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2004/10/23

錦秋の候の気配が

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 錦秋の候などというと、何か畏まった手紙の書き出しのようである。久しく手紙など書いていないし、実際に錦秋の候という表現を使ったこともない。そんな小生が、この言葉を表題に使ったのは、木曜日の営業が終わり、金曜日の朝、帰宅の途上、近所で紅葉している葉が雨をタップリ吸って緑濃い葉々の中にチラホラとあるのに気が付いたからである。
 といっても、未だ、疎らで、ほとんどの葉っぱは緑色である。晴れた朝だし、近所に目新しい花も見つからず、写真を撮り損ねていたので、せっかくなので朝日を浴びる葉桜の並木道を撮ろうと、カメラを枝葉に向けファインダーを覗いた……からこそ、黄色に変色した葉っぱが混じっていることに気が付いたのだった。
 そうでなかったら、見過ごしていたはずである。
 但し、冒頭に掲げた写真では、画質をかなり落としていることもあり、変色した葉っぱの存在がよく分からないかもしれない。
 何処で読んだか、生憎、忘れてしまったが、『歳時記』の季語の種類を分析してみたら、3分の1以上が植物系の季語だったという。
 このことをどう解釈したらいいのだろうか。残念ながら、分析の詳細を知らない。だから残りの季語にどんなものがあるのか、例えば、動物系なのか、山や海・川などの風物なのか、風・雨・雪・露・霧・雲などの自然現象なのか、月や星などの天体(現象)なのか、などが分からない。
 そもそも、植物系の季語、動物系の季語、自然物系の季語を除いて、どんな季語がありえるのか、恐らくはかなり限られるのではないかと思われ、なんとなく植物系の季語が多いのは当然なような気もする。
 いずれにしても、自然の風物・現象に触れ、感じるものがあったりする、そんな感性に日本の多くの人は恵まれているように思われる。
 ところで、秋の季語に、山粧うがある。紅葉、黄葉で色どられた山を表現しているようである。一方、山笑うという季語もある。これは、春の季語であり、寒さに凍えていた山野に若葉が芽吹いてくる感じを笑うという言葉で表現しているようだ。
 秋の季語としては、山粧うが正解なのだろうけど、紅葉した感じが笑んでいる感じ、綻び出している様子に思え、山笑うも秋の季語だと教えられたら、そうなのかなと素直に思ったりする。
 ところで、大急ぎで断っておくが、錦秋は別に秋の季語というわけではない。錦秋の候という表現が10月の侯の挨拶として使われるというだけである。この錦秋、まさに山粧うの結果としての絢爛たる山々の光景を表現する言葉として、まことに相応しい。

 その季語のこと、あるいは、季語の重ねの問題で、いろいろ教えられることがあった。以下は、大雑把だが、今のところの小生の季語に対する見解である。某サイトの掲示板への書き込みを転記する:

 季語、そして季語の重なりの問題について、いろいろ教えていただき、ありがとうございます。
 俳句に限らず、歌には長い歴史と伝統がある。別に季語に拘らずとも、新たに歌を句を作るには、そうした重いものを意識しないわけにはいかないし、無視して作るには天才的な力があるか、ただの楽しみ・座興に篭っていくかで、伝統を踏まえるには、相当な勉強が要るわけですね。万葉集の引力圏からなかなか抜け出せない小生には、気の遠くなるような話。
 ところで、一方、小生は、文芸評論家の山本健吉じゃないけれど、俳句については、「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」という三か条をとても、大切なものと感じます(歌は別途)。
 つまり、折に触れ作るのだとしても、情緒を含めた森羅万象を前にして、その機縁に得た感興を即座に(詠われる世界の深さはともかく)軽く詠うのでないと面白くないとも思うのです。
 それゆえ、少なくとも俳句については、一方では、伝統への深い理解と造詣を背負っていないとつまらない(個々の句や季語へのいろんな人たちの思い入れを知悉しておく必要がある)、でも、他方では、何かの時に即興で作らないと白けてしまう(練りに練って句吟に苦吟しているようだと、少なくとも他人にそのように映るようでは、困るわけです)。
 この両者に跨った上で、句作ができたらいいなと思うのですが、なかなか言うは易く行うは難しですね。
                                  (転記終わり)

 尚、前段の一文がある。それは、「釣瓶落しの季節」(10月17日)に書いてある。

 さて、今日(金曜日)は、日記の執筆と新規の掌編などのアップ作業(ホームページの更新作業)に追われた。
 まずは、「輪廻について」という昨年の冬の終わり頃に書いた一文をエッセイの頁に載せた。面白そうな題材であり、まだまだ探求の余地がありそうなのに、入り口近辺で引き返してしまっている。機会があったっら、続編を書きたいものだ。
 ついで、掌編を2篇、連作掌編の部屋にアップした。「金木犀の頃/縄の記憶」である。例によって、<ボク>もの小説である。
 それから、本日は、メルマガを配信した。目次だけ、示すと以下のようである:

   目次:●1.光害(ひかりがい)のこと
      ◎ 我がリベルダージのパレード情報
      ●2.コクリコのこと中井英夫のこと
      ●[後欄無駄]:HP更新情報、ほか

 念のため、「光害」について注釈しておくと、光害対策ガイドラインが六年前、環境省により策定されている。なんでも、「環境庁は、不適切な照明による天体観測、動植物の生育などへの影響を防止し、良好な照明環境(望ましい光の環境)の実現を図り、地球温暖化防止にも資するような「光害対策ガイドライン」を策定した」のだとか。
 
 ところで、10月22日(金)朝日新聞朝刊の「私の視点」というコラム欄に、山本茂行氏(富山市ファミリーパーク飼育課長)による「◆クマ騒動 里山消え 人との境界失う」という一文が投稿の形で載っていた。
 里山から人がいなくなってしまい、里山が消失するか荒廃することで、クマと人の間にあった境界線が薄れていってしまい、その過程でクマの人に対する恐怖心も薄らいでいったのではないか、というのが山本氏の主張のようだった。
 この一文に絡め、里山について、簡単にでもコラム文を書きたかったが、果たせなかった。
 22日の日付の内にアップするはずが、23日に食い込んでしまった、日記「十日余の月」において、花鳥風月と日本の風土とを絡めて書いた一文があるが、これが里山論の一端になるはずの小文なのである。
 尚、ネットでは、「大揺れ クマ騒動  『共存考える良い機会』」という一文が見つかった。その中でも、山本氏の意見が紹介されている。
 山本課長はこう提案する:
「人里で見かけた場合は駆除した方がよい。しかし駆除し続ければ自然の生態系が崩れ、最終的には人間の身に降りかかってくる。人の手でかつてのような里山を築いていくのがクマ、人双方にとっての最善策だろう」

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十日余の月

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 台風も過ぎ去り、木曜日は午後からだが、秋晴れとなった。夕方には、追い求めていたわけではないのだが、澄み渡った空に半月というのか、九日の月がまるで不意を打つかのように、現れてくれた。
 久しぶりに見るわけではないのだが、やはり月影を見ると、嬉しい気分になる。
 22日の月は、十日余の月で、これといって、風情のある呼び名はないようである。これが、あと数日もしたら、十三夜という、何処か床しい名称が与えられているのだけど。
 思えば、不思議である。見慣れているといえば、見飽きるほどに見てきたはずなのに、空が晴れていて、新月などではなかったなら、何時だって夜空に拝めるはずなのに、現れてくれると、とにかく、なんだか、華やぐような、何処か寂しいような、誰か床しい人と眺めていたいような、年甲斐もなく切ない気持ちも湧いてくる。
 月が昇る、月が空を渡っていく。月が沈む。
 そういえば、過日、今の子供たちは、地動説を知らない、月や星が動いているのではなく、太陽を中心に地球が回り、その地球の周りを月が回っていることを知らない、天動説的な観念に囚われている云々という話が話題になっていた。
 教育の基本がなっていないとか。子供たちの将来を憂えるとか。
 無論、それには反論がある。そもそも、我々が地上にあって、空を眺めれば、月が巡っていくのだし、星も星相互の位置関係はともかく、空に見える星たちも刻々と動いていく、太陽だって、昇るのだし、季節によって昇る高さや角度は違っても天頂近辺に至り、やがて沈んでいく。
 そう、そのように見えるのは当然なのであり、自然なのである。
 このように我々が見えることを、即、絶対化して、天動説だとして主張し始めるとしたら、それは、眼前の観察を絶対化したことになり、行き過ぎなのだろう。あるいは、観察が不足していると言うべきか。
 いずれにしても、地上世界にあるなら、夜には星や月が、昼には太陽が動いていくように見えること自体、咎め立てすることなど、何もないのだ。
 あとは、太陽が昇っているように見えるけど、実はね、本当はね、地球だって動いているのよ、などと親子や、先生と生徒の間で語り合えば済むことなのだろう。

 それにしても、今年は台風がやたらと日本を直撃する。その数が異常に(?)に多いようである。
 日本では、上陸する数の多寡はともかく、古来より台風を恐れ戦いてきたのだった(蒙古襲来の際に、神風が吹いたと、感謝することもあったようだけれど)。
 台風以外にも、火山の噴火に怯え、地震にも幾度となく襲われ、惨禍を体験してきた。
 太平洋という巨大な海を前に、背には日本海があり、北にも南にも海がある。海に浮かぶ木の葉のような島。決して磐石な岩塊、地盤の上にある島ではない。昔の人は、大陸をプレートとして意識はしなかったろうけど、地震で揺らぐような、あやふやなものだとは思わなかったろう。
 中国において天の思想が発達しえるのも、あるいは地を自明の事実として大地として受け止めていられるのも、磐石なる大地という意識さえもしない現実があったからなのだろう。
 翻って我が国はというと、前述したように、雨に山が崩壊し崖が崩れ川が決壊し、浜が大波に浚われ、民家が押し流され、地震で住む<大地>自体が揺らぎ、火山の噴火に慄いてきたのだった。
 個々の災害に苦しむ国家や地域があっても、これら全てに年々歳々苦しめられてきた島国は、我が国だけなのだ。
 昔の人もそうだったろうけど、こうした環境を意識しないで、文化も経済も生活もありえない。
 遠い昔、朝鮮を通じて中国の悠久なる思想や制度が導入されたのだろうけど、また、宗教も砂漠の試練に耐えた戒律の厳しいものだったろうけれど、時の流れと共に、日本的な風土に馴致してきた。
 やがては、花鳥風月の世界に至りつくしかなかったということか。
 厳しい戒律、絶対的な論理、岩のように強固な家を論理を宗教を思想を標榜したところで、台風に襲われ、地震で根底から生活が覆され、火山で地元の家々が一気に飲み込まれ、あるいは火山灰に埋められていく様を幾度となく経験したら、論理も思想も宗教も、自然のあり方に対応したような柔軟で、融通無碍で、反面、曖昧模糊として実体の掴み所のない、そんな鵺(ぬえ)のような在り様になるしかないのだろう。
 台風は困る。しかし、その風と雨が全てを押し流し、過去を水に流してくれた。火山は困る。でも、そこそこに活動してくれて、温泉が湧く分には、その恩恵に浴したい。地震は怖い。が、それが権力の絶対性の仮面を引き剥がし、権力には力が必要なのではなく、権威さえ、あればいい。地盤に相当する権力は、適宜、必要に応じて、とっかえひっかえすればいいものに過ぎない。たとえ、今は威張っていても、今だけのことだと嘯いていることができる。
 風土。生煮えで中途半端な土壌。白黒をあっさり付けてしまいたいと思いつつも、結局は灰色決着で曖昧に流してく。そのほうが、自分たちにも都合がいい…。
 変わるものと変わらざるものがある。が、変わるものもその都度入れ替わるし、変わらないものも、何が変わらないのかが、気が付いたら入れ替わっている。さも、自然な風に。
 温泉国家・日本。誰もが、そこそこの気分で居られる(かの)ような幻想にドップリと浸かっている国。
 それだからこそ、憤懣や情念が鬱屈した形で蓄積されている。簡単には情念の噴出を許さない土壌。その土壌にあって、不穏なる空気が限界に至らないわけではない。その時が来たら、手の平を返すように、様相が一変する。豹変するというわけだ。豹変するのは、何も君子の専売特許というわけではないのだろう。
 そうした、憤懣がどのように噴出してしまうのか、予想はまるで付かない。
 政府筋は景気が上向いていると喧伝している。大本営発表的な絵空事でないことを祈る。何処か、一部の人たちは景気がいいのだろう。カネが一部に集中しているように感じる。都会を走り回っていると、巨大なマンション・ビル群があちこちで建っている。いずれも、ターミナル的な箇所のようだ。
 が、その分、地方の商店街は寂しい。寂れていく一方のように感じられたりする。
 それを全国に拡大してみると、大都会(の一部)は賑やかなように見受けられるが、大部分の地方は置き去りにされている。山が見捨てられ、年老いた人々が、声もなく、孤軍奮闘している。若い人が煌びやかな世界に憧れて、都会へ吸い込まれるように地方から、山から消えていく。
 山が森が川が浜が田が畑が里が、寂れていく。台風でお年寄りの被害が多かったとか。逃げ遅れたとか、なんとか。
 しかし、カネが都会でのみ回り、地方を置き去りにし、その地方の山や森を淡々と守っているのがお年よりだったのだとしたら、荒廃した山村で、ちょっとした災害に見舞われたとき、犠牲になるのはお年寄りだというのは、理の当然なのではないか。
 環境が大事だという。環境とは何か。排気ガスなどを減らして空気を綺麗にすること、ゴミを捨てないでちゃんと処理し、リサイクルに回すこと、省エネの車や電化製品を使うこと、環境に優しい物品を使うようにすること、などなど、いろいろあるに違いない。
 でも、一番の環境対策とは、地元を大切にすること、住む地域を守ること、今もって日本の国土の3分の2は山や森なのだという現実を直視すること。お年寄りだけじゃなく、若い人も山や森に関心を持ってもらうよう、経済の仕組みを変えるというより、国土の性格を理解し直すことなのではなかろうか。
 なんだか、話が仰々しくなってしまった。炭焼き小屋が懐かしいなと思ったりするだけなのだが。

 ところで、青梗菜さんが、掲示板にクラゲにちなみ、イメージ豊かな書き込みをしてくれた。ここに、その一部を転記する(全文は、掲示板の9849を参照):

「僕たちの惑星は水浸しです。海洋は地球の表面積の70%を占めています。
 海の平均水深は約3800m。海域にもよりますが、太陽光が届き植物プランクトンが光合成を行うことができるのは、水深200mまでと考えられています。この水深より浅い領域を表層といい、深い領域を中・深層といいます。
 中・深層は全海洋の90%以上を占めています。陸に棲む僕たちは忘れてしまいがちなのですが、深海は、地球上で最大の生態系の存在域といえます。
 中・深層域に棲む生物は、ようやくその実態が知られはじめたばかりですが、大部分がクラゲの類です。身体を極限まで水にしなければ深海の水圧にたえられませんから。ですから、地球はクラゲの惑星といっても言い過ぎではありません。」
 とした上で、次のように続く:

「中・深層域に棲む者は、光を知りません。しかし、光が投げかけられたときに、なぜ美しいイルミネーションを返すのか。
 光の粒を流しているような ―― 自らの姿が、テレビのモニタで映されることを予期しているほどに効果的な ―― 繊毛の動きは、何ゆえか。
 僕のお馬鹿な空想が端緒を切ります。美しく光る彼らは、深海に生まれたために知ることができない光に満ちた世界、そんな世界があることを、暗い海の底から漠然と知っていたのではないでしょうか。闇に包囲されて生きる者たちは、自分たちの世界に欠けているもの、その名状しがたいものを信仰し続けていたのではないでしょうか。
 人にとっての、あえて言うなら、いわゆる神とは、クラゲにとっての太陽ではないか、なんて気もします。僕たちもまた、漠として、名状しがたいなんらかの欠如を感じているならば。」

 素敵な文章だ。下手なコメントは付けたくない。小生は、なずなさんに提供していただいたクラゲの絵を元に、「ディープタイム/ディープブルー」を書いたが、そのうちに、三度の目の正直ということで、もう一度、挑戦したいと、あちこちで書いているが、その際、この文章を参考にしたいものと思っている。

 さて、表題に掲げたのは、過日、仕事で朝帰りの途上、近所で撮ったもの。いつもとは違う道を通ったら、見かけたので、ちょいと撮ってみた。朝日に首を目一杯伸ばすようにしているのが、健気。
「荒川を 芥川と読む 小説好き」なんて、駄句をひねる小生には、眩しすぎる!

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2004/10/21

落雁のこと

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◎ 表題を「落雁のこと」としたが、別にここで落雁についての薀蓄を語ろうというわけじゃない。なんとなく、落雁について雑文に仕立てたことがあったような気がしたが、どうやら、「最中のこと/和菓子のこと(多分、駄文)」のことを思い起こしていたようだ。
 その中では、最中や饅頭などのお菓子についてあれこれ語っている。和菓子にも触れているけれど、落雁に言及がない。
 我が富山に絡めた形での落雁については、「第5回 饅頭と落雁  ~富山の和菓子職人~ 陶  智子」に当たるのがいいようだ。
 突然、落雁が話題に出て、唐突の感があるかもしれないが、10月19日の「炉火恋し」の中で、お八つに食べたことが書いてある。掲示板に「お菓子が好きなのですか」と聞かれたりしたこと、落雁のことについて、興味を持ったこともあり、何かエッセイを綴ろうかと思ったが、情景のサイトが要を射ており、今回は駄文を綴るのは、断念した。 
 その代わり、落雁を巡る思い出を綴った(かのような)掌編を、たった今まで書いていた。
 人は、落雁を巡って、どんな物語を綴るだろうか。
 これで、今月は六個目。残るは二つを今月中に書けば、ノルマは達成だ。やれやれ。

◎ 掲示板にある人のメッセージを他のサイトで見かけたものを転記したが、ここにも、転記しておく:

 日本熊森協会(URLは下記です)からの呼びかけ。
☆奥山どんぐり運びを大展開します。
    都市のどんぐりを集めて送って下さい。

 兵庫県(熊森協会本部)、福井県(友会の協力)、富山県(会員の協力)、
 京都府(支部にて)、滋賀県(支部にて)で行います。

 ●兵庫県へは当会事務所までお送り下さい。
 〒662-0042 兵庫県西宮市分銅町5-4-A棟-101 

 URL  http://hb6.seikyou.ne.jp/home/kumamori/

◎ 冒頭に飾った絵は、小生、tanuさんサイトで、連続して5900に引き続き、5959というキリ番を得てしまった、そのお礼。これまた、絵が欲しいばかりに、忙しいというのに、おねだりして、貰ってしまったもの。
 キリ番なんて、ただの数字じゃない、という発想法もありえる。そうかもしれない。実利とか実務とか現実とか、実際的な発想法をする人にとっては、キリ番に遊びや冗談にしろ、拘るなんて、ナンセンスということになるのか。
 でも、色即是空じゃないけれど、ただの数字に過ぎないとなったら、この世の全ては、所詮は、夢幻と消えていく儚い幻想に過ぎない。今日の苦しみも喜びも、明日になれば、消えていく。誰も自分と言う人間が居たこと、ここにあって、胸を焦がしていたことを覚えていてはくれない。
 そう、全ては消え去る。空しいもの。
 が、思うに、その空しいもの以外に、この世に何があるのだろう。袖擦り合う縁(えん、えにし)以外に何があるというのか。空即是色。コンピューターが発達して、この世の様の全てが情報へ還元されていく。情報が命の時代。
 その情報は、アナログではなく、デジタルの形式である。微細な単位で表現されるからデジタルなのかアナログなのか、人間には区別が付かない。デジタルでの映像なのに、アナログ風に画面が見えたりする。
 デジタル。数字。オンとオフ。黒と白。
 が、ある意味、この発想法は正しいように見えて、勘違いしているようにも思える。
 二つの点が白い画面上にあるだけで、人は何かしら意味を読み取ろうとする。その意味の切っ掛けはドット状態の点かもしれないが、意味として脳裏に刻まれ心の中で揺らめく何物かは、もう、別個の生き物なのではないか。
 二世代昔、ゲシュタルト(Gestalt=独語で「形態」)なるものが持て囃されたことがある。小生は、仮に形態を構成するものが個々の点(粒子)だったとしても、その点粒子には還元されない、一つ次元の違う世界が形態として創出されることを重視したい。
 話が大袈裟になったが、要は、色即是空、空即是色のその狭間で、人が生きていて、大切なのは、袖擦り合う縁(えにし)以外にないのだという、ただ、その一点にある。その縁さえ、たんに都会の片隅で擦れ違っただけじゃないか、そんなことに何の意味があると考えるのが、キリ番軽視派なのではないか、と、密かに思っている。別に主張する気など、毛頭にない。別に自分の主張が正しいとかどうとかではなく、キリ番も縁の一つなのだと思うだけなのである。

 前日は、小生が午年生まれということで、午(馬)に絡めて描いてくれたようだが、今回は、魚座ということで、魚に絡めて描いてくれたみたい。
 魚の気球に乗って、世界中をのんびり旅して回りたいね。
 以前、「俳人は かなかなかなと 鳴くのかな」という川柳をひねったことがあるが、「かなかなかな」というと、つい、「さかなかな」と続けてみたくなる。
 さて、俳人は、俳句で世界を詠い込むのだとしたら、お魚さんは、本当に川を海を巡っている。水という宇宙世界の旅の達人なのだ、ということで:

 世界漫遊 俳人よりも 魚に似合う
 旅人は 俳人よりも 魚かな
 擦れ違い?擦れ違うって 凄いかも

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2004/10/20

秋の雨

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◎ 雨が降り続いている。まだ、風は吹いていない。秋の長雨。
  現代の我々は、秋雨前線の長雨だとか、さらに続いて台風23号が齎す雨だとか、それなりに雨の性格が分かるけれど、昔の人は、雨の様子から、この先、台風がやってくることを察知することができたのだろうか。
  風が吹き始め、次第に強まってきたら、さすがに分かるのだとしても。
 「ながめ」といと、季節は違うけれど、小野小町の歌を思い出す:

  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

  この場合の花は、桜なのだろうし、春を盛りに華やぎやがて一気に舞い散っていく桜の光景を前に、我が身の容色が衰えていくことを嘆いている、その対比が一層、哀れなのだろう。
  若い頃に美しい人ほど、自由闊達であったり、ちやほやされていた人ほど、一時期でも衆目を集めた人ほど、その後の、夏の賑わいがウソのように、潮の引いた浜辺の光景を寒々しく感じる、のだろうか。
  それとも、そうであってさえも、胸に去来する近いようではるかに遠い熱い日々の余韻をかみ締めていくのだろうか。

  花の色 うつりにけりとも 花は花
 
◎ ある方に日記にメッセージを寄せてもらった。そのレスを転記しておきます:

 Mさん、メッセージ、ありがとう!
 いよいよ台風23号が関東にも近付いているようです。
 被害が少なければいいのですが。

「野路の秋 真っ赤な木の実 寄り添って」が、印象に残ったとのこと、嬉しいです。あの写真、仕事先で、ふと、気になって撮ったもの。
 花でもそうだけど、大きな花は数少ない花たちが誇らしげに咲いているけど、小花だと寄り添うように、集い合い肩を寄せ合うようにして咲くのですね。
 人も、大輪の花のような人もいるけど、大抵の人は、小さな花なのに、事情があって、離れ離れになっている。
 でも、本当は可能なら、寄り添い合いたいものなのでしょうね。
 普段は離れて暮らしている妹さんと一緒に野山へ行って、いろいろする、リースも作る…、そんな時って、一緒に暮らしていた頃の気持ちに戻るのでしょうか。
 花のリース、子供の頃に、田圃の蓮華で花輪を作ったことがあるだけ。童心に帰って、せめて心の中でリースを編みましょうか。
 それにしても、「赤い実」がマルさんには格別なもののよう。何か思い出があるのかな。
 今、思い出したけど、童謡に「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い、赤い実を食べた」ってのがありましたね。
「「赤い鳥小鳥」北原白秋作詞・成田為三作曲」
 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/akaitorikotori.html

 赤い実や 夜寒の空に なに思う
 赤い実や 夢を燃やして 夜に映え
 木の実たち 寄り集って ぬくもって
 木の実たち 燃え上がるほど 冬思う
 木の実たち 赤く燃えるは 我が夢か
 赤い実や 小鳥啄ばみ 冬近し

◎ 冒頭に掲げた絵は、小生があるサイトでキリ番を踏んだので、連絡したところ、キリ番踏みのプレゼントということで、貰ったもの。半ば、無理強いで貰ったような。
  小生は、午年生まれだからって、午(馬)にされちゃってる。でも、嬉しいな。tanuさんに馬方になってもらって、その方のワールドを存分に旅して回りたいものだ。
  小生は、このサイトの方のファン。ユニークな絵と詩文を作られている。tanuさんという方には、tanuさんワールドが確固としてあるように思う。
  勝手ながらファンになっているけれど、今より人気が出て、人気沸騰ということになると、気軽には掲示板でもレスやコメントでの遣り取りもできなくなるだろう。
  だから、先物買いというか、今のうちに、少しでも応援しておきたいのだ。
  皆さん、是非、覗いてみて、自ら楽しんでください。

  tanuさんよ お馬引き連れ 何処へ行く
  tanuさんよ 荷物さえなけりゃ 何処へでも
  tanuさんよ お馬の親方 犬なのね
  tanuさんよ 犬馬の労を 尽くすからね

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2004/10/19

炉火恋し

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 今朝は危なかった。出勤日ということで、決まった時間に起き(当然、前夜は、早めにベッドに入った)、しっかり食事を摂り(食べたのは、夕べ注文したピザの残り物の唐揚げ類など)、持物をチェックし、さて、仕事着に着替えようとした瞬間、ハッとした。
 あれっ、今日、月曜日……、今週は、火曜、木曜、土曜が仕事じゃなかったっけ。
 手帳を見て、やはりそうだった。今週の月曜日は休みなのだった。
 途端に体から力が抜け、仕事だという緊張感も何処へやら、秋晴れの一日が急にプレゼントされたようで、しばし、途方に暮れてしまった。
 が、ここが若い人と違うところ、外出しようという思いもあったが、一仕事、やってしまおうと思い立ったのである。若かったら、部屋に燻ってなどいないで、オートバイで何処かへツーリングのはずだ。
 今日が仕事だったのだ、と自分に言い聞かせて、久しくやろうと思いつつ、手が付けられないことに取り掛かったのである。
 それは、エッセイの頁から、タクシーやオートバイなど、交通(道路)関係のエッセイやレポートの類いを独立させ、「タクシーとオートバイの部屋」を作ることだった。
 人様には、なんだ、そんなことか、と思われるかもしれないが、小生にはずっと課題になっていた仕事なのである。
 今まで、「エッセイ祈りの部屋」「富山の部屋」「サンバの部屋」「書評と著作の部屋」「駄文・駄洒落・語源の殿堂!」、そして、勿論、小説の部屋(「掌編作品の部屋」「連作掌編の部屋」)や日記の部屋を独立させてきたが、まだ、独立させたい部屋があったのである。
 その一つが、「タクシーとオートバイの部屋」だったのだ。
 ホームページの転居ほどは大掛かりではないけれど、それでも、独立した部屋を作るため、相当程度の時間を費やすことになった。
 この作業には、ご自身がタクシードライバーだという読者の方から、メルマガでもっとタクシーのことも扱って欲しい、という要望を戴いたことも後押しとなった。
 この部屋を作ったことで、今ある、古い文章群に、追々、タクシーをテーマの、タクシードライバーとしてのエッセイやレポートも追加していきたいと思っている。
 前にも書いたが、タクシー(ドライバー)について、小生が納得できる本も文章にも出会ったことがないので、自分で書くしかないのかと思うしかなかったのだ。タクシーという仕事について語るには、やはり相当な準備が要る以上に、そもそも、語り口、切り口において、自分なりの論理を構築していくしかない…、その意味で遣り甲斐はあるけれど、小生には荷が重過ぎる課題だとも思っている。

 この仕事が終わったら、もう、とっくに正午を回っていた。ようやく、読書を楽しむ時間が持てた。仕事をした褒美に読書を少々、というわけである。今は寺田寅彦の随筆集(岩波書店)と白川静著の『中国の古代文学(一)』(中公文庫)などを読んでいる。両者とも、秋の夜長に相応しい本で、ゆっくり読んでいるので、今月中に読了できるかどうか、といったところ。
 が、読書しながらも、片付けるべき雑用が脳裏をチラチラしている。税金などの支払いが溜まっているだ。口座引き落としができなくて、直接振り込みする羽目になっていた。郵便局へ行くことに。3時ギリギリに局に入ったが、そんなに待たされることなく、用事を済ますことができた。運がいい。
 帰り道、図書館へ行こうかと思ったが、過日、本をたくさん、貰ったことだしと思い直し、真っ直ぐ家路に。途中、素敵な、しかし、小生には珍しい花を見つけたので、写真を撮りたかったが、通行人が多く、気の小さい小生は、立ち止まって撮る勇気もなく、後ろ髪を引かれる思いをしつつ、帰ったのだった。

 時間は3時半頃だったろうか。懸念材料も減り、お腹が空いたので、テレビを見、新聞を見ながら、食事。食べたのは、カップラーメンとお菓子。ミカン。

 このあと、某サイトの方から使用の許可を戴いた、クラゲの絵を昨日、アップした、「ディープタイム/ディープブルー」の頁の冒頭にアップする作業を行った。
 この絵、小生のお気に入り。一目見て、あ、この絵を元に、何か書きたいと思った……のだが、「ディープブルー」を最初に書き、「ディープタイム」を次に書いても、得心が行かない。困ったことである。
 でも、絵を載せられて、小生はご機嫌である。
 この日記の冒頭に掲げる絵が、その噂の絵である。描き手は、なずなさんである。ユーモアとセンチさとひたむきさを感じるヴァラエティに富む作品を描かれている。
 これに相前後して、少々ネット巡り。某サイトで、「閑古鳥」という言葉に行き逢う。久しぶりのような気がした。せっかくなので、ネットサーフィンを気取って、語源探索の旅へ。さまざまなキーワードを駆使して、「閑古鳥」の周辺をいろいろ探り、「閑古鳥が鳴く!」という駄文系エッセイを仕立てた。
 こういう文章を書くのは、小生、大好き!
 その過程で、「胡散臭い」とか「眉唾」とか、他に「こじつけ」という言葉について、調べたくなったり。語源探索の旅に終わりはないのだ。

 時刻は五時前だったろうか。絵のアップ作業も終わり、読書しようかなと本を開いて活字を見た途端、眠気に襲われ、ロッキングチェアーで居眠り。何かの夢で目覚めた。部屋の中は、すっかり宵闇に包まれている。外も薄暗い。向かいの工場の窓にも、明かりが灯っている。秋の日は、呆気ないほど、早く暮れていく。
 一人きりで過ごしていると、なんとなく、世間から置いてきぼりを食らったような気分になる。テレビでも見て、気分を誤魔化したいところだけど、読書。そんなに時を経ずに、夕七時に。
 小生のネット巡りの時間である。この時間、お気に入りに入っているサイトを数十個は巡る。書き込みをするのは、そのうちの数個だけで、あとは新作とか更新を(特に日記だ!)を見て回るのである。
 そのあと、読書するかなと思ったが、「閑古鳥」について、新しい情報が入手できたので、続編(補遺)を書いたりして、気がつくと、八時半になっていた。
 少々だけ読書し、入浴…じゃない、シャワー。小生は事情があって、入浴は止めているのだ。
 九時過ぎから、テレビを見ながら、食事。御飯は電気釜で炊いてあるので、あとは、シチューがオカズ。デザートにミカンとお菓子(落雁)。
 食後、掲示板に戴いたメッセージへの返事を書いたり、人様のサイトに書き込みをしたり、気がつくと、夜半だ。早いものだ。
 夜半が近付くまで、今日も掌編を書こうかなと思ったりもしたが、3連荘で創作するのはきついと感じ、取りやめた。今月は、あと三つがノルマ。タクシーの日程がタイトなこともあり、書いておいたほうがよかったのだけど。ま、慌てることもないだろう。切羽詰ったら、シャカリキになって頑張るだけだ。
 そうして、夜半を回ってから、この日記を書き始めているのである。

 さて、今日は自宅にいたこともあり、あまり駄句をひねっていない。どうも、やはり車中とか、散歩の最中とか、そんな動いている時に句が思い浮かぶもののようだ。
 それでも、出来なかったわけじゃないので、幾つか、メモしておく:

(小生が子供の頃、お餅を作るため、お袋が土間の炉で米を炊いているのを横から見て、顔に焔の光が当たって、小皺が妙に生々しく感じられたのを思い出したという、光景である。皺の数が数えられというのは、未だ、肌に艶も張りもあるからこそ、逆に目立つということなのだろう。句の中の、「炉火恋し」は、秋の季語。「肌寒く、火を恋しく感じる頃」の意。)

 笑い皺濃く深くする炉火恋し

(以下は、「閑古鳥が鳴く!」を書いている中で、惰性で作ったもの)

 閑古鳥 我が家の庭で 鳴き荒ぶ
 閑古鳥 嫌われるから やってくる
 閑古鳥 憎まれっ子 世に憚る
 閑古鳥 声はすれども 姿なく
 閑古鳥 元を辿れば 深山なり
 閑古鳥 世が世ならば 都鳥
 閑古鳥 ホントの鳴き声 聞かれない
 閑古鳥 山里で鳴けば 床しかり
 閑古鳥 由緒正しい… でも来ないで
 閑古鳥 祭りの山車に 君臨す
 閑古鳥 我が胸の枝 止まりしか

(下記は、それぞれ、「憂き我を寂しがらせよ閑古鳥(芭蕉)」「ふるさとの寺の畔の ひばの木の いただきに来て啼きし閑古鳥(啄木)」に応じるかのようにして、ひねったもの)

 憂き我も共に鳴かせよ閑古鳥
 ふるさとの 山に迎いて いうことなし ふるさとで鳴くは 閑古鳥のみ

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2004/10/18

秋麗

s-DSC01034.jpg
 秋麗と書いて、「あきうらら」と読む。ま、読んで字の如しで、うららかに晴れた秋の日を表現する。俳句では秋の季語の一つ。この日曜日は(東京)、まさにこんな言葉を使いたくなる陽気だった。
 が、小生自身は、情なくも、家に閉じ篭ったまま、週日を過ごしてしまった。例によって、ロッキングチェアーで居眠り、仮眠、惰眠、転寝(これは、椅子での居眠りには合わない言葉かな)の連続だったので、日曜日の昼頃になっても、自分が起きているのか、それとも、夢うつつでボンヤリしているのか、定かでない状態だったのである。
 この土日、小生がやったことを並べると、まず、このブログの日記がある。16日の「荻の声」と17日の「釣瓶落しの季節」で、いずれも、大抵の人の日記よりは長め。コラムというかエッセイに近いものがあると思う。
 小生は、このブログに相当程度、力を入れているのだ。
 ついで、アップはまだだが、「蓮っ葉な奴」と「恋は秋の暮れに」というタイトルの掌編を書いた。これで今月は五つ、書いたことになる。あと三つが今月のノルマ。「恋は秋の暮れに」にしてもそうだが、画面に向ってから、何を書くか、考える。エッセイを書くか、掌編かというジャンルさえ、決まっていないことがあったりして。
 頭の中は、もう、空白。ネタなど、とっくに尽きている。でも、書き上げるんだと自分に言い聞かせて、プレッシャーを掛ける。脳髄が過熱してくる。何か生み出すんだ! で、不意にちょっと頓珍漢な失恋物語が浮かんだ。
 というより、純愛的な話を書くつもりが、途中で妙に話が輻輳してしまい、頓馬な失恋物語になってしまったのである。
 年内にあと十九個、掌編を作れば、年間掌編百篇が達成となるはずだが、胸突き八丁が、さらにきつくなっている。でも、何をしたわけでもない、この一年は、掌編百篇の年として自分には銘記されるはずである。大概の人には、なかなか経験できないことなのではなかろうか。
 来年のことを言うと、鬼が笑うというし、今は言えないが、来年に向って、何か違う目標を打ち立てたいと思っていることは確かである。

 さて、日曜日になって、サンバの部屋で、滞っていた写真のアップ作業を行った。武蔵小金井のパレードの時の写真を十枚以上も一気にアップしたのだ。あるダンサーの方の誕生日がこの14日だったと聞いたので、彼女の写真を載せたい一心で作業したのだった。
 この他に、志村銀座、武蔵境と残っている。ま、年内の作業として、楽しみに取ってある、ということにしよう!

「掌編作品の部屋」に、掌編を二つ、アップした。いずれも、某サイトの絵日記の絵を見て描いたもの。
 その絵とは、「ディープ・ブルー」という映画を見て、サイト主の方が印象を元に描かれたのだが、たまたま描かれていたのが、「クラゲ」だったのが、小生の目を引いたのである。
 小生のエッセイなどを読まれた方は、小生がクラゲ好きなのを御存知かもしれない。
 そのクラゲの浮遊感が実によく描かれていて、なんとかその絵に相応しいような掌編を書きたいと、まず「ディープブルー」を、ついで、それが得心行かなかったので、「ディープタイム」と、書き上げたのである。
 が、いずれも、絵の喚起するイメージにそぐわない。
 そのうちに、三度目の挑戦をするかもしれない。
 それはそれとして、とりあえず、二つの掌編をアップしたのである。

「エッセイ祈り の 部 屋」に、エッセイを掲載した。いずれも、メルマガにて公表済みなのだが、ある事情があり、急遽、ホームページにアップすることにした。エッセイのタイトルは、「葬送のこと、祈りのこと」である。
 その事情とは、以下のとおりである:

「昨年の10月、あるネット上のアイドルが亡くなった。才能も人気もある女性作家だった。「Contact Me」の頁にキリ番のコーナーがあるが、そこに小生も一時は交流の機会に恵まれたその方の名が書いてある。互いにキリ番をゲットし合っては、相手に小説のテーマを提示し、掌編を書き合ったものだった。年齢も、小生とほぼ同じだった。その方が、ますます才能が花咲き、あれこれやりたいという意欲満々の盛りに、惜しくも亡くなられたのである。その追懐の意味もあり、葬送(埋葬)関連の文章を載せる。直接は、彼女に関係ないが、書きながら、その方を脳裏に浮かべなかったわけではないのだった」

 関連するエッセイということで、「葬について、あるいは死の形」を同時にアップさせている。

 さて、例によって、あちこちのサイトで駄句を撒き散らしている、と、書きたいところだが、この週末は、思うところがあって、駄句をひねる気に、あまりなれなかった。
 そうはいっても、幾つかは作っている。

(画像掲示板に、ある公園の画像を提供してもらった。でも、そこがドッグランの場になり、ワンちゃんの落し物が一杯で、深呼吸する気になれない状態になっているということで)
 ドッグラン ここはダメなの 退(ど)くランよ

(こぼれ種で増えてる歩道のコスモスです。種を蒔いて、苗を作るとなかなか育たないのに、直播きだと元気なのは、どうしてかな。というコメントと共に、コスモスの画像を提供してもらったので。他にススキの画像も戴いた)
 コスモスや 我が意を得たりと 咲き誇る
 ススキの野 誰に見られず いのち咲く

(子供の頃、誰かさんと背中合わせになって、糸電話でお喋り。音が背中から体温になって伝わってきたっけ。)
 糸電話携帯よりも近き仲

(ハスの花の満ちる池の水、濁っていて、まるで揺れて止まぬ我が心のよう)
 濁り水 心の迷い そのままに

(以下の二句は、説明するのも、疲れる。ま、トラというのはタイガースを暗示しているけど、実際にはトラの写真を見て作った。トラの眼下には水溜りがあったのだ…)
 トラよトラ 水辺の顔に 満足なの?
 ドラゴンズ 燃えすぎちゃって 燃え尽きた?


 さて、掲げた写真は、我が集合住宅の庭の惨状。本来は、芝生だったのである。が、ある時、芝生に雑草が生え始めている、ということで、有志で草むしりと相成った。
 が、雑草が毟られたと同時に、芝生自体を傷めてしまったようで、気がついたら、芝が完全に消え去り、今では雑草の天下に。
 写真では分かり辛いが、この草、背丈は二メートルを越えている。迫力モノである。雑草たちは、季節が今や秋であるにも関わらず、我が世の春を享受しているというわけだ。
 当然、昆虫などの天下でもある。風情があると言えば言えるけれど、そのうち、弊害も大きくなるんだろう、ね。

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2004/10/17

釣瓶落しの季節

s-DSC01022.jpg

 まさに表題通りの夕刻を実感する季節となっている。ようやく秋晴れを愛でられるけれど、そんな爽やかな空を見せるのを惜しむかのように、呆気ないほど早く、そう、釣瓶落しのごとくに、宵闇に溶け去っていく。
 
 さて、小生、方々のサイトの掲示板にあれこれ書き散らしている。一部だけ、転記しておく。それというのも、それを後日、エッセイなどに仕立てる可能性が十分にありえるからだ:

○  ここで、蓮と睡蓮の話題が出ていたので、あれこれ調べて、なんとなくイメージが掴めたので、掌編を一つ、書かせてもらいました(例によってアップは、ずっと先。「朝顔の宿」も一ヶ月してから、こっそりアップしたっけ…)。
 その御礼参りに来ましたとさ。
 ちなみに、タイトルは、そのままズバリ、「蓮っ葉な奴」。エヘヘ。

「ハスも睡蓮も親戚か従姉妹か、兄弟か、繋がりがあるのでしょうか」
 なかなか難しいですね。あるサイトに次のような説明がありましたが:
「蓮と睡蓮は根が全く違います。どちらも水生植物ですが、蓮は水面に浮く葉と水面から出た葉があり、 花は水面より高くでて開花、葉に水を落とすと水玉になります。睡蓮は浮き葉のみで水面に葉が張り付いている感じで、花は水面近くで開花します。根は蓮は蓮根の通称で知られる形で、睡蓮とは全くちがいます」だって。
 蓮は根が蓮根(レンコン)なんですね。文字通り、蓮の根と書く。蓮は咲きっぱなしだけど、睡蓮は、夜などは花が閉じる(眠っているかのよう。なので睡蓮)。
 だから、睡蓮をかっぱらって来ても、蓮根は採れないのです。
 皆さん、分かりましたか。小生は、未だ、分かってません。
 だって、昔は、「スイレン科ハス属」の中に、スイレンとハスが入っていたのに、最近は、「ハス科 ハス属」として、「最新の分類ではスイレンの仲間からハスだけを独立させて、ハス科という科を設ける場合がある」って言うんだもの。

 濁り水 心の迷い そのままに

○ 「鮭が豊漁だから、ヒグマが、大人しいのかな」
 本土では、山林が荒れていて(人の手が山から離れているので)木々に害虫が付き放題になっているらしい。
 つまり、人が山に分け入っていることもあるけど、山の世話をする人が少なくなり、当然、木の世話もできないので(間伐林など)、害虫が取り付きやすくなっている。結果、木の実が(木の葉も、もちろん)喰われてしまっていて、クマさんの餌が無くなっているらしいのです。
 やはり、山(木、つまりは地方)を大切にせず、資本(や人手)が都会にばかり集中しているツケが来ているわけですね。

 関係ないけど、小生の以前、住んでいた集合住宅の名前は、ダイヤハイツでした。小生は、その秘蔵っ子(?)だったというわけ。
 今は車の運転をしていますので、タイヤのお世話になってます。
 濁点が取れた分だけ、小生、洗練されている?!
[この話題で、害虫云々に言及している。そういう説が、かなり唱えられるようになった。同時に、今年の台風が、本土直撃を幾度も繰り返したことも大きいとか。「特に今年に入って出没回数が増えているのは、もともと害虫や温暖化でナラやブナが枯死してエサが少なくなっていたうえに、相次ぐ台風の上陸で木の実が不作になっているのではないかと言われている」]

○ みなさん、こんにちは。
 本来は直接、レスすべきなのでしょうが、的を外す怖れも多分にあるので、自己レスの形で、感じたことを書いてみます。

 俳句と川柳との違いは、人それぞれに意見があり、結局は、自分の考え方で押し切るしかないのかな、というのが結論になるのかなと思います。
 ただ、最後まで問題というか、気になるのは季語の存在。俳句の世界では、季語は非常に重要な存在で、仮に使わない場合でも、むしろ使わない方のほうが、季語への造詣や理解が深く、その上で、大胆な一歩を踏み出そうとしているのかな、という印象を持つことがあります。
 季語は伝統的に培われてきたもの。婀娜や疎かにはできない存在。
 でも、江戸時代、明治時代とは季節感が相当に違ってきているのも、事実。それなのに、何故、季語に引き摺られつづけるのか。
 例えば、秋の季語をつらつら眺めていて、ふと思ったのは、季語を使うだけで、紋切り型であることに自嘲の念を覚えつつも、とりあえずは俳句(体裁だけでしょうが)を作れてしまうことの意味でした。
 とりあえず、自作の俳句モドキを例として示します:

 良夜には月なき夜寒身に沁みて

 鰯雲夜寒の露の身に沁みて

 一読して分かるように、季語を使うだけじゃなく、季語を複数重ねています。それぞれ四つ(多分)。
 前者は、季語が二つだけ意識して使ったつもり(「良夜」と「身に沁む」)が、実は四つだと指摘されました。
 後者は自覚的に(確信犯的に、あるいは実験的に)四つ季語を使っています。
 思ったことは、季節が秋なのだとして、秋にちなむ句を(俳句のつもりかどうかは別として)作ろうと思うと、常識的に季語(乃至はその関連語彙)で表現が可能になるということです。
 何故、可能だと感じるかというと、つまりは、小生のような素養のない人間、型通りの想像力しかない人間が使う言葉は、大体が思い浮かぶ言葉は限られている、つまり、季語にリストアップされている言葉の範囲を出ないからだろうと推測されるのです。
 だからこそ、季語を制限し、しかも、季語を重ねてはいけないというルールを制約として設けることで、季語以外の言葉、表現を工夫するしかなくなるという、創造上の縛り、厳しいけれど、新たな表現を目指すしかないという前向きでもある叱咤的な制約が、生きてくるように感じられるのです。
 勿論、その前に季語を使うのかという問題、何故に季語を使うのかという疑問があるのですが、これは、伝統に連なるという意味で、実際に季語を使うかどうかは別にして、尊重すべき考え方なのだと思います。
 また、季語の知識なしに、表現を試みても、実に紋切り型な表現から抜け出せないし、その範囲で自己満足に陥ってしまいそうな気がします。
 
 さて、その上で、小生はどのような表現を目指すのか、あるいはどんな表現をしたいと思っているのか。無論、暗中模索なのは当然として、いろんな刺激を受けながら、これから追々に試みつつ、楽しんでいきたいと思っています。
 それにしても、5・7・5の形式は凄いなと思います。何が凄いのか分からないのだけど。

 以下の句(?)は、やっぱり川柳なのでしょうね:

 好きなのとひといろの文字なぞる指
 月影や雲のベッドでうたた寝かい?
 蜩(ひぐらし)よその日暮しと笑うなよ
 星屑をけんけん跳んで月の裏
 俳人はかなかなかなと鳴くのかな

◎ 掲載した写真は、週末の朝、近所で撮ったもの。これまた、花の名前が分からない。雨上がりじゃないのに、花房が瑞々しい。

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