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2004/10/30

秋霖

tokyo-hibiya.jpg
 秋霖(しゅうりん)とは、秋の長雨のことを言うとか。秋の季語として使われる。
 いつまでも降り続く雨を「霖雨(りんう)」と言うが、それが秋だと、「秋霖」ということになるわけだ。秋雨(あきさめ)という言葉もある。春雨だと、陽気も暖まってきて、降る雨がそれほどでないのなら、「春雨じゃ、濡れていこう」と気取ってみるのも乙なものかもしれないが、秋雨は濡れるのは辛い。体の芯まで冷えそうだ。
 秋雨と書いただけで、秋の長雨を意味するようで、通り雨のような短い雨は、どう表現するのか疑問だが、秋時雨という言葉があるらしく、どうも、秋の雨は、長く感じられるもののようである。
 やはり冷たさが身に沁みるから、それほど長く降らなくても、秋の雨はなかなか止んでくれない…と、憾み節が浮かんでしまうのだろう…か。
 秋霖、なんと美しい味わいのある、響きも素敵な言葉だろう。これが当用漢字から除外されたが故に、使われなくなったというのは、秋の雨以上に淋しいことではなかろうか。俳句などの季語としてのみ使われるのは、なんとも惜しい。秋雨という言葉の使用のほうが、実は歴史の浅い言葉だという説もあるが、小生は未だ確認できていない。

 明日からは雨がちの天気になるとか。木曜日の夕方に、ふと真ん丸の月を見て、感激のあまり、思わず、「満月だ!」と叫びそうになったが、さすがにお客さんが乗っていて、押し黙って、信号待ちの折に、じっと月影に見入るばかりだった。
 帰宅して月齢をネットで調べたら、やはり満月だったのである。その月も、呆気なく雲間に隠れてしまう。
  
 雲の波 月影返し 地は雨に
 秋霖に 身も凍るのか 土の中
 
 今日は、会社の用事もあって、帰宅が遅れ、たださえ、スケジュールの厳しい中、執筆や読書に割く時間がなくなってしまった。実は、過日より、どうしても書きたいと思っているテーマがある。小説作品にすれば、中編にはなるだろうテーマだが、今の自分は掌編に仕立てるのが精一杯。
 今日、金曜日(乃至は、その真夜中過ぎ)のうちに書きたいと思ったが、生活のリズムが狂ってしまって、肝心の夜中には披露困憊の極が来てしまい、例によってロッキングチェアーで居眠り。結局、今日は書けず終いだ。残念である。
 これは自分へのプレッシャーの意味もあるので、そのテーマを大凡のところだけでも書いておきたい。半分は備忘録のようなものだ。
 タイトルは、仮題だが、「蛇の目」という。といって、蛇に仮託して物語を書こうというわけではない。それは小生の苦手とする表現方法だ。
 そうではなく、蛇という俗に言う冷血動物の、その象徴が目にある。冷たい目。心など、欠片もないような目。愛情の微塵も感じられない目。懇願する相手を情容赦もなく食い殺してしまうに違いないと思わせる目。自分のことを熱い思いで見詰めている、恋い焦がれている、身を焼く思いでその人のために眠れない夜を過ごしてまでもいる、そんな相手の気持ちも知らないで、平静を保ったままで居られる目。
 けれど、小生は、蛇の目、つまり感情表現をしない、感情が瞳孔にさえ洩れて来ることのない目に、むしろ、実は熱い感情、あまりに切なく寂しい、そして怯えた心を感じてしまう。
 それは、子供の頃などに周囲にさんざん弄ばれて傷つき破れてしまった、それゆえにもう心を開くことの出来なくなった臆病になってしまった閉じた心をモロに示している。
 目が感情のブラックホールになってしまい、周りの人々の暖かい思いやりも、時に徒(あだ)となったかのように、ただ、呑み込んでしまって、そのまま全く反応として帰ってこず、同時に、自分の胸の中で焦がれ死ぬほどに苦しい思いがあっても、それが表には表れてこない、そんな目、あるいは心。
 血の涙とは、そんな冷たい目の裏側でこそ流れているのではなかろうか。
 人に触れたい、人の心に触れたい、人に触れられたい、人の心と絡み合いたい、でも、怯え萎縮してしまった心は、繋ぐべき手さえ縮こまっていて、せっかく差し出してくれた手を握り返す勇気も出ない。信じれないのだ。信じられないのは相手のこと、でも、それ以上に自分の性根。

 蛇の目よ とぐろを巻いた 心見せよ
 
 東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について「強制になるということでないことが望ましいですね」と発言されたという。
 これは、小生には注目すべき発言だと思う。きっと、陛下は、特に東京の学校現場、特に卒業式などの行事の際、日の丸の掲揚が義務付けられ、君が代の斉唱も強制されている現実をニュースで知って、心を痛めておられるのだろう。
 この発言は、棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたことに対し、陛下が答えたもののようである。
 米長邦雄さんが自分の仕事がかのようなものだとは、ラジオで聞いたことがある。そういう方だから、石原慎太郎東京都知事も教育委員会委員に選んだのだろう。
 宮内庁の羽毛田信吾次長は「行政施策の当否を述べたものではない」と政治的発言であることを否定した上で「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と園遊会後に開いた会見の中で話していた。
 実際、1999年に施行された国旗国歌法は、日の丸を国旗、君が代を国歌と定めたが、義務規定や罰則規定はないのだし、法律が国会を通った際、当時の自民党幹事長の野中広務氏も「国旗・国歌は強制しない」と言明したものだった。
 それが、石原都知事下の東京都では強制されている。財政などの権限が東京都にあるので、学校側は従うしかないのだろうが、悲しい現実だ。
 自発的に、己の信条で日の丸掲揚と君が代斉唱をするなら、とやかく言う筋合いではない。
 が、強制となると、思想・良心の自由を保障した憲法に違反するし、小生は、気に食わないのである。
 十五年戦争の反省が十分にされているとは言えない中では、素直には日の丸を誇りに思えないのである。
 国を愛する気持ち、郷土を愛する気持ち、その思いはいろいろであっていい。無理にこれだと決めなくていいし、まして、国家や権力を持つ当局が国や郷土を愛する形や表現方法をこれだと決め付けて国民に強制するものではないと小生は信じる。

 国も人も 愛する形は さまざまに

 新潟の被災現場も気になるが、イラクで拘束され、場合によっては死を宣告されている青年のことも気掛かりだ。
 テロには屈しないという立派な言明。が、イラクをテロリストの巣窟にしたのは、誰だったっけ。ブッシュ現米大統領であり、それを支持した小泉現日本の首相らではなかったか。言い掛かりだと既に分かってしまった因縁を付けてまで、イラクの体制を壊してしまった。
 イラクは危険だから行ってはいけない。正確に言うと、イラクは危険な国家にしましたので、今は行かれません、ではないのか。
 が、自衛隊は民間人が立ち入れないような危険な地域には派遣してはいけないはずじゃなかったのか。不思議なことが多すぎる。

 冒頭に掲げた写真は、東京の夜景。信号待ちの際に携帯で慌しく撮ったので、画像が今一つ。小さく、東京タワーが見えるはずなのだけど、さて。

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2004/10/29

気随気侭

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 表題をどうするか、結構、あれこれ迷ったりする。迷う前に、何も浮かばないことも多い。で、困った時の季語頼りということで、今は秋、ということで、秋の季語をそのまま、あるいは多少は尾ひれなどを付けて使ったりしている。
 で、今日も、秋の季語を調べようかなと思ったら、ふと、表題の「気随気侭」という言葉が浮かんだ。
 この言葉、小生には懐かしい響きがする。確か、この言葉を使ってエッセイかコラムを書いたような…。
 が、ハッキリしない。なので、この言葉をキーワードにネット検索してみたら、小生のサイトが筆頭に現れて、ビックリ:「気随気侭(4)」
 さらに驚いたのは、小生は、メルマガを配信しているのだが、その創刊号のメルマガの名前に(テーマではなく)「気随気侭」を使っていたということだ。すっかり忘れていた。
 この「気随気侭」は創刊号だけで、次に「マージナルマン」になり、「国見弥一の(KY)サイバープレス」となり、やがて、「国見弥一の銀嶺便り」となるわけである。
 では、2001/2/25の創刊号などで、「気随気侭」なる言葉を使ったのは何故なのか、となると、さっぱり思い出せない。調べると、00/3/26という日付でエッセイか何か綴っているらしいのだが、当該頁をクリックして飛ぼうにも、頁が見当たりませんとなってしまう。情ないことである。
 恐らくは、上掲の「気随気侭(4)」に類するようなことを書いていたのだと思う。最初に書き込んだ場は、ニフティのフォーラムで、文学系のフォーラムと思想系のフォーラムに、在宅の日は、必ず一つはエッセイかコラムを載せていた。爾来、やがて公表の場は文学系のフォーラム一本に絞られつつも、今日に至るまで、せっせと書き綴ってきたのだった。
 過去形で書くのは、その文学系のフォーラムが、この25日を以って、閉鎖となったからである。つまり、小生が書いてきた、掌編であれ、エッセイであれ、書評エッセイであれ、その全ての最初の書き込みの場が消滅してしまったということだ。
 毎日、何かしら一本は書く。タクシーの営業は通勤時間も含めると拘束される時間は23時間ほど。その前後は、ひたすら寝るわけだから、月に12日間は、全くネットに関われない(後に、モバイルパソコンを購入はしたが)にも関わらず、毎日ということは、日に2本、エッセイなどを綴る日がしばしばあったということだ。
 小生が、この文学系フォーラムに参入したのは、00年の冒頭からだったろうか。それとも前年の11月にパソコンを購入し、ネットの世界に辛うじて足を浸したわけだから、99年の末からだったか。
 自分は書くことに夢中だったので、気付かないことが多かったが、噂によると、小生がフォーラムに加入する以前は、かなり活発な活動や意見の交換などがあったらしい。論争や喧嘩もあったとか。中にはネットの関わりが結婚に発展したケースもあったらしい。
 が、小生が参入した頃には、かなり落ち着いていた。小生が感じる限りは、滅茶苦茶な数の書き込みがあるとか、喧嘩紛いの議論が戦わされていたという印象はない。
 それより、むしろ、落ち着いたコメントの遣り取りが好ましかった気がする。賑やかではないが、閑散としているわけでもなく、その意味で、喧嘩は大の苦手の小生には、好ましい環境だったかもしれない。
 が、やはり、熱心な書き手やコメンテーターがドンドン消えていく(他のサイトへ、あるいは自前のサイトへ)という長期低落傾向は続いていたようで、ブログの登場も相俟って、とうとう文学系のフォーラムは閉鎖になったようである。
 小生が、他の方のエッセイや小説にコメントを寄せるなどして、遣り取りを密にすれば、その中で仲間も作れたようだが、小生は、そのフォーラムでは自作の書き込みに専念していて、コメントやレスの遣り取りは控えてきた…こともあり、そもそも仲間作りが苦手ということもあって、五年近く文学フォーラムにお世話になったにも関わらず、仲間といえ、今も多少なりとも付き合ってくれている人は、ごく少数に限られている。それでも、ありがたいことだと思っている。
 問題は、さて、これからである。小生は、文章を常にぶっつけ本番で書く。エッセイでも書評でもコラムでもサンバなどのレポートでも、掌編でも、同じ事。下書きを、メモ程度でも準備して書いたことは、少なくともネットに参入してからは、皆無のはずである。
 ある意味、もしかして小生のエッセイや掌編をフォーラムで読まれた方は、下書きを読まされていたということになる。自分としては、その生煮えの原稿を、そのうちに時間を掛けて推敲し完成に持っていく所存ではあったのだが、御覧のように、ホームページやメルマガに掲載した文章は、最初に書きながら考えて綴った原稿そのまま、転載している。転記しているだけである。
 転載の際、多少は手直ししようと思わないわけではないが、小生は、書きたいことがたくさんあって、手直しする時間があったら(あるいは文章をアップする時間があったら)何か新しい掌編の一つでも取り掛かりたいのである。
 推敲し、磨き上げることは、新しい作品を作るパワーがなくなったり、あるいは、何かの間違えで、これまで公表してきた文章のどれかを拾い集めて出版という運びになったら、その際は、本腰を入れて取り組むかもしれないと思っている(そんな時でさえも、時間が惜しくて、初出のままに出版する可能性も十分にありえる)。
 話が逸れてしまった。気随気侭という言葉を何処から見つけてきたのか、何故に選んだのか。恐らくは、自分に杓子定規な発想法を感じるから、ともすると一つの思い込みに囚われがちだから、そんな自分を広い視野に少しでも向けたい、いろんな分野に挑戦したいという、実のところ切実な思いがあってのことだと推測する。
 今年に関しては、掌編百篇という過大なノルマを課したので、ややエッセイなどには力の配分として欠ける憾みがあるが、川柳(俳句)も含め、多様な文章表現の世界を自分なりに試みていきたいのである。

 せっかくなので、駄句川柳などを羅列しておく。例によって、掲示板などにレスする際、付した数々なのである。即興と、もっと品のいい滑稽さを狙ってはいるのだが、即興はともかく、上質の滑稽味は、覚束ない:

   思われて 肩の荷重い 弥一かな
   誰がいい? 迷った挙げ句の 独り身か
   誰がいい? 迷った挙げ句 総スカン!
   窓明かり 恋い慕いしも つれなくて
   傑作は 駄作の泥田の 花一輪
   淡雪や 溶けて流れれて 素顔かな
   淡雪も 踏み固めたら 根雪だね
   頬の雪 溶けて流れて 涙かな
   頬の雪 溶けて流れて 素顔バレ
   雪化粧 悲しみまでが 雪に舞う
   アワダチソウ軒端に揺れて秋深し
   北の田を埋めているのかアキノキリンソウ

 冒頭に載せた写真は、今朝、営業も終わり、会社へ帰る途中、何処かの踏み切りで足止めを食った際に撮ったもの。朝の六時過ぎだったろうか。疎らとはいえ、それなりにお客さんも乗っている。下りの線。仕事へ行く? それとも(遊びか仕事かは分からないが)朝帰り? 行楽? 東京に暮らすと、どんな時間帯にも、人々が盛んに動いていることを日々実感する。
「踏み切りだ 鳴らせ心の警報機」という標語が、意味深である。

 それにしても、昨晩の満月は、凄まじいものがあった。理屈の上では当たり前のことだろうが、車で都内を何処へ移動しようと、月は付いて来る。追いかけるかのように。でも、自分が月影を追い求めているのかもしれない。
 遠く新潟の空の下でも、真夜中であっても、人の心は慄(おのの)いているのだろう。月影を抱く心のゆとりが早く来ることを願う。

 月影よ 心の襞を 照らすのか
 満月や 祈る思いを 隈なくに
 秋の月 凍える身をも 隈なくに
 満月や 車の影も 冴え冴えと
 満月や 吐く息白く 浮かべてる
 月影に あの人の影 今も尚

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2004/10/28

秋の夜長は冷ややかに

 今日は、テレビ三昧の一日となった。まず、掲示板にある人のレスで書いた文を転記すると、
「(地震があったのは)今朝、10時40分ですね。小生、仕事が終わり帰宅したのが七時前。それから、御茶で一服し、日記(紙のほうの)をつけ、ネットを巡って、寝入ったのが九時前。
 普通なら、昼過ぎまで寝ているはずが、10時20分頃だったか、目が覚めた。何かの予感だったのだろうか。
 親子三人の乗った車、早く、救出されるといいのだけど。」
 そう、目覚めた直後に震度6弱の余震というには強烈な地震があったのである。
 その情報を眺めつつ、さすがに、徹夜仕事の明けに一時間あまりの睡眠では、持つはずもなく、昼過ぎ、再度寝入った。次に目が覚めたのは、二時半頃だったか。なんとなく胸騒ぎがしてテレビを付けると、崖崩れで埋まっていた車の中に母子三人が見つかり、しかも、三人とも生きているという情報が(あとで一部、誤報と分かる)。
 で、救助の模様を見ようと思ったら、既に男の子は奇跡的に多少の傷は負っているものの救助された直後のようだった。あとは、母親や女の子が救助されるのをテレビを見ながら、ずっと待っていた。
 が、やはり、合計三時間あまりの睡眠で体が持たず、夕方、ロッキングチェアーで居眠り。はっと、気がついて、テレビを見ると、母親は車の中から掘り出されていたが、悲しいことに病院に搬送された時点で既に死亡が確認された、どうやら、崖崩れの際、岩の直撃を受け、即死の状態だったという。
 さらに、女の子も、脈がないという情報が。話がまるで違う!
 合間合間に、日記を綴る。「音という奇跡(秘蹟)」というエッセイに近い日記。夜半には、「赤い糸」という掌編。ある人が描いた少女の絵がミステリアスな雰囲気が漂っていて、その絵を挿絵に使いたくて描いてみたのだが、当初の目論みは何処へやら、まるで違う、変てこな掌編になってしまった。
 某サイトに公表済みである。そのうちに、ホームページに掲載するだろう。
 今月、八個目、今年の通算で84個目の掌編を書き終えたのが夜中の一時過ぎ。テレビをつけたが、報道系の番組はなく、すぐに消す。で、今は、この日記を書いているというわけである。
 合間合間には、白川静の「中国の古代文学」や、ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの詩学」を齧り読み(大抵は、寝入る前の睡眠薬代わり)。
 それにしても、この頃は、日記が一つの仕事になっている。できるだけ、さらっと書きたいのだが、いざ、書き始めると、エッセイ風になってしまう。本来は、日記なのだから、メモとか記録をズラズラ書けばいいはずなのだが、ま、これも性分なのか。毎日、日記を書いている人は少なからずいると思うが、量的に多くを書いている人は少ないのではないかと思う(質的には、ま、こんなものである)。
 記録というと、川柳作品の羅列は、避けられない。新潟は長岡の惨状を知りつつ、こんな句作をするなんて、小生は、罰当たりな人間だ。迷惑だろうから、どこのサイトで句作したかは書かないでおく:

 熊よ熊 木の根っ子で 春を待つ
 大地震枯れ葉の落ちる山の里

 他所の家 背伸び覗いて 足攣った
 カウンター 回るの見てて 目が回り
 俳句はね 挨拶なのさ レス欲しい
 川柳はね 滑稽なのさ 笑ってね
 句作はね 即興なのさ 閃きさ
 雪便り 北の空から 舞い降りて
 秋の夜 車の暖で 更けていく

 北の空 祈りの声よ 届けてよ

 表題を、「秋の夜長は冷ややかに」としたのは、新潟の空を思ってのことである。秋の夜長、読書に行楽にスポーツにと、人それぞれに楽しみはあるはずなのである。が、あの惨状を思うと、冷ややかな気持ちのままに、胸苦しい夜を過ごすしかない。夜の長さが、時に憂くてならない。入院していた頃の夜々の長さを思い出してしまう。
 止まない雨はないように、明けない夜もない、なんて、奇麗事を言いたくない。ひたすらに、夢など貪りながら、今を淡々と遣り過すのも、今は仕方ないのかもしれない。

 ところで、「タクシーメーターの音」と題した日記(10月26日未明)の中で、「雲助」を扱った。念のため、事典で「雲助」の項を調べてみたので、以下、転記する:

 江戸時代に、宿駅、渡し場、街道筋を舞台に、荷物の運搬や、川渡し、駕籠(かご)かきなどを生業とした、住所不定の道中人足をいう。
 雲介、蜘蛛助とも書き、浮き雲のように住所が定まらないからなど、語源にはいくつかの説がある。近世に農民が助郷の夫役を代銭納するようになると、農民の労働力に依存できなくなった宿場では、専従の人足を必要とした。1686年(貞享3)幕府は廻状(かいじょう)で、出所の知れた浮浪人の日雇人足への採用を許可している。この宿場人足は、幕府の御定賃銭を問屋場(といやば)から支払われ、問屋場裏の人足部屋に起居し部屋頭(へやがしら)の支配を受け、部屋人足ともよばれた。道中筋でたかりや人殺しなどを行い、「ごまのはい」と同じく無宿の悪漢とされた雲助は、この宿場人足とはいちおう別の、個人の営業によるものである。荷物や駕籠を担いで道中を行くとき雲助が歌った唄を雲助唄という。<片岸博子>  
                          『NIPPONICA 2001』より

 こんにちにおいても、タクシードライバーが雲助などと呼ばれたり、まして、自称して、そう言うのは悲しい。
 でも、雲助に、もっと風流なニュアンスを篭めるというのも、一興だとは思う。自尊心を持って、名乗るのなら、それはそれでひとつの見識たりえるかもしれないし。
 それに、この雲助が蔑称として使われているという歴史的経緯を知らない人も増えているようだし。

 雲助よ 筋斗雲の如く 乗りたいね
 雲助や 浮き世の定め 胸に秘め
 雲助や 逸れ雲だよ 青空の
 雲助や 川の流れに 負けるなよ

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2004/10/27

音という奇跡

morinaga-doro.jpg

 音楽が好きなのかどうかを自分を振り返って考えても、結論めいたものは出てこない。そりゃそうだ、音楽一般では、あまりに漠然としている。それが、<音>ということに広げていいのなら、それがたとえ音楽よりもさらに茫漠としているという憾みはあるとしても、好き、というより、音に依存しているとも言える。
 無論、音にはいろいろある。分野はいろいろあっても、音楽と呼称されるもので、楽器に関連するもの、唄を中心としたもの、ハミングや口笛…。誰にも音楽とは呼ばれないだろう、部屋の中の冷蔵庫のモーターの音、水道の蛇口の栓が緩いのか、流し台にポタッ、ポタッと落ちる水滴の爆ぜる音。同居する人がいれば、別の部屋で動くスリッパの音、ドアのノブの音、テレビ、ラジオ、ステレオ、携帯、窓の外からの遠い歓声、喋り声、下手なピアノの練習の音、秋ならば虫の鳴き声、時折鳴る救急車のサイレン…、そして風の鳴る音。
 耳が誰よりも敏感というわけではないと思うが、学生時代など一人暮らしをしていた時には、騒音・雑音には敏感だった。一人で居る時には、食事を摂ったり音楽を聴くとき以外には、ひたすら読書していた。徹夜で読むこともしばしばだった。そんな時、音は、どんな音も邪魔だった。音が微かにでも耳に入ったら、読書はたちまち中断させられてしまう。
 そんな時、音の出処に怒ってみたりするが、同時に、たまに、自分は本当は読書が好きではないのではないか、本の世界に読み浸っていないのではないか、本当は外の世界へ出ていきたい、なのに、外部から、読書とは無縁な生きた、現に動きつつある、生の世界の、その突端が自分を、読書より、そこには本当の世界がある、読書よりも豊かな世界がある、読書というより書物のネタ元となる現実の世界がある、お前は、そんな世界にこそ、立ち会うべきなのではないかと耳元で囁かれているようで、それで、雑音に過敏になってしまっているのではないか…、そんなことを思ってみたりする。
 音。音楽。自分には、好きな音は全て音楽である。音楽が、音を楽しむという意味合いで構わないのなら。別の何処の誰かが作曲した、誰かが歌っている、そうした人の手により形になっているものこそが音楽であって、自然世界の音の海は、音楽ではなく、あくまで音(騒音・雑音…)に過ぎないというのなら、別に音楽と称さなくても、いい。
 自分は自分なりに音を楽しむまでである。
 どんな音が一番、自分の琴線に触れる音なのか。
 となると、下手に作曲された音楽以外の全てとは言わないが、風の囁きを中心とした自然世界の音の大半は好きなような気がする。
 それは、絵画についても、写真芸術についても、あるいは文学などについても、同様で、自分がこの肉眼で皮膚で脳髄で胸のうちで感じ取り聞き取り受け止める生の世界の豊穣さを越えるようなものなど、ありえようとは思えないし、実際に、そうだったのだ。
 蛇口から垂れる水滴の、その一滴でさえ、どれほどの幻想と空想とに満ちていることだろう。そしてやがて、瞑想へと誘い込んでくれる。その様を懸命に切実に見、聞き、感じ、その形そのままに受け止めようとする。そこには、音楽も文学も写真も絵画も造形美術も舞台芸術も、凡そ、どんなジャンルの芸術も越えた、それともその総合された世界がある。
 その水滴一滴から、幾度となく掌編を綴ってきた。形は掌編という文章表現だが、それは自分には絵を描く才能も、音で表現する能力も、どんな才能もないから、最後に残った書くという手段に頼るしかないからであって、しかし、創作を試みながらも、そのまさに描いている最中には脳髄の彼方で、雫の形や煌き、透明さや滑らかさの与えてくれるまるごとの感動を、その形のままに手の平に載せようという、悪足掻きにも似た懸命の営みが繰り広げられている、想像力が真っ赤に過熱している。
 さて、主題の音に戻ろう。話を音楽に限ってみても、物心付いた時から、ラジオやテレビなどでいろんな音楽に接してきた。保育所や学校での童謡などから歌謡曲、演歌、民謡。
 その中で、音楽に関して、転機とも言えるほどに衝撃を与えられたのは、一つは、学生時代になった当初に聴いたメンデルスゾーン(のヴァイオリン協奏曲)であり、もう一つは、シュトックハウゼンだった。
 メンデルスゾーンからバッハ、ブラームス、ベートーベン、モーツァルト、やがてワーグナーに至る真っ当(?)な流れは、別の機会に。
 ここでは、仙台市の片隅の山間のアパートの一室でシュトックハウゼンを聴いた衝撃の一端を少々。
 が、悲しいことに、小生がシュトックハウゼンを学生時代に聴いたのは、多分、一度きりであり、それもFM放送で現代音楽の特集の一環で聴いたものだったと思う。
 音楽にも疎い小生のこと、シュトックハウゼンも既に音楽の世界では古典の域に入っていることなど知る由もない。それは、後にヴォルスやフォートリエ、デュヴュッフェなどの絵画に圧倒されたのだけど、それらが絵画史では数十年も昔に現代の古典に収められていて、改めて鑑賞する人に特に新鮮な衝撃を与えているようには見受けないことに逆にショックを受けたにも近いかもしれない。
 要は自分は文学に限らず多くのことに無知だったに過ぎないのだが、自分にはシュトックハウゼンの音楽を聴いた時、頭の中に宇宙空間が広がっていくような気がしたのである。
 絶対零度に向かって限りなく漸近線を描きつつ近付いていく宇宙空間。裸で空間に晒されたなら、どんなものも一瞬にして凍て付いてしまう、恐怖の空間。縦横無尽に殺人的というより、殺原始的な放射線の走っている、人間が神代の昔から想像の限りを尽くして描いた地獄より遥かに畏怖すべき世界。
 感情など凍て付き、命は瞬時に永遠の今を封じ込められ、徹底して無機質なる無・表情なる、光に満ち溢れているのに断固たる暗黒の時空。
 その闇の無機質なる海に音が浮き漂っている。音というより命の原質と言うべき、光の粒が一瞬に全てを懸けて煌いては、即座に無に還っていく。銀河鉄道ならぬ銀の光の帯が脳髄の奥の宇宙より遥かに広い時空に刻み込まれ、摩擦し、過熱し、瞬時に燻って消え去っていく。
 小生は、初めて人の手で作られた<音楽>で、自然界の音に匹敵するかもしれない音を聴いたと感じたのだった。 爾来、シュトックハウゼンの音楽作品を聴いたのは、数年前だったか、タクシーの車中でのことだった。が、恐らくは学生時代に聴いた曲とは違う…。それとも、自分という人間が変質し劣化し、音を音として聴く感受性も気力も萎えてしまっていて、受け止めきれなかったのかもしれない。
 音に、それも、人の手が加わった音に奇跡を感じた唯一の時だったような気がするのである。もう、三十年ほどの昔の話である。
 なお、シュトックハウゼンについて、もう少し、まともな話を知りたいなら、例によって松岡正剛が千夜千冊で取り扱っている。
 カールハインツ・シュトックハウゼン『シュトックハウゼン音楽論集』(清水穣訳 1999 現代思潮社)


 掲げた写真は、鎌倉宮の姿である。
 

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2004/10/26

忘れてた!

 日記なのに、月曜日にやったことを何も書いていない。
 もっとも、書いた文章の大半は、この日記である。「「地震」は「なゐ」という」を25日の夜半前に書き、「タクシーメーターの音」をつい先ほど、書き上げアップさせた。
 但し、25日の正午前後に、「ディープスペース(1)」という掌編を書いている。
 タイトルから察せられるように、例のクラゲの絵を見て、さらには、クラゲの素晴らしい写真が載っているサイトを覗きながら、「ディープタイム」「ディープブルー」に引き続く、三度目の正直を、性懲りもなく試みたわけである。
 しかも、うまく行かなかった証拠に、「ディープスペース(1)」と(1)となっている。どうやら、蛇足となりそうな創作が続くかもしれない。
 ま、クラゲから得るイメージを納得行く形で表現できていない以上は、しつこく拘っていくしかないのだ。
 
 さて、読書のほうは、相変わらず、牛歩というのか、のんびり楽しみつつ、毎日、続けている。
 月曜日は、ようやく、「寺田寅彦随筆集(5)」を読了し、過日、さる方から戴いたミハイル・バフチン著「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)を読み始めた。
 小生は、前にも書いたが、ドストエフスキーに高校時代より傾倒し、小説に関しては、全作品を最低3回は読んでいる。「罪と罰」は六回だったりする。
 そんな小生だが、ドストエフスキー論なるものは、読まない。小生が読んで受けた衝撃をどんな作家や評論家であろうと、ほんの僅かでも読み解ける、あるいは、より深めさせてくれるとは到底、思えないし、実際、成り行きでそれなりにドストエフスキー論を読みはしたが、全く、得るものはなかった。
 小林秀雄しかり、埴谷雄高しかりである。埴谷雄高にしても、ドストエフスキー(やポーらに)傾倒したのだったが、小生は、埴谷の読解で理解を深めようという発想は、抱いたことがないし、そんな期待も抱かなかった。あくまで埴谷の文章に親しみたかっただけである。たまたま題材がドストエフスキーに及ぶことがあったというだけのことだった。
 かといって、自分の感じているドストエフスキーの世界を自分なりに表現しようとも、思ったことがない。衝撃は衝撃として沸騰しているままに胸に抱えておくつもりなのである。
 それでは、何故に、バフチンの「詩学」を読むかというと、彼の詩論を読みたいからに過ぎないのだ。まだ、冒頭の部分を齧っただけだが、有名なポリフォニー論が出てきて、それなりに興奮はさせてくれるし、一個の詩論として興味は持てそうな気がするのだ。
 さて、寺田寅彦の随筆集と並行して読みつづけている白川静の「中国古代文学」も、今月中には読了できそう。なかなか歯応えのある本だった。かなり背伸びしながら読んできた。あと少し、頑張れば頂上だ。

 それから、これは、これから追々に試みたいことなのだが、クラゲに絡む掌編ではないが、小生の好きな絵画を見て、自分なりの小説(短篇の虚構作品)乃至は随想文を書き連ねてみたいと思っている。前から試みたかったのだが、文章だけをアップするのではつまらない。どうせならネタ元(?)の絵画の画像も同時にアップさせたい、そうでないと、片手落ちのような気がして、ずっと躊躇ってきたのだ。
 でも、現代の作品だと拙いが、古典(50年以上経過したもの)だったら、画像のアップも可能性ありなので、近い将来の取り組みの対象として、楽しみにしているのである。
 ま、今の「ディープ」シリーズは、その発端というか、導火線に火を点けたとは言えるのかもしれない。
 

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タクシーメーターの音

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 ある時、あるサイトで、タクシーの話題を見つけた。
 事情があってタクシーを利用したら、何故かピッ、ピッ、という電子音が聞える。覗き込むと、料金が上がるたびにその電子音が鳴る、だから、電子音の響きが心臓に響くという話だった。
 タクシーが話題に上ることは、その関連筋のサイトでない限りは、通常は、まずない。ないことはないが、めったにない。たまたま小生がタクシードライバーだし、ネットめぐりをする際、別にそのことを隠し立てしていないので、それなりに話題になることがあるが、それも、小生が敢えてタクシードライバーとして語ったほうがいいかなと思える場合であって、そんな場面に遭遇することは、やはり、あまりないのである。
 冒頭に戻って、多少でもタクシーを利用した人であっても、ピッ、ピッ、という電子音を聞くことは、ないだろう。
 そもそも、この電子音は上記したように、料金が上がる場合に鳴るわけで、基本料金内の利用しか経験がない人は、聞くこと自体がありえない。
 さて、小生、冒頭のような話題が出ていると、どうしても、でしゃばってしまいたくなる。全国に数十万人はいるだろうタクシードライバーだろうが、その中でネットに関わったりする人が、どれほどいるのか、小生は分からない。が、いずれにしろ、たまたま出会ったサイトの周辺にタクシードライバーがいる、という確率は低いのだろう(断定はしない。断定する根拠もないし)。
 まあ、とにかく、小生、「最近は、音がしなくなっている。このごろの料金メーターは、黙って数字を上げていく」などといった下りを読んだりすると、音がしないのは、少なくとも電子音の鳴るメーターになってからは、最近に関わらず、電子音は鳴らないのだと言いたくてたまらなくなる。
 以下は、その時に、小生が寄せたコメントである:

 Nさん、こんにちは。
 商売柄、「タクシーメーターの音」というタイトルにピッピッピッといや、ビビビと、来ました。
 小生の推測ですが、料金メーターが料金が上がるたびにピッピッと音がするのは、今の通常のタクシーでも、ありえます。
 それは、どんなケースかというと、例えば、何かの拍子に、支払いのボタンを押した時です。そのままの状態で走ると、運転手への警告の意味で、ピッピッという音が一定の距離(80円相当)を走ると鳴るのです。
 どういう意味での警告かというと、支払いボタンを押したということは、当然、支払い(清算)も終わっているはずなので、お客様が降りれば、次の段階として、合計ボタン、ついで空車ボタンを押す。
 よって、支払いボタンを押して、尚、走行するということは、基本的に合計や空車ボタンを押し忘れているとメーターは見なすわけです。
 で、ピッピッと鳴るわけですね。
 支払いボタンを押したあとも尚、お客様を乗せて走りつづけるケースがありえますが、その場合は、また、実車ボタンを押すことになります。これで、実車での通常の走行とメーターが見なすわけです。
 尚、支払いボタンを押したままで走っても、料金的には変わりありません。気分的にピッピッを聞きたいという方は運転手にお願いしてみたら、如何でしょう(運転手によっては断るかもしれないけど。どうも、耳障りな音なので)。
 料金メーターというのは、形式が古くても、検査が当該の機関によって一定年度ごとに行われるので、料金設定はどはともかく、内部の構造(実車、支払い、合計、回送、空車、迎車など)は基本的に同じだと思われます。
 でも、そのタクシーを実際に見たわけじゃないので、断言はできないけど、多分、ピッピッの音の理由は上記の通りだろうと推察します。
 支払いボタンを間違って押すことがありえるのか、それについては、なかなか面倒な考察というか説明が必要なので、省略させてもらいます。
 タクシー業界は、大方の業界と同様、不況の真っ只中。厳しい日々が続いています。
 そうですか、 Nさんもタクシー離れですか。寂しい。
(転記終わり。以下、省略)

 まあ、つまらない話題といえば、そうなのかもしれない。が、こんな些細な誤解も、誰も正さなければ、そのままに、通常でもピッピッと鳴るような状況があるのかと思い込まれたままになる。
 恐らくは、これに類するかどうかは別として、タクシーへの正解・不正解はともかく、さまざまなイメージ・偏見・期待・好悪の念が持たれているに違いない。
 そもそも、タクシーを扱った本が世に流布していないわけではないが、時にあまりに突飛な記述が見られたりする。未だにタクシードライバーを雲助紛いに見なす人もいる。それも、裁判官にである。
 と、その前に、雲助とは、どういうものなのか、語っておく必要があろうか。
知恵袋.com」の「東海道五拾三次 保永堂版 箱根 湖水図」の頁を覗きつつ、説明しておこう。
 そこでは、雲助は、「往時の雲助は箱根越えの人々の荷物などを運んだ住所不定の人足を指し、時に暴力を働いたり、脅しや喧嘩などの問題が絶えなかったことから、どちらかといえば悪い意味に取られている」と説明されている。
 その上で、「箱根の暴れん坊“雲助”のちょっといい話」が紹介されていて、これは小生にはちょっとした発見だった。その話題の主は、松谷久四郎という西国大名の剣道指南役であった大酒のみの武士である。
 せっかくなので、松谷久四郎なる武士のことをネットで調べてみる。「雲助徳利の墓」があり、「酒が元で国外追放となり流れ着いた箱根で雲助の仲間となった」、そして、「久四郎はもともと文武両道の達人だったため雲助を助けて雲助達の信望を集め彼が亡くなった後雲助仲間が金を出し合って墓を建てて供養したという」のである。
 さすがに、小生には真似ができないような立派な雲助もいたわけである。
 もう、雲助という言葉も死語に近付きつつあるのかもしれない。一部の偏見に凝り固まった役人やそれに類する妙にプライドばかりが高い人たちを除けば。

 余談だが、「提灯殺しのガード」があるのをご存知だろか。興味のある方は、覗いてみてもらいたい。
 ちなみに、小生、大田区中央2丁目JRガード下で提灯(行燈)を擦ったことがある。やっちまったと思ったものだ。

 小生、繰り返すが、これでもタクシードライバーの端くれである。端くれというのは、タクシードライバーとしても、目立たない、冴えない奴なので、仕方ないのだ。でも、真面目にはやっているのだ!
 この日記においても、折々は、タクシーやタクシードライバーのこと、更には交通事情のことにも触れたい。おっと、オートバイ(乃至はスクーター)のライダーとして、その関連のことも、触れるだろう。
 念のために付言すると、我がホームページに、「タクシーとオートバイの部屋」を先週、開設したばかりである。まだ、掲載してある文章は少ないが、追々、充実していくものと思っている。

 さて、小生、川柳に凝り始めたのだが、悲しいことに、折々覗いていたサイトが閉鎖になり、その前には、川柳作りの切っ掛けとなった、「川柳で遊ぼう掲示板」が閉じられて、意気消沈している。
 小生は、部屋の中で川柳(や俳句)を苦吟するのではなく、あくまであちこちのサイト(の掲示板)や、画像掲示板の画像を見たり、時には、何かの話の流れの中で即興で挨拶代わりの句作をする。だから、そんな場がないと、句が浮かばないのである。困ったことだ。
 それでも、昨日、何も作らなかったわけではない。
 以下、駄句を羅列しておく。中には顰蹙を買いそうな作品もあるような:

 露天風呂毛深いあなたはクマさんだ
 雪見風呂湯気に透かして極楽へ
 猿さんは風呂三昧で人となる
 温泉に浸かってほしい新潟の人
                 2004/10/25(Mon) 01:28

 すわ地震 飛び出した先 崖崩れ
 すわ地震 隣りの夫婦 また今夜
 激震に球界揺れて枯れ葉落つ
 激震や大統領選に釘付けか
 大地震枯れ葉の落ちる街外れ
 大地震枯葉眩しき秋の空
                 10月25日(月)00時33分28秒

 逃れたい? 見捨てたくない 生地なれば
                 2004/10/25 (月) 18:58

 冒頭に掲げた写真は、昨日の日記にも書いたが、鎌倉宮を訪れた際に撮ったもので、鎌倉宮碑である。

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2004/10/25

「地震」は「なゐふる」という

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 23日に新潟は中越地方を中心に大地震が発生した。その余震は、三日目となった今日も続いている。
 被災地では、今日の夕方から雨が降り出していて、弱り目に祟り目の状況である。屋内では余震が怖く路上(学校の校庭など)にテントを張って避難している方たちの移動する姿がテレビで映されていたが、一体、何処へ移動していくのだろう。地域にある会館や体育館などに避難されている方たちも、屋内とはいえ、冷え込みの厳しい中、毛布程度では寒さを凌ぐのは苦しいものと思う。
 地震のことをネットで情報収集していたら、「地震」は「なゐ」と(古語では)読むという記述を見出した。確か、地震は季語として使われるのかを調べていた過程でのことだったが。
 改めて、「地震 なゐ」をキーワードにネット検索したら、その筆頭に「広報紙なゐふる」という、文字通りのサイトが筆頭に登場した。何のサイトなのかと覗いてみたら、「日本地震学会の広報紙『なゐふる』」のサイトだった。
 さすがである。
 その表紙の冒頭に、「「なゐふる(ナイフル)」は「地震」の古語です。「なゐ」は「大地」、「ふる」は「震動する」の意味です。」と丁寧にも説明してある。
 広報誌『なゐふる』は年間講読できるが、過去の分については、そのサイトで読むことが可能だった。
 さらに調べてみると、鴨長明が『方丈記』の中で、「恐れのなかに恐るべかりけるは、ただなゐなりけり」と述べていることも分かった。小生、幾度となく、あの語調に釣られて『方丈記』を読んだものだったが、その中で地震が「なゐ」と記述してあることは、きれいさっぱり忘れている。脳裏を懸命に掻き削っても、何も出て来「ない」。情ない極みである。
 自分への戒めのためにも、たまたま手元に、「新潮日本古典集成 方丈記/発心集」(三木紀人 校注)があるので、当該箇所を引用しておく:

また、同じころかとよ、おびたゝしく大地震(おほなゐ)ふること侍(り)き。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地((ろくじ))をひたせり。土裂(さ)けて水涌(わ)き出(い)で、巖(いはほ)割(わ)れて谷にまろび入(い)る。なぎさ漕(こ)ぐ船は波にたゞよひ、道行(ゆ)く馬はあしの立(た)ちどをまどはす。都(みやこ)のほとりには、在々所々((ざいざいしよしよ))、堂舍塔廟((だうしやたふめう))、一(ひと)つとして全(また)からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛(さか)りなる煙の如し。地動(うご)き、家のやぶるゝ音(おと)、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽((たちまち))にひしげなんとす。走(はし)り出(い)づれば、地割(わ)れ裂(さ)く。羽(はね)なければ、空(そら)をも飛(と)ぶべからず。龍ならばや、雲にも乘(の)らむ。
(p.25)
 この後に、「恐(おそ)れのなかに恐(おそ)るべかりけるは、只((ただ))地震((なゐ))なりけりとこそ覺え侍(り)しか」という一文が続くわけである。
 さらに、「かく、おびたゝしくふる事は、しばしにて止(や)みにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶(た)えず。よのつね、驚(おどろ)くほどの地震(なゐ)、二三十度ふらぬ日はなし。十日・廿日過(す)ぎにしかば、やう間遠(まどほ)になりて、或は四五度、二三度、若(もし)は一日((ひとひ))まぜ、二三日に一度など、おほかたそ余波(なごり)、三月ばやりや侍りけむ。」とも書いてある。
 中越地震でも、今も余震が続いているし、住民等が実感上、減ってきたかなと思えるには、一ヶ月程度を要する見込みだとか、相当程度の震度の余震も可能性があると専門家は語っている。
 ちなみに、『方丈記』で語られている地震は、マグニチュード7.4だという。
『方丈記』では、この地震の前には、日照り・旱魃・戦乱などによる飢餓の惨憺たる有り様も鴨長明ならでは筆致で書いてあることは、有名だろう。
 参考に、例によって、松岡正剛の「千夜千冊」の、『方丈記』を覗くのもいいだろう。
 恥ずかしながら、小生が、「無精庵」と日記サイトを命名する時、芭蕉の庵をイメージしつつも、座右の書である『方丈記』の庵(いおり)をも念頭に置いていたが、あまりにおこがましいので、我が生活のだらしない実情に鑑み、「無精庵」に留めたという経緯がある。
 文献的には、『日本書紀』の武烈天皇の影姫歌謡説話にも「地震」が出てくるが、「地(なゐ)が震(よ)り来(こ)ば」と、岩波文庫版『日本書紀(三)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注)では読み下している。

 なんてことを書くつもりはなかったのだが、ついつい深入りしてしまった。
 冒頭に掲げた写真は、過日、鎌倉へ行った際、鎌倉宮に立ち寄り、護良親王が幽閉されたという土牢を撮ったもの。
 不明ながら、小生の無知で、すぐ近くにあるはずの、護良親王のお墓へは参ることができなかった。

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2004/10/24

花鳥風月

 花鳥風月という言葉は聞いたことがある。あまり使ったことはない。どことなく面映い気がして、使う気にはなれなし、使うような場面に遭遇することもない。
 では、何故、唐突にこの場に花鳥風月という言葉が現れたのか。一応は、23日の「錦秋の候の気配が」や17日の「釣瓶落しの季節」の中に書いた随想に連なるのだ、と言いたいのだが、さて結び付けられるかどうか分からないままに、この言葉を机の上に放り出している。
 先に進める前に、花鳥風月を事典ではどのように説明しているのか、確認しておきたい。
『NIPPONICA 2001』によると、「自然の美しい風物。「花鳥」は鑑賞の対象となり、詩歌、絵画などの題材とされる自然の代表としての「花」と「鳥」を意味し、「風月」は自然の風景の代表としての「風」と「月」を意味し、狭義には「清風」と「明月」をさす。転じて、そうした自然の風物を鑑賞したり、それらを題材として詩歌、絵画などの創作にあたるなど風雅の遊び、風流韻事をいう。」とある。
 川柳も俳句にもズブの素人であるという特権で、思いっきり大雑把に両者の区分をすると、川柳は、主に時事的な事柄を扱う軽みのある表現であり、俳句はまさに花鳥風月を意識してのやや象徴的表現の試みだろうと思う。
 どちらも、既に長い歴史があり、先人の句作を意識しない訳ではない。俳句は特に先人の(中の感銘を受けた)歌や句を強烈に意識して句を作られているように感じる。
 川柳にしても、軽みを大事にした比較的時事的な事柄を扱うのであり、季語などはあまり気にしない、あるいはほとんど意識しないのだとして、それでも先人の仕事を意識しない訳ではない。同じ句を作る可能性は少ないのだとしても、意識には上っていなくても潜在的に覚えている作品が、つい、口を突いて出てくる可能性もありえないわけではないし、また、意識していて、その上で違う世界を詠み込みたいと願う。
 伝統(つまりは、先人の中の自分にとって感銘を受け勉強にもなった個々の作品や仕事の数々)をそれとことさら事挙げしなくとも、そういった先人の仕事を意識し気付き挙げてきた季語などに集約される言葉への思い入れ、言葉を使った場面場面を脳裏に鏤めつつも、その上で自覚的に自分なりの世界を構築する。その自覚の強いものが俳句なのだろうと思われる。
 かといって、その都度詠んで感銘を受けた作品であっても、その全てを覚えている訳ではない。むしろ、いいなと思った作品であってさえも、忘却の彼方に消え去った、忘失の海に沈みこんでしまった作品のほうが圧倒的なのかもしれない。
 これは、別の角度から言うと、物心付いてから折に触れて感じたこと、美しいと感じた風景、嬉しい・悲しい・辛い・憎い・愛惜すべき個々の場面・光景も、多くは普段は忘れてしまい、無意識の海の深くに沈みこんでしまっていて、よほどの機会・機縁がないと海面上に浮き上がってきたりはしない、が、それでも、遠い日・近い日のいつだったかに心に刻まれたことがあったのは間違いなく、そうした記憶の断片や思い出の化石の堆積した無意識の海を誰しもが胸の中に抱えているのだろうということだ。
 その上で、今日という今日、何かの光景を目にして、多くは花鳥風月なのだろうが、あるいは日常の何気ない風景だったりすることのほうが多いのかもしれないが、たった今、その感銘を受けているその場で句を作る。その際、川柳の方向に走るのか、俳句の方向を選ぶのかはその人次第だろうが、いずれにしろ、胸の底深く浅くに沈んだ情の欠片や化石たちの堆積する土壌の上で、今日ただ今の時点までに培った素養や体験などの積み重ねも含めて、句(や歌)を作る。
 個々の今、作られる句(や歌)は、今の光景などを詠い込んでいるとしても、その言葉の織物を通じて、単に今、眼前にしている現に向き合っている情景を織り込んでいるだけじゃなく、もっと奥深い、使われている言葉は時に象徴的なものに過ぎず、それらの言葉の連なりを通じて描かれ指し示されてる世界というのは、その人だけが直面している光景・情景・場面ということではなく、もっと多くの人の琴線に触れえる、琴線を奏でて止まない一個の存在感に満ち溢れたモノになる。
 作品が作品として成功すると、その作品は、多くの人に、そうだよ、この句(歌)が詠いたかったんだ、この表現を探していたんだ、今の気分にピッタリなんだ、胸の奥底で蟠っていた、なんとか出口を見つけようとしていて見出せずにいた情念・情感の渦巻きが、まるで誂えたかのように、光明を差しかけ、出口を指し示し、岩戸の外の青空のもと、情念が形を得る。ぴたりと決まる。古臭い言葉を使えば、ボーリングした鉄のパイプの先が油源というか鉱床に突き当たったかのように、集合的な無意識の層に突き刺さり、感情・情緒の熱水が地上世界に噴出する。
 小生が口癖のように使ってしまう「海」あるいは「宇宙」に遭遇する瞬間が現実のものとなるのだ。そんな機会が少しでもあれば、素晴らしいと思う。

 花鳥風月という言葉によって、従来はどのような意味を感じ取るのか、そのことに誰にも共通するものがあったのかどうか、分からないが、幾人もの歌人・俳人の仕事(個々の作品の数々)の堆積した山並みを意識しつつ、句(歌)を作るのは、今、この場にいる自分なのだから、自分が今、感じる季節感・現代感を大切にしてのことでないと、どうにもならない。
 季語を学び、大事にしつつ、今の自分が感じる季節感に敏感であること。今の自分が季節を空気を世相を現代の情愛を感じる場面から懸け離れない表現を心掛けること。
 歌は分からないが、前にも書いたが、山本健吉の言葉を借りれば(特に俳句に限定する必要はないと思うのだが、については)「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」の三か条に尽きる。
 ということは、先人の個々の仕事(作品)の数々を意識しつつも、今、この場で、現場で即興で、ある種の軽み(滑稽)を忘れず、また、詠う現場の主人への挨拶なのだということを念頭において句は作られるべきだということであろう。場の主人というのは、宿を提供してくれた主である場合が本来だったのだろうが、広くは、歌を(句を)作りたいという心境に誘ってくれた空間(宿もあるし、吟行の場かもしれないし、友や恋人、親子だったりするかもしれないし、小生などは掲示板を提供してくれる板主である場合が多い、ネットの時代の今は、この場が増えているように思う)から見える風景・写真・情景・場面自体が主である場合も、あるいは多いのかもしれない。
 花鳥風月が場において遭遇しえる句作の機縁である場合が多いが、何より大切なのは、今、自分が感じていることが、或いは感じていることをできるだけ忠実になぞり表現することが、下手であっても、不器用であっても尊重され最優先されるべきだろうということだ。

 長々と書いてきたが、エッセイが思考の試みなのであり、思考のプロセスでもあるのだとしたら、曲がりくねった、時に同じ事を多少は力点を変えながら繰り返すことになるのも、無理からぬことなのだと思う。モンテーニュの『エセー』(随想録)が好きである所以である。

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