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2005/01/14

冬薔薇(ふゆさうび)

 俳句の世界で、季語として「冬薔薇(ふゆさうび・ふゆばら)」が句に織り込まれる場合は、冬、それも1月の季語として使われているようである。あるサイト(Garden Life)の説明を転記すると、「バラ科の低木。観賞用に栽培される。冬薔薇とは特定の品種を指すものではなく、冬の季語として使われる。四季咲きの薔薇が、冬になっても残っているものをい」うのだとか。
 さらに、「霜に痛み、花も小さく、色も褪せながら可憐に咲く姿には、強く詩情を誘うものがある」とあるが、例えば、別のサイト([植物写真家 鈴木庸夫の自然を楽しむ]の「フィールド日記」で冬になっても咲き残っている薔薇を見てみると、いかにも、「冬枯れの寒々としたなかで咲いているバラは特に印象的」なのである。
 薔薇については、「幻の青いバラと女心(花三題)」や「薔薇とバラの間に」(「バラ」の語源探索)など、これまでにも若干のことは書いてきた。
 あるいは、「薔薇の時、あるいは愛の寝覚め」と題した妄想めいた掌編なども書いたことがある。バラは、豪奢さの漂う、一歩間違えると華美というより過美となりかねない危うい、ギリギリの瀬戸際で優雅さと気品を保っている花である。薔薇という名前もだが、棘があることが尚、薔薇を神秘的な、近寄り難い、それでいて気になってならない花にさせているようだ。

 薔薇は外見だけではなく、香りあっての薔薇であろう。人によって好き好きがあるのだろうが、バスローブなどに薔薇の香などがほんのり含ませてあったりしたら、漂い来る香りだけで悩殺されてしまう。質のいい香水だと(めったにないけれど)、擦れ違った女性の余韻がずっと尾を引いてしまうこともあったりして。
 それどころか、真に上質の香水だと、十年の歳月を経ても忘れられなかったりして。
 野暮な話になるが、人間とは比較にならないほど嗅覚の鋭い犬は、この世を一体、どういうふうに見ている(感じている、嗅ぎ取っている)のだろう。
 犬の記憶力がいいのかどうか、分からない。あるいは劣るのかもしれない。が、少なくとも匂いについては、一度嗅いだ匂いのことはずっと忘れないのではなかろうか。会った人、犬、猫、食べ物などはクンクン嗅いで、嗅覚の中枢にしっかり収められるのではなかろうか。
 数分子の匂い成分でも残っていたら、嗅ぎ分けることができる。単なる視覚だけだと、人間にはあるいは敵わないのかもしれないが、嗅覚という能力で見られた世界の広がりという点では、人間は犬から見たら全くの鈍感野郎に過ぎないのだろう。視覚的には視角となる角を曲がった先の人や動物、一昨日、この道を通り過ぎた猫、何処かの家に勝手に入り込んだ奴の匂いの痕跡。
 誰かが浮気でもしようものなら、ああ、この人、あの人と出来てる! なんて一発で分かる。町中の人の愛憎相関図など、犬は全てお見通し(嗅ぎ通し)で、肌の触れ合いの相関図をお犬様の意見を参考に描くと、複雑すぎて解きほぐしえないほどになるのかもしれない。
 何処かの本で読んだのか、それとも、小生が勝手に妄想を逞しくしただけかもしれないが、たとえば、ちょいと離れた家の気になる相手が発情期になっている(人間なら恋したい気分になっていると表現すべきか)ことも、家の外を通り掛かるだけで分かってしまう。何しろ、多分、何かのフェロモンが思わず知らずに体から発散してしまうのだろうから。
 人なら目の煌き、ちょっとした表情などで相手の気持ちを読み取る……が、演技もありえるし、敢えて真情を包み隠す場合もあるから、誤解も生じやすい。
 が、体から発するフェロモンは消しようがない。通り過ぎる相手が自分に好意を持っているか、その気になっているかどうかが、あからさまに分かってしまう、ばれてしまう…。
 あれ、話が変なところに。さるほどに薔薇(の香り)は魅惑的であり危険でもあるということか。
 薔薇の匂いの成分は数百種類に及ぶという。化学分析能力の進んだ今日だから、相当程度に解析は進んでいるのだろう、が、分かっている成分で合成しても、バラの香りの再現には程遠いらしい。
 だからこそ、香りを嗅ぎ分ける専門家がいるのだろうし、その能力で香水でも、俗悪で下卑たものから気品とほどよい色香の漂うものまで、千差万別となるのだろう。
 この日記で「冴ゆる」という表題の中でも書いたが、感覚というのは、季節によって随分と働きが違うようだ。同時に、春からは植物がドンドン生長し、樹液が満ち溢れ、動物も体臭を放ち、人間だって汗も掻けば、街の風物の何もかもが臭いを放つから、ほんのりと漂うような品のいい、あるいは大人しい臭いは掻き消されてしまう。
 が、冬となると、体臭は出にくくなるし、樹木も裸木となり、常緑樹は樹液を発散する営みを控え、生ゴミでさえ腐臭を発することがなくなる。
 人間の嗅覚を含む感覚器官だって、心と同様、閉じ篭りがちになる。心の目を閉じて、内向きになる。
 が、逆にそうだからこそ、一旦、鼻に届いた臭いは印象的となる。
 ところで、肝心の表題「冬薔薇(ふゆさうび)」だが、一体、いつからこの言葉が使われるようになったのか。冬の薔薇といった使い方だと、それなりに歴史があるのか。なんとなく、冬薔薇だと新しい言葉のように感じられるのだが。
 ネットでは、「冬薔薇を黄のみ十本買い戻る」(「十七文字の世界」より)、「冬薔薇自動ピアノの鳴り止まず」(黛まどか「17文字の詩」00年12月の句」より)、「寂しさは鼻の冷たさ冬薔薇」(明美さん「水族館ネット句会場」より)などと結構、見つかる。使いたくなる言葉、あるいは風景なのだろう。
 さらに、「日刊:この一句」からは、「フランスの一輪ざしや冬の薔薇」(正岡子規)や「住みなれし臨港の部屋冬のバラ」(日美清史)など。
 もっと見つかる。「冬薔薇青春時代熟成す」(「人魚亭・・・人魚姫の冒険」より)。
「冬薔薇窓をへだてて薬売」(かほり)、「右胸の汚れし白衣冬薔薇」(陶子)、「冬薔薇に寄り添つてゐる猫の影」(ラスカル)などは、「俳俳本舗」にて。
 思えば、軒先で、あるいは薔薇園(植物園)などでは、そう、我が家の庭でも、薔薇は見かけるが、野生の薔薇は見たことがあるかどうか、記憶に定かではない。と思っていると、「野生の薔薇は、白く花弁は一重で、そんなに大きくない地味な感じの花である。ノイバラと言われている。背も低く、と言うよりもつるが這っている感じである。他の草木に覆われて花が白く少しのぞいているような光景が多い。」という文言を見つけた(「絵手紙(その2)」より)。このサイトでは、さらに「ノイバラは、俳句の季語では、夏になる。薔薇も夏の季語である。
唯一、冬薔薇が冬の季語となる」とも書いてある。ん? そういえば、田舎の我が家の庭で薔薇を見たことがあっても、冬に見たかどうかは分からない。冬には椿が紅色の花を時に雪を被りながらも咲かせていたのを折々に見たけれど。
 この「絵手紙ギャラリー」という頁、自作なのだろう絵手紙の数々があって、見ているだけでも楽しくなる。冬薔薇の説明の項では、絵手紙に、「野中の薔薇 童は見たり密やかに鄙に咲く花」と付せられている。
「野中の薔薇」というと、そう、ゲーテの詩、あるいはシュ-ベルトの曲だ。ネットで探ると、「小童は見たり 野中の薔薇 清らに咲ける その色愛でつ 飽かず眺む 紅におう 野中の薔薇    (近藤朔風訳)」が見つかった(「企画部 みどり支援課」にて)。この頁には万葉集の中で野いばらが詠い込まれている歌も紹介されている。
「冬薔薇や赤き一輪高く咲く」という句が見つかったが、これは「ふゆばら」と詠ませているのだろう(「ひとりごとの夕べ.句日記」より)。
 冬に薔薇を見るのは、「冬枯れの寒々としたなかで咲いているバラ」といった風景でなければ、出窓や植物園などでそれなりに目にすることができる。そういった温室的環境での薔薇ではない、野生の薔薇となると、さすがに今の時期には愛でることは難しいのだろうか。
 というか、だからこその冬薔薇(ふゆさうび)なのだろうけれど。

 薔薇園に咲き誇る華の寂びしかり
 冬の野に咲き枯れていくバラゆかし

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