風花
初金毘羅については、まだ語るべきことがあるが、また、来年(!)ということで、今日の表題は「風花」とする。
この言葉、「ふうか」と読むのか「かざはな」と読むのか。
手元の事典(NIPPONICA 2001)によると、「かざはな」であり、「雲の少ない晴天に舞う雪のこと。遠くの山岳方面が風雪となっているとき、その雪片が上空の風にのって、風下の晴れた山麓方面に飛んでくることがあり、群馬県などでよくみられる。」と説明されている。
無論、選んだ以上は、1月の季語である。
転記した説明にあるように群馬県などで見られる現象のようだが、だとしたら本当にこの風花の舞う現象に遭遇された方は、当地の方を除けば少ないということなのか。
こうみえても(どう見えているんだろう?)小生は富山で生まれ育った。一応は雪国の端くれである。が、恥ずかしながら「風花」という現象を知らない。富山でも見ることがあるのだろうか。
そもそも、何故に群馬県によく見られるというのだろう。
あるサイト(群馬の方言ページ)を覗くと、風花は「はあて」と言い、「はあてが飛んできた」といったふうに使う。「群馬の西部で多い。ふっこし(吹越か?)も使われる」とか。
上空から雪が降ってくるのではなく、降り積もっている雪が風に巻き上げられ、空中で舞う…。その激しい形なら、地吹雪ということになるのだろうか。あるいは、群馬県というと上州の空っ風が有名で風が強く吹く地なので、それが冬なれば、空が晴れていても、山のほうで積もった雪が強い風に吹き飛ばされ、麓のほうにまで雪の結晶のままに運ばれ、それが風花(かざはな)という現象になっているということなのだろうか。
お天気のことで分からないことは、森田さんに聞いてみよう、ということで、覗くと、「私の住んでる群馬県の平野部では冬強風の日に風花と呼ばれる雪が降ることがあります。どのような気象か一度お調べ下さい。」という質問が呈されている。
それに対し、森田さんは、「冬になると大陸から寒気が押し寄せて、日本海側の地方に雪を降らせます。しかし、日本列島を貫く背骨のような山脈に妨げられて、雪雲が関東地方の平野部にまでやってくることは非常にまれです。ところがあまりに寒気が強いと、その雪雲が山からあふれて太平洋側にこぼれてくることがあるんですね。そんなときでもほとんどの雪雲は山間部で雪を降らせて消滅してしまいますが、少しは北風に乗って平野部にも到達します。その雪が風に舞う花びらのように降ってくるので、風花と呼ばれています。」と丁寧に答えられている。
が、これだと、一般的過ぎて、群馬県特有の現象なのか、太平洋側の平野部一般に見られる現象なのかが分からない。やはり、上州の空っ風と相俟っての風花現象なのではないかと、お天気のことは能天気な素人の小生は憶測する。
但し、「かざはな=晴れた冬の日に粉雪が風に舞いキラキラと輝く現象」ということでいいのなら、雪国なら、天気のいい、但し風のある冬の日なら、それほど珍しい現象というわけでもないのだろうが。
ネットで探すと、埼玉(の盆地)でも、まさに風花の現象が見られるという報告が見つかったのだが。
と、根気良くネット検索を重ねると、以前にも他の件で参照させてもらったことのある「閑話抄」というサイトに、まさに<風花>という頁が見つかった。
そこには、簡にして要を射た説明が施されている。全文を引用したいくらいである。
とにかく、「快晴の下、降ると言うほどもなく風にちらつく雪のことを風花とい」うが、「もとは山から平地に吹き寄せられる風雪のことで、空っ風で有名な上州地方にて よく見られる現象であるといいます。今は上記のように雪の降り始めに舞い狂う 雪片も風花と呼んで差し支えないようですが、原義は承知して然る可しでありましょう。」というのだ。納得。
さらに、「華やかでどこか幻想的な風花ですが、これが成立するには奇跡と言っていい ほどの偶然を待たねばなりません。」として、「冬の透明な空気では手にとれるように見える山であっても、実際の距離は相当なものです。小さな小さな風花でも、それを平地にまで吹き寄せるにはかなり強い 風が必要です。また、必要以上に暖かかったら途中で溶けてしまうでしょう。地の果 てまで見通せるくらい透き通った青空、そして強く冷たい風、これら偶然の巡り 合わせがなくては風花は生まれないのです。」とも付け加えられている。
「ひうひうと耳を凍らせるような寒風の中、無数の光に取り囲まれた一瞬は我を忘れるような心持ちになります。」となると、なんとしても、見てみたくなる。富山は魚津の蜃気楼ほどに珍しい現象なのだろうか。
ということで、とにかく風花は「かざはな」と読む。「ふうか」も悪くないが、「かざはな」も語感がいい。気に入って、ブログのタイトルに「風花」を選んでいる方もいる。
ネットで風花を織り込んだ句を探す。
「風花や比叡にかへる人とゐる」(金久美智子)や「風花ふと此方へ田中美知太郎」(星野麥丘人)は共に、「日刊:この一句 バックナンバー」から。俳句の作品の中に故・田中美知太郎氏の名前が出てくるとは思わなかった。高校から大学にかけての頃、同氏の本は何冊か読ませてもらった。「生きることの意味」(藤森書店?)などの初学者向けの本ばかりを選んでいて、最後に読んだのは、哲学初歩 (岩波全書) だったろうか。プラトン全集(岩波書店)も揃えたが、訳者の一人は同氏だった。
同氏の本で、一番最初に購入したのは、「ギリシアの詩と哲学 思想の歴史1」(平凡社刊)だった。ギリシャ哲学へ導いてくれたのは田中美知太郎氏だったといって過言ではない。なのに、上澄みさえも掬うことができず、今の体たらくである。
「風花や坂の向こうに時計搭」(優嵐)や「風花や少女の唇の一文字」<田中志奈子>など、いろいろ見つかる中で、「たまゆらの風花なりし空虚ろ」という句の評釈が小生には勉強になる。
「風花や子に話しやる母の恋」(只野みつ子)も、評釈(喜代子)共々に詠むと、いいかも。
風花の舞う空の果て白き山
風花や遠き山より生きて来し
風花や恋の終わりの青き空
風花や青き空から生まれけん
空っ風吹きさらしての里の冬
空っ風襟を立てても胸に吹く
風花の舞い狂う果て見えもせず
風花を婀娜花と見る君哀れ
風花も今の世にては花粉症
[この小文を読みコメントを寄せてくれた方の情報で、つい先日、亡くなられた、薬師丸ひろ子主演の映画「セーラー服と機関銃」「台風クラブ」の監督・相米慎二さんの遺作に昨年公開された「風花」という題名の映画があることを知りました。情報を呈してくれた方、ありがとうございます(詳細はコメントをどうぞ)。もしかして「風花」を表題に選んだのも、相米慎二さんの天からの声があったからなのか…。余談だけど、小生は薬師丸ひろ子の歌声が好きだ。(05/01/21 追記)]
[「風花」を織り込んだ句を今、見つけた ので、ここに追記しておきます。(05/01/21 記)
風花の行方に心遊ばせて 本岡 歌子 ]
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コメント
雪が関係してくる言葉は、どこか儚げな感じが
付きまといますね。
そういうものに惹かれてしまうのは、
「滅びの美学」なんてものに私が騙されているからでしょうか。
>風花の舞い狂う果て見えもせず
あだ花の句もいいですが、個人的には、この句が好きです。
色々想像(妄想?)できて…♪
♪ 風花がひとひら ふたひら
君の肩に 舞い降りて
そして 紅い唇沿いに
秋の終わりを白く縁取る ♪
この歌にも「風花」が出てきます。響きが好きです。
投稿: Amice | 2005/01/20 06:44
歌って出所をはっきりしとかないといけないかしら?
さだまさし作詞・作曲 「晩鐘」 でした。
あ、歌詞間違えてしまいました。
「君の肩」じゃくて、「君の髪」でした。
失礼しました!
投稿: Amice | 2005/01/20 09:32
相米慎二監督の遺作になった映画作品で「風花」というのもありますよね。小泉今日子さんの主演で。
弥一さんが書かれた本文からも伺えますが、かなりポピュラーな言葉のようですね、風花。
日本語の美しさを改めて感じます。
投稿: oki | 2005/01/20 16:44
Amice さん、こんにちは。
雪に因む言葉、情景、文学、研究、尽きせぬものがありますね。中谷宇吉郎の「雪」のことも採り上げたいし。
さだまさしの『晩鐘』は1977(昭和52)年に発売されたアルバム『風見鶏』の最後に収録された曲のようですね。ネットで調べてみると、このアルバムそして曲に思い入れしている人が多いと分かる。
彼の曲はメロディもいいけど、とにかく詞がいい。
この『晩鐘』については、下記の部分が好きだというサイトもあった:
心変わり告げる君が痛々しくて
思わず言葉をさえ切った僕
君は信号が待ち切れなかっただけ
例えば心変わりひとつにしても
一番驚いているのはきっと
君の方だと思う
君は信号が待ち切れなかっただけ
流れに巻かれた浮浪雲桐一葉
銀杏黄葉の舞い散る交差点で
たった今想い出と出会った
小生のサイトでも償いなどを採り上げたことがあります。詩をメロディに乗せて聴ける(歌える)というのは、素晴らしい才能ですね。
小生の掌編やエッセイの中にも、書いている小生があるメロディやリズムに乗せて読んでくれると嬉しいという小文があるんだけど、ね。
投稿: 弥一=無精 | 2005/01/21 12:52
oki さん、こんにちは。
相米慎二さんというと、薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」や「翔んだカップル」、「お引越し」など、必ずしも映画を見ない小生も知っている(見ている)映画がある。まだ、53歳で、あまりに若い死ですね。
もしかしたら、遺作の映画の題名である「風花」を表題に選んだのは、彼の天からの声なのでしょうか。
投稿: 弥一=無精 | 2005/01/21 12:59
調べられましたか~、やっぱり。
さださんは、『風見鶏』『夢供養』の
あたりのアルバムに人気があるようです。
シングルカットされていないのに人気の曲
『主人公』が入っているのは、『私花集』(アンソロジーって読むのです。)。
『償い』を取り上げられたのは、いつの日記でしょう?
拝見したいなぁ。
ちなみに、私の雑記でも取り上げました。
2004年8月11日の日記です。
そこに出てくる日記は、同月10日の日記です。
もし、宜しければ…。
投稿: Amice | 2005/01/21 14:55
Amiceさん、「償い」を採り上げたのは、日記ではなく、メルマガの後記でのこと。以下に、当該箇所(の一部)を転記しておきます:
[事件の顛末はテレビなどで報じられているので、御存知の方も多いだろう: (URL略) ]
小生も、さだまさしの歌が好きな一人だ。しかし、ファンというほどではないのだろう。コンサートに行ったこともないし、この20年程前に作られた『償い』という曲も知らないのだから。
でも、今日、たまたま昼間にワイドショーでこの曲を聞いて、不覚にも涙を流してしまった。
[『償い』の歌詞は以下のサイトで、他の曲も含め、伺うことができる:
(URL略)
別に、小生は一生かけて償うべき罪を小生が負っているわけではない。
けれど、誰しも中年と呼ばれる年ともなれば、何かしら引き摺るものがないわけもない。
街中などで、時折、見かけるうだつの上がらないような男。目立つような何をするわけでもない人間。一見すると、覇気などまるでない、つまらなそうな人間。
でも、その彼がそんな貧相な風貌なのは、それはそれで人に言えない事情があったりするのだ。担う荷物が重すぎて、今にも潰れそうだったりするからなのだ…。
年を取ると涙腺が弱まるという。小生も、そんな年になってきたのかもしれない。
ただ、思うのは、誰しも伊達に年を取るわけではないということだ。涙もろいというのは、きっと、少しは人の気持ちが分かるようになってきたからではないのかと思ったりもする。他人のこと、関わりのないことのはずなのに、でも、その相手の気持ちが分かってしまうのである。
何かしてあげたい。それでいて、何も出来ない。それこそこっちだってウダツの上がらない人間では、引けを取らないのだし。
せめて、こういう話があったことだけ、もっと、みんなに伝えられればと思うだけだ。
(02/02/21記)
Amiceさんの「償い」記事の日記、読ませてもらいました。このコメント欄は、HTMLは書けないので、「無精=弥一」をクリックしてください。読めますよ!
投稿: 無精=弥一 | 2005/01/21 15:19