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2005/01/18

青木の実

 今日は「青木の実」を表題に選んだ。「季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」の表を眺めていたら、何故か「青木の実」に目が止まった、ということしか理由はない。
 小生の郷里・富山にも雪が降っていたらしいが、日曜日には雨に変わり、積雪も十数センチにまで減ったという。
 雪の郷里。そうはいっても、我が家は富山市の市街地近くにあり、駅からも歩いて二十分も要しない。なのに、今も田圃は残っている。我が家の田圃も一昨年までは辛うじて残っていたが、とうとう稲作からは手を引き、田圃は一部を近所の方が畑に利用しているだけで、あとは荒れ放題だったりする。
 平野部の真ん中にあったりするので、積雪も、一昔前はともかく、今はせいぜい数十センチ、一メートルに達することは稀になっている。
 小生が大学生になり郷里を離れる頃までは、それでも雪は相当に降った。お正月というと、まず、間違いなく雪の風景で迎える。家の手伝いは何もしないボンクラな小生だったが、雪掻きだけは楽しかったというのか、雪の降り頻る日は、休日だったりすると、朝早く、食後、昼前、昼食後、昼下がり、夕方前、夕食後、夜半前と、とにかく意地みたいになって雪掻きをした。屋根の雪降ろしだけは、父の手伝いの形でなければさせてもらえなかったが。

 枝ぶりも見事な松に、椰子の木に、垣根に、庭の植物達に、庭や田圃や畑に、小さな築山に雪が容赦もなく降り積もる。ほんの数時間前に、シャカリキになって雪掻きしたのに、また、どっさりと積もっている!
 ガキだった小生は、剥きになってまたまた汗だくになりながら、竹竿を揮い、スコップを振り下ろし、竹箒などで叩いてみたり、時に毛糸の手袋を嵌めた手で掻き削ってみたりする。
 吐く息が白いのは当然だけれど、体に熱が篭るほどに、一層、白さを増す。時には体から湯気が立ち昇ったりする。長靴の中は、入り込んだ雪で泥濘(ぬかるみ)状態となり、気色悪いこと! 
 性懲りもなく降りつづける雪だけれど、雪が憎たらしいかというと、それでいて、雪の降っている状態も風景も、やはり好きなのである。そこが子供の子供たる所以なのだろう。雪合戦、雪だるま、カマクラ、雪灯篭、氷柱(つらら)落とし、そして雪掻き。あるいは、屋根から落ちた雪や、雪掻きして積みあがった雪の築山という巨大なベッドに体を横たえる、言葉に尽きせぬ快感。
 ふーわりした雪の敷布団は、不思議な浮遊感を与えてくれる。粒の大きな雪が降っている夜などにベッドに体を預け、限りなく漆黒の闇に近い、しかし、何処か紺碧の色合いの混じる宇宙へと、自分が浮かび上がっていくように感じられる。家の窓灯りも消され、田園も雪の色一色、そんな中、世界にあるのは、降る雪というより、ひたすらに舞い上がる、何処か切ない抽象的な感覚だけとなるのだ。
 さすがに未だその頃は、中原 中也の『在りし日の歌』の一節を口ずさむほどに詩人ではなかった:

 冷たい夜

 冬の夜に
 私の心が悲しんでゐる
 悲しんでゐる、わけもなく……
 心は錆びて、紫色をしてゐる。


 雪の日の楽しみというわけではなかったが、玄関を開けると、近くに青木の木があり、真っ赤な実が生っているのを目にする。あるいは、雪を被った濃い赤紫色も鮮やかな、その名もユキツバキの椿の花。雪が白ければ、それだけ深紅の度合いが増すというわけだったのだろうか。
 他にも、梅の木は花、すっかり裸木となった桜や栗や柿の木など。
 けれど、いつも驚かされたのは常緑の葉っぱたちだった。幹の樹皮でさえ、雪に濡れたりしたせいか、それとも老木のゆえなのか真っ黒になり、寒さに凍えて身を縮めているように思えるのに、雪掻きして積もった雪を払いのけてやると、常緑樹などの葉っぱたちは緑色をこれでもかと見せ付けてくれる。
 かといって、雪を払った誰彼にお礼を言うわけもなく、ただ、凛とワックスを塗ったような艶やかな葉の表面を光らせるのである。
 今から思えば、とんでもなく非礼なことをしていたのだから、お礼を言われるはずがない、むしろ、降り積もる雪を振り払うというのは、常緑樹にお叱りを受けるべき愚かな真似だったのである。
 なぜなら、常緑樹(の葉っぱ)たちは、ガキの小生が雪のベッドに横たわって幻想の世界に浸って楽しむように、雪という羽毛蒲団を被ることで、冬の寒風や更には寒さを凌いでいるのだから。それなのに、小生はわざわざダウンジャケットを引き剥がしていたというわけだったのだ。
 知らないこととはいえ、実に情ない。まあ、せいぜい、雪の重みに撓りすぎ折れたりしないよう、余分な雪をささっと払う程度に留めておけばよかったのだったのだが…、剥きなって雪掻きする小生にそんな知恵があるはずもない。また、誰一人、そんな忠告をしてくれる人もいなかったように思う。
 今更、取り返しが付かないことだ。せめて、「青木の実」を織り込んだ句を拾って、些少のお詫びとさせてもらおう。
 その前に、アオキの学名を見ておくと、学名は「Aucuba japonica」で 「Aucuba : アオキ属」そして、「japonica : 日本の」をそれぞれ意味する。また、「Aucuba は、日本名の「アオキバ」が語源」なのだとか。
 アオキは日本の原生種なのだろうか。
 ネット検索で、「アオキ」という名称の語源を調べていたら、「ヒバは昔アオキ(青木)といわれており、その大森林にちなんで青森という名称はつけられたという。」などという一文を見つけた(「「緑の雇用」総合ウェブサイト」にて)。アオキの語源は分からずじまいだが、ま、青森という名称の由縁が分かったことで、慰めとしておきたい(但し、青森という地名(名称)の由縁には他にも説があるかもしれない)。

 では、「青木の実」絡みの句の数々を少々。

「あそびたい人この指とまれ青木の実」(ショコラ)……、これは、「この指とまれ」が懐かしい。
「かぞへ日となりし日ざしや青木の実」(久保田万太郎)は、一体、どんな光景を詠んでいるのか。
「雪降りし日も幾度よ青木の実」(中村汀女)や「掃きつめし雪なだらかに青木の実」(佐久間法師)は、共に、「木に関する俳句 木と季語」から。
「長病のすぐれぬ日あり青木の実」(安富風生)は、「アオキ」の画像が豊富なサイト(ミズキ科アオキ属アオキ)で見つけた。花や実もいいが、葉っぱの光沢や形が見事だ。
「観音の道すじ寧(やす)し青木の実」(田島星景子)は、青木(の実)の絵が付されている頁で見つけた。

 週末は、このブログ日記の執筆と、先週末、相次いで読了した本の感想文書きに終始した(無論、居眠り、仮眠、惰眠などは別にして、だが)。
 書いた書評エッセイ(感想文)は、『アメリカ 過去と現在の間』(古矢 旬著、岩波新書)と、『前田夕暮の文学』(山田吉郎著、夢工房)である。
 今は、自宅で、久しぶりの出会い(但し、以前、二度ほど読んだのは、講談社現代新書版だったが)となる坂崎乙郎著『夜の画家たち 表現主義の芸術(完全版)』(平凡社ライブラリー)と、『柿本人麻呂』(橋本達雄編、笠間書院)とをボチボチ読んでいる。書店で本を買わなくなって久しい小生が、こうした本を読めるのは図書館の御蔭であり、嬉しい限りである。

 青木の実顔出す時の床しかり
 雪掻きし寒風耐える青木の実
 青木の実緑の葉々と雪の白
 青木の実冷たさに耐え花と咲く
 青木の実遠い空にも凛として

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