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2005/01/27

懸想文(売)

 季語表を見ての季語随筆、今月もあと僅かとなった。全く触れることの出来なかった季語がたくさんある。気になるものはできるだけ採り上げてきたけれど、それでもまだ知りたい季語が随分と残っている。
 たとえば、「雪眼(ゆきめ)」だが、「積雪に反射する紫外線による眼の炎症」だという。まあ、なんとなく想像は付く。この言葉を糸口に何かエッセイの一つも綴れそう。一時期は誘われてスキーのために湯沢や水上宝台樹などへ遊びに行ったこともある。あるいは、既に軽めのエッセイ(「真冬の明け初めの小さな旅」など)に仕立てたことがある。スキーといえば、スキー靴のサイズが合わず、とうとう脚の親指の爪が剥がれる事態に…という思い出を書いたこともある。
 一面の銀世界。白銀。まるで天界よりも眩しいかのような光の海。炎症などは免れたものの、あの眩い感覚というのは、得も言えぬものがある。

(余談だが、雪の世界を描いた小説というわけではないが、トーマス・マンの『魔の山』は二度ほど読んだことがあるが、その中に主人公が雪山で遭難しかける場面がある。その箇所だけで数十頁だったか。『魔の山』の中の「魔の雪山」とでも称すべき場面であり、邪道かもしれないが、その章だけを独立した形で読んでもいいのでは、あるいは、短篇に仕立てて売り出してもいいのではと感じたものだった。さすがに「魔の山」を三度目の正直とばかりに全篇を読み通す機会というのは、当面ないだろうし、けれど、かの箇所だけは読み浸ってみたいと思っているのだ。
 せっかくなので、その章「雪」についての小生の感想を抜粋しておく:

  小説の筋にも関係するが、あるいは離れた形で読んでも実に素晴らしいのは、松岡正剛氏も語るように『魔の山』の第6章の「雪」と題された場面である。主人公であるカストルプが、無謀にもスキー板を履いて吹雪の山に向い、遭難しかけるのだ。その豪雪の中での主人公のカストルプの雪の無間地獄に溺れ込もうとする場面は凄まじい。また、美しい。死の誘惑。
 恐らくマンは意図的に美しく描いている。小説としての必然性があるのだ。
 が、読者たる小生は、一個の独立した何か象徴性に満ちた短編として読み浸ってしまったのである。そんな誘惑を仕掛けるマンは、罪な作家だ。ドイツ的な神秘性が骨の髄まで浸透しているということなのだろう。
 長い小説だが、分量的に中腹付近にあるその場面を楽しみに読むのもいいのではないか。そこを読み終えると、もう、あとは天辺も見えるかのようだから。
マン『魔の山』雑感」より)

「雪眼」が「雪眼鏡」となると、これは、さすがにサングラスだろうとは分かるだろう。「雪眼鏡(ゆきめがね)」とは、「積雪の反射による紫外線防止用のサングラス」。今時、雪眼鏡という呼び方はされるのだろうか。やなりゴーグルなのか。いずれにしても、冬(一月)の季語のようだが。
 この「雪眼(鏡)」よりも、気になるのは、今日の日記の表題に選んだ「懸想文(売)」である。「懸想文」?! 「懸想文(売)」?!
 懸想文というと、我輩の年代でも、古式床しいというか、古臭いと感じる。深窓の令嬢へ思いの丈を篭めた文などを呈するならば、懸想文という古びたような奥床しい呼称も使っていいのかもしれないが、問題は今時、深窓の令嬢が何処にいるのか、である。懸想文は深窓の令嬢やお坊ちゃまにお似合いなのだろう。
 それにしても、季語として「懸想文」とか「懸想文売」が載っているというのは、穏やかではない。
 念のため、ネットの辞典(大辞林(国語辞典) )で「懸想文」を調べてみる。すると、以下のようである:

(1)恋慕の情を書きつづった手紙。恋文。艶書(えんしよ)。

(2)近世、正月に京都の町などで売られたお札。艶書に似せて、縁起を祝う文句が書いてある。[季]新年。

 まあ、季語ということだから、(1)ってことは、ないだろう。それにしても、艶書とは、胸騒ぎの起きそうな文(ふみ)だ。余程、艶っぽいことが書かれているのだろう…か。同じ辞典で調べると、要するに恋文なのだ。「恋文」というのも、古風な言葉だ。小生など、由紀さおりの「恋文」(吉田旺作詞、佐藤隆作曲、馬飼野俊一編曲)という曲を思い出す。73年に第15回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した曲で、歌詞がまさに「恋文」という題名に見合った雅(?)なものだった。
 彼女には、70年にも第12回日本レコード大賞歌唱賞の「手紙」という曲がある。小生には、共に、我が失恋のどん底時代の曲なので、「ルームライト」や「夜明けのスキャット」(この曲がヒットしていた頃、懸想していた)も含め、歌手としての彼女が好きかどうかを越えて思いで深い曲であり、歌手なのである。

 手紙というと、歌では八代亜紀の「愛の終着駅」に出てくる歌詞が印象的だ。「愛の終着駅…」と題した雑文も書いたことがある。一部だけ転記すると:

歌詞の冒頭の一節の、「文字のみだれは 線路の軋み 愛の迷いじゃ ないですか」には女の直感のようなものを感じて、こんな女に出会ったら、最初は一途に愛されて男としての自尊心が擽られるかもしれないが、そのうち女のあまりの愛情にたじたじとなり、やがて逃げ腰となり、そのうち女から逃げるためだけのために浮気をするかもしれないと思ったものだ。
(転記終わり)

 というわけで(脈絡なく続けるが)、「懸想文」とは、「(2)近世、正月に京都の町などで売られたお札。艶書に似せて、縁起を祝う文句が書いてある。[季]新年。」であり、「懸想文売」とは、そのお札を売る人のことなのだった。
 縁起がいいといえばいいけど、ちょっと艶っぽさからは縁遠い。ラブレターでも、ラブメールでもないのである。
 懸想文が良縁を得る縁起物で、ラブレターでもラブメールでもないと分かり、あまり期待しないでネットで「懸想文  季語」をキーワードに検索してみたら、意外なサイトが見つかった。
 ヒットした件数はさすがに少ない中に、「懸想文売りに懸想をしてみても」(西野文代)というを見つけた。どこまで転記していいのか分からないが、参考になるので、とりあえず一部だけ:

曲亭馬琴の編纂した『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)に、こうある。「鷺水云、赤き袴、立烏帽子にてありく也。銭を与へつれば、女の縁の目出たく有べしといふことを、つくり祝して洗米をあたへ帰る也。今は絶て其事なければ、恋の文のやうに覚えたる人も有故に、口伝をこゝにしるしはべる」
(転記終わり)

 この句は、「2004年1月2日(金)増殖する俳句歳時記」の中から見つけたものらしい。
 懸想文売りは、「馬琴の生きた18世紀後半から19世紀半ばのころにも、既に存在しなかったよう」だが、「1923年に京都で生まれた作者は、馬琴も見たことのない「懸想文売り」に、実際に会っている。こう書いている。「その年の懸想文売りは匂うように美しかった。おもてをつつむ白絹のあわいからのぞく切れ長な目。それは、男であるということを忘れさせるほどの艶があった」。で、掲句ができたわけだが」という。
 この一文は、いろんなところに転記(?)されているのを見つける…のだが。
『俳諧歳時記栞草』の原典を見たことがない。せめて、岩波文庫版の『増補 俳諧歳時記栞草』をと思うけれど、当面は入手ないし講読は無理だろう。
 別のサイトだと、「懸想文」の類語としてなのか、「化粧文」が挙げられていたが、これは類語なのか、それとも、駄洒落的な縁語なのか、分からない。
「美山町苺つなぎの懸想文」(炎青)」など、「懸想文」を吟じた句は散見されるが、概して少ない。
 やはり、今の人のみならず、一昔前の人にも馴染みのない言葉、あるいは存在や光景だからなのだろうか。いずれにしても、あったとしても、一昔前の正月の京都に住み暮らしたことがないと、ちょっと馴染みなど持ちようがない言葉、季語、光景だということだろう。
 あまりに締まりのない一文になってしまったので、「須賀神社・節分祭(懸想文売り)」の画像などを見て、後を濁したい。「この文を持ち帰り人目につかない所に納めておくと、必ず良縁に恵まれると信じられる」というのだし。
 思うに、この画像で示される衣装などが由緒正しい格好なのだとしたら、「懸想文売りに懸想をしてみても」(西野文代)という句、分かるような気がする。警察官でも自衛官でも、下手すると目出し帽で銀行やコンビニ・郵便局にお邪魔する泥棒さんでも、「おもてをつつむ白絹のあわいからのぞく切れ長な目。それは、男であるということを忘れさせるほどの艶があった」なんてことになりかねないのだし。
 ちなみにだが、懸想文は、後世は良縁祈願のお札になったのだろうが、もとはまさに恋文であり懸想する文だったのだろう。その前は、遡ると相聞歌ということになるのか。

 懸想文届けたはずが宛名違い
 懸想文正体隠す目出し帽
 相聞歌片道だけの手紙束
 相聞歌寄り添うものかと返し歌
 懸想文白絹覗く恋心
 恋の道メビウスの輪の迷い道
 好きなのに思いの丈の遣る瀬無く
 切なさもアヒルの水掻き真似るのみ

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コメント

懸想文に惹かれてしまったのと、「魔の山の部分」をネットで探していたので遅くなりました。流石に著作権が生きてるものは断章とはいえ見付かり難いです。これ以上積読文庫にマンが溜まるのもいけませんので買いませんが、その部分だけでも何とか早めにと思っています。特にこの書は何度も挫折しておりますので事の外慎重です。今でも哲学談義になってからは厳しいだろうなと想像します。ダヴォースは思い出の地でもありますので、クリニックが現在売りに出てるとは云いながら、今後とも情景を楽しめるとは思うのですが。

雪眼に比べ雪眼鏡と云う言葉は既に永く使われていませんね。

投稿: pfaelzerwein | 2005/02/01 00:07

pfaelzerweinさん、コメント、ありがとう。
マンの「魔の山」は大作だけに、気軽には読めないのは小生も同じ。二度目に読んだのは数年前ですが、帰省の往復の列車や田舎で一気に読みました。
哲学談義の部分はありますが、あくまでマンは文学として主人公の心理などを絡めたものとして描いているのだと思います。だから、哲学に詳しくなくても結構、気軽に楽しんで読めると思いますよ。
ダヴォースは思い出の地だとのこと。だったら余人とは違う感懐を以って読めるのではないでしょうか。
ちょっと羨ましい。

投稿: 弥一 | 2005/02/01 15:06

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