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2005/01/12

冬籠(ふゆごもり)

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 俳句の世界での季節の分類の仕方については、以前にも紹介した。歳時記上では、「立冬(11月7日)から立春の前日(2月3日)まで」が冬であり、その間においては、冬の季語を使うことができる。
「小寒(1月5日)から立春の前日(2月3日)まで」が晩冬という分類からすると、先週から既に晩冬に入っていることになる。体感的には、いよいよ冬真っ盛りである。晩冬というより、募る寒さに怯え竦んで、冬籠(ふゆごもり)したくなる。
 が、この「冬籠(ふゆごもり)」は、冬の季語ではあるが、「大雪(12月7日)から小寒の前日(1月4日)まで」を示す「仲冬」の扱いがされている。どちらかというと、12月の季語なのである。
 ある意味、凩(こがらし)が吹き荒れ、冬を予感し、年の瀬が押し詰まってきた頃に、冬籠(ふゆごもり)したくなるのは、分からなくもないが、かといって何かと気忙しい年末では、篭っていたくても、事情が許さない。
 この凩(=木枯らし?)がまた、厄介で、初冬の扱いだったりするから、さらに厄介なのだが。
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 いよいよ、大晦日となり正月を迎え、仕事始めと相成ると、お屠蘇気分など、不景気の風に呆気なく吹き飛ばされ、篭りたくても、冗談じゃないほどに世の流れに引き摺られてしまう。
 炬燵やエアコン、床暖房、電気ストーブに焦がれつつも、少しでもよい兆しはないものかと東京の町を走り回る。
 夜中など街外れの公園に車を止め、小憩だとばかりに一息入れたりするが、昨夜など東京とは思えないほどに星の数にも恵まれていたのだけれど、寒さには勝てない。暖(だん)恋しと、早々に車の中に戻ってしまう。冬籠(ふゆごもり)がしたくなる季節の到来が、いよいよ実際に冬籠(ふゆごもり)となってしまっている。
 車を運転している間は、コートを羽織っているわけもなく、車外での休憩は論外なのである。

 冬籠…。
 気分さえ滅入ったり、やや高尚な表現を使えば、何処か内省的になっている自分を見出す。
 だからといって、何を反省するでもなく、内実は、沈滞していく気分が重石になって、寒さの海の彼方、氷の張る池の真ん中、締め切られた門の外の静まり返った藪の中、人気のない裏通りの先の暗がり…の何処かへ陥っていく。
 ただ、落ち込んでいくだけである。自分の外の世界が、ドンドン遠くなる。周囲がスクリーンに映し出された、それなりに蠢いてはいるのだけれど、どこか平面的であり、よそよそしくもあり、つまりは自分とは切り離された異物となってしまう。
 あるいは自分のほうこそが異物なのかもと、思ってもみたり。
 距離的には遥に遠いスマトラの惨状、さらに遠いイラクでは建前上はイラク自身によるとされる選挙の期日が迫っている中、選挙の妨害を図ろうというのか、自爆テロなどが頻発している。そんなことが本当なのか、現実の世界の出来事なのかなどと感じる自分は、感性が鈍感なのか。
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 珍しく数知れない星々の煌き。月齢からすると、10日が新月で、仕事のあった11日の夜も、これ以上はないというほどの薄い月の影があったはずだが、夜空を仰ぎ見回してみても、月の片鱗も見えない。
 だから、一層、星たちが今宵こそはと存在を誇示してたのか。あの星を遠くの世界の孤児たちや、思惑の錯綜するさまざまな勢力の人々が眺めている可能性はあるのか。
 あるサイト(「週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー 2002年12月29日」) を覗いたら、「冬籠(ごも)りという季語が死語になった感じがする」とある。「冬籠りをするよりは、スキーに行ったり、海外の暖かい国へ旅行するというのが当世風だ」とも。確かに移動手段は、昔だと金持ちであっても駕篭であり、大概の人は草鞋(わらじ)で、それなりに寒さ対策はしていても、寒さを直に感じつつ自分の足を使う以外にない。
 その点、今は、玄関から車まで、あるいは長くても、駅までを堪えたら、あとはバスや電車、タクシー(!)に揺られるだけである。ただ、冬が、寒さが辛いとなったら、その僅かな移動時の寒さを思うだけでも、いや、炬燵から出るだけでも億劫になる。
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 そんな閉じ篭りがちになる気分を吹き飛ばすのは何だろう。仕事という余儀ない事情は別として、町中の何処かでのイベントであり、友人知人に会うためであり、他所の町でのスキー(これも死語になりつつあって、今はスノボーが主流なのだろうか)や、もっとリッチな方は海外旅行へ行くこと、などが、重い腰を上げさせるのだろうか。
 けれど、遠い昔、自分が田舎に居住していた頃などを思い出すと、仕事は論外だし、何も用件がないのに、雪降る夜や未明の時に敢えて外出したことがしばしばあったのだった。時にスキー板を履いて新雪の上を滑りまわる、その快感を味わうためでもあったけれど、ただただ何処までも透明な青一色の世界が、当時の引き篭もりがちの自分をさえ、外へと駆り立てたのだった。
 引き篭もる自分。別に冬だからというのではなく、自分の抱えるコンプレックスに負け、打ちひしがれて、後年、ある人に評された際に呈された言葉を使うと、沈湎 (ちんめん)していた…。
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 そんな自分を自覚したのは、保育所時代だったろうか。自分には回りの世界は無縁の世界。神々しく輝く現実は、それこそ舞台の上でのことであり、映画の世界であり、つまりは形作られた芝居、演出、演技、よそよそしいに過ぎない他人事。
 動き回る分には表情があるかのようだが、じっと舞台の上の人を見つめると、生き物とはまるで懸け離れた、人形という名の物体の蠢くだけの人形劇。
 周りを見渡しても、観客は<ボク>一人。否、<ボク>はただの観客であり、お客さんであり、通りすがりであり、やがて時が来れば小屋から吐き出される、一人の逸れモノ。みんなは芝居が終わった後は、楽屋裏に集まって、ワイワイガヤガヤしているというのに。
 現実感のなさ、存在感のなさ、感覚の摩耗、心の不毛を肉体的存在感で補おうと試みる日々。肉体の存在の確認とは、<ボク>にとっては、伽藍堂(がらんどう)な心を埋める徒労なる営みに過ぎなかった。
[余談のさらに余談だが、西城秀樹の往年のヒット曲の一つに、「ギャラン・ドゥ」があったと思うが、小生、この曲がテレビで流れるたびに、ギャラン・ドゥが伽藍堂(がらんどうに聞えて、オレへのあてつけか、などと感じていたものだった。]
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 小学校時代、夏休みの或る日の真昼間、近くの校庭に行ってみても、人っ子一人いない。眩しすぎる陽光が校庭に溢れ返り、微動だにしないブランコ、鉄棒、半分だけ姿を見せる古タイヤの列、歓声の響くはずのプール、ただっ広い校庭を前に、とてつもない空虚感を覚えた…。
 何が故に篭る自分になったのかは、既に書いたのでここでは略すが、そんな引き篭もる自分を<外>の世界に引っ張り上げてくれたものは、一体、何だったろう。孤独が怖かったから? そんなことはなかった。誰とも言葉を交わさない世界には、それはそれで甘い甘い濃密なるパラダイスがあって、しかも、その楽園は広く豊かで色とりどりの果樹に満ちており、何もその自己完結した世界から抜け出さなければならない理由など、見当たらなかったのである。
 篭る自分。閉鎖はされていても、閉じ込められているようであっても、とにもかくにも完結している。やがては密封された世界で窒息して果てるのだとしても、うまくいけば安楽死もありえる。
 安逸なる世界、孤独に時に吐き気しそうになっても、それでも、外の世界よりは甘美で濃密なる伽藍堂。外の世界には、ギャランドゥ(?)がいるのかもしれないけれど、でも、他人の不在な、何処まで行っても他者と、生々しい命の滾りや輝きと出会うことのない、閉塞された世界の完璧さ。
 そんな自分を外の世界へ導いてくれたのは、小学校の時のある先生や姉とのある逸話から始まって、一昨年、ネットでカメママさんというカリスマと出会ったこと、その方から広がったネットとオフとの交錯などと、いろいろと契機がある。
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 篭ること。篭って内省という名の安楽死、気付かないうちの窒息へと滑らかに流れ落ちていく、その透明なるパイプを通過している自分を引き出してくれる何か。
 ま、追々、そんなことも書けたらいいと思うのだけれど。
 とととと。ここまで書いてきて、余談が過ぎたことに気付いた。実は、「週刊:新季語拾遺 最近のバックナンバー 2002年12月29日」というサイトを覗いたのも、既に引用した部分を転記するためではなく、そこで見つけた「人間の海鼠(なまこ)となりて冬籠る」という寺田寅彦の俳句をちょっと紹介したかったからなのである。
 寺田寅彦は科学者であり夏目漱石山房の一人だが、随筆家として小生の尤も気になる作家の一人なのである。
 冬になると、中谷宇吉郎などと並び、寅彦の随筆に接したくなる。
「学生時代の寅彦は、牛頓という筆名で「ホトトギス」に文章を発表した。牛頓はニュートンをもじった名前。」だという。上掲の句も、この筆名で発表したわけだ。牛頓、牛丼、ニュートン。なんて突拍子もない、でも、楽しい並びだろう!

 冬篭り心和ますお屠蘇かな
 冬篭り心騒がすお外かな
 冬篭り願っていても夢の夢
 冬篭り心に願い外歩く
 冬篭り炬燵のミカン窓の雪
 冬篭り車の暖もそれなりに
 冬篭りあなたと共に蒲団かな
 街灯と夜空の星と冬篭り
 街の灯を遠くに眺め凍る恋
 好きなのと呟く言葉凍て付いて

 
[「冬籠(ふゆごもり)」を表題に選ぶに際しては、「寒いです。(略)用事があっても、出たくない。予定を取りやめて、こもってしまいます。」という書き込みがホームページの掲示板にあったことも大きかったような。]

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