのでちょっと痛みを覚えたりする。睡眠時には口を開けて寝てしまっているらしいし、冷たい空気の外を歩く際も、鼻呼吸が困難な小生は、口呼吸を余儀なくされ、否応なく喉や肺を傷めがちである。
 若い頃は体力もあってか、冷たさも乾燥も体力・気力で跳ね返せていたものが、今は、モロに体に堪える。
 けれど、反面、体が敏感というのか、季節の移り変わりには微妙にどころではなく、過度に反応してしまう。ある意味、季語随筆を綴る身にはありがたい体なのだとも言える(のだろうか)。
 さて、紹介したサイトの画像を見てもらっただろうか。ここには、なぜか、「断がたい恋心〈猫柳〉」とあるが、「猫柳」の花言葉は、「努力が報われる」なのだとか。
 となると、努力しない小生には、無縁の花(言葉)であり、ただただ呆然自失と眺めているのがいいのだろう。

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2005/02/06

磯竈(いそかまど)

 今日、表題に選んだ「磯竈(いそかまど)」は、2月の季語で、「若布刈の海女のあたる焚火の囲ひで、磯焚火ともいふ。三重県志摩の漁村の風習で、十四・五人も一緒にあたれるくらゐの大きさに、周囲を円く笹竹で丈餘の高さに囲うたものである。入り口は東に向かつて小さく開ける。海女は四季をを通じて焚火をするが、この磯竈は春寒に限る。「潮垂るゝ海女がはせ来る磯竈」雪村」とある。
 ドラマ化映画で、磯竈(いそかまど)なのか、海に上がってきた海女が焚火を囲む光景を見たことがある気がするが、実際の様子は、見たことがない。ネットでもその様を窺わせてくれる画像を見つけることはできなかった。
 別のサイト(「人生歳時記(十七)」)では、同様の説明に付して、「磯竈(いそかまど)は海辺の焚火をする所だが、風や人の目を避けるために、笹竹で周囲を囲ったりする」とも。
 このサイトには、「海女の来て直ぐに燃えたつ磯竈」(石田ゆき緒)なる句も載せてあった。
 似たような2月の季語に「磯焚火(いそたきび)」があるが、類語なのかどうか。
三重歳時記」の中の「小倉 肇 (1986年02月号)」では、もっと詳しい記述が読める。冒頭に、「昔の海女は旧正月がすぎるとはや海に入った」とあって、なるほど、だから、如月の季語となったのだなと分かる。
 では、何故にそんな、寒風に吹かれるやもしれない時期に海に入ったのか。

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2005/02/05

春菊徒然

 今日の表題に「春菊」を選んだのは、単純明快。今年に入って、久しく我慢していた外食をほんの少し解禁し、タクシーでの営業の日の夜中過ぎ、時にはそろそろ明けようかという刻限に、何処かの蕎麦屋さんに入っている。
 というか、それが楽しみで営業しているようなもの。7年続く不況に、一昨年から外食は一切、控えてきた。昨年春からは書店に立ち寄ることも止め、本は全く買っていない。今年に入ってからは新聞の購読も止めた。美術館巡りも数年前から止めている。ひたすら耐乏生活である。ここまで来ると、自虐的な気分になり、もっと自分を虐めてやれ、なんて思ってみたり。
 が、そこはそれ辛抱のならない小生なので、一月の半ば頃だったか、夜半過ぎ、あまりにお客さんの姿が見つからなくて、懐具合が淋しく、せめてお腹だけでも温めてやろうと、久々に蕎麦屋さんに入ったのである。大好きなラーメン屋さんは、まだ、厳禁である。悲しい!
 蕎麦屋さんとはいいながら、小生は、ソバよりウドンを注文することが多い。なんとなく腹持ちがいいような気がするからだ。ウドンは、たぬき。そこに玉子やらコロッケなどを載せる。
 が、健康のこと、消化のよさを考えて、ソバを選ぶことも多くなっている。ただ、ソバを注文した場合でも、たぬきであり、卵とコロッケを載せる(卵と玉子とは、同じ? 違う?)。
 ところが、である。一月は、たぬき一筋だったのだけれど、今月に入ってからは春菊ソバを頼むようになった。

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2005/02/04

いぬふぐり

 昨日が「猫の恋」だったので、今日は流れから言って「いぬふぐり」以外には考えられなかった。「猫の恋」が季語として選ばれるのだから、犬の恋も季語として選ばれてもいいはず…、でも、よりによって何故、「いぬふぐり」なのだろう。
「いぬ」は分かるとして「ふぐり」というと、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」の「ふぐり」の項を参照させてもらうとして、「(1)睾丸(こうがん)。きんたま。いんのう。 (2)松かさ。まつふぐり。」という二つの意味のうちの前者だろう。
 いざ鎌倉という際には、必要不可欠な逸物だとはいうけれど、いくらなんでもあからさまじゃない。
 なんてのは、冗談で、「いぬふぐり」(いぬのふぐり)とは、別名、「ひょうたんぐさ」(ごまのはぐさ科Veronica属)であり、「代表的な路傍の花で、直径数ミリの小さな淡紅色の花である
 但し、「日本の在来種であるが、現在は下記の二種類の帰化種に圧倒されて殆ど見ることが出来ない」という(「いぬのふぐり  ―奇蹟のベロニカ―」より。「下記の二種類」についてはこのサイトを覗いて確認して欲しい) 。
 上掲のサイトによると、「和名のいぬのふぐりは、さらにユーモラスで、日本人の想像力の豊かさを示す、優れた名前である。路傍の花の持つ逞しさ、豊かな生命力に通じるものであろう」というのだが、確かに名前はユーモラスではあるが、花のどの部分やイメージを元に、こうした名前が付けられたのだろうか。

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2005/02/03

猫の恋

 2月の季語例を眺めていて、今月もやはり奇妙な言葉が見つかる。
 奇妙と感じるのは、小生の教養が足りないからだと言えばそれまでだが、「いぬふぐり」とか、「磯竈」、「獺の祭」と、風習や歴史的背景を知れば、納得できるのかもしれないけれど、それにしても、すぐには到底、ピンと来ない。「雪しろ」も、雪に関係するのだろうが、小生は初耳の言葉のはずだ。
 さて、今日の表題に選んだのは「猫の恋」。これは分かるような分からないような。
 まあ、猫だって恋するのだし、となると、きっと猫のあの恋しい相手を呼び求める声もあって、「猫の恋」が俎上に登るのだろうけれど、分からないのは、何故に季語として選ばれたのか、また、選ばれること自体はそういうこともありかなと思っても、何故に2月の季語なのか、ということ。

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2005/02/02

春の風邪

 今、列島にはかなりの寒気団が襲っている。が、俳句の上では春がやってきたことになっている。
 今日の表題を「春の風邪」にした理由は単純明快で、自身が風邪を引いてしまったこと、そして2月の季語に「春の風邪」があるのを見つけたからである。
 なんだか、今の自分には誂え向きの季語である。あてつけがましいほどだ。
 もう、今日はこれしかない。
 実は他に試みたい課題があったのだが、体調を崩していて試みるだけの気力が湧かず、断念してしまった。
 さて、「春の風邪」が2月の季題(季語)の一例にあるというのは、何故なのだろう。
「春の風邪」については、「命にかかわる風邪ではないが、何となく艶っぽい」とか、「余寒や寒気のぶり返しから、春になるとひいてしまうのが春風邪です」などと説明してある(ここには、「病にも色あらば黄や春の風邪」(高浜虚子)や「布団着て手紙書くなり春の風邪」(正岡子規)が載っている)。
 「週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー 2002年3月31日」によると、「春先は寒さが不意にぶり返す。季語ではそれを「冴(さ)え返る」とか「寒戻る」と言う。また、立春以後の寒さを「余寒」とか「春寒(はるさむ)」と呼ぶ。寒さがぶり返しながら、季節は確実に本格的な春へ向かっている。」という。
(そのうちに、集中の「余寒」とか「春寒(はるさむ)」などは表題に採り、こうした言葉の周辺を探ってみたい。)
 その上で、同上サイトでは、「気候が不安定なだけに、うっかりすると風邪を引く。「魔女といふ綽名(あだな)のひとの春の風邪」(内田美紗)。こんな句があるが、魔女と呼ばれる人でも引いてしまうのが春の風邪。しかもぐずぐずと長引く。」と続いている。

[以下、今日は、ただの日記になっています。]

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2005/02/01

絵踏(えぶみ)

 今日の表題に選んだ「絵踏(えぶみ)」は、2月の季語である。
 江戸の世になりキリスト教の禁教令が徹底され、隠れキリシタン(切支丹)ではないかどうかを確かめるため、キリストの絵姿などを踏めるかを検分するという、幕府による取調べ方法の一つである。
(参考に、「キリシタン関係史」年表をリンクさせておく)
 我々に馴染みの言葉では、「踏み絵」がある。この踏み絵と絵踏とは、どう違うのか、同じなのか。
 踏み絵(踏絵)とは、踏ませるキリストの似姿(あるいはマリア像)などを指し、絵踏とは、踏む(踏ませる)行為を指すと言う。
今村カトリック教会」というサイトで踏み絵の事例などを見ることができる。
 では何故、この「絵踏」が二月の季語となったのか。
 それは、江戸時代、長崎において、(旧暦の)正月の四日から八日までの間、この絵踏を行事としていたからである。「長崎の町やその周辺での宗門改めは徹底したものでございましたから、長崎抜きに語ることの出来ない季語ではありますものの、切支丹と縁のない大方の地の人々にとっては丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなものとして存外捉えていたのかも知れない」という(「多聞庵」中の「長崎歳時記」「長崎の季語を探す」の項より)。
「丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなもの」として捉えていたのはなぜかというと、「江戸初期に始まり、一八五七年の廃止まで長崎奉行の下では、毎年正月四日から行われ、とりわけ八日の丸山町の絵踏みは、着飾った遊女らがこれを行い、久米の仙人ならずとも、遊女の素足の脛が拝めるとあまた見物が押し寄せたとい」うのだから、無理もない。

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