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2005/01/22

月冴ゆる

 昨日、「寒月」の表題で書き綴ったにも関わらず、肝心の「寒月」に触れられじまいに終わった。誠に寒心に耐えない。
 そこで、今日は、「冬の月」という表題にし、「寒月」や月を巡る句の数々や季題を巡ってあれこれ随想を楽しもうと思った。
 が、危なかった。「冬の月」というタイトルは、先月の二日に早々と使ってしまっている。
 かといって、他に月に関する季語・季題が見つからない。初日の出があるくらいだから、初月の出などがあってもよさそうだが、ない。考えてみたら、初日の出の神々しさ、荘厳さに比べると月の輝きは見劣りする……なんて言い草などはもってのほかで、大晦日が晴れていたら、その夜が新月だったりしなければ、冬の空高く月が照っている。いよいよ刻限も日替わり、月替わり、年替わりの時が迫っている。
 で、変わった。新年だと思っても、お月さんは、あーい変わらず、天頂付近でニコニコか、厳めしくかは分からないが、恐らくはどう映るかは観る人の気分次第なのだろうが、とにかく、悠然と(漫然と)照り映えている。
 どうにも、初月の出と、事々しくは呼べない。あまりにわざとらしい。
 それでは、元旦の夜に改めて…とも思うが、その頃にはお屠蘇がたっぷり、お腹はお餅でふっくらで、月光を愛でるというより、ゲップが出る…で、どうにも、締まりがない。
 風流を愛でるというのは、これでもなかなか難しいものである。改めて、季語を見出し季節感を磨き上げてきた先人の偉業を天のお月様のごとく仰いで尊敬するばかりである。
 さて、本題に戻ろう。小生の場合、余談も本題も変わり映えしないが、そこはそれ、あれはあれである。
 一応、表題は、冬の月の類語ということで、「月冴ゆる」を選んだ。但し、冬の季語だとは思うが、一月の季語なのかどうかは定かではない。

 寒月というと、漱石好きならずとも、小説『吾輩は猫である』に登場する水島寒月を連想してしまうだろう。「寒月 季語」でネット検索すると、やはり、である。筆頭に、「新季語拾遺・2004 2004年1月25日」の「寒月」が登場し、そこに、かの人物が登場する。「博士論文に取り組んでいる学究で、論文の題目は「蛙の目玉の電動作用に対する紫外光線の影響」。」という研究に取り組んでいたことは、すっかり忘れていた。
 ちなみに、この水島寒月については、ファンが結構いる。さすがに漱石ファンより多いかどうかは分からないが。例えば、「stat rosa」というサイトの「寒月君の部屋」を覗いてみるのも楽しい。
 無粋な小生は、彼のようには粋(いき)ではないので、水島寒月のモデルとされる寺田寅彦(の随筆)のファンである。が、どうにも、同サイトのように、「寺田寅彦の部屋」を作るほどのファンではない。サイト主の方は小学校時代からのファンだから、彼からしたら大学時代からのファンである小生など、俄かファンに過ぎないのだろう。
 でも、全集は叶わないが、随筆全集全六巻は所有している。漱石全集と並んで座右の書になっている。ホントに座右にあるだけってのが、情ない。
 まあ、残りの一冊を読了するのが惜しいのだが。

 この寒月君や、彼の先生である苦沙弥先生がヴァイオリンに凝り、猫殿をその煩い音で悩ませる。
 小生、サンバファンになっていることは、知る人は知っているが、最初にサンバパレードに追っ駆けとしてギャラリーした時、まず、小生は音に魅了された。
 というのも、商店街で行われるパレードは、観客を掻き分けつつ前のほうに行くしかなく、まずは遠くで音に接するのである。ホントの最初のサンバとの出会いは音、あるいは響きだった。
 中でも、今も小生の耳に残っているのは、カバキーニョという楽器の音だった。楽器の名前は後日、それとわかったのだが。楽器など、習ったこともないのに、我がサンバチームの練習スタジオに行った時、楽器を売っている店を教えてもらい、後日、カバキーニョをタンボリンと一緒に買ったのだった。
 悲しいかな、今も全く、弾けない。その前に楽譜が読めない。が、その前にカバキーニョの楽譜がない。で、貰ったCDで音楽を聴いて、僅かに慰めている。
 ということで、実はカバキーニョを買った際、密かに苦沙弥先生と寒月君の顰に倣おうとしたのだが、そうは問屋が卸さなかったのだった。

 上掲の「新季語拾遺」には、「寒月や思惟(しい)の仏の指の先」(水上博子)や「「寒月やから堀端のうどん売り」(漱石)が紹介されている。違う日付の「新季語拾遺」でも、「出歩くや寒月に髪ばさばさと」(佐藤鬼房)が見つかった。
「山茶花」今月の季語」では、下記の句が見つかった:

 寒月や枯木の中の竹三竿     蕪 村
 通夜の客絶え寒月も更けにけり  中西以佐夫
 刑務所の塔に寒月貼りつきて   佐々木静子

あの人この人 雑学スペース」では、「托鉢の背に寒月が入り残り」(K.中野?)や「寒月や喰ひつきさぅな鬼瓦」(一茶)を発見。
 その他、「寒月や変らぬ顔の辻地蔵」や「寒月や不眠を刻む古時計」など。
 寒月は、言葉も語感も本来は素晴らしいのだが、幸か不幸か、漱石の小説の影響もあって、風流や風情より滑稽味や飄軽さが漂ってしまっていて(特に感化されやすい小生など尚更)、少なくとも小生には使いづらい。

 急いで、表題の「月冴ゆる」に移る。
 別に断る必要もないかもしれないが、小生のこの季語随筆では、「冴ゆる」を表題にした日記が既にある。では、何故、敢えて断ったかというと、その中に、月冴ゆる渦巻く黄泉にゐたりしが」(征夫)や「)、「月冴ゆる夕べひとつの星も冴ゆ」(?)を紹介しているからである。
 他にネットでは、「庭に出て夜空を見れば月冴ゆる」、「漫画買い急ぐ帰宅路月冴ゆる」、「月冴ゆる夕べひとつの星も冴ゆ」、「ヘアピンを弾く黒髪月冴ゆる」(青木凛)、「ゴビ灘や深々として月冴ゆる」(虹洋)、「ほんのりと山々白く月冴ゆる」()などが目を引いた。
「冴ゆる」も「月」も、それぞれに一個の言葉、季語として屹立しえる存在感・語感を持っている。それだけに使い出があると同時に、使いこなすのは難しい気がする。

 月冴ゆる心の隈も照らされて
 月冴えて目の隈(くま)までが深くなり
 月冴ゆるガラス窓まで凛烈(りんれつ)と
 月冴ゆる頭までもは冴えきれず
 月冴えて輪郭削る後ろ影
 月冴ゆと指差す先の白さかな
 月冴えて項(うなじ)の奥の床しさよ
 月冴えて乳房の波と窓の雪
 寒月やお前は風情あるのやら
 寒月よ水島を取れば風情あり
 寒月の氷に映えて眩しかり
 軒の間に孤影を記(しる)す寒月か
 寒月や氷柱の陰の窓明かり
 ふと目覚め窓の外には月冴える
 曇天の雲の波にも月冴える?

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