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2005/01/31

淑気と春隣と

 早いもので一月も今日で終わりである。一体、何をしていたのだろうと思い返す間もなく、今年に入っての最初の一ヶ月が過ぎ去ろうとしている。
 といって、今日になって慌てて何かやろうと思っても、何ができるものでもない。せいぜいが繰り言を愚痴っぽくなく呟いてみせるのみである。
 今日の表題は、「淑気(しゅくき)と春隣(はるどなり)」とを選んだ。どちらも、いい意味合いや雰囲気を持った言葉であり、個々に表題に掲げていいくらいの季語である。そう、どちらも、1月(新年)の季語なのである(なぜか、この表の事例には「淑気」が載っていないようだが…)。
 最初にそれぞれの意味を確認しておこう。

 まず、「淑気」だが、「「淑」は水が清く満ちている意、淑気というのは、清々しい中にも 温かみのある新年の雰囲気を表わした言葉」だという(「閑話抄」の中の<淑気(しゅくき)>の項より)。
 例えば、ネットだと、淑気を織り込んだ漢詩として下記が見つかった(「周の漢詩入門1」より):

  新正口號       武田信玄
  淑氣未融春尚遲  淑気未だ融せず春尚遅し
  霜辛雪苦豈言詩  霜辛雪苦豈詩を言わんや
  此情愧被東風咲  此の情愧ず東風に咲われんことを
  吟斷江南梅一枝   吟断す江南の梅一枝

 この漢詩の意味合いについては、上掲の「周の漢詩入門1」を覗いて欲しい。
 新年の到来を迎える心情を寿ぐいい言葉である。それを新年のお屠蘇気分などとっくに薄れてしまった今頃になって採り上げるのも気が引けるが、触れるべき言葉が余りに多いのも事実なのだ。
 尚、「淑気満つ」といった形で使われる場合もあるようだ。「街灯り届かぬ闇にある淑気」(「風景の句と写真」より)や、「桶の反り測る眼の淑気かな」(馬魚)、「うぶすなの杜も流れも淑気満つ」(「右脳俳句パソコン句会 1月例会(2)」より)、「一条の漏れ日海立ち淑気満つ」(「沼津アルプスを行く」より)、「なかんづく祖父のほとりの淑気かな」(「kg1601」より)などが目に付いた。


 ついで、「春隣」だが、「黛まどか「17文字の詩」98年2月の句」によると、「春がもうすぐそこまできているという意味の冬の季語」だとか。ここには、「春隣病めるときにも爪染めて」という句が載っていて、ご自身による評釈(?)も付せられている。
 彼女には、「2000年2月の句」に、「春隣背中合はせに空眺め」という句もある。
 ネットでは、「曇天に耕し深く春隣」(優嵐、「優嵐歳時記」より)、「日暮るるに空青く澄む春隣」(「絵手紙」より)、「春隣橋架ける人黙々と」(高橋 巴、「萬緑へようこそ」より)、「野良猫のひげに木洩れ日春隣」や「庭の木の蕾のうぶ毛春隣」(「四万十屋安兵衛の独り言」より)、「向こうから句友手を挙げ春隣」(「むかしの俳句掲示板◆平成11年1月16日-31日」より)などが見受けられる。
 他、この季語を使った句は、相当にありそう。やはり、冬の寒さに耐え、春の到来を待つ気持ちは誰しも同じということなのか。
 尚、「週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年1~3月」によると、「春隣は『古今集』の「冬ながら春の隣の近ければ中垣よりぞ花は散りける」などから出た言葉」だという。歌は、清原深養父によるもの。

 お分かりのように、「淑気」は新年の初めにあたっての香気さ清新さを示し、「春隣」は、一月の終わりとなり、春の到来の待ち遠しかった気持ち、あるいは予感を示している。
 小生自身についてはどうだったろうか。事情があって、小生は初詣を昨年から控えている。大晦日の夜は静まり返った田舎の居間で一人で過ごし、夜半を示す十二回の時計のボーン、ボーンという音を、所在無く聴いていた。何十回となく過ごしてきた大晦日の夜と新年となったばかりの田舎の茶の間での、目の前を行過ぎる年という名の現実を成す術もなく見送る我が身の不甲斐なさ。
 それでも、齢(よわい)は重なっていく。前の年とほとんど同じような新年の迎え方だけれど、体質や体調も含め、我が身の置かれる環境は、良きにつけ悪しきにつけ容赦なく変貌を遂げていく。川の流れは時に逆流することがあっても、人生という河はひたすらに一方通行の流れのままである。
 自分だけが変わっていないつもりであっても、姪や甥が結婚し子どもが生まれ、ついこの間まで自分があの年代だったはずなのに、夢一夜を過ごしただけで、気がついたら、一昔前なら人生の終わりの時、収穫の時期を迎えている。まるで、玉手箱を開いた浦島太郎の心境である。一度だって竜宮城へ行ったこともないのに。
 まあ、その代わり、一昨年から、リベルダージというサンバチームのメンバーになり、サンバの雰囲気に少しでも触れようとしている。サンバのリズムなどを身体に染み込ませようと、結構、懸命に楽しんでいたりする。喜びを歌や踊りや楽器の演奏や、友や恋人との交歓の形で直に生の形で現すこと。
 これは、ある意味、小生には一番、遠い世界だったと思う。その世界に、悲しいかな浸れるわけではないけれど、でも、その熱気だけは身体に浴びたいのである。
 そう、思って、昨日の日曜日も練習のスタジオに行って来たのだった(尤も、昨日は、浅草サンバカーニバルへの出場に当たってのテーマ会議があったので、参観したかったこともある。季語随筆日記で「カレー」を扱ったのも、今年の我がチームのテーマがカレーだからだったのだ!)。練習スタジオの参加者若い人がメインだが、老若男女多数であり、そうしたみんなの熱気と情熱のシャワーを浴びてきた。

 日々を新たに。何も新年を迎えたからということではなく、生きている日々が、掛け替えのない、この日限りの、一期一会の時の連なりなのだということ。それこそ、真珠の玉のネックレスか何かのように、その日々が、その一粒一粒がそれぞれに煌いていて欲しい。
 煌かないとしても、感じ考え思い想う、その全てをできる限り清新なままに河の流れから掬い取り、日の光を浴びさせてみたい。小生にとっては、書くとは日々を最高最深の形で掬い表現する営みなのだと思っている。
「春隣」。一月の終わりというのは、冬来りなば春遠からじと言っていた時期よりは、確かに春の到来に近付いているのだろうけれど、現実の世界では、春の到来にはまだ一山越えるべき峠越えの日々が待っている。
 油断した訳ではないが、こんな時期に小生、風邪を引いてしまったようで、実に情ない。掲示板のメッセージのレスを書いた際に、小生は、下記のような句を付した:

 春隣山の彼方の春恋し

 春が恋しいのは正直な気持ちだが、実際は、これから一段と寒さが厳しくなることを思うと、「春隣山の彼方の春遠し」と詠じたい心境なのである。
 けれど、それ以上に思うのは、年を取るごとに感じる歳月の経つ早さ。これを実感すると、春が早く来て欲しいとは、若い時期のようには素直に言えない。春が早く来るとは、つまりは、約(つづ)めて言えば、歳月よ早く過ぎ去ってくれ、と言っているようなものだからである。
 このことに気付くと、淑気と同様で、たとえ今が冬の真っ盛りで厳しい最中にあるのだとしても、その厳しさを、じゃあ、とことん、味わい尽くしてやろうじゃないか、と開き直った方が、いつ来るか分からない春の日々を待って、その日その日を無為に過ごすよりは、余程、マシなのである。
 要するに日々に新た、これに尽きるのである。
「淑気」と「春隣」とは、一月(新年)の最初と最後とをそれぞれに意味するが、もっと敷衍して考えると、つまりは、人生の始まりと掉尾(とうび)それとも末期とを示唆しているとも言えそうだ。
 自分に失望し続けて、それでも、未練がましく生きて、しかも、病気がちとなり、なのに、誰かではないが、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」という思いを、春隣という懇願の心境を忘失することなどない。
 今年も、そう、きっと、昨年と同様、自分に失望して終わるのだろうけれど、それでも、日々を新たにできるだけのことをしてみたいのである。

 スタジオの熱気と情熱淑気満つ
 春隣待ちわびる日々耐えてこそ
 指の先天空よりの声を受く(小生にとっては書くとは、こういうこと)
 無辺大宇宙の声の煌ける
 日々新た書けば書くほどそう思う
 星月夜紙面の宇宙埋め尽くす
 夜気浴びて慄然として空眺む
 無尽蔵白き紙面に埋まるもの
 ひといろの紙の上にも虹の夢
 

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コメント

昨日からこの言葉(季語)にアクセスが急増している。
何故、1月(新年)の季語なのに。

確かに語感もいいし、意味も素敵なんだけどね。

投稿: やいっち | 2008/02/03 02:59

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