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2005/01/05

寝正月

s-DSC01244 寝正月を気取ってみても、年の初めから親戚筋や取り引き先への挨拶回り、あるいは年始、付き合いでの麻雀やゴルフ、花札、子供との付き合い…などと、思い通りにはいかない。
 主婦ならば正月くらいは黙って喰っちゃ寝を決め込みたいだろうに、旦那様以上にあれこれと家事に忙しい。せめて料理を作る手間だけは省こうと、年末などに予め作っておく、そう、御節料理という知恵があるわけだけれど、なんのことはない、正月の忙しさの一部を年末にギューと押し込んだだけであって、つまりは年の瀬をせわしいものにしているに過ぎない。
 それでも、エアーポケットに嵌ったような、思いがけないような静かな瞬間があったりはする。
 喰い飽きたし、炬燵などに潜り込んでの惰眠も貪り尽くした。テレビも年末の収録済みのもの、撮り溜めしてあったものばかりで、ああ、こうして正月に賑やかに出てくる芸人の寿命の大半は、尽きているんだな、このうち、何人が春先までテレビに出てくるだろうか、などと思うのも、バカらしく、ふと、窓の外など眺めると、天気予報に反して晴れて青空などが垣間見えて、だからといって外に出かけるのも面倒だし、ああ、でも、こうして取り留めのない思いを反芻しているのも、正月ならではだなと思ってもみたり。

 で、その寝正月だけれど、レッキとした新年の季語なのである。よほど、古来より寝正月する人が多かったのか、それとも、寝正月に憧れつつも、実際には裏腹になんだか慌しいな、帰省のラッシュという往復ビンタを喰らったことだけしか覚えてないぞ、普段は会わない、会わないで済ませられた親戚との付き合いで神経が磨り減ったぞ、あるいは日頃とは違う賑やかな団欒を過ごして楽しかったけれど、疲れもした、そんな人たちが多かったといことか。
 小生自身はというと、寝正月といえば寝正月だったけれど、事情があって田舎では家事に勤しむことになり、炬燵のある茶の間と台所とを日に何十往復する日々だった。家事をするはずのお袋が体調が今一つで、普段は父が家事をしている。洗濯に掃除に庭仕事に、買い物に、ゴミ出しに、介護に、その上、自分の趣味と実益(?)を兼ねた篆刻(てんこく)などをして忙しさに輪を掛けている。
 正月など、小生が帰省した折くらいは、父の労苦の万分の一、今までお袋が果してきた仕事の億分の一くらいはしてきたというわけだ。
 やってみて分かるのは、とにかく世話する方は慌しいの一語に尽きるということ。食事の準備が、普段慣れない台所ということもあり、何処に、どの棚に何があるか自体が分からないので、能率が悪い。一々、スープ用の皿は何処、油は何処、来客用の湯呑み茶碗はどれ、調味料はあるの、何処に、ゴミはどうやって分別しているの、ゴミ出し用の袋は、あるの、何処…。
 そういったものは、覚え、慣れれば、当たり前に動けるようになる。
 が、さて、ご飯も焚け、総菜やオカズの用意もできて、さて食卓に並べても、ポン酢がない、沢庵がないと寂しい、味噌汁のお代わり、梅干でお茶漬けしたいから梅干持ってきて、その度に、食事を中断して台所と往復する。
 坐りっきりということはないのだ。
 そもそも、ガキの頃は勿論だが、一昨年までは、親戚との付き合いや初詣などを除けば、小生は寝正月だった。喰っちゃ寝の生活が当たり前だった。寝正月の一番の現れは、朝寝である。
 朝寝というより、前夜の就寝自体が遅い。夏だったら、そろそろ明るみ始める頃合いにようやく、冬だと、さすがにまだ暗いうちだが、とにかく4時、5時に寝るのが当たり前だった。夜中過ぎから読書三昧に耽るのが楽しみだし、それしか田舎ではやることがなかった。しなかった。
 で、当然ながら朝、起きるのは、早くて十一時、昼前に起きれば御の字だったのである。
 が、父母の代わりに家事を遣るとなると、そうはいかない。さすがにのんべんだらりの小生も、遅くとも二時には寝入る。父母等が寝所に引き篭もるのは十一時前後なので、それから二時までが読書や執筆などの時間。
 で、朝は、特に目覚まし時計などは使わないのだが、九時過ぎに起きる。
 あまりに遅いと父が朝食の準備を始めるし、お袋らを待たせることになるので、呑気な小生も、寝床で惰眠を貪り、あるいは読書して、ゆっくり起きるというわけにはいかないのである。
 遅い朝食を済ませ箱根駅伝などを見るような見ないようなうちに、神社の世話で外出していた父が戻ってくる。で、遅い昼食の準備と片付け。これらが一通り終わると、午後、ようやく寝正月タイムが遣ってくる。
 お袋は、坐ったままでいると疲れるので、寝所に行き、ベッドで休むのである。寝るのかもしれないし、テレビを見て過ごすのかもしれないが、とにかく体を横たえて、体を休ませる、父も大概、仮眠を取る、だから小生も台所の片付けなどを終えると、自由になる、というわけである。
 では、夕食はどうか、というと、そこは正月なのだし、たまの小生の帰省ということで、姉夫妻など、親戚の者が来り、お邪魔しに行ったりで過ぎていく。さすがに自宅では、迎えるための特別な料理はできないので、寿司やお刺身、オードブルなどの出前を取って、食卓を賑わせる。
 姉や姪らが家事を遣ってくれるので、小生は思い出したように、オロオロするばかりである。親戚が帰った後は、父母と小生の三人に戻り、お茶等の世話をして、火の元などを確認し、居間の灯りも消すという役目が残っているだけとなる。
 昨日、今日と、写真は富山は岩瀬浜で撮ったものだが、これも、午後の三時前後の両親が仮眠を取っている間、姉に借りた車で浜辺へドライブしに行っての撮影なのである。
 今日の写真も、昨日のと同様、二日の日に撮ったもの。例年ならお袋と初詣に出かけるのだが、体の不都合もあり、昨年から長年の習慣も取りやめてしまった。せっかく、二年連続して御神籤が大吉を引いたというのに、残念である。なんとなく一人で参拝に行く気もしない。御利益(ごりやく)があるとも思えないし。バチ当たりなことである。

 ネット検索していて、どこかのサイトで読み齧ったのだが、寝正月には、文字通りの意味もあるが、お正月に風邪などで寝込むことも、縁起を担ぐ意味もあるのだろうか、寝正月と称することもあるとか(但し、典拠を見つけていない)。
 そういえば、姉の嫁ぎ先のお母さんがずっと入院中なのだが、年末近くに肺炎になり、ちょっとした騒ぎになったりしたが、幸い、年末には熱も下がって峠を越したとか。でも、入院中であることに変わりはなく、こうした場合に寝正月と称するのは、風邪程度なら縁起を担ぐ意味も含めていいだろうけれど、退院する見込みがない、体調が戻る見通しがないということになると、寝正月だなんて、洒落にもならない。
 さて、ネット上で寝正月という語を織り込んだ句を探したが、あまり見つからない。風情を感じさせる言葉ではないからなのだろうか。どちらかというと、ユーモラス系なのか。でも、なんとなく哀れさの感を催すような使い方のされた句が目立つ。
 例えば、「餅網に焦げ跡残し寝正月」などは、「独身か単身赴任かいずれにしても男独りの寝正月はつらいものですな」などと評釈してあるが(「右脳俳句パソコン句会 1月例会(3)」より)、小生など、東京では全くの一人暮らしで、自宅では間違い電話でも架かってこない限りは会話は一切ない生活を送っている。
 実を言うと、小生、年中、寝正月なのである。もっと言うと、その惨状を語ろうかと思ったのだが、さすがに恥ずかしくもあり、惨めでもあり、あるいは人によっては垂涎の的となって妬まれる怖れもあり、いろいろ憚って、話の矛先を変えたのだった。
 先にも引いたサイトでは「寝正月」という言葉や風景を織り込んだ句が幾つか紹介されている。やはり、ほのぼのとはしているが、どこか哀れみの感の漂う句が多いようだ。
 引用していいのかどうか、分からないので、是非、覗いてみて欲しい。
 別のサイトでも、寝正月の句が見つかった。勝手に引用しちゃう。「真っさらで無くてもいいや寝正月」(榊原風泊)や、「ごろりんこごろんと極め寝正月」(北星墨花)などである。評釈(清水哲男氏)も付せられているので、興味ある方は、読むと楽しいかも。
美味しい御蕎麦で年越しを」という日記と思しき頁には、「大晦日一足早く寝正月」なんていう、誰もが夢見るような寝正月(寝大晦日)の句がさりげなく載っていたりして。これは、哀感よりも、極楽トンボ的な雰囲気が濃厚なようだ。
一 茶 発 句 全 集  長野郷土史研究会 小林一郎編」では、一茶の句なのだろうが、幾つか寝正月の句が見つかった。

霞む日も寝正月かよ山の家 文化句帖 化2
正月を寝てしまひけり山の家 文化句帖 化3
正月を寝て見る梅でありしよな 文化句帖 化4
正月やごろりと寝たるとつとき着 文政句帖 政5

 ネットでは、「寝正月眼覚めてみるともう4月」という句(?)が見つかった。寝正月というのは、或る意味、その人の人生の縮図めいた要素もあるような気がする。寝正月を決め込んでいても、人との関わりのある人は、寝正月を望みつつもあれこれ忙しく甲斐甲斐しく立ち働くことになる、あるいは俗塵を嫌う人は、海外や別荘などで家族水入らずの時を過ごす、ぼーんやり寝正月を決め込める人は、気がついたら、若かりし日は遠く過ぎ去り、体は動かなくなり、その頃になって、自由が利いた頃にはあれこれやっておけばよかったな…などと悔恨というか繰り言などを呟く老体を持て余している…羽目になるわけである。まるで小生の近い将来のようだ。
 浦島太郎の物語は、今時は、もう若い人たちの間では忘れ去られた物語なのだろうか。寝正月三昧を楽しめる人というのは、実は、竜宮城という世俗の煩わしさの全くない極楽境を彷徨う人のことであり、人生をなめらかにスムーズに、エスカレーター式に生きた人なのではなかろうか。
 ゴツゴツした大地。その地を這うように、時に裸足になって足に豆など作ったりして生きるような人には竜宮城は無縁、寝正月も無縁なのだろうけれど、生きた日々の全てを、或る日、妙に懐かしくてたまらなく振り返ることのできる人なのではなかろうか。
 そんな殊勝なことを思いつつも、小生は、今日も駄句を捻るのであった:

 寝正月毎日寝ても夢見てる
 食い倒れ束の間の凪寝正月
 寝正月夢見て生きて恍惚境
 寝正月机に突っ伏し貪るか
 寝正月炬燵の中で二人かな
 寝正月寝すぎて頭痛くなり
 除夜の鐘聴くこともなく寝正月
 初詣神様だって寝正月
 神様に寝正月祈る大晦日
 年の瀬を越せないはずが寝正月
 寝正月仕事がなくて不貞寝かな
 寝正月先行き見えず起きられず
 神様は逡巡する我叱咤する

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コメント

(^ー^* )フフ♪・・せっかく帰省しても大変だったね・・お母さんの具合はどうなのかな・・
もうずっとお父さんがお世話をしているのだろうか・・お姉さんが側に住んでいるのかな・・

などと・・人の家の事情を心配しても大きなお世話だけど・・
読んでいると みんな・・優しいんだな・・というかそれが普通なんだろうな・・とシミジミしてました。

うちでは・・私には・・かな考えられない話しだ・・

我が家は本当に家族のみの 寝正月・・
親戚らしい親戚はいない・・
私も旦那も・・まったくいないわけじゃないけど
付き合いがない・・また・・私にいたっては・・
もともとつき合いもなく 疎遠ではあったが・・
昨年ついに縁を切るという形になった・・
別に切るなんて・・そんなおおげさな事・・
と思ったが相手がそういうので「そう取るならとってもらってもかまいませんよ」とお返事したところ・・rudoは ○○家との人間とは付き合わないそうだ・・と言う話しになったらしい・・
で?何が変わったの?

なんにも・・だって・・今までだって何もつきあってないじゃーん。変な人達。

投稿: rudo | 2005/01/07 16:37

寝正月! 今となっては憧れですね。
人間、いつでもお腹は減るし、
着てるものも汚れるし、
寝れば、布団もぺっちゃんこになるし。
結局、あんまり変わらないときの流れ。
しかも、お客さんも来る。(ToT)
人間苦手なのに~~~。
お正月。苦痛です。

投稿: Amice | 2005/01/07 22:27

 rudoさん、家庭事情はなかなか書ききれないものですね。だから小説(虚構)で描こうとするのだけど、つい、童話的要素を加味する。「メロンの月」とか、「雪だるま」にしても、若干、ファンタジー仕立てにした。小説の中でも現実に向き合えないのは情ない。
 なんだか分からないけど、ブログを見て、ますますrudoさんワールドが好きになった。

 Amiceさん、寝正月は女性、特に主婦となった女性には、なかなか厄介だったりするようですね。家事の真似事をしただけで、女性の苦労を思い知ります。
 結局、呑気な父さんか、子供のうちが花なのか。
 

投稿: 弥一=無精 | 2005/01/08 18:16

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