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2005/01/31

淑気と春隣と

 早いもので一月も今日で終わりである。一体、何をしていたのだろうと思い返す間もなく、今年に入っての最初の一ヶ月が過ぎ去ろうとしている。
 といって、今日になって慌てて何かやろうと思っても、何ができるものでもない。せいぜいが繰り言を愚痴っぽくなく呟いてみせるのみである。
 今日の表題は、「淑気(しゅくき)と春隣(はるどなり)」とを選んだ。どちらも、いい意味合いや雰囲気を持った言葉であり、個々に表題に掲げていいくらいの季語である。そう、どちらも、1月(新年)の季語なのである(なぜか、この表の事例には「淑気」が載っていないようだが…)。
 最初にそれぞれの意味を確認しておこう。

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2005/01/30

春着

 1月の季語に「春着(はるぎ)」がある。
「春着」、時には「春著」と表記することもあるようだ。
 前から気になっていたのだが、小生には縁遠い着物に関係しそうなので、表題としては勿論、話題としても触れる気にはなれなかった。
「着物」というと、和服であり和装である。「着物」という名称は、決して洋装の衣装は意味しない。ドレスでもジャケットでもスカートでもない。浴衣か袷(あわせ)かは別にして、とにかく古来よりの(といっても遡っても室町時代のようだけど)日本人に馴染みの衣装を意味するのである。
 ところで、「春着縫う」となると、「新年に新しく着せるために着物を縫うこと」であり、初冬の季語となるようである。
 尚、春着には、類題・傍題として、「正月小袖 春小袖 春襲 春衣装」があるという(「近代季語についての報告(二)秋季・新年編  文学研究科 国文学専攻   博士後期課程  橋本 直」より)。あるいは、「春箸 春衣 春服 初重ね 初衣裳」など。
 着物など、小生には、テレビでは時代劇で見るか、料亭や旅館の女将(おかみ)、芸者という連想くらいしか働かない。夏になると、この数年の現象なのか、街中でも花火などの際に浴衣姿の若い女性の姿を見かけるようになった。恐らくは着物業界の懸命の努力があるのだろう。
 もっと気安く気軽に着物に接してもらいたいという意図もあるとか。
 ところで、日本では近年、ブランド店の開店ラッシュである。その中のある有名ブランドは、日本の着物とも浅からぬ縁があるという。

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2005/01/29

雑炊と粥とカレーと

雑炊」は冬の季語だが、12月の頃合いに使われるようだ。その12月には、「風呂吹、雑炊、葱、根深汁、 冬菜、白菜、干菜、干菜汁、干菜湯、胡蘿蔔、蕪、蕪汁、納豆汁、粕汁、闇汁、のっぺい汁、寄鍋、鍋焼、 おでん、焼藷、湯豆腐、夜鷹蕎麦、蕎麦掻、蕎麦湯、葛湯、熱燗、玉子酒、生姜酒」と、なぜか食べ物や飲み物に関係する季語が多い。
 その理由については、今は探究しないが、調べ甲斐がありそうだ。
 さて、今日の表題に「雑炊」を選んだのは、昨日の表題に「10円カレー」を選んだので、その連想のようなものである。特にインドがカレー発祥の地とされているが、「インドでは、数十種類のスパイスをミックスさせた混合調味料「マサーラー」を使って作る汁もののおかずのことをカレーとよぶ」などと、昨日の日記でも転記させてもらった。
 インドのカレーは汁物のおかずということから、雑炊や粥を連想したというわけである。
 さて、雑炊と粥とはどう違うのか。ここでは料理方法を探究するつもりはないので、「ごはんに汁気(水分)を加えて煮たものが雑炊で、米から炊くのが粥です。」や、「お粥と雑炊は、似ているようですが、お粥は米から炊いて何も具の入っていないもの。雑炊は、二種類以上のかやくが入り、鍋物の後などはご飯を用います。」という説明でとりあえず満足しておこう。

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2005/01/28

10円カレー

 まるで脈絡もなく、今日の表題は「10円カレー」と決めた。
 というのも、季語のことをあれこれ調べていて感じるのは、いかに多くの小生には想像も付かない背景や歴史を担った言葉があるかということ。俳句(俳諧)というのは、芭蕉から始まるとか、つまりは芭蕉の世界の注釈だとか、いずれにしても、芭蕉の切り拓いた句境を出ていないとは、小生如きが生意気とは思うけれど、断言していいような気がする。
 けれど、そうはいっても、季語(季題)一つとっても、到底、渉猟し尽くせない、とんでもなく広い世界が伸び広がっていることも事実。今は廃れた風習・風俗、消え去った風景、名残はあるのだけど、その持っていた本来の意味が関係者でさえも分からない伝統的行事の数々。
 ただ、幸いにも季語になった事情が知れている季語もある。
 といっても、小生が気付いたのは、そんなに古いわけじゃない。しかも、一見すると、どう見ても、季語とは思えない、俳句とは縁がありそうには見えない季語。その典型が「10円カレー」ではなかろうか。
 但し、秋の季語なのだが。

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2005/01/27

懸想文(売)

 季語表を見ての季語随筆、今月もあと僅かとなった。全く触れることの出来なかった季語がたくさんある。気になるものはできるだけ採り上げてきたけれど、それでもまだ知りたい季語が随分と残っている。
 たとえば、「雪眼(ゆきめ)」だが、「積雪に反射する紫外線による眼の炎症」だという。まあ、なんとなく想像は付く。この言葉を糸口に何かエッセイの一つも綴れそう。一時期は誘われてスキーのために湯沢や水上宝台樹などへ遊びに行ったこともある。あるいは、既に軽めのエッセイ(「真冬の明け初めの小さな旅」など)に仕立てたことがある。スキーといえば、スキー靴のサイズが合わず、とうとう脚の親指の爪が剥がれる事態に…という思い出を書いたこともある。
 一面の銀世界。白銀。まるで天界よりも眩しいかのような光の海。炎症などは免れたものの、あの眩い感覚というのは、得も言えぬものがある。

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2005/01/26

(雪)しまき

【1月の季題(季語)一例】の表を眺めていて、分からない、馴染みのない言葉がたくさんある中で、とりわけ分からないのが、今日の表題に選んだ「しまき」だった。
「しまき」?! なんだ、これは。
 言葉そのものが分からないというのでは、全くお粗末だし、何にも書きようがないので、事典で調べたが載っていない(事典の名誉のため、事典の名前は秘しておく)。案の定、「島木(しまき)赤彦」が、引っ掛かってくる程度である。
 ネットで「しまき」のみをキーワードに検索を掛けてみると、これまた案の定というべきか、ネット検索の能力と小生の駄洒落能力が均衡しているというべきなのか、「だしまき」やら「こしまき」が「しまき」繋がりで検索の上位に居並ぶ。誠に遺憾な事態である。
 さすがに、小生がひた隠す秘密、「しまき」は実は、「ちまき」と何か関係があるのではと憶測したような事例には遭遇しなかった。
 次に「しまき 季語」でネット検索。すると、網には68件が掛かってくるが、「しまき」の意味を説明してくれるサイトはなかなか見つからない。 
 これは、まずい。もしかしたら、世間においては「しまき」など常識中の常識で、殊更今更敢えて説明するまでもないということなのかもしれない。

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2005/01/25

日脚伸ぶ

 昨日の夕方、車で麻布界隈を走っていた。そろそろ空がどっぷり暮れている…、はずが、確かに暮れなずんではいるけれど、何処か透明感もある。お客さんを乗せた時間は確か5時20分過ぎだったはず。だったら、とっくに宵闇に街が沈んでいてもいいはずなのに。
 信号待ちの時、気になって車中の時計を見たら、5時半頃。間違いない、小生が時間を勘違いしている訳じゃないのだ。ふと、「日が延びてきましたね。」などと、お客さんにというわけでもなく、呟いてしまった。
 まさに、冬の季語である「日脚伸ぶ」は、今ごろにこそ、使いたくなる言葉であり、表現なのではないか。
 日の出の時間を調べてみると(東京都)、年末に6時50分となり、それが51分に、そして17日まで50分だったものが、18日からは6時40分台に突入している。日の入りも、11月25日に夕方4時20分台となってからは、ずっと20分台だったのが、12月半ばから30分台となり、徐々に遅くなって、昨日24日は、とうとう5時の大台に乗ったのである。
 仕事柄、週に平均、三度は、日の入りの時刻に、あるいは日の出の時に、街中で、まあ、実際には車中で立ち会っている。けれど、昨夕、ほとんど不意を打たれたかのように、日の入りの遅くなったことに気付いた始末だった。
 それも、晴れてはいたけれど、雲が薄っすらと漂い流れていて、日中はそれでも青空だったが、夜になると、雲の存在が実感されてくる。というのも、月齢からしてそろそろ満月(今夜)になろうかという月が出ていることは、濃い目の綿菓子のような雲を透かしてなんとか窺い知れる状態だったのである。

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2005/01/24

侘助(わびすけ)

 今日の表題「侘助(わびすけ)」は、全くの好奇心から選んだものである。1月の季語例を眺めていて、生活習慣的に縁遠かったり、意味不明だったり、とにかく分からない言葉がやたらと多い。とりわけ、この「侘助(わびすけ)」は分からないものの最たるものなのである(ところで、「悴かむ」は早く、「悴む」に訂正してね)。
 季語より何より、まず、この言葉の意味を探ることが先決と、ネットで語義探索してみた。
 すると、「平成15年5月~平成16年4月 気象メモ (京都地方気象台)」の中に、懇切丁寧な説明が見つかった(「桜の開花予想・侘助・たんぽぽ」の項)。当該部分を参照させていただく:

大後美保著「季語辞典」によると、唐椿(とうつばき)の一変種が侘助だとあります。「唐椿は椿に似て、葉はやや狭長で、葉脈が顕著、そして花は重弁で赤い」「侘助の花は一重赤色の小輪で、花数は多くない」。なぜこの椿を「侘助」と呼ぶかについては二つの説があるといわれています。杉本秀太郎編「花ごよみ」によると、「豊臣秀吉が朝鮮に出兵したときに侘助という者が持ち帰った」というのが一説。京都竜安寺の方丈の中庭にある侘助椿の古樹がそれだといいます。また一説は「戦国時代の堺の町人、笠原宗全が好んだ椿で、堺市史には宗全はのちに侘助と称した」ことからといいます。
(転記終わり)

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2005/01/23

悴(かじか)む

 今日の季語・季題には「かじかむ」を選んだ。表題を選ぶに当たっては、1月の季語例を眺めつつ、キルケゴールではないが、あれかこれかと迷い悩んで、日々のことを思いめぐらす中で、これにしようと決める。
 が、1月の季語の中にある「悴かむ」は、正直、読めなくて、なんとなく「ほぞをかむ」なのかなー、などと適当に読み流し、敬遠してきたのである。
 けれど、さすがに、季語に「ほぞをかむ」は変である。鈍感な小生だって諺(ことわざ)めいた言葉が季語に、それも、どう見ても冬には関係しそうにない…、ありえなーい、と思う。
 で、調べてみたら、「悴かむ」は、「悴(かじ)かむ」と読むではないか。
 逆に、「ほぞをかむ」を漢字表記すると、「臍をかむ」であり、意味合いは、「及ばないことを悔いる。後悔する。」(「日本のことわざ」より)なのである。「臍(ほぞ)」とは、臍(ヘソ)のことで、臍が使われた諺には、「臍(ほぞ)を固める」がある。意味合いは、「心を決める。決心する。覚悟を決める。」(同上など参照)で、腹を固めるにニュアンスが近いようだ。

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2005/01/22

月冴ゆる

 昨日、「寒月」の表題で書き綴ったにも関わらず、肝心の「寒月」に触れられじまいに終わった。誠に寒心に耐えない。
 そこで、今日は、「冬の月」という表題にし、「寒月」や月を巡る句の数々や季題を巡ってあれこれ随想を楽しもうと思った。
 が、危なかった。「冬の月」というタイトルは、先月の二日に早々と使ってしまっている。
 かといって、他に月に関する季語・季題が見つからない。初日の出があるくらいだから、初月の出などがあってもよさそうだが、ない。考えてみたら、初日の出の神々しさ、荘厳さに比べると月の輝きは見劣りする……なんて言い草などはもってのほかで、大晦日が晴れていたら、その夜が新月だったりしなければ、冬の空高く月が照っている。いよいよ刻限も日替わり、月替わり、年替わりの時が迫っている。
 で、変わった。新年だと思っても、お月さんは、あーい変わらず、天頂付近でニコニコか、厳めしくかは分からないが、恐らくはどう映るかは観る人の気分次第なのだろうが、とにかく、悠然と(漫然と)照り映えている。
 どうにも、初月の出と、事々しくは呼べない。あまりにわざとらしい。
 それでは、元旦の夜に改めて…とも思うが、その頃にはお屠蘇がたっぷり、お腹はお餅でふっくらで、月光を愛でるというより、ゲップが出る…で、どうにも、締まりがない。
 風流を愛でるというのは、これでもなかなか難しいものである。改めて、季語を見出し季節感を磨き上げてきた先人の偉業を天のお月様のごとく仰いで尊敬するばかりである。
 さて、本題に戻ろう。小生の場合、余談も本題も変わり映えしないが、そこはそれ、あれはあれである。
 一応、表題は、冬の月の類語ということで、「月冴ゆる」を選んだ。但し、冬の季語だとは思うが、一月の季語なのかどうかは定かではない。

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2005/01/21

寒月

 東京(都心)はこの数日、晴れている。北海道や東北、北陸、関東でも山間の地は大雪の予報も出ている中、なんだか申し訳ないほど、穏やかな陽気だったりする。
 が、それも、夜ともなると、寒い! 夕方、用事があってちょっと外出してきたが、ジャケットは羽織っていったものの、ジッパーを締めないでいたので、セーターのお腹が一気に冷えてしまう。でも、面倒臭がりなので締めずに用事は済ませて帰る。部屋に入ったら慌てて電気ストーブのスイッチを捻った。
 晴れている夜、外に出ると、空に探すのは月。が、今日も仕事だった昨日も探す必要など、まるでなかった。ほぼ天頂近くに煌々と照っている。月齢からして満月にはあと数日といったところだが、明るさは満月に負けないほど。
[奇しくも小生には、ほぼ一年前のエッセイに「真冬の満月と霄壤の差と」がある。真冬の月は一入(ひとしお)の感興を呼び起こすのだね。(05/01/22 追記)]
 その月、あまりに位置が高いので、小生のようにバカみたいに空を見上げながら歩いたりせず、普通の視線だったら、逆に気付かないほどだったりする。
寒月」は一月の季語。一月の季語かどうかは分からないが、類語に「月氷る(つきこおる)」、「月冴ゆる(つきさゆる)」、「月凍つ(つきいつ)」や「冬の月」などがある。冬の季語だと思うが、1月の季語かどうかは分からない。
 今日の表題を選ぶに際し、はじめは、お医者さんとか医学とか、治療に関連する言葉を物色していた。

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2005/01/20

風花

 初金毘羅については、まだ語るべきことがあるが、また、来年(!)ということで、今日の表題は「風花」とする。
 この言葉、「ふうか」と読むのか「かざはな」と読むのか。
 手元の事典(NIPPONICA 2001)によると、「かざはな」であり、「雲の少ない晴天に舞う雪のこと。遠くの山岳方面が風雪となっているとき、その雪片が上空の風にのって、風下の晴れた山麓方面に飛んでくることがあり、群馬県などでよくみられる。」と説明されている。
 無論、選んだ以上は、1月の季語である。
 転記した説明にあるように群馬県などで見られる現象のようだが、だとしたら本当にこの風花の舞う現象に遭遇された方は、当地の方を除けば少ないということなのか。
 こうみえても(どう見えているんだろう?)小生は富山で生まれ育った。一応は雪国の端くれである。が、恥ずかしながら「風花」という現象を知らない。富山でも見ることがあるのだろうか。
 そもそも、何故に群馬県によく見られるというのだろう。
 あるサイト(群馬の方言ページ)を覗くと、風花は「はあて」と言い、「はあてが飛んできた」といったふうに使う。「群馬の西部で多い。ふっこし(吹越か?)も使われる」とか。
 上空から雪が降ってくるのではなく、降り積もっている雪が風に巻き上げられ、空中で舞う…。その激しい形なら、地吹雪ということになるのだろうか。あるいは、群馬県というと上州の空っ風が有名で風が強く吹く地なので、それが冬なれば、空が晴れていても、山のほうで積もった雪が強い風に吹き飛ばされ、麓のほうにまで雪の結晶のままに運ばれ、それが風花(かざはな)という現象になっているということなのだろうか。

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2005/01/19

初金毘羅(続)

 本日の表題を「初金毘羅」としながら、寄り道のし過ぎで、肝心の表題には触れられなかった。
 要は、対馬の話題に触れたかったのだけれど、1月の季語の中で、海に関係する言葉はないかと探したら、「初金毘羅」が目に付いたのだった。その意味で、対馬の話題に終始してしまったのは(それでも、語るべきことは未だ多いのだが)、それはそれで目論見通りなのである。
 しかし、季語随筆日記と銘打っている以上は、多少は俳句などに話題を絡めたい。
 そもそも、金毘羅というのは、「金刀比羅宮は、古くから海上安全の神として全国的な信仰を集め、海の玄関口であった丸亀や多度津から琴平に続く道は、こんぴら街道として栄えました。」とあるように、海に関連する言葉である。
 ただ、小生の郷里・富山では(尤も、小生の狭い知見に過ぎないのだが)、金毘羅さんというのは、あまり馴染みがなかった。せいぜい、香川県民謡である「金毘羅船々(こんぴらふねふね)」という歌を、テレビなどで見聞きしたことが折々にあった程度だ。

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初金毘羅

 表題の「初金比羅」というのは、1月の季語である。今日、これを選んだのは、ラジオで聞いた話が多少、耳に残っているからである。
 ラジオで伺うことが出来た話とは、対馬のこと、大きくは日本文化の源流に関わる話だった。

 昨夜というか、今日の未明というか、営業時間も残すところ二時間余りとなっていた。お客さんにもめぐり合えず、ぼんやりラジオを聞いてたら、対馬を巡る話(インタビュー形式)をしている。例によって聞きかじりだが、時間帯からして、どうやらNHKラジオ深夜便の「こころの時代」という番組らしい。
 試みにネットで番組の案内を見ると、テーマ(題名)は、「「くにざかいの島 対馬に生きて」出演:永留久恵(前対馬歴史民俗史料館研究員)」であり、内容は、「朝鮮半島との交流の要地である対馬に生まれ、その歴史風土を研究してきた永留さん。「対馬のことは永留さんに聞け」と、司馬遼太郎さん、上田正昭さん、金達寿さんらにも高く評価されてきた優れた郷土史家である。小中学校の教員、校長を歴任しながら研究を深めてきた永留さんが、これまでの歩みと成果、"ふるさと対馬"への思いを語る。」とのこと。
 小生は、ラジオではニュースと音楽番組しか基本的には聞かない。インタビューを含め、長めの話は聞かないことにしている。どうせ、お客さんが乗ってこられたらスイッチをオフにするか、ボリュームを下げるわけで、大概、話を中途半端にしか聞けない…、だったら、最初から聞かないほうがマシだ、というわけである。
 が、対馬のことは興味がある。歴史や考古学を巡る話のようでもある、上田正昭氏や司馬遼太郎氏らの名前が出てくる…となると、聞かないわけにはいかない。案内の中にある司馬遼太郎さん、上田正昭さん、金達寿さんらの諸著は、全てとはいかないが、それぞれに読み親しんできた。
 ただ、インタビューされている永留久恵氏のことは、全く初耳である。

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2005/01/18

青木の実

 今日は「青木の実」を表題に選んだ。「季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」の表を眺めていたら、何故か「青木の実」に目が止まった、ということしか理由はない。
 小生の郷里・富山にも雪が降っていたらしいが、日曜日には雨に変わり、積雪も十数センチにまで減ったという。
 雪の郷里。そうはいっても、我が家は富山市の市街地近くにあり、駅からも歩いて二十分も要しない。なのに、今も田圃は残っている。我が家の田圃も一昨年までは辛うじて残っていたが、とうとう稲作からは手を引き、田圃は一部を近所の方が畑に利用しているだけで、あとは荒れ放題だったりする。
 平野部の真ん中にあったりするので、積雪も、一昔前はともかく、今はせいぜい数十センチ、一メートルに達することは稀になっている。
 小生が大学生になり郷里を離れる頃までは、それでも雪は相当に降った。お正月というと、まず、間違いなく雪の風景で迎える。家の手伝いは何もしないボンクラな小生だったが、雪掻きだけは楽しかったというのか、雪の降り頻る日は、休日だったりすると、朝早く、食後、昼前、昼食後、昼下がり、夕方前、夕食後、夜半前と、とにかく意地みたいになって雪掻きをした。屋根の雪降ろしだけは、父の手伝いの形でなければさせてもらえなかったが。

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2005/01/17

雪女郎

「雪女郎」は、1月の季語だという。雪に関連する言葉(女性? 存在? 噂? 伝説? 昔話?)なのだから、冬の季語であってもおかしくはないけれど、どうして、季語として使われるのだろう。
 試しに手元の事典(NIPPONICA 2001)で「雪女郎」を引いても出てこない。が、「雪女」だと登場し、「雪の夜に現れるという女性姿の妖怪。雪女郎、雪おんば、雪降り婆(ばば)などともいう」と、ある。以下、縷縷、説明されているが、事典では季語としての説明は全くされていない。
 別のサイトを覗くと、雪女郎(ゆきじょろう)の別名として「雪女 雪鬼 雪坊主」などとある。例句に、「雪女郎消えて畦木のあるばかり」(窪田竹舟)、「雪女入ってゆきし雪の堂」(前山久子)などが挙げられている。
 どうやら扱いは、雪女郎は雪女を含め、背景に伝説や謂れがいろいろあり、それらが一括して雪女郎の項に収められているらしい。
 雪女郎というのは、少なくとも男には床しいというか、怖いもの見たさというのか、気になる存在(?)であるようで、ネットでも句は少なからず見つかる。「みちのくの雪深ければ雪女郎」(山口青邨)など、この句の深い味わいは小生には分からず、浅薄な理解に止まっているのかもしれないが、とにかく、男の場合は雪女郎とか雪女というと、日も暮れ落ちてしまった山間(やまあい)の雪深い道なき道を降り頻る雪の中、歩くときなど、ふと、雪女が、なだらかというか、女の背中から腰にかけてのラインのように緩やかな曲線を描く降り積もった斜面の向こう側に、ふっと現れるのではという、妙な幻想を抱く。

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2005/01/16

薮入り

 今日は「薮入り」、今朝、車中でラジオを聞いていたら、そんな話題に接した。
「薮入り」と言う言葉は、知らないわけじゃない。が、その言葉の意味、風習にそんなに馴染みがあるわけではない。むしろ、ほとんど知らないと言ったほうがいい。
 せっかくなので、「薮入り」だけをキーワードにネット検索してみた。僅か、909件をヒット。
 とりあえず、言葉の意味を説明しているサイトを物色する。筆頭に現れたサイトには、「お正月とお盆の16日前後に奉公人が主家から休暇をもらい、実家に帰り、休息する日。 本来は、嫁や婿が実家に帰る日を言った。」とある(「
伝次郎のカレンダー」より)。
 上位には、「薮入り」という落語を紹介するサイトが居並ぶ。そういえば、中学か高校生の頃、テレビでこの落語を聞いた(見た)記憶が微かにある。
 先代三遊亭金馬の得意ネタだというが、誰の高座だったのか、定かではない。
 小生、少なくともそんな若い頃、落語を好んでテレビで視聴したわけではない。確か、父の好みだったと思う。教育テレビだったかで、下手すると未だ白黒の頃だったはずだが、漫画や歌番組に切り替えたい小生の募る欲求不満を他所に、NHKの「新日本紀行」や落語などを父は見る。
 小生は大人しいので、父に文句も言えず、不承不承ながらも、見る。とにかく、まだ、テレビが珍しいし、視聴できるのが嬉しい時代でもあった。漫画の本くらいはすぐ傍にあったはずだが、いつしか見入って(聴き入って)しまっている自分がいたものだ。

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2005/01/15

氷柱

 氷柱を表題に選んだ。が、「氷柱」と書いただけでは、「ひょうちゅう」なのか「つらら」なのか、分からない。
 実は、今日の表題を選ぶため、1月の季語例をぼんやり眺めていたら、「雪女郎、雪折、雪晴、 氷、氷柱、氷柱、採氷…」とあるではないか。あれ、氷柱が二つ、並んでいる。あれれ、である。
 冬の季語を他のサイトで当たってみると、「花氷(はなごおり)」という季語があるので、その間違いかとも思ったが、「花氷」は、「中に花を入れて凍らせた氷や氷の彫物」であり、夏の季語なのである。類義語、関連する語ではあるが、冬の季語例には入らない。
 せっかくなので、「氷彫刻の花氷を取材」という頁を覗いてみるのもいいかもしれない。
 関連する…かどうかは分からないが、水中花という言葉もある。小生が思い浮かぶのは、松坂慶子の「愛の水中花」なのだが(今、知ったのだが、この方、東京は大田区生まれなのだ。ってことは、大田区在住の小生、なんとなく嬉しくなった)。
 と、ここまで考えて、ようやく、氷柱には上記のように二通りの読み方があり、読み方が違うだけではなく、意味あるいは表現されるモノも違うのだと気付いた次第だった(但し、1月の季語例で示されている、「氷柱、氷柱」のそれぞ
れを「つらら」や「ひょうちゅう」と読むのかどうかは分からない。誤植などの可能性もある)。

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2005/01/14

冬薔薇(ふゆさうび)

 俳句の世界で、季語として「冬薔薇(ふゆさうび・ふゆばら)」が句に織り込まれる場合は、冬、それも1月の季語として使われているようである。あるサイト(Garden Life)の説明を転記すると、「バラ科の低木。観賞用に栽培される。冬薔薇とは特定の品種を指すものではなく、冬の季語として使われる。四季咲きの薔薇が、冬になっても残っているものをい」うのだとか。
 さらに、「霜に痛み、花も小さく、色も褪せながら可憐に咲く姿には、強く詩情を誘うものがある」とあるが、例えば、別のサイト([植物写真家 鈴木庸夫の自然を楽しむ]の「フィールド日記」で冬になっても咲き残っている薔薇を見てみると、いかにも、「冬枯れの寒々としたなかで咲いているバラは特に印象的」なのである。
 薔薇については、「幻の青いバラと女心(花三題)」や「薔薇とバラの間に」(「バラ」の語源探索)など、これまでにも若干のことは書いてきた。
 あるいは、「薔薇の時、あるいは愛の寝覚め」と題した妄想めいた掌編なども書いたことがある。バラは、豪奢さの漂う、一歩間違えると華美というより過美となりかねない危うい、ギリギリの瀬戸際で優雅さと気品を保っている花である。薔薇という名前もだが、棘があることが尚、薔薇を神秘的な、近寄り難い、それでいて気になってならない花にさせているようだ。

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2005/01/13

冴ゆる


s-DSC01288 表題を選ぶため、1月の季語リストを眺める。風物にも疎い小生には、字面を眺めてみても、何を意味するのか分からない言葉がたくさん並んでいる。 
 というより、多少は知っている言葉である、仮に聞いたことがある、どこかで目にしたことのある言葉であっても、それはそんな風習があった、遠い昔はそういえばそんなこともあった、テレビで見聞きした、ラジオで話だけは聞いたことがある、雑誌やその手の本で関連する記事を読んだりして全く知らないというわけではない、といった言葉が多い。
 だから、多くの言葉については実感や実体験が伴わないわけで、季語を学び季語を織り込んだ句を作ろうと思っても、下手すると、今もそうした風習が残っている方、あるいは記憶に鮮明にそうした風景を刻み込んでいるという方からすると、変だぞ、無理やりだぞ、作り事めいてるな、と感じられる怖れがある。
s-DSC01313
 だったら、作るな、ただ、季語の勉強だけしていれば、となるが、それでは、せっかく今まで残っている季語、つまりは思い出や記憶・記録の中の風物が廃れていく。
 先人の句業を味わう、鑑賞するだけでも、それなりの学びにはなるが、やはり、小生としては、なんとしても自分なりに句作を試みたいのである。そうすることで、心に幾分なりとも古(いにしえ)の風景や、そうした風景の中にいた昔の人々の心情に触れられる、ほんの少しは近づける…ような気がするのである。

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2005/01/12

冬籠(ふゆごもり)

s-DSC01362

 俳句の世界での季節の分類の仕方については、以前にも紹介した。歳時記上では、「立冬(11月7日)から立春の前日(2月3日)まで」が冬であり、その間においては、冬の季語を使うことができる。
「小寒(1月5日)から立春の前日(2月3日)まで」が晩冬という分類からすると、先週から既に晩冬に入っていることになる。体感的には、いよいよ冬真っ盛りである。晩冬というより、募る寒さに怯え竦んで、冬籠(ふゆごもり)したくなる。
 が、この「冬籠(ふゆごもり)」は、冬の季語ではあるが、「大雪(12月7日)から小寒の前日(1月4日)まで」を示す「仲冬」の扱いがされている。どちらかというと、12月の季語なのである。
 ある意味、凩(こがらし)が吹き荒れ、冬を予感し、年の瀬が押し詰まってきた頃に、冬籠(ふゆごもり)したくなるのは、分からなくもないが、かといって何かと気忙しい年末では、篭っていたくても、事情が許さない。
 この凩(=木枯らし?)がまた、厄介で、初冬の扱いだったりするから、さらに厄介なのだが。
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 いよいよ、大晦日となり正月を迎え、仕事始めと相成ると、お屠蘇気分など、不景気の風に呆気なく吹き飛ばされ、篭りたくても、冗談じゃないほどに世の流れに引き摺られてしまう。
 炬燵やエアコン、床暖房、電気ストーブに焦がれつつも、少しでもよい兆しはないものかと東京の町を走り回る。
 夜中など街外れの公園に車を止め、小憩だとばかりに一息入れたりするが、昨夜など東京とは思えないほどに星の数にも恵まれていたのだけれど、寒さには勝てない。暖(だん)恋しと、早々に車の中に戻ってしまう。冬籠(ふゆごもり)がしたくなる季節の到来が、いよいよ実際に冬籠(ふゆごもり)となってしまっている。
 車を運転している間は、コートを羽織っているわけもなく、車外での休憩は論外なのである。

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2005/01/11

初化粧

s-DSC01280 初化粧だなんて、これまた小生には一番、似つかわしくないような季語(季題)を表題に選んでしまった。
 これも、日曜日に我がサンバチーム・リベルダージの新年会に行ってきた、そして、舞台用に化粧し、タンガなど、サンバ用の衣装に身を包んで、華麗に変身するダンサーらの姿に圧倒されてきたからだろうか。
 衣装に身を包んで…というのは、サンバの場合には相応しくないのかもしれない。ダンサーらにとっては、時に気合を入れるような、よし、舞台で踊り捲る、見ている観客を踊りの輪に引き込んでやるという、ある意味での戦闘服のようなものかもしれないのだし。
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 華麗であり美しくもあり優雅でもあるけれど、同時に心意気や気風や狂騒を演出し楽しむ装置でもある衣装。
 化粧についても、もしかしたら両方の意味合いがあるのかもしれない。自らをこんな女像を意識し演出する、自作自演の装置と、同時にあるいは化粧の下の意識を覆い隠す仮面、あるいはマジックミラーとしての化粧。
 それにしても、「初化粧 季語」というキーワードでネット検索すると、ヒットするのは僅か13件だった。「初化粧」という言葉はあまり季語として好まれていないということなのか。

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2005/01/10

新年会

s-DSC01279 昨日、日曜日は我がサンバチーム・リベルダージの新年会だった。会場は、アサヒスーパードライホール(4FスクエアA)だった。
 あの突拍子もない目印が屋上にあるビルだ! ちなみに、あの目印、う○こだとか、きん斗雲(きんとうん)だとか称されたりするが、あれは、「炎のオブジェ」で、躍進するアサヒビールの心の象徴なのだとか。また、「スーパードライホール」は、フランスの著名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏によるもの。
 ちなみに、新年会は、まさに文字通り新年(一月)の季語(季題)のようだ。
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 人付き合いの極端に悪い小生、これが唯一の新年会、しかも、小生自身そのメンバーであるにも関わらず、活動は一切していない。勝手に広報担当ならぬ後方担当を自称しているだけ。折々のサンバパレードをギャラリーとして追い掛けて、レポートなどを作成、撮った写真と共にホームページに載せてきた。
 自分も参加したいが、仕事は別にしてプライベートは書くことと読むことに専念していることと、生来の怠け癖があって、楽器の練習など、つらいことを避けがちになってしまうのである。実に情ないメンバーで、忸怩たる思いがある。
 それでも、素晴らしい演奏や踊り、素敵というより圧倒される人間性に触れられて、チームの末端のそのまた端っこでささやかに応援しているわけである。
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2005/01/09

寒稽古

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 寒稽古などという凡そ小生には似つかわしくない表題を掲げた。
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 体育会系ではなく、その前にクラブというものに入ったことがあるのも、高校まででは、ほんの半年ほどあるばかりである。大学に入ってからは、友人の縁もあり、ひょんなことから実存主義研究会に入った。その頃はまだサルトルやカミユ、ジュネなども関心は持たれていたし、そこそこには読まれていたのである。
 マルクス主義系統の研究会や、集団も活動していたし、友人にはかなり過激なセクトに加わる奴もいたけれど、小生は、マルクスは凄いと思っても、主義となると、敬遠気味になってしまう。
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 そこには、浅間山荘事件や総括(「あさま山荘事件(連合赤軍)」などを参照)などが影響しているのだと思う。毎日のように総括の悲惨な様がテレビなどで放映されて、マルクス主義とか学生運動に対する嫌悪感とまではいかないが、用心してしまう気味が脳裏に刷り込まれたのだと、後にして思う。
 或いは、国により左翼の活動への嫌悪感を植え付けるため、マスコミを通じて学生運動の負の部分をこれでもかと世間や特に若い人たちに洗脳活動されてしまったのだろうか。内ゲバ、総括、疑心暗鬼…。

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[冒頭に掲げたサムネイル画像は、小生のホームページで「55555」というキリ番をゲットされた、いくろうさんが取ったよと画像を提供してくれたもの。綺麗な番号ですね。小生が小学校か中学生の頃に、こんな5並びの通信簿を貰ったら、小躍りして喜んだでしょうが、夢のまた夢でした…。いくろうさん、申告、ありがとう! (写真、拡大して見てね)]

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2005/01/08

明珍火箸

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 予め断っておくが、(明珍)火箸は1月の季語ではないようである。
 それでは、12月の季語なのか。
 残念ながら、そこにも「炭、消炭、炭団、 炭火、埋火、 炭斗、炭竈、炭焼、炭俵、炭売、焚火、榾、炉、囲炉裏、暖房、温突、ストーヴ、スチーム、炬燵、置炬燵、助炭、火鉢、火桶、手焙、行火、懐炉、温石、温婆」と、それらしき風物はあるのだが、火箸は見つからない。
 まあ、火鉢や火桶などに関連するか、一体のものとして思い浮かべてもいいのかもしれない(断言はできない。それにしても「温婆」って何だろう)。
 もしかしたら冬の季語でもないのに、何故、季語随筆日記の表題として掲げたかというと、昨夜、車中でラジオ放送を漫然と聴いていたら、「明珍火箸」のことが、「音の風景」という番組(NHK)で採り上げられていて、その火箸の音が涼やかで透明感があって、素晴らしかったからである。

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2005/01/07

お屠蘇と雑煮

 お屠蘇(とそ)も雑煮も、日本の大概の人には馴染みのもので、改めて説明するまでもないだろう。
 無論、それぞれに一月の季語である。
 たとえば、「お屠蘇、雑煮、七草粥の由来」というサイトを覗いてみる。ここには、お屠蘇や雑煮について、簡潔に説明してある(「七草粥」については、後日、改めて採り上げたいので、今回は触れない)。
 案の定だが、「お屠蘇のルーツは中国にアリ。唐時代の医者が、流行風邪予防のために作ったのが、おいしいと 流行になったのが最初らしい。」と冒頭にある。日本の風習の多くは中国にルーツがあるが、お屠蘇もその例外ではないわけだ。
 が、「それがなぜ、お正月の飲みものになったのか。」
 それは、「実は、この医者が住んでいた家の名前が「屠蘇庵」といったそう。屠蘇とは、「鬼気を屠絶し人魂を蘇生させる」ということで、ここから、1年中の邪気を払い、延命長寿を願うために飲む酒となったらしい。」というのである。本当だろうか。
 小生の棲息する邸宅は、無精庵というのだが、小生が何か珍発明でもしたら、それは無精と呼ばれるようになるのだろうか。が、小生に何が発明できるだろう。無精を決め込む根性を養うノウハウ。うーむ。どうも、商売になりそうにないし、評判になるとも思えない。

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2005/01/06

鳥総松(とぶさまつ)

 本日の季語随筆日記の表題は、「鳥総松(とぶさまつ)」 である。この言葉自体、馴染みが薄いかもしれないが、まずは、この言葉を表題に選んだ理由を示しておきたい。
 それは、今から紹介する画人の運命に関係する。彼は江戸時代の絵師なのだが、何故か島流しの刑に処せられたのである。しかも12年も。それでも、生きて帰る僥倖に恵まれた。
 ところで、我が季語随筆日記は、季語随筆と銘打っている。一月の季語に関係し、且つ、島流しに多少でも関係する適当な季語はないか、物色してみた。
 島流しが季語・季題にあるとは、さすがの小生も思わなかったが。
 が、つらつら眺めていると、「鳥総松」という季語があるではないか。確か以前、この言葉に関連する話題を採り上げたことがある。調べたら、あった!
 小生には、「前田普羅のこと」という我が郷里・富山に関係のある俳人を採り上げたエッセイがある。この前田普羅の絶句に「帰りなん故郷を目指す鳥総松」がある(余談だが、普羅が亡くなった年に小生が生まれている。普羅が富山で居住した地は小生の生地に近い。尚、「帰りなん故郷を指す鳥総松」と表記されているサイトもある。字数の上でも、また、鳥総松の持つ性格からしても、「目指す」よりは「指す」のほうを表現として選びたい)。
 別に前田普羅が島流しで富山の地に流れたというわけではないが、何処か遠い地に長くあって、ようやく故地に帰る心境が詠い込まれているということ、且つ、「鳥総松」が一月の季語だということで、本日の季語随筆の表題に選んだわけである。

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2005/01/05

寝正月

s-DSC01244 寝正月を気取ってみても、年の初めから親戚筋や取り引き先への挨拶回り、あるいは年始、付き合いでの麻雀やゴルフ、花札、子供との付き合い…などと、思い通りにはいかない。
 主婦ならば正月くらいは黙って喰っちゃ寝を決め込みたいだろうに、旦那様以上にあれこれと家事に忙しい。せめて料理を作る手間だけは省こうと、年末などに予め作っておく、そう、御節料理という知恵があるわけだけれど、なんのことはない、正月の忙しさの一部を年末にギューと押し込んだだけであって、つまりは年の瀬をせわしいものにしているに過ぎない。
 それでも、エアーポケットに嵌ったような、思いがけないような静かな瞬間があったりはする。
 喰い飽きたし、炬燵などに潜り込んでの惰眠も貪り尽くした。テレビも年末の収録済みのもの、撮り溜めしてあったものばかりで、ああ、こうして正月に賑やかに出てくる芸人の寿命の大半は、尽きているんだな、このうち、何人が春先までテレビに出てくるだろうか、などと思うのも、バカらしく、ふと、窓の外など眺めると、天気予報に反して晴れて青空などが垣間見えて、だからといって外に出かけるのも面倒だし、ああ、でも、こうして取り留めのない思いを反芻しているのも、正月ならではだなと思ってもみたり。

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2005/01/04

蓬莱(ほうらい)と徐福

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 年初の季語随筆(日記)の表題を何にするか。
「あけましておめでとう…云々」にちなむような言葉がいいような気がするけれど、格別、おめでたいわけでもないし、かといって極端に不幸というわけでもない…などと迷いながら、例によって、「一月の季語」をつらつら眺めてみた。
 十二月も季語(季題)となる言葉は多かったが、一月は更に多いような気がする。小生は帰省していたので、田舎で食べてきた「沢庵」などにも触れてみたい。めったに見ることのない「海老」もいい。「雪合戦」や「竹馬」も懐かしくて採り上げたい(でも、これらは掌編で触れるか)。
 眺めていくと、「雪女郎」なんて言葉が見つかった。どうしてこんな言葉が一月の季語なのか、興味津々。この言葉には今月中に必ず触れるはずである(主に好奇心から)。
 そんな中、何故か「蓬莱(ほうらい)」という言葉が目に飛び込んできた。先方から合図してきたとあっては、断るわけにもいかず、今日の表題は「蓬莱」に決定。
[冒頭の写真は、そろそろ太陽の沈みかけた富山の空。もう少しで小生、初めての夕焼けの画像が撮れるはずだったが、生憎、この直後、小生、車の中で居眠りしてしまい、未遂に終わった。悔しい!情ない!]

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