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2005/01/11

初化粧

s-DSC01280 初化粧だなんて、これまた小生には一番、似つかわしくないような季語(季題)を表題に選んでしまった。
 これも、日曜日に我がサンバチーム・リベルダージの新年会に行ってきた、そして、舞台用に化粧し、タンガなど、サンバ用の衣装に身を包んで、華麗に変身するダンサーらの姿に圧倒されてきたからだろうか。
 衣装に身を包んで…というのは、サンバの場合には相応しくないのかもしれない。ダンサーらにとっては、時に気合を入れるような、よし、舞台で踊り捲る、見ている観客を踊りの輪に引き込んでやるという、ある意味での戦闘服のようなものかもしれないのだし。
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 華麗であり美しくもあり優雅でもあるけれど、同時に心意気や気風や狂騒を演出し楽しむ装置でもある衣装。
 化粧についても、もしかしたら両方の意味合いがあるのかもしれない。自らをこんな女像を意識し演出する、自作自演の装置と、同時にあるいは化粧の下の意識を覆い隠す仮面、あるいはマジックミラーとしての化粧。
 それにしても、「初化粧 季語」というキーワードでネット検索すると、ヒットするのは僅か13件だった。「初化粧」という言葉はあまり季語として好まれていないということなのか。

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 それでも、例えば、「美しく老いんと思ふ初化粧」(大橋もと女)や「飼猫に見つめられおり初化粧」(指中恒夫)などが見つかった
 ここでは、初化粧(初鏡)とある。なるほど、化粧というと、鏡は付き物である。初めて(生まれて初めて、あるいはその年初めて)化粧する際には、鏡を見て念入りに化粧するのだろう。
 化粧と鏡、鏡と女性、この三角関係の中にだけは男性は立入る術もない。
 ちなみに、「初鏡」とは、「新年に洗面を済ませてから初めて向かう鏡」だとか。

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(不思議なのは、「飼猫に見つめられおり初化粧」という句の作者らしい指中恒夫氏なのだが、名前からしたら男性のようである。男性が化粧をしてはいけないわけではないが、女性が詠ったのではないとしたら、今一つ句の風景が分からない。あるいは、男性が化粧をする奥さんを見ている、すると、飼い猫もその奥方の様子をしげしげと見つめている、ということなのか。化粧をする姿は、男性にも猫たちにも興味津々といったところか…)
 上掲のキーワードで見つかった句には、他に、「初化粧した妻ほめて嘘始」がある。苦渋の念を呑み込んで、敢えて褒める亭主の苦労がしのばれる。でも、奥さんは喜んでいるのだろう。そのサイトには、「これも季語だよと教えて姫始」なんて句も紹介されている。句意はともかく、なるほど、「姫始」も季語なのか。なんでも、年の初めにすることは、季語になりうるということか。
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 だったら、初屁の出とか、初小水とか、初喧嘩とか、初料理とか、候補は無数にありえるということかもしれない。上に出ていた嘘始も近い将来は立派な季語として人気を博しているかもしれない。
 他に同じキーワードで見つかった句に、「静寂を食卓に置き初化粧」や「五分咲きの濡れそぼるるや初化粧」などが見つかった(共に尋子作か)。
 別のサイトになるが、「手鏡を合わせるうなじ初化粧」も見つかった。検索の網に13件のわりには、それなりに収穫があったということになる。
 しかし、物足りなさの感もあるので、「初化粧」だけをキーワードにネット検索してみた。すると、「冬雲や数へ七つの初化粧}(佳音)などという佳句が見つかった。
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 初化粧。先にも書いたが、年の初めての化粧の意味と、生まれて初めての化粧との二つの意味合いが汲み取れる。季語の場合は、どうなのかは分からないが。
 女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。
 薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
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 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
 化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
 仮面の現象学。
 思えば、スカートは不思議な衣装だ。風が吹けば、裾が捲れ上がり、場合によってはパンティがちらつくこともある。実際、幼い女の子だと、そんなこともしばしばなのだろう。が、白い(とは限らないが)パンティがちらつくと、仮にそこに男性がいたら、刺すような視線を感じる。最初は気のせいで、しかし、やがてはまざまざと、明らかに、文句なく、断固として刺すようなギラつく眼差しをはっきりと意識する。スカートの裾の現象学は、きっと化粧という仮面の現象学と何らかの相関関係があるに違いない。
 やがて、スカートの裾が風に揺さぶられることがあっても、あるいは思いっきり(であるかのように)駆けても、決して裾が捲れあがることのない揺らぎの哲学を体験を通して体に身に付ける。素直であり自然でありつつ、その実、装っているのであって、<外>では、あるいは<外>に対しては決して無自覚や無邪気など
ということのありえない、一個の女が誕生するというわけである。
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 仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
 男の子が化粧を意識するのは、物心付いてすぐよりも、やはり女性を意識し始める十歳過ぎの頃だろうか。家では化粧っ気のないお袋が、外出の際に化粧をする。着る物も、有り合わせではなく、明らかに他人を意識している。女を演出している。
 他人とは誰なのか。男…父親以外の誰かなのか。それとも、世間という抽象的な、しかし、時にえげつないほどに確かな現実なのか。
 あるいは、他の女を意識しているだけ?
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 ある年齢を越えても化粧をしない女は不気味だ。なぜだろう。
 町で男に唇を与えても、化粧の乱れを気にせずにいられるとは、つまりは、無数の男と関わっても、支障がないという可能性を示唆するからだろうか。それとも、素の顔を見せるのは、関わりを持ち、プライベートの時空を共有する自分だけに対してのはずなのに、そのプライベート空間が、開けっ放しになり、他の男に対し放縦なる魔性を予感してしまうからなのか。
 化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。
 きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。いずれにしても、踊る女性は素敵だ。化粧する女性が素敵なように。全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。
 そんな戯言を繰って、一生、訳の分からない酔夢から覚めることのできないのも男の性(さが)なのだろうか。
 ま、小生、そのようなわけで、こんな初戯言(たわごと)、初戯言(ざれごと)を放ってみたのだった。正月気分も終わりにさせるには、戯言に上塗りできるような迷妄を思い描くしかない。そう、思い定めて、今年一年も迷妄の巷へ漕ぎ出そうか。

 さあ、駄句タイムだ。戯言句など振る舞おう:

 初化粧見知らぬ自分現れる
 化粧する女の背中艶めいて
 鏡見る己の海に溺れてる
 化粧して我を忘れる初鏡
 化粧して自分で驚く他人顔
 口紅のおどろおどろに艶めいて
 頬紅にほんのり染まる桃の香よ
 唇を舐めまわす舌奪うかな
 残り香に惑わされても貪れる
 夜の底ひといろに染め明けていく

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