日脚伸ぶ
昨日の夕方、車で麻布界隈を走っていた。そろそろ空がどっぷり暮れている…、はずが、確かに暮れなずんではいるけれど、何処か透明感もある。お客さんを乗せた時間は確か5時20分過ぎだったはず。だったら、とっくに宵闇に街が沈んでいてもいいはずなのに。
信号待ちの時、気になって車中の時計を見たら、5時半頃。間違いない、小生が時間を勘違いしている訳じゃないのだ。ふと、「日が延びてきましたね。」などと、お客さんにというわけでもなく、呟いてしまった。
まさに、冬の季語である「日脚伸ぶ」は、今ごろにこそ、使いたくなる言葉であり、表現なのではないか。
日の出の時間を調べてみると(東京都)、年末に6時50分となり、それが51分に、そして17日まで50分だったものが、18日からは6時40分台に突入している。日の入りも、11月25日に夕方4時20分台となってからは、ずっと20分台だったのが、12月半ばから30分台となり、徐々に遅くなって、昨日24日は、とうとう5時の大台に乗ったのである。
仕事柄、週に平均、三度は、日の入りの時刻に、あるいは日の出の時に、街中で、まあ、実際には車中で立ち会っている。けれど、昨夕、ほとんど不意を打たれたかのように、日の入りの遅くなったことに気付いた始末だった。
それも、晴れてはいたけれど、雲が薄っすらと漂い流れていて、日中はそれでも青空だったが、夜になると、雲の存在が実感されてくる。というのも、月齢からしてそろそろ満月(今夜)になろうかという月が出ていることは、濃い目の綿菓子のような雲を透かしてなんとか窺い知れる状態だったのである。
こんなほぼ満月の夜、空高く舞い、雲海の上で月見でもしたら、さぞかし凄いことだろうと思う。薄絹を何枚も浮かび漂わせたような柔らかな空一面の絨毯にこれでもかというほどの月光が溢れ返っている。天の月影、地(雲)を埋め尽くす光の洪水。そんな写真や映像などがあったら、と思ったりする。
朧月というのは、春などに使う表現なのだろう。だから、仕方なく朧な月影と表現しておくけれど、夜半を回っても、空は厚手の紗を透かしての月影で、それでも真ん丸の影が分かるというのは、それほどに月光が眩いということなのだろう。
その煌々たる月光をまともに見たのは、朝方の5時頃だった。ある住宅街の緩やかに登り曲がり下っていく一方通行の道をお客さんを乗せて走行していて、とある曲がり角を曲がりながら登りつめる瞬間、居並ぶ住宅の屋根などの合間に、ポッカリというより、ニョッキリ、それとも、やはり不意打ちのように隈(くま)一つない月が、さすがに未だ暗い夜空に現れ出でたのだった。
季語随筆とは名ばかりの、日記でさえもない、余談ばかりのこの雑文なので、少しは役に立つ情報を書いておく。
役に立つかどうかは分からないが、例えば、昨日は麦藁帽子の話をラジオで聴いた。といっても、今、街中で麦藁帽子を被る人が増えているというわけではない。今、麦藁帽子を作る真っ最中なのだという話だったのだ。
麦藁帽子は季語なのかどうか知らないが、少なくとも冬の季語ではなさそうだ。
けれど、生産者の側からすると、数多くの(けれど、生産はめっきり減ったという…、あの麦藁帽子、何処へいったんでしょうね…)麦藁帽子が並べられ冬の天日に干されている光景というのは、文句なしに冬の情景なのに違いない。
ラジオでは、今年はかの童話作家アンデルセンの生誕二百年の年なのだという話も聴いた。彼の童話は、ある年代以上の人なら、必ずと言っていいほどに、子供の頃に親しんだのではないか。『みにくいあひるの子』『人魚姫』『はだかの王様』などと、幾つかの作品の名前も挙げることができるかもしれない。
かの実存の哲学者キルケゴールの最初の著作がアンデルセンについて書かれた世界最初の著作なのだということは、数年前のメルマガにて言及したことがある(室井光広著の『キルケゴールとアンデルセン』(講談社刊)を通じて知った。
小生はガキの頃は読書が嫌いで、童話や昔話の本もあまり読まなかった。少なくとも読んだ印象はあまり残っていない。もっというと、活字が嫌いだったので、絵本は覗いていた、あるいは眺めていたような気がする。
小学校の四年か五年だったか忘れたが、クリスマスのプレゼントだったか(それとも誕生日のプレゼントだったかもしれない)に、分厚いアンデルセン童話集を両親に貰ったことがある。
正直、小生は内心、当惑していた。オレに本だって。パラパラ捲った分だと、絵より活字のほうが多いじゃないか。オレには本なら漫画だろう! と思いつつも、無理にも笑みを浮かべて、小さく「ありがとう」と言った記憶がある。
両親には本好きと見えたのだろうか。それとも、あまりに出来が悪いし、漫画の本しか読まないので、ショック療法とばかりに活字の多い本を与えたのだろうか。
その小生には豪華本に見えた本を読了したかどうか、覚えていない。今もその本は、田舎の屋根裏部屋の書架に埃を被って眠っているけれど。
童話、昔話と連想話じゃないけれど、偶然は続くもので、昨夜のラジオでは、太宰治の「カチカチ山」という話(「お伽草子」より)を中村メイコ、有川博の出演で聴いた。原話の「カチカチ山」という話は、小生には、なぜかとても印象鮮やかに残っている話だ。
子供の頃の小生が純真だったかどうかは分からないが、とにかく、たぬきが可哀想でならなかった。確かに最初に悪さをしたタヌキが悪いのだろうけど、あそこまでタヌキを虐めること、ないじゃない…。理不尽に感じられてならなかったのだ。
この「カチカチ山」の話には、ヴァリエーションが何百もあるのだとか(「「カチカチ山」の話(三浦佑之)」を参照)。最近の童話や昔話だと結末を当り障りのない形に手を加えているとも聴く。でも、現実は悲惨だったり、惨めだったり、どっちにしても思い通りにはいかなことは、物心付き始めると次第に悟ってくるというのに。
昨日は、ラジオで政策研究院教授の藤正巌さんの話も聴くことが出来た。インタビュー形式で数十分ほどの話があったはずだが、仕事中ということもあり、聞きかじり。
ネットで昨夕聞いた人口そして少子化問題を語る藤正巌さん関連のサイトがないかと探したら、恰好のがあった。
「少子化、何が問題なのか」で、テーマは(昨日のも)「子どもの人口が数、割合とも戦後最低・・・という報道を受けてスタートしたフォーラム「少子化、何が問題なのか」。そもそも子どもが少ないとだれが困るの? 高齢化社会は暗いって本当?」だったのである。
ネットでも彼の『ウェルカム・人口減少社会』(文春新書)は、結構、言及されている。今、話題の本の一冊なのかもしれない(小生は未読。当然、批判もある。他には「人口減少社会とどう向き合うか」など)。
以下、詳述は、ここでは似つかわしくないので、別のサイトで試みる(そのうちに)。
などなど、我がタクシー稼業の余得というのか、幸か不幸かお客さんがあまり乗ってくれないので(間違いなく消費不況だぞ、小泉さん! 景気がいいのは一部の企業や都心のミニバブルで沸く一部の不動産関係だけだ)、ラジオのボリュームも下げたり切ったりしないであれこれの話題に接することができるのが嬉しい(嬉しい悲鳴…悲しい悲鳴)である。
しかも、車中では待機中の折などに、高浜虚子の『俳句はかく読みかく味わう』(岩波文庫)を何十頁も読めたりして(これじゃ、仕事じゃなくて、ドライブじゃ)。本書は、句の評釈として基本の一冊らしいが、なかなかに参考になる。読了したら感想文を書いてみたい。
さて、ようやく本題に戻る。
「日脚伸ぶ」とは「冬の終わりから春の初めにかけて日が少しずつ長くなりかけたころ」だという。別のサイトでは、「雲間や木立の間から差す日光を脚に見立てたことば」という説明がされていた。
なるほど、後者のほうが説明が具体的で小生にも分かりやすい。
日脚が延び始めていることは、冒頭にもデータを示して確認した。
けれど、冬はまさにこれからが佳境の時を迎える。真冬の正念場は、今からのはずなのだ。
ネットでは、「日脚伸ぶ重い元素と軽い元素」(田中裕明)が見つかった(日刊:この一句 バックナンバーにて)。この句の作者は慢性骨髄性白血病だったとかで、この一月の四日に葬儀だったという。
あるサイトを覗いたら、「昔から一日に畳の目一つずつ日が伸びるといわれています」などと書いてあった。そんなこと、言われていた(?)んだね。
冬来りなば春遠いからじ…。花粉症の季節も来る。冬の寒さは辛い、だから春の到来が間近なのは嬉しい…。けれど、草木の生気のムンムンする春の陽気ってのも、年を取るごとに億劫に感じられてきて、春が近づいて来るのも、それはそれで気の滅入ることだったりする。
小生の勝手な直感だと、この「日脚伸ぶ」という言葉は、情景もいいし、語感も悪くないし、使い勝手が良さそうで、この言葉(光景)の詠じられた句の事例は多そうな気がする。名句も多いのかも。それだけに、今更ながらに小生などが吟じるのは、気恥ずかしい。
日脚伸び残照残る宵闇か
夕刻の暮れなずむ空惜しむ我
春間近日脚伸ぶとも冬尽きず(冬の峠越えはこれからだ)
日脚伸ぶ吐く息見るも惜しむごと(吐く息が白い季節の終わりも近い)
日脚伸ぶ冬は辛しされど春も憂し
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コメント
「かちかちやま」・・そういえば、そういう話でしたね。
「たぬき汁にされそうになった、いたずらタヌキがおばあさんを騙しておばあさん汁にしてしまう。」
という行もさらっと聞けば、昔話だものね、で済むんですが、あまり詳しくなると怖いです。
世の中に残酷な事件が多くなると、「たわいの無い昔話」と笑って聞けない。
なんで関係の無いウサギがそこまでタヌキを痛めつけるんだ・・とは私も子供のときに思いました。
投稿: なずな | 2005/01/25 22:35
コメント、ありがとうございました。
筆1本で身を立ててらっしゃるとのこと。
お羨ましい限りです。
ブログに「風花」とつけているくらいですから、季語は好きです。
美しい日本語の代表です。
「日脚伸ぶ」(一発変換されなくて残念です。)、いいですよね、この寒い時期。
少しでも暖かい気分にさせてくれる季語です。
投稿: kazahana | 2005/01/25 23:14
kazahana さん、コメント、ありがとう。
でも、「筆1本で身を立ててらっしゃるとのこと。」は????です。びっくりして小生の書き込みを見たけど、書いてない。
だって、小生はタクシードライバー一本で身を立てています。まあ、私生活は筆一本ですけど。
貴サイトの「風花」はいいですね。サイト名にもセンスが現れる。小生、ちょっと先を急いでつけてしまった感がある。
投稿: 弥一 | 2005/01/25 23:38
なずなさん、コメント、ありがと。
なずなさんも仄めかしていたけど、「カチカチ山」の話、かのtanuさんのことがどうしても頭に浮かんでしまう。tanuさんが茹っちゃったら…。
いや、かの方は、茹でなくても十分に素敵な方です。
昔話はグリム童話を見ても、本当は残酷なものが多い。では、そんな童話や昔話を読んで育った我々は残酷な大人に育ったか。小生のように頓馬な者もいますけど、少なくとも動物や人を虐めるような人間には育っていない。むしろ、情操を養われている。
今時の絵本など、あまり知らないけど、昔の話を改変して甘ったるくして子供に読ませるのは反対ですね。
投稿: 弥一 | 2005/01/25 23:43
昔話は、もともと囲炉裏端などで、語られたお話。
だから、悪いことをしたら、きっちり罰がくだらないと、
聞いてる側が安心できない。
ところが、
絵本にすると、その残虐さが目から入るので、
必要以上に印象が強くなってしまう。
だから、本にするときは、当たり障りのないように結末を変えるのだ。
とかなんとか、どこかで聞きました。
ん~、そうかも?
投稿: Amice | 2005/01/25 23:55
情なくも、子供がいないせいもあるけど、絵本の最近の実情は分からない。実際に読んで見ないと、うっかり意見は書けないね。
当り障りのないことしか子供に告げない。その実、現実は容赦なく子供に圧し掛かってくる。で、その現実に子供は不意打ちを食らってしまう。
何か悪循環があるような気がするけれど。
それにしても、図書館の児童書コーナー、我輩のような変な小父さんが入っても大丈夫なのかな。追い出されないかなって、心配しているの。覗いてみたいんだけどさ。
投稿: 弥一 | 2005/01/26 02:31